戻る



2004.1月の日記

01/30 09:18 「遅れがあります。でも、大丈夫ですよ。」としか言われていないと、いろいろな問題が生じる。“遅れがある”というところにビビッとくると、何とかして遅れを取り戻そうと躍起になってしまう。“大丈夫ですよ”を心の支えにすると、いろんなことが後手にまわる。
「遅れがあります。でも、大丈夫です。やるべきことを、きちんとやっていきましょう。」でないと、親心が逆方向に突っ走っていく可能性が高くなる。---何だか、ちゃんとやっていることが、悪いことをしているかのように思えてくる。

それから、単に取り柄があればいい・好きなものがあればいいというものではなく、それをいかにして社会生活に繋げていくか・人生設計のどこに位置づけるか、というところが問題なのに、そういう議論にならないことにも辟易している。
そのためのプロジェクトを着々と進めていると、ひがみ・やっかみ・いやみから足を引っ張られることにも警戒しなければならない。

また、「できないこと」に共感しやすい風土って、わからない。「こうすればうまくいく」ではなく、「できなくて困っている」「できなくて心配」と言わなければいけないようだ。

そして、「頭がいい」ことが攻撃対象になる状況も、存在する。「頭がいい」に続くのは、「そして、スポーもできる」か「のに、人づき合いがよい(気さくである)」か「さらに、容姿端麗で色気ムンムン」でないと、いけないらしい。

かのバロン・コーエンは、「自閉症の人は、共同注視ができないから共感しない」「共同注視ができて人の気持ちに気づかないことが自閉症の原因」と言いたいようだけれど、残念ながら私には通用しない。
人が何を見ているか気づかない(注意の障害)・分からない(NLD)のではなく、興味がないから見ないのだし、くだらない・どうでもいいと思うから無視するのだ。
人には人の気持ちがあることは十分に知っているので、いろんな知識や公式でカバーして、差し障りのない受け答えをしようとものすごく気を遣って生きてきた。でも、その気遣いをするに値しない人間もいることを知ったから、気遣いをやめたのだ。
01/28 08:44 受験そのものは、無事終了。結果は、一週間後。会場で興奮してベラベラしゃべったり、はしゃいでちょっかいを出して同行した他父兄に叱られたり、控え室から出る時にナップを忘れたりと、相変わらずだった。それでも、長男にしては良くやった方である。(そもそも、ボトムアップを地道にやってた結果、積極的にああいう学校を選ぶ人はあまりいないようだ。ただ「勉強ができない」「勉強をやらない」「遊んでばかりいる」「好きなことしかやらない」と言うばかりで、その根本にあるものを何も見ようとせずに、ただただ子どもの行く先をどこかに決めなければならないと考えている人々の様子に、疲れてしまった。)

そんなことよりも、長男の次の課題を発見。それは、帰りのバスでのこと。前日から、きちんと金種をそろえて用意してあった電車とバスの運賃だったが、教えてあった手順を忘れて最初に小銭から使ってしまって、帰りのバスに御札が残ってしまっていたのだ。
バスの両替は、指示付でできると思っていたら、とんでもなかった。まず、二つに折ったままの千円札を横向きに入れようとした。次に、出てきた100円玉を取りもせず、取った後もそこから必要な数だけ取ろうともしなかった。そして、100円以下の小銭があるかどうか探そうともせず、続いて両替しようともしないのは仕方ないとして、現場でした指示が全く理解できずに何もできず突っ立っていた。
このこと自体は、私の方の不覚なので、信号待ちで止まっている間にやらずに降車時にやろうとしたことは、反省している。ただ、長男の目標とする達成レベルをどこにするかについて、今後の検討課題になった。つまり、バスの両替機の使い方を覚えるか、バスを利用する時は必ずプリペイドカードを使うようにするか、どこへ行くにも大量の小銭を持ち歩くか、あらかじめ小銭を小分けして用意するかの、どれに決めるかということ。更に、こういう準備をしてくれる人がいなくなったらどうするか、ということ。(本当は、「世の中にはこういう人がいるということを、誰もが知っている世の中にする」という課題がもう一つあるのだが…。それは、こちらの側だけの課題ではないので、別問題。)
話し合いの結果、「普通のやり方を覚える」ことになった。が、「あらかじめ」大好き人間の私にとって、バスの車中でやむを得ず両替という状況を設定することが、けっこうたいへんである。まあ、実際に小銭やカードを持っていて、両替と支払いの練習だけすればいいか。
01/26 09:22 明日は長男の受験だというのに、先週末から次男が風邪。いつも同じ部屋の二段ベットに寝ている二人を隔離して、マスク着用を義務付け(この際、触覚より感染防止が優先)、万全の体制をとっている。そして長男は、風邪とインフルエンザのウイルスがうようよいる学校に行った。

次男が布団と一緒に私の部屋に引っ越してきて、しっかり私が風邪をひいた。といっても、私が風邪をひくと薬が厄介になるので、引き始めの状態から悪くならないように大事を取っている。そのお陰で、七回忌は法事だけの参加で済んで助かった。(お祭り男で宴会大好き人間の次男は、実はご馳走を食べに行きたかった。)
法事の最中にも、地球人の奇異な行動はあれこれ観察されたが、思い出すと笑ってしまうか怒ってしまうかのどちらかになって時間の無駄なので、やめる。ただ、本を出そうが論文を書こうが、誰かが家に来て私の書いたものを見せて説得してくれない限り、世の中はちっとも変わらないことを再確認した。(そんな人はいないので、永久に状況が変わる見込みはない。それ以前に、経済的に自立していなければ、言うわけにもいかない。)

欲望による搾取だとか、家とか、地域社会とか、対面だのの中に無理やり押し込められさえしなければ、決して悪い人ではなかったはずの自分が、どんどん精神状態が悪くなっていき、毎日毎日くだらない考えに支配されていくことが、とっても嫌だ。頼むから、「いい子でいさせて」欲しい。
人類にとっては、これらのことがないのは死ぬほど辛いことで、何が何でも入れて欲しいと必死にしがみついているのだろうし、そこから外れては可哀想だとわざわざおせっかいを焼いたり押し付けてきたりするのだろうが、本当に、余計なお世話である。放っといて欲しい!
01/21 18:44 年初の出来事は、ただのぬか喜びだった。やっぱり、置屋は置屋。

鬱の原因が分かり、何をどうすれば良いか分かったところで、医者が来て説教してくれるわけではないし、窮地に陥りそうになったところを助け出してくれるわけでもない。ましてや、家を構造化してくれるわけでもない。ただ、抗鬱剤の量を加減してくれるだけである。

こんなことで一日潰してしまうのはもったいないし、私の精神状態が悪いことをただ一人察知できる次男に悪影響を与えるので、何もかもなかったことにする。(次男には、成人前にちゃんとした家庭生活を体験させておかないといけないと思っている。この家で起きていることが世間一般の常識だと思われては、困るから。)
01/20 18:57 ウチのタイプは、「誰にも教わらないのにすごい技能を持っている。にもかかわらず、他の障害があるためにそれが活かせずにいる。」または、「教わった通りにやらないとか、カリキュラムの順序でないとかいう、くだらない理由で行く手を阻まれている。」というギフテッドなではないので、駄石の中から宝石を見つけさえすればいいというものではない。それから、「自分のやり方でどんどん極めてしまうので、人に教わる必要がない。」というタイプでもない。確かに、普通と違う原石なのだろうが、磨かなければ宝石にならない石なのだ。
その、普通と違う光がちらっと出ているところを、知らない人は「天才だ!」と思うかもしれない。ところが、とんでもない。感覚的なおもしろさやうわべだけのできの良さに溺れ、ほめられたらそこで満足して沈んでしまうから。しっかりとした基礎を習得する緻密さもなければ、もっと極めたいとか・完成させたいとか・技術を高めたいという方向にも進まない。

これを見落とされて一生を無駄にしている人は、きっとたくさんいる。
01/20 18:33 試験の一週間前になって、何を慌てているんだ!
なぜもっと早くから始めないんだ!
と、普通なら言われるところだろう。まあ、言いたいヤツには、言わせておけばいい。

そもそも、試験科目が国語だけのところを受験することが決まったのは、12月の初め。それから基礎学習を開始して、もともとない読解力を地道に上げてきたところ。これには時間がかかる。(しかも、五分も経てば電車とバスのジオラマができていて、休憩と言ってはペーパークラフトを作っている有様。「国語は答え探しだ」という説教をし続けて六年以上。六年前に、やっと国語の勉強ができるようになった時と同じセリフを、つい今しがた言ってきたところ。)
それに対して、これから受ける試験の対策は、短期決戦。これは、力をつけるのではなくて、クリップボードに貼り付けるようなもの。これで、今までやってきた。きっと、これからもこの連続。(それで、一生を乗り切れるか?←これは、私が聞きたい。でも、今後起きることが確実な社会的出来事については、起きる前にやめたいと思っている。できれば、逃げたい。)
01/20 09:02 ないない尽くしで…、

『手帳』もない。←あればいい、というものでもないが。

しかし、その“なさ”の正体をつかめる人は非常に少なく、社会的にはただの「×」になってしまう。「×」の数を数えたらキリがないし、意味もないのでやめておく。だいたい、そんなものを数えたら、その「×」を全部「○」にしなければいけないみたいになってしまう。「○」にすることを目標にしているのは、ほんの一つか二つで上等だ。(できれば、「◎」の方がいいけれど・・・むり?)

昨日の問題、あえて訂正はしなかった。できないことには文句は言わない。ただ、見ておくようにと言って出してあった資料を見ていなかったので、終了後指示した。(直前に指示したのにやらないことが多いのも、今後の課題。)

それでも、本人は相変わらず脳天気である。「思ったよりできたでしょ♪」だって。

で、今朝はしっかり下痢していた。あと一週間、例によって緊張状態になるだろうから、整腸剤の友かも。
01/19 21:25 不覚

今、長男は、明日答え合わせをするということで去年の試験問題をやっている。

まず、二組ある試験問題の内の、どちらをやるかというところでつまづく。←同じものが二つあると思い込んでいて、全く何も見ずに違う問題をやっていた。
問題のレベルのことや、良い点を取りたいとごちゃごちゃ言うばかりで、いつまでたっても始まらない。
普段は同じレベルのワークをやっているのだが、それは問題のすぐ後に解答欄がある形式のもので、試験問題とは違うので、そこでパニくる。
レイアウトがわかりにくくって、設問番号と問ナンバーの違いが分かり辛くって、パニくる。
簡単だと思って軽い気持ちでとりかかったら、普通の試験問題だったので、またまたパニくる。

そんなこんなで、二時間あまりも無駄にした。

レイアウトの見方やら、テストの時の時間配分(分からない問題があったら、飛ばして次へ進まなければ全部ゼロになってしまうこと)やら、意欲を見せるために分からなくてもとりあえず何か書くことなどを説教して、試験当日と同じようにやっている最中。

そうなのだ、こういうことにつまづくのだった。
01/19 10:33 通信可 という罠。

「この機種では、○○通信ができます。」と書いてある。
が、相手が同じシステムの機種を持っていなければ、通信はできない。電話でも、メールでも、メッセンジャーでも、テレビ電話でも、WEB EYEでも、それは一緒。赤外線通信に至っては、相手側が受信状態で、なかおつ真正面に向かい合わせでなければ送信さえできない。
01/19 09:50 ローカルな中の、ローカルな情報。

って、もともとこの業界全体がローカルな上に中心点がないので、すべてがローカルでしかないのが、この業界。どの地方に入り込むか・どの地方にいるかで、見えているものがまるで違う。

その中でも、
 言語能力が優れている=書ける・しゃべれる
 →どうしても認知面の偏りよりも感覚面の歪みの大きい人の方が多くなりやすい
 →「こだわり」や考え方の偏りが大きい人は排除される
 →周りとのズレに悩み普通になりたいと思う人のものばかりが多くなる

という図式が出来上がっている地方がある。

別に、これがその地方のすべてではないのに…。

そういうものばかりが、「これでもか」と目に飛び込んでくると、また裏切られたような気になる。

それで、再セットアップになったのを機にやめていた音楽のダウンロードを再開。(今度は、二重三重にバックアップを取った。/それから、聴き入ってしまわないように、スピーカーは机の下に置いた。←いや、実はスキャナを置いたので場所がなくなったことによる怪我の功名。)
こんなことをわざわざ言葉にしていることも、めちゃめちゃ虚しくなってしまう。そもそも、わざわざ伝えようと言葉にしているのに、その意図が正しく伝わらない。そして、ほとんどの自閉症の人は、この不快感や侵蝕感を消去するために音や形や色や常同行動や何かの作業や知識に没頭してそこから出てこようともしないし、自分の感情に気づいていないし、それを人に対して表出しようとも思わないのに、こうやって言葉にしていること自体が矛盾しているように思うから。

やっぱり、これが、正解かも。
01/18 22:10 床屋、三度目。ちょっと、ムカついてきた

長男が床屋デビューした、最初の床屋に行った。二度目は違う床屋に行ったので、三度目の床屋。かなり進んで、だいぶ短めにできるようになり、ちょっとカミソリもあててもらったし、洗髪もした。
でも、最初の時の優しいお兄さんはいなかった。今日は、全く話の通らないオジサン。皮膚が敏感でカミソリがダメだと思い込んでいる内はまだマシだった。でも、触覚過敏を「くすぐったいのが我慢できないだけ」だと勘違いし始めてから、ただの“ワガママ息子”と“甘やかしている親”扱いになった。

ここまで来るのに、どれだけのステップを踏んできたことかなんて全く知らないただのおじさんとおばさんに、「もう、大きいからだいじょうぶでしょ」と、言われてしまった。
そういうことじゃなくって、少しずつ段階を追ってきたからで、年齢の問題でもないのだ!

慣れた子なら、小学校の内から一人で来て、一人前のコースを全部やって帰っていくような簡単なことかもしれないが、今日できるようになったちょっとしたことが、感動モノなのだ。(おまえたちには、分かるまい。)

もうちょっとのところまで来ると、つまり、ほとんど普通と変わらないところまで来ると、説明も分かってもらえなくなるし、うるさがられる。
その後は、本人的にはいろいろあるけれど表面上はなんでもなくなり、しまいには、これだけ苦労したことも忘れてしまう。その「過程」の記憶がどのようにどれだけ残っているかが、大人になってからのASに対する考え方やスタンスの違いになるのかもしれない。
01/14 21:14 「発達障害や精神疾患の考え方を知っていれば、見方が随分と変わるのにぃ!」と思えるような人がたくさんテレビに出る。(たいていは、すごい人扱いかヘンな人扱い。)
普段から普通に出てるのに、何か事件を起こした時だけ“○○障害”と騒ぐのは、どうしてだ!? 

“障害”がついたら、急に、“自分たちとは関係のない特別な人”になるのだろうか?

そうすれば、自分たちのモノの見方・考え方を変えなくて済むとでも考えるのだろうか?

今までの生活様式や立場や信条を変える必要があるからこそ、ICDでもDSMでも“障害”という用語をわざわざ使うようにしているのだが、日本では逆効果にしかならないいのだろうか?

世間一般の考え方をすべて真に受けたら、発達障害的なものはほとんどすべてが否定されるか、それほど深刻なものではない克服可能なものであると言われるかのどちらかだ。
そんな言葉ばっか聞かされていたら、うつになってしまう。さもなくば(防御のために)攻撃的になるか、だ。
01/14 23:07 みんなは結構気楽にやっているのに、なぜ私がやると何でもかんでも仰々しくなるのだろうか?という疑問が、常にあった。何のことはない、何をするにも、セットアップだのインストールだのが必要で、常にマニュアル付でないと動作しないし、実際に動きも悪かったわけだ。
しかし、それが通用したのは学生の時だけで、世の中に関してはプログラムもデータも全くない状態で放り出されてしまった。ほんとに、アホだった。

それで、子どもたちには、プログラムとデータをセッティングしようとしているのだが…。これがまた、動作できるプログラムのバージョンがえらく古くて(ごくごく簡単なことしかできないという意味)、つけてやってもマニュアルが読めない。たぶん、どこを見ていいかわからないだろうし、見るところを間違えるだろうし、だいいち、マニュアルをどこかに置き忘れてしまいそうだ。
結局、現場に誰かいないといけないのだが…。(今は、鬼監督と熱血コーチとうるさい助手がついているようなものだ。)さて、私がいなくなったらだれがやる?

今、できるものだけを繋ぎ合わせて何とかかんとか形にするためのハードの部分を揃えているのだが(とにかく、金がかかる)、さ〜て、使いこなせるか?
01/13 18:30 療育が一段落ついた後に、「まとめ」をしたのがこのホームページの始まりだった。もっとも、当時は、もっとギリギリの選択だったけれど…。(まるで夢遊病状態で何かを求めてふらりとさまよっていて、心療内科に入ろうか電器屋さんに入ろうかと考えていた。)

今は、子ども時代をどう過ごすとか、学校内でどうするかとか、社会的に妥当な行動をいかに強化するかという問題ではなく、どうやって一般社会に繋げていくかとか、あれこれ考えるとどれにも足りない才能をどのように社会に通用するものにしていくかというところにとりかかっている。(もちろん、一方では、福祉の充実や社会資源の整備も訴えなければならないところだ。)

なにぶん、途中経過なので、まだ何とも言えない。そして、今は、ソフトの面でもハードの面でも、長男にできる範囲のところでベストなものを揃えている。それで、本も、療育関係の本だけを厳選するようにしている。(その件に関しては、年間刊行数が一ケタで、誰もがむさぼるように読んだ数年前と違って、どれを買ったら良いか迷うほどの本が市場に出ているし、オンライン書店で「検索」できるので、義務にする必要もないと思う。)

というわけで、ネット上の心象風景としては、こ〜んな感じ。
                      

基本的にインターネットの外線は繋げていなくて、ちらちら見ている程度。実社会の方の窓口を探している。
01/12 18:00 ちょっと見スゴイけれど、それだけで終わってしまって社会化しにくい才能を持っている子どもたちのサバイバルのために、現在、プロジェクト実行中です。

そんなわけで、しばらく日記は書かないかも。いや、書くかも…。
(何をしているかというと、Art系に走っております。)
01/04 19:26 自閉症を良く知っている保護者がいる、自閉症の支援グループがあるということは、ちょうど傘のように、本人に許容できる範囲に環境を調整し、本人にある程度の忍耐の必要性を説くことができるということ。私が欲しいのは、その傘。誰かとうまくやっていこうなんて、思っていない。
でも、現実の世界には傘がない。隠れる殻のないカタツムリは、ただのナメクジ。塩をかけられて消されてしまわないように、ここに避難する。誰が・何をしたとか、それで私はどんなになっているかなんてことは、一切思い出さない。ただただ逃げる。消去する。しばらく、ここに閉じこもっている。これが、最も安全。
01/04 15:31 ガーゼでないマスクに感謝!

ガーゼが触覚的にNGだったので、今まではマスクができなかった。でも、去年、ガーゼ製ではない立体マスクを発見してから、就寝中や外出時の喉の乾燥を防ぐことができて随分と便利になった。
それまでは、
 1,喉が渇く→水物を一日中飲み続ける→水がたまって冷える
 2,喉が乾燥する→頭が痛くなったり鼻が悪くなったりといった風邪様の症状→風邪薬を飲む
という悪いことばかりだった。

最近は、便利なものがいろいろ開発される。大いに利用すべし。
01/03 17:39 療育を受けるどころか誰にも全く気づかれずに成長し、自分の生まれた家ではどうにもならないと悟った結果、自分で自分を社会的な存在に仕立てなければならなかった私が生き延びるために取った手段は、自分自身から乖離するということ。これが、健全な在り方であるはずがない。
そして、去年とともに葬り去ったのは、自分を身体的にも精神的にもボロボロにしてしまう現実。この在り方もまた、健全とは言い難い。が、世の中の方が、ASの子どもはASの大人になるという大前提を認めない限り、乖離という手段でしか身を守ることができない。・・・これは、ゆゆしき問題だ。

ところで、文部科学省の全国一斉調査にも採用されたASSQが掲載されている、ギルバーグの『アスペルガー症候群がわかる本』が出版された。療育本ではなく理論書だが、子どもだけでなく成人の状態まで書いてあって感動ものだ。といっても、これを読んでアスペルガー症候群のことが分かるのは、はじめからアスペルガー症候群を分かろうとしている人だけというところが、情けない。

それから、ギルバーグは、アスペルガー症候群の人たちを実際に見てその人たちのことを書いているのだが、アスペルガー症候群の人を見たことがない人がギルバーグの診断基準を読んだ時に、正確な臨床像を思い浮かべることができるかどうかという点ははなはだ疑問なところが問題。そして、DAMP概念を前面に押し出している、かなり先走り(現状がついていっていないという意味)な本。
とはいえ、こういう本をすべての精神科医に配布して、どれくらい分かったかテストすべきだと思う。
01/02 22:28 人と人との接続端子がなく、役割としてしか人とかかわることができないのだから、かかわり方が根本的に違っていて、かかわり方のルールを知らないニンゲンばかりに囲まれている以上、どこに行き・誰といても・どんな関係も結局はうまくいかなくなる。もともと受動型だとか早期療育型ではない私みたいな不良アスペにとっては、そのままで一生を過ごすことになるか、多少は信じられる人に出会えるかの違いだけの大違い。
接点のまるでないニンゲンに囲まれているからといって、そのために不愉快になったり怒ったりするのは浪費でしかない。何よりも、私らしくない。そういうのは切り捨てて、去年と一緒に葬り去った。


そういう意味ですがすがしいだけで、本当に晴れ晴れしたわけではない。
01/01 17:40 お寺にお年玉を持っていったついでに、カエルちゃんたちも連れて行った。さて、どこに広まっていくのでしょうか?(できれば、わざわざ「あんたの子どもはわがままだ。あんたの育て方が悪いんだねぇ。」と言いに来たオヤジに読ませたい。総代に親戚がいるし、この地区の半分の家が檀家なので、人の目にとまるところに置いてくれるといいなぁ。)

今年の正月が穏やかなのは、自分自身が落ち着いたからだけではなく、みんなが成長したから。
長男の方は、大きくなっても手取り足取りが必要だけれど、インターネットで電車・バス・車を検索してペーパークラフトを探すという趣味に行き着いて、こちらのお膳立ての必要のない自主的な活動ができるようになった。動画配信サービスの電車画像を一緒に見ても、あちらは電車の解説をし、私は運転席から見えるレールを見て音を聞いている。お互いに、相手の話は聞かない。同じものを見て並行的で別々、という最高の関わり方ができる。
ADHD&LDという普通の人である次男は、もうじき高学年ということで自分の意見や好みを頑固に持って主張し始めている。今、お年玉で買った、ものすごく細かいガンダムのペーパークラフトを製作中。
つまり、三人分を一人で考えなくても、みなそれぞれ自分のことは自分で考えるし、手伝いもしてくれるようになったということ。
01/01 15:10 普通に生きる、といっても普通になるわけではない。自分なりの普通、つまり、自分の価値を自分で下げることなく、無理のない範囲でやっていけばいいということ。
01/01 07:40
初日の出などと言うけれど、普段起きている時間なので、日の出を見ることそのものは珍しくない。
休みの日はだるくてなかなか起きられないものだったが、精神的にも身体的にもわだかまりがなくなると、朝起きることも新年を迎えることも苦痛ではなくなった。その、記念すべき日の出。
自由になった理由は、受動的に振り回されるだけの生き方から脱出して、自分の気持ちを表出して現実を変えるように能動的に働きかけ、現実の環境を自分の構造に合うようにカスタマイズする権利と自信を得たこと。
01/01 00:00

年が明けたからといってめでたいことはないが、事実は事実なのでこんなものを作ってみた。(日記をCGIからHTMLに戻したのは、こういうことがやりたかったから。)
現在、長男は年越しインターネットで、バス漬けの真っ最中。見ると、次男に頼んで作ってもらったバスのペーパークラフトが山盛りになっている。次男は、「今年こそ99の岡村隆史とカウントダウンをする」と意気込んで起きている。まだまだ元気。

やっと、(奴隷ではない)人間らしい文化的な生活が送れるようになった!(かも←まだ、確定ではない)
晴れ晴れした、すがすがしい気分の表現ということでこの背景を見ていたら、いろんなものを飛ばしてみたくなっただけのこと。別にメッセージも何もない。