『食いしん坊な脳 うつになる脳』におけるアスペルガー症候群の説明についての見解

2002.2.5付:緊急アピール(その1)

 「食いしん坊な脳 うつになる脳」(脳の不思議がわかる本,スティーヴン・ワーン著,石浦章一監修,原山美樹子・宮島冬奈著 中経出版 2001年12月発刊)(以下本書)においてアスペルガー症候群に関する記載があります.アスペルガー症候群およびハンス・アスペルガーについて誤解に基づく記述があります.さらに問題なのは日本の社会において未だ存在そのものもよく認知されていないアスペルガー症候群に対して偏見を助長する恐れが強い偏った記述がされていることです.

 本書を読まれた読者がアスペルガー症候群に対して偏見を抱かないようにして頂くために児童精神科医の立場から説明を加えたいと思います.

 第4章のタイトルは「罪を犯してしまう脳」です.その第一に「感じることができない脳 アスペルガー症候群」(202ページ)というタイトルのもとでアスペルガー症候群のことが「説明」されています. 本書の目次を読まれた方は「罪を犯してしまう脳」の代表がアスペルガー症候群で,アスペルガー症候群の人は「感じることができない」と思われるかもしれません.アスペルガー症候群の人も罪を犯すことはあるかもしれません.それは「健常」の人も罪を犯すことがあるのと同様です.ほとんどのアスペルガー症候群の人は犯罪とは無関係です.アスペルガー症候群の人が一般の人と比べて犯罪を犯す率が高いという証拠は何もありません.またアスペルガー症候群の人は「感じること」が出来ないわけではありません.感じ方が多数派とは異なるだけで,敏感な人も大勢います.

本書の内容は多くの問題がありますが,以下の2点については明白な誤解ではないかと思われます.


第一点:本書より引用

「バロンーコーエン博士は、犯罪者の多くは、アスペルガー症候群に冒されているのではないかと考えています。」

この内容は誤解です.引用されたバロンコ-エンの論文のどこにもそのような記述はありません.そこでバロン-コーエン博士に直接メイルを書き,このような引用のされ方をしているが,どのように思われるかについて聞きました.以下にバロン-コーエン博士からの返事を掲載します.

バロン-コーエン博士からのメイル(2002年2月4日付け)

Dear Tokio

I am very saddened that Stephan Juan's book has misquoted my 1988 article. It is a very sensitive subject that needs to be sensitively handled. I certainly did not write that "the majority of criminals have AS" or that "the majority of people with AS are criminals". Far from it. The 1988 paper was a single case study, which did illustrate that in ONE man with AS, empathy difficulties did lead to domestic violence. In his case, he was 21 years old and his 'girlfriend' was 71, so the case was of interest for several reasons.

In my current clinical work I see patients referred in adulthood for suspected AS, and we confirm the diagnosis in most cases. Of 100 adults we have seen, only a small minority (probably less than 25%) have a history of violent offending or aggression, and other types of crime is even rarer. There is invariably a disability in empathy, but the important thing is

that this does not necessarily lead to criminal behaviour. If anything, the majority of these patients report a strong moral conscience and a concern for the pursuit of fairness and justice. I am happy for you to use any of the above email in any way you choose.

With best wishes

Simon BC

翻訳

 スティーブン・ワーンの本が私の1988年の論文を不適切に引用していることに対して大変残念に思います.慎重に対応することが必要な非常に微妙なテーマです.私は「犯罪者の多くがアスペルガー症候群である」とか「アスペルガー症候群の人の多くが犯罪者である」とか書いたことは絶対にありません.それと反対です.1988年の論文は一例研究です.アスペルガー症候群の人のただ「一例」を記載したのです.共感性が乏しいために家庭内暴力に至った一例です.この場合は青年は21歳で「ガールフレンド」は71歳でした,他にもいくつかの理由もあり興味深いケースだったわけです.

 現在の私の臨床経験において,アスペルガー症候群を疑われて紹介されてくる成人期の方の多くがアスペルガー症候群の診断が確定されます.今まで診た100例の成人で,ごく少数が(おそらく25パーセント以下)が暴力的な問題や攻撃性が過去に見られています.他のタイプの犯罪はさらに頻度が少ないのです.共感性の障害は常にみられます.共感性の障害が必然的に犯罪に繋がるのではないということが大切です.

患者さんの多くはむしろ強い道徳意識があり公正さや公平さを追求することに関心があります.

このメイルのどの部分をどのような形態で使って頂いても結構です.

サイモン・バロン-コーエン


またアスペルガー症候群について下記のような「解説」があります.

第二点:本書より引用

「アスペルガー症候群とよばれるこの病気は,1940年代にはじめて認知され,この病気の発見者でナチスの青年運動組織について研究していたウィーンの児童精神科医アスペルガーにちなんでつけられました」

現在アスペルガー症候群と呼ばれている障害のもととなった概念「児童期の自閉的精神病質」について報告したのはハンス・アスペルガーというウィーンの小児科医です.現代的な視点からアスペルガーの報告を再検討しアスペルガー症候群という名称を提唱したのはイギリスの児童精神科医であるローナ・ウイング博士です.現在ではアスペルガー症候群は自閉症と連続した「発達障害」と考えられています.うつ病のような病気とは異質なものであって「病気」であるという記述は不適切です.

またアスペルガー自身の説明について「ナチスの青年運動組織について研究していたウィーンの児童精神科医」とのみ解説されていますが,この解説ではアスペルガーの主要な研究テーマがまるでナチスの青年運動組織のように受け取られかねません.これは全く事実ではありません.アスペルガーは児童精神科医ではなく小児科医で大戦後ウイーン大学の小児科教授をしていました.彼が生涯をかけて障害をもった子どもたちのための「治療教育学」の研究と実践に取り組みました.

 「ナチスの青年運動組織について研究したいた」という点については私自身は初耳だったので,ローナ・ウイング博士に尋ねました.ウイング博士は,ドイツ出身のイギリスの心理学者でアスペルガー症候群の研究者であるウタフリス教授に問い合わせてくださいました.フリス教授はメイルを下さり,ご自身の見解を日本のホームページで公開されることに同意されました. 以下ウタ・フリス教授のメイルの内容です.

ウタ・フリス教授のメイル(2002年2月1日付け)

It is sad that inaccurate accusations are being made against Hans Asperger, one of the pioneers who identified autistic disorders. Hans Asperger had the misfortune of being born at a time and in a place which is forever tainted by the crimes of the Nazi regime. Asperger stated that he took part of the Youth movement and this has been held against him. However, the Youth movement predated Hitler. It was eventually absorbed into the Hitler Youth, a premilitary organization that every boy was forced to join. At that point Asperger was an adult and had already left it. People continue to have a deep suspicion of people who did not openly protest or show resistance during the Nazi regime. This applies to the vast majority of the population, many of whom lived in fear. Asperger was brave in speaking out about the value of individuals who did not fit into society. According to eye witnesses he saved people with mental handicap from being sent to other hospitals where they would probably have died. Asperger was known to have deeply held religious beliefs and high ethical standards.

Uta Frith.

翻訳

 自閉症を見出した二人のパイオニアの一人ハンス・アスペルガーに対してこのような不当な批判がされていることは残念です.ハンス・アスペルガーは不運にもナチスの犯罪が永遠に汚染している時代と場所に生を受けました.アスペルガーは青年運動に関与したと述べ,そのため一部で批判されたことは事実です.しかし,青年運動はヒトラーの登場以前に始まっていました.後にヒトラーユーゲント(すべての少年が強制的に参加させられる軍隊の前段階の組織)に吸収されてしまうのですが,その時にはアスペルガーは成人になっていて既に退会していました.人々はナチの時代に公然と抗議や抵抗をしなかった人に対して深い疑惑の念を持ち続けるのですが,このような時代それはほとんどすべての人々に当てはまります.多くの人が恐怖に中で生きていたのです.アスペルガーは勇敢にも社会に適応できない人々にも個人としての価値があることを訴えました.彼は知的障害をもつ人々が彼の病院以外に送られること(死んでしまう可能性がありました)を阻止し多くの人々を救ったという複数の証言があります.アスペルガーは信仰深く高い倫理観を持つ人として知られていました.

以上の2点からだけでも本書のアスペルガー症候群に関する記述は問題が多いことがわかると思います.著者はアスペルガー症候群についての正確な知識を持っていないと思われます.


今回の件についてはローナ・ウイング博士,ウタ・フリス教授,サイモン・バロン-コーエン教授に大変迅速にご助言を頂きました.ウイング博士はフリス教授,バロン-コーエン教授にも声をかけて下さりお骨折り頂きました.3人の先生方が異国のことについても自分のことのように心配してくれ,それぞれのご見解をホームページなどで公開することにも快く同意頂きました.自閉症協会東京都支部の方々,多くの友人の方にもご協力頂きました.ありがとうございました.

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