宗教なんて大っ嫌いな人へ
はじめにお断わりしておきますが、私は普通の会社員で、どこかの宗教団体に属しているわけでも、神のお告げを聞いたわけでもありません。また、何かに勧誘しようとか、金を儲けようとかいう気持ちも全くありません。私自身、子供の頃から宗教などというものは頭から馬鹿にしていて、『百害あって一利無し』と思っていましたし、確かにそういう宗教も数多くあるようです。しかし、私は昨年、ある書物から、私にとって全く新しい考え方に出会いました。そして、私がそれまで感じてきた人生のいろいろな悩みや疑問をその考え方に照らしてみると、見事につじつまがあってくるのです。
現在、宗教という言葉の響きは、以前の私のような人にとっては得体の知れない、薄気味悪いもの以外の何ものでもないと思います。しかしそれは、集団で祭壇に向かって拝むというような行為イコール宗教だと思っているからであって、宗教の本質は、実はそんなものではないのです。私はこれからお話しすることを人に押しつけるつもりはさらさらありませんが、ただ、私の考えを聞いてもらうことで、この一寸先も分からない混沌とした世の中を生きていく人が、ひとりでもふたりでもラクな気持ちになってくれたら、とてもうれしく思います。
一、子供の頃からの疑問
私が小さい頃からずっと持ち続けている疑問に、「宇宙の果てはどうなっているのか」というのがあります。「宇宙は無限だ」と言うのは簡単ですが、今の世の中に、この問いにちゃんと答えられる人がいるでしょうか。科学がどんなに進歩し、ロケットがどんな遠くまで飛んで行こうと、その先が無限にあるとは一体どういうことなのか。また、もし宇宙の終点があったとしても、じゃあ、その向こう側はどうなっているのか。人間は、今、私たちが現実に暮らしているはずの、この3次元空間の存在すら、ちゃんと理解することができないのです。あるいは「宇宙はどうやってできたのか」という疑問。『ビッグバン』と言うのは簡単です。しかし、『ビッグバン』の前は宇宙すら存在しなかったとなると、一体何があったのか。何もなかったとすれば、なぜ『ビッグバン』が起きて、宇宙ができたのか。また、「何もない」とはどういうことなのか。考えれば考えるほど、わからなくなります。こういった疑問には、この世のどんなにすごい科学者だって、明確には答えられないはずです。答えたとしても、難しい言葉で丸め込むのがオチです。
結局、3次元の人間の頭ではいくら考えたってわかる問題ではないということです。人間は自分たちが優れていると思っていますが、所詮、人間のわかることなんて、たかが知れているのです。だから、人間は自分の知っていることが全てだなんて過信してはいけない。まだまだ知らないことがたくさんあると、謙虚な気持ちでいたほうがいいということです。
二、ひとつの仮定
ここで、ひとつの仮定をしてみましょう。例えば、今あなたが突然、死んでしまったとします。そこにあなたの死体が転がっています。でも、なぜかあなたは自分の死体が見えるのです。自分が死んで目の前に転がっているのを見ているのです。これはあくまで仮定ですから、事実がどうかということは今、問題ではないのです。ただ、あなたは肉体から離れた自分というものの存在を感じたということにします。さあ、もうあなたにこの世の肉体はありません。この世のものには何も触れることができません。おいしいものを食べることも、愛する人に触れることも、会社で仕事をすることもできません。苦労してためたお金も、勝ちとった地位も、名誉も、この世であなたのものだと思っていたもの全てがあなたの手の届かないところへ行ってしまいました。
結局、そういうものは、この世限りの物で、いずれは捨てなければならないのです。まあ、この世ではそれなりに価値はあるし、それを得る過程での努力は大切だと思いますが、そういったものに執着を持つべきではないのです。また、お金、地位、名誉を得ることによって、自分は偉いんだと思い込んだり、他人を見くだしたりすると、人からの信頼も得られなくなり、誰からも尊敬されなくなります。そういうものをふりかざしていると、羽振りのいい時はいいかも知れませんが、もし下降線を辿ろうものなら、誰もついてこなくなり、寂しい思いをするのは自分です。また、それを得る過程で、人を踏み台にしたり、傷つけたりしていると、悲惨な目に会うのは間違いありません。そして、もしこのように死んでしまって手が届かなくなったとすると、そういうものにしがみついて生きていた人がいかに哀れであるか、想像がつくでしょう。
さあ、肉体を失ってしまった今、あなたに残されたものとは一体なんでしょう。それはあなたの「心」だけです。あなたが「自分はここにいる」と思っている意識だけです。そして、もし、これから3次元でない世界で暮らすことになるとすれば、あなたの「心」が、いかに豊かなものであるかが問題になってきます。あなたが3次元世界で生きていた時、いかに自分の欲望を満たすことや、個人の利益ばかりを追求することなく、全ての人に平等に暖かく接し、社会に奉仕し、自然をいたわり、豊かで大きな「心」をつくったかが問題になってきます。そんな馬鹿なことがあるはずはない、死んでしまえば肉体と共に意識も全てなくなるんだから、そんなこと考えるだけ無駄だと思う気持ちもわかります。しかし、宇宙の果てもわからないあなたに、あの世が100%「ない」と言い切れますか。また、たとえないと思っても、「もしあったら…」と仮定して物事を考えられるくらいの、柔軟な思考力は持っていた方がいいと思います。そして、この仮定ができるか、できないかが、豊かな心をつくれるか、つくれないかの境目のような気がします。
三、苦悩はどこからくるのか
人は誰でも悩み、苦しみを持っています。これだけたくさんの人間が大抵は持っているはずですから、それはそれはたくさんの苦悩がこの世には充満しています。病気や死に代表される、肉体にまつわる苦悩。社会、家庭における人間関係や生活環境に対する苦悩など。多くの場合、自分の思うようにならないことへの不平、不満が苦悩になります。自分では、何も悪いことをしていないのに、なぜこんな目にあわなけりゃいけないんだという気持ちが苦悩を生み出します。肉体にまつわることとしては例えば「悪い病気にかかってしまった」「ひどい怪我をして歩けなくなってしまった」「あと半年の命だと言われた」とか、あるいは「頑張ってダイエットしているのにちっとも痩せない」「美容整形の手術に失敗した」なんてのもあるでしょう。また、人間関係や、生活環境に関することでは「上司、同僚とうまくいかない」「思うような部署に配属されない」また、「彼女に交際を断られた」「夫の浮気が許せない」「子供がちっとも勉強しない」「姑がいじめる」「いつまでたってもマイホームが持てない」…皆それぞれの立場で、さまざまな苦悩を背負っているのですから、挙げればきりがありません。では、この苦悩はどうすればなくなるのか、あるいは少しでも気持ちを軽くすることができるのか、そのことについて考えてみましょう。
ここでまたひとつ、仮定をします。今までのあなたの人生、それは苦悩を含めてあなた自身が選んだものだと思ってみてください。そして、その苦悩は、あなたが自分の「心」を豊かに育てる修行をするためにあると思ってみるのです。この仮定は先程のより、少し難しいかも知れません。しかし、人間は苦悩を乗り越えたとき、より大きく成長するのではありませんか。少なくとも、ある苦悩を克服した人は自信がつき、自分より後で同じ立場に立った人の気持ちがよく分かり、良き相談相手になってあげられるはずです。また、もしその苦悩の原因が自分にあったとすれば、二度と同じ間違いを犯さないように気を付けるはずです。ですから、どんなに苦しいことがおきても、それを他人や社会のせいにせず、自分の心を大きく育てるための修行だと思ってみることです。投げやりにならず、前向きに、解決に向かって努力することが大切だと思います。第三者的に見ても、苦悩や困難にすぐ負けてしまう人より、それに立ち向かっていく人のほうが美しいではありませんか。ただ、誤解されては困るのですが、私は、嫌なことには逆らって、自分の思い通りにしろと言っているのではありません。理想的なのは、どんな苦しみが襲って来ようと、びくともしない、豊かで強い、大きな心をつくることなのです。では次に、その苦悩を乗り越える方法について、少し具体的に考えてみましょう。
まず、肉体にまつわる苦悩。これは私が何と言おうと、当事者としては、のんびりかまえてはいられない問題かもしれませんが、やはり、他人や世間のせいにせず、自分に与えられた試練として受け止めるべきでしょう。世の中には、さまざまなハンディキャップを負いながらも、それを克服して生きている立派な人がたくさんいます。また、死を宣告されてしまった人。残された人生でいかに豊かな「心」をつくるかは大切ですが、ちょっと最初の仮定を思い出してみてください。あなたがたとえ死んでもあなたの「意識・心」は残るかもしれないということ。心、あるいは魂が不滅であれば、あなたは死なないどころか、肉体にまつわる苦悩からも解放されてしまうのです。ただ、早合点しないでください。もしあなたがこの話を信じたとしても、自殺してはいけません。自ら死期を早めることはいかなる理由があろうとも絶対にしてはなりません。なぜいけないかということは今の私では言えませんが、とにかく、寿命のあるかぎりはどんなに苦しい不治の病であろうとも、生きることに前向きであってください。今の私にはこれだけしか言えません。
では次に、人間関係、生活環境に関する苦悩について考えてみましょう。ここで一番問題になってくるのは「期待し過ぎる」気持ちです。「これはこうあってほしい」「こうあるべきものだ」とか「誰々にはこう思っていてもらいたい」「皆こう考えるべきだ」などという自分の価値観の押し付けが、周囲とのひずみを作りだし、結局は自分の苦悩になってしまいます。ですからまず、世の中は全て自分の思うようにはならない、誰も自分と同じ考えは持っていないと思ってみてください。そうすれば、自分の思うようにならなくても腹はたたないし、たまたまうまく行くことがあったらすごく嬉しく思えるじゃありませんか。そして、大切なのは、決して他人や世間を恨んだり、仕返ししようと思ったりしないことです。気に入らない上司でも、自分をふった彼女(彼氏)でも、鬼のような姑でも、まず、憎らしいという気持ちを捨てて、哀れな奴だ、しかたないと思ってみてください。怒ったり、恨んだりすると、苦しいのは自分のほうなのです。それが苦悩になるのです。また、腹を立てるということは、自分が相手と同格だと認めてしまっているからで、自分のほうが心のレベルが上だと思うのなら、かわいそうな人を暖かく見守ってやることくらいできるでしょう。もし、それができないとすれば、それはあなたが、自分のほうにも非があるかもしれないという気持ちがあるからだと思います。また、その謙虚な気持ちはとても大切で、そこで反省することによって、あなたはもうひとまわり自分の心を成長させることができるでしょう。自分に非がみつからなければ、恨む気持ちを捨て、相手を許し、大きな心で見守ってあげることです。そうすればいつかは、相手も分かってくれる時が来ます。
目指したいのは太陽のような愛の心を持つことです。誰彼の区別なく、万人、万物に平等に惜しみない光、愛を与え、決して報酬を求めないことです。しかし、こうは言っても、そう簡単に嫌っている奴を許す気持ちにはなれないでしょう。そこで次に、またひとつの仮定を通して許すということを考えてみましょう。
四、許すということ
さあ、今度の仮定はあなたが死んで、でも意識があって、それから先のことです。死んでも意識のなくならなかったあなたは、3次元世界での一生を思い出しています。この世に生まれ、両親に育ててもらい、だんだん大きくなって幼稚園や学校へ行き、友達と勉強したり、遊んだりしたこと。そして、「おふくろには心配かけたなあ」とか、「あの友だちとけんかしたのは俺のほうが悪かったなあ」とか、自分の心が小さかったためにまわりの人に迷惑をかけたことを反省しています。学校を卒業して会社に入って、結婚して子供ができて…。客観的に自分の一生を見つめ直すと、恥ずかしいことや、反省すべきことがたくさん出てきます。そして、ここでどのくらいあなたが自分の人生を反省できるかが、心のレベルを計る基準になってきます。その後は自分のレベルにあった世界へ行き、同レベルの人たちと生活し、また心の修行が始まるわけです。私は自分が体験したわけではありませんから、これはあくまで仮定です。しかし、こういうことがもしあっても、あまり恥ずかしい思いをしないようなこの世での生き方をすることが大切だと言いたいのです。
話を「許す」ということにもどします。あなたが憎んでいる人、その人も死んだらこういう経験をするとします。その人が、心のレベルがとても低い人だとしたら、その人はきっとあまり反省しません。自分は悪くない、あいつが悪い、環境が悪い、世間が悪いと、まわりのせいにばかりして、自分を省みることをしないと思います。そして、そういう人の行く世界はどういうところかというと、やはり、そういう人ばかりのいる世界です。この3次元の世界は、心のレベルの違う人がごちゃごちゃに混じっている世界ですから、レベルの低い人でも、高い人と付き合うことができます。でも、あの世に行きますと、自分と同レベルの人としか一緒にいられないのです。ですから、自分が人を傷つければ、同じように自分も傷つけられることになります。だって仕方のないことなのです。その、まわりにいる人は自分と同じレベル、言ってみれば、自分と暮らしているようなものなのですから。そして、そこで自分を見つめ、向上心のあるものは反省して少しずつ高いレベルに上がっていきます。だめな者は何百年、何千年とそのままです。だってあの世は死ぬということがないんです。自分の愚かさに気付くまでは永久にそのままです。
こう考えますと、あなたが憎んでいる人、その人を許す気持ちにもなれるのではありませんか。自分の犯した罪は、たとえ死んでも自分で償うしかない。例えば凶悪犯がこの世でうまく世間をだまし、法律上の罪を免れても、真実を知っている自分の心は絶対にごまかせない。あの世へ行っても自分で反省しない限り、永遠に許されることはないのです。
五、自分を許す方法
自分を苦しめる原因の、とても大きなもののひとつに、過去に犯してしまった失敗に対する自己嫌悪の念というのがあります。そのことをいつも思い出す度に落ち込んでしまい、なんとかスッキリしたいのですが、過去のことなのでどうしようもなく、悶々としている状態です。なんであの時あんなふうにしちゃったんだろうとか、ああしてさえいなければこんなことにはならなかったなんて思い、苦しんでしまいます。では、こういう苦しみからはどうすれば抜け出せるか考えてみましょう。
過ぎてしまったことは、たとえあなたがどんなに悩もうと、戻ってやり直すことはできません。ですから、その経験はあなたの人生修行の上で、あなたの『心』を大きく育てるための試練だったと思い、しっかり受け止めることです。そして、どこに失敗の原因があったかを追求し、二度と同じあやまちを繰り返さないようにすることが大切です。そしてあなたが仮に『神』の存在を肯定できるとすれば『神』に詫びることです。ここでちょっと注意しておきますが、誰か周りの生きた人間を安易に頼るのは危険が伴います。相手が人間だと、あなたの失敗談を興味本意に聞き、逆にあなたが傷つくような結果にもなりかねません。それに『神』に詫びるということは、他ならぬ自分自身への誓いのしるしなのですから、それで十分なのです。そして、反省したら、あるいは神に詫びたら、もうくよくよしないこと。人は、誰でも失敗しない人なんていないはずです。そういう経験の積み重ねから大きくなってゆくのです。
六、人間の欲望について
人間は、この3次元世界に肉体を持つと、さまざまな欲望に振りまわされます。「おいしいものを食べたい」「たくさんお金をもうけたい」「人より偉くなりたい」「いい女(男)と遊びたい」「いい服を着たい」「いいうちに住みたい」…とにかくたくさんの欲の種が人間を取り巻いています。そして、その欲望を満たすことによって喜びを感じ、それがあたかも人生の目的であるかのように思いがちです。しかし、それが曲者なのです。この欲望というものが実は人生を狂わせ、苦しみを生んでしまう原因になるのです。確かに『欲』はある程度必要なものではあります。食欲がなければ物が食べられず、人間は生きていけません。性欲がなければ子供をつくれず、人類が滅亡してしまいます。しかし、そういった欲望が度を越すと、人間を破滅に導いてしまうのです。
人間の欲望は、最初は小さなものかもしれません。でも、それが満たされるとすぐ、もう少し上を望むようになります。それが満たされればもう少し上、もう少し上と、どんどんどんどん膨れ上がり、油断していると最後はものすごく大きなものになってどうしようもなくなり、結局、心は満たされないという悲惨な結果になってしまいます。では、こうならないためにはどうしたらよいか、次に考えてみることにしましょう。
七、足ることを知る
さあ、今のあなたの欲望はなんですか。おなかが空いていて何か食べたいですか。気になっている彼女と付き合いたいですか。いいクルマがほしいとか、海外旅行がしたいとか、とにかく結婚したいとか、マイホームが欲しいとか、会社でもっと偉くなりたいとか、あるいは有名になりたいとか。自分の努力ひとつですぐにかないそうな欲望もあれば、他人や社会が関係することなどは、なかなか思うようにならないものもあるでしょう。
さて、先程も申しましたように、こういった欲望というものはある程度は必要です。ただ、次から次へと欲望だけが先走って、満足できる気持ちがついていけないと永遠に安らぎは得られません。あるいは最初の欲望が大きすぎて、それを満たすまでは絶対に満足できない、何がなんでも死ねないなんて思っていますと、途中で挫折せざるを得ないような状況になったとき、その人の心はどん底まで落ちていってしまうでしょう。まあ、そうなったことによって悟りが得られれば、それはそれは大きな心が出来上がるかも知れませんが、あえてそういう道を選ぶ必要もないと思います。
さあ、ここで何が大切かといいますと、まず現状に満足する気持ち「足ることを知った心」です。この世で人間は肉体を持って生きています。そして、そのカラダというのは、ある意味ではとっても弱いものです。首を締められれば数分で死んでしまいますし、心臓を包丁で刺されれば即死です。クルマにひかれればすぐつぶれますし、階段から落ちただけでもあたり所が悪ければ死んでしまいます。また、毎日3回も食べている食事に1回でも青酸カリを入れられたらいっかんの終わりです。全く、こう考えてみますと、生きていることのほうが奇跡みたいだし、よく今まで死なずにこられたなと思ってしまうわけですが、結局はこの人生、明日死んでもちっともおかしくないということです。そして、明日、あるいは今死んでも悔いのないように、毎日毎日を満足しながら、ゆとりを持って暮らすという気持ちが、安らぎにつながるのです。それを知らずに、大きな欲望を抱えたまま、なんかの拍子に突然死んでしまいますと、死んでも死にきれないという状態になり、宗教的に言えば、その執着の度合いによっては地獄界で暮らすことにもなりかねません。
まあ、欲望というものは、うまくコントロールすれば、馬の目の前にぶら下げられたニンジン的な役割をし、日々の生活の励みや潤いのもとにもなると思いますが、度を越すと苦悩の原因、身の破滅にもつながるということです。ですから、欲望は程々に持ち、現在の暮らしに満足できる気持ちが大切です。また、少し意味合いは違ってくるかもしれませんが、「夢」や「理想」を持つことも、執着の度合いによっては注意が必要です。それ自体、悪いことではないのですが、それが達成されなかったからといって自分の人生は失敗だったとか、あの時、ああなってさえいなければ…なんて気持ちはおこさないことです。自分の思い通りにならなかったことによって、自分の想像もしなかったことが体験できたり、プラスになったりするということもあるのではありませんか。結局、人生はなるようにしかならないのです。決して、妥協しろとか、努力するなという意味ではありません。ただ、あまり自分の作ったシナリオにこだわらないほうがいいということです。
八、食べるということ
ここで、人間の欲望の一つ、「食べる」ということについて考えてみましょう。食べるという行為は、人間が肉体を維持していく上でとても重要なものです。長いこと何も食べなければ餓死してしまいますし、栄養のバランスが悪ければ、病気になります。適度な食事を正しくとるということは生活に欠かせません。ただ、ちょっと考えてみてください。私たちが毎日何気なく食べている肉や魚、野菜。こういった食べ物はみな生きていたものなのです。現在の人間社会は分業化が著しく進み、肉だろうが野菜だろうがお店に行ってお金を払えばすぐ手に入ります。でもその食物は、少し前までは牛や豚などとして生きていて、人間に食べられるために生命を奪われた生物の死骸なのです。最初から切り身や冷凍だったわけではないのです。人間の食生活はたくさんの動物や植物の犠牲の上に成り立っているということです。ですから、人間はそういう動物、植物たちに対して、心から感謝しなければいけない。それなのに、現在の人間の食物に対する扱いは全くひどいものです。レストランでも食べきれないほど注文してたくさん残す。お金を払えばいいという問題ではありません。百獣の王ライオンだって、おなかが満たされれば他の動物を襲ったりしません。殺しただけで捨ててしまうのは人間だけです。また、残さなくたって必要以上に食べることは感心できません。自分の肉体を維持していくために必要な分をはるかに上回るほど食べるということは、それだけ生物の犠牲を増やすことになるからです。太り過ぎでお悩みの方、こう考えるとダイエットする意義も見えてくるのではありませんか。
九、肉体とは何か
最初に、肉体と心は別々のものだという仮定をしました。今度は、肉体というものについて少し考えてみましょう。あなたの心、あるいは魂の抜けてしまった肉体はどうなるか。もう動かないし、食べることもできませんから、そのまま時間が経てばやがて腐って、土に帰ってしまいます。あなたはとても大事にしていて、自分の全てだくらいに思っていた体ですが、結局はただの物質にすぎなかったということです。
それではその肉体とは一体何だったのか。それは、この3次元世界をあなたが生きて行くための乗り物だったと考えてみてはどうでしょうか。あなたが心の修行をしながら、この世を航海して行くために乗っていた船だったのです。そして、その乗り物は、ちゃんと栄養のバランスを考えてものを食べたり、適度に運動したり、ゆっくり休ませたりしてやれば調子よく動いてくれ、逆に、あまり乱暴に扱ったり、無理をさせたりするとガタがくるのも早いのです。しかし、所詮は乗り物です。いつかは壊れる時が来ます。そしてあなたはこの乗り物から降り、次元の違う世界を生きて行くための乗り物に乗り換えるのです。こう仮定すれば、この世限りの乗り物にあまり執着するのも滑稽だということになるでしょう。そして、あなたの本質は肉体ではなく、それを動かしている意識、心の方だということです。ですから、たとえ肉体的な欠陥があったとしても悲観することはありません。心に欠陥があるほうが、よっぽど問題なのです。また、丈夫な、あるいは美しい肉体を持っているからといって、それに頼ってもいけません。そんなものはいつ失うことになるかわからないからです。
十、諸行無常
肉体に限らず、この3次元世界にカタチを持っているものは全て永遠のものはありません。どんなに昔からあるものだろうが、堅くて丈夫そうなものだろうが、この世にある以上、いずれは消えていく運命にあります。それと同時に、生きているものは常に形を変えながら移り変わっているのです。人間の肉体も、生まれてからだんだん大きくなって大人になると、今度はだんだん老化して、長くてもだいたい100年くらいで肉体として使いものにならなくなります。中身のあなたはずっと変わらずにあなたなのですが、肉体はどんどん変化していき、ずっと子供のまま年をとらないなんていう人はいません。また、生きている間中、細胞や内臓諸器官は一時として停止してはいないでしょう。停止は『死』を意味するのです。また、自然の水の流れにしても、常に変化しています。流れているからきれいな水でいられるのであって、これがよどんでしまうと途端に濁り、飲めたものではありません。全てのものは常に変化している、これを仏教では『諸行無常』といいます。そして、ここで大切なのは、変化しているものに目を奪われて本質を見失うなということです。人間でも価値があるのはその肉体ではなく、心のほうです。この世ではいくら価値がありそうに見えても、3次元的なものに執着を持っているといずれは全て失うことになり、空しい思いをするでしょう。また、あの世があるとすれば、この世で自分のものだと思って大事にしていたものでも、死んだ時、『心』以外はみんな置いて行かなくてはならないのです。
十一、大自然に学ぶ
大自然は、人間に生き方を教えています。太陽を中心に、その周りを回っている惑星たち。それを取り巻く大宇宙。全ては規則正しく動き、見事な調和を保っています。また、地球上では光、水、空気などの絶妙なバランスによって、さまざまな生物たちが生かされ、生物たちもお互いにその存在に意味を持ちながら、調和の中に生活しています。そして、人間にとっても生きていく上で最も大切なのは、この調和を乱さず、自然の中に他の生物=動物、植物たちと共存していくことです。しかし、実際はどうでしょう。万物の霊長であるはずの人間は生物のリーダーシップをとっていく立場にあるにも拘らず、自らの利益や欲望だけを追い求めた結果、地球を、自分たちの生存すらも危ぶまれるような星にしてしまいました。3次元的なものにばかりとらわれ、自分さえよければいいという考えが、他の生物のはかり知れない犠牲を生み、地球を破滅に導くことになったのです。これはどこの国が悪いとか、どこの企業が悪いとかいう問題ではありません。人のせいにして済むことではないのです。今こそひとりひとりが心から反省すべきことなのです。
もう手遅れなのかもしれません。しかし、宗教的に考えれば、手遅れであればなおさら、この失敗をあの世までひきずらないよう反省し、地球を救うためにひとりひとりができる限りの努力をすべきでしょう。それが、人間の進歩・発展と称して犠牲にしてきた動物、植物たちへのせめてもの供養になると思います。
十二、お金というもの
少しシビアな話になりましたので、今度は「お金」というものについて考えてみましょうか。お金は人間社会においてとても便利なものです。物々交換に始まった人類の経済の歴史も、お金の出現によって物の価値の共通認識や労働力の蓄積が可能になり、あらゆるものが手に入れ易く、とても暮らし易くなりました。しかし、このお金というもの、人間に与える影響も非常に大きく、ひとつ間違えば、人生を地獄に変えてしまったり、場合によっては人の命を奪ったりもします。欲望のタネに最もなりやすいのがこの「お金」で、お金によるトラブルは人間社会のあらゆるシーンで後を断ちません。それでは、どうすればお金による悲劇を防げるか、ということを考えてみましょう。
あなたはお金が欲しいですか。どのくらい欲しいですか。そのお金で何を買うつもりですか。それが手に入っても、もっとお金が欲しいですか。買いたいものがなくなったらどうしますか。まだお金がほしいですか。一体、いつになったらあなたは満足するのですか……結局、現状に満足できない限り、いつまでたっても欲望はきりがなく、心の安らぎは得られないのです。贅沢はできなくとも、自分や家族が生きていけるだけの収入があれば、そのことに感謝し、毎日を楽しく、心に余裕をもって生活していくことの方が大切なのではないでしょうか。お金が必要以上にあるとろくなことはないのです。社会福祉に貢献したり、恵まれない人たちに寄付でもできるようなら立派ですが、自分の欲望を満たすことしか考えていないような人が下手にお金を持つと、社会を混乱させるだけです。この世でしか通用しないようなものを武器にして、地位を得ようとしたり、世の中を自分の思い通りにしようと思っても、一時はごまかせるかもしれませんが、いずれは誰もついて来なくなるでしょう。それは人を導くだけの心が伴っていないからです。
また、人間はお金にとても執着して苦しみをつくってしまいます。過去に落としたサイフのこと、人に貸して返ってこなかったお金のことなどが、なかなか忘れられません。あの時のお金がもしあればあれが買えるのにとか、人によっては、貯金しておけばいくらになってたのにとかまで考えて悔しがったりするでしょう。でも、そう思うことによって苦しいのは他ならぬ自分自身なのです。だったら、どっちみち戻ってこないお金のことなど考えるだけ損ではないですか。人生修行の上でのよい経験をしたと思って反省し、自分のプラスになるように解釈を変えてみることです。また、そのお金を奪った人間がわかっているとしても、その人を恨んではいけません。恨む心は地獄界に通じるものであり、あなた自身が苦しむ結果となります。あなたのお金を奪った人は、必ず自分自身で反省する時が来るのです。「許すということ」の項で述べたように、心の哀れな人は、暖かく見守ってやらなくてはいけません。そして、あなたはお金にできるだけ執着を持たず、「足ることを知った生活」を心掛けてください。そうすればきっと、安らぎが得られるでしょう。
この世を生きて行くのにお金はある程度は必要です。しかし、お金が全てだ、無制限に欲しいなどと考えていると永遠に救われません。また、お金のようなものの奴隷になって一生を送るのは全く馬鹿げたことです。
十三、仕事とは
次は、お金に関係の深い、仕事についてです。仕事というのもお金と同様、とても苦悩を生みやすいものです。お金をもらう以上、どんな仕事にせよ、プロとしてのレベルを要求されますし、その仕事にまつわる大勢の人間たちとうまくやっていくのは、たいへんな努力を要します。仕事は楽しいばかりで、何の苦痛もないという人もいるかもしれませんが、そういう人はたいへん恵まれているか、苦労を苦労とも思わない見上げた人であって、大抵ははたから見てどんなに楽しそうな仕事であろうと、本人は、程度の差はあれ苦しみを感じているものです。お金さえあれば仕事なんかやめたい、一生遊んで暮らしたいと思っている人も結構いるのではないでしょうか。そこで、こんな考え方をしてみましょう。
人生の目的は心を大きく豊かに育てることなのではないかということは前にも述べました。勿論、仕事を通してもそのことは言えると思うのですが、ここでもうひとつの人生の目的というものを考えてみたいと思います。それは、住みよい社会の建設ということです。決して物質的に豊かなという意味だけではありません。地球という大自然の中にあって、あらゆる生物と共存でき、科学や文明の進歩もそれを妨げることなく、人々の心は調和していて無意味な欲望や争いのない理想的な社会。そして、そのユートピアをつくるために、人間は一生懸命仕事をしているのだと考えるのです。そして、あなたがどんなにつまらない、もういやだと思っている仕事でも、ユートピアの建設のためにはとても必要なもので、あなたはその仕事をする役目でこの世に生まれてきたと思ってみてください。犯罪となるようなものは別ですが、どんな仕事だってこの世に必要な、大切なものなのです。決して、お金をもらうだけが仕事の目的ではないということです。
また、直接外からお金をもらうわけではないのですが、毎日の生活に欠かせない仕事があります。それは家庭での仕事、家事です。この家事というのは、他ならぬ自分の家、毎日食事をしたり寝起きしたりする場所での仕事なのですから、これがきちんとできているかどうかということが、家族の精神状態、健康にも影響してくる、とても大事な仕事です。また、自分たちが我慢しさえすれば、そう他人に迷惑がかかるわけでもないので、手を抜こうと思えば抜くこともできる仕事かもしれません。しかし、この家事をおろそかにすると、家族はいつも気持ちのどこかで我慢しているわけですから、イライラがつのってきて、家庭の不調和の原因にもなるのではないでしょうか。そして、この、家庭のあり方がユートピアの建設には多大な影響を及ぼします。家庭というのは、人間社会を構成しているひとつの単位で、これがたくさん集まって社会ができています。そして、家庭では夫婦や親子、兄弟などのさまざまな愛が生まれます。この愛が集まり、輪をつくってどんどん大きく広がっていくと、やがては人類愛や、万物に対する愛へとつながるのです。そして、この愛があってはじめて、私たちが目指すユートピアが実現するのです。ですから、家庭における家族の調和というのはとても大切で、調和のとれた家庭こそ小さなユートピアであり、この愛のカタチが、人類がつくろうとしている理想的な社会の基本になるのです。
十四、霊について
この項は、私が全く体験していないことに触れますので、大部分、私が書物で得た知識の受け売りだと思ってください。ですから本来、私がここで語るべきではないことかもしれませんが、私が今まで述べてきたことは基本的に、霊、あるいは霊界の存在を仮定することによって成り立っていますので、敢えてお話ししておこうと思ったわけです。
私は最初に、もしあなたが死んでしまってもあなたの意識があったら、という仮定をしました。あなたは自分の死体を見ていて、あなたに残されたのはあなたの『心』だけ。その『心』のみが他ならぬあなた自身で、その心の豊かさの度合いが、それ以後あなたの行く世界を決めるのだといいました。そのあなたの心=意識を、宗教的には『霊』と呼びます。そして、その霊が住んでいる世界が霊界です。霊界は、心の豊かさのレベルによって、何段階にも別れています。高級な霊になればなるほど、自我を捨て、あらゆることに欲望や執着を持たず、怒ったり、恨んだり、愚痴を言ったりすることもなく、ただただ低レベルの霊たちに愛を捧げ、指導し、救ってやろうとされているそうです。しかし、霊となってからもこの3次元世界に執着を持ち、自分の財産や地位にしがみつこうとしたり、あるいは生前に人を傷つけ、踏み台にしたりしておきながら未だに自分の過ちに気付かず反省できない、自己中心的な低レベルな霊。そういう霊は、低級霊の中でも最低の地獄界をつくり、自分と同じような霊の間で苦しんでいるそうです。だいたい、3次元世界に時々顔を出し、生きた人間に怖がられたり、インチキ宗教家にとりついて、信者から金をだまし取ったりしている霊はこの手の低級霊のようです。しかし、そういう霊でも自ら反省することによって地獄から脱出し、だんだん上の霊界に上がっていくことができます。そして、ある程度のところまでくると、心の修行のため、またこの3次元世界に肉体を持つことになるのです。勿論、地獄を経験した霊に限らず、この世にはさまざまな段階の霊が生まれてきます。だから修行になるのです。場合によっては人類救済のため、釈迦(ブッダ)やイエス・キリストのような超高級な大指導霊も、この世に肉体を持つことがあります。そして、霊がこの世とあの世を行き来して生まれ変わることを、『転生輪廻』といいます。
そして、たとえブッダやイエスのような大指導霊でも、この世に肉体を持った途端、すべての過去の記憶は意識の奥深くに潜在され、表面的な意識は白紙になります。そして成長するにつれ、やはり肉体の五感に振り回されながら、さまざまな欲望や、快楽の誘惑の渦中で修行をしていきます。しかし、さすがにブッダやイエスほどになりますと、暫くして人生に疑問を感じ、自ら悟りの道を開いて、指導霊との交信ができるようになります。そして、自分の使命を改めて認識し、衆生を救いの道に導いていくようになるのです。
この世とあの世は離れているようで実はとても近くにあります。また、この世からあの世は見えませんが、あの世の霊は、この世を見ています。そして、この世の人間が悪い想念を抱くとあの世の悪い霊界に通じてしまい、悪霊が寄ってきて、場合によってはその人間にとりついてしまいます。とりつかれた人間は性格が変わってしまったり、病気になったりするそうです。想うことには、よくよく気をつけたほうがいいでしょう。
十五、宗教とは
さて、ここで宗教というものについてお話ししておきましょう。本来、宗教とは、この世を生きていく人間に、生きる目的を教え、正しい生き方とは何かを導くものでなくてはなりません。そして、その指導者は、だれにでも分かりやすく、万人を平等に救っていくことができなくてはいけません。ですから、それは学問的で難しく、一部の人にしか分からなかったり、単に儀式だけが目的ではならないはずです。昔、ブッダやイエスがこの世に出たときは、聞く人それぞれのレベルにあわせて法を説いたので、その教えは誰にでも分かりやすかったそうです。しかし、彼らが地上における肉体から去った後、その教えは語り継がれるに従っていろいろに形を変え、あるいは学問的になり、真意が伝わらなくなってしまったのです。そして現在では、ほとんど儀式という形でしか残っていず、中身のないものになってしまいました。人々は経文の意味すらも理解できない、末法の世と化してしまったのです。現在、この世にはさまざまな宗教が数えきれないほどあります。中には、ちゃんとした教えを説いているものもあるでしょう。しかし、先程も申しましたように、悪霊にとりつかれた、危険な宗教も数多くあるのです。そういう宗教にのめり込みますと、自分はおろか家族まで底知れぬ不幸の道にひきずり込んでしまうことにもなりかねません。そうなるくらいでしたら、下手な宗教は持たず、自分だけを信じて生きていくほうが、よほど賢明な生き方と言えるかも知れません。では次に、そこら辺のところを考えてみましょうか。
十六、他力信仰では救われない
つまるところ、宗教というものは自分自身の心の問題です。本人が行ないを正したり、反省したりしない限り、まわりがどう頑張ってもなんともならないのです。そして、いくらキンキラキンの仏像に向かって拝んだり、意味も分からないお経をあげたりしていても何にもなりません。ですから、「とにかく神様を拝んで、何でもお願いしなさい。そうすればあなたの欲望は満たされるでしょう」とか、自ら教祖と名乗る人が、「私が神です。私を信じなさい。他のは全部インチキだから目を向けてはいけない。大神殿を建てるからお金を沢山出しなさい」なんて言っている宗教は間違いなく低級霊のとりついた危ない宗教です。そういう類を、どうも変だと思いながらもずるずると信仰していますと、財産を全部取られた挙げ句に悪霊にとりつかれてしまうのがオチです。そして、この末法の世での宗教のイメージは、悲しいかな、そういったとんでもない宗教によってつくられたものになってしまっています。
本当の宗教というのは、正しい心のあり方、生き方を教えるものでなくてはなりません。そして自分の心や行ないを正すことが周囲との調和を生み、やがては全宇宙の大調和につながっていくのです。ですから、自分だけの利益や欲望のために神頼みするなんていうこととはまったくの対極にあるのです。他力信仰では決して救われない。自分自身の心で反省し、正しい生き方を見つけていくことです。その手助けをするのが宗教なのです。
十七、あの世は、あるかないか
「あの世は、あるのかないのか」このテーマは結構、人間社会で意見が別れます。また、霊的な現象に関して「私は信じる、私は信じない」なんていう討論はテレビなどでよく見かけます。しかし、私に言わせれば、そんなこと話し合うこと自体、ナンセンスだと思います。私は、私がお話しする上で仮定してきた、霊や霊界、あるいは神の存在をあなたに信じてもらおうと思っているわけではありません。私自身、自分が体験したことではないのですから、そういう意味では頭から「ある」と信じているわけではないのです。ただ、私は「ある」と思ったら、自分がそれまで悩んできた人生に対する疑問がするすると解けたので、あるのではないかと思っているだけです。そして、現実は「ある」か「ない」かのどちらかでしかありません。3次元の人間が、あるとかないとか論争して、たとえ一方が相手を言い負かしたところで、現実は変えようがなく、あるなら「ある」し、ないなら「ない」のです。ですからそんなこと人間同志が、おれはこう思うなんて話し合ったって無駄な時間を使うだけです。大切なのは、どう考えれば自分が素直に、苦しまず、この人生を有意義に生きていけるかということです。ちょっと心配なのですが、「あの世は絶対にない」と言い切る方、ひょっとしてあなた、あの世があっては困るような、やましいことをしてきたのではないですか。だったら一刻も早く過去の過ちを反省すべきですが、そうでないなら、あの世があろうとなかろうと、そんなことどうだっていいじゃないですか。
あとがき
いろいろとお話ししてきましたが、最後に、私をこのような考えに導いてくれた本をご紹介しておきます。私が今までいろいろと述べてきたことは、これらの本に書かれていることを基本に、私なりの解釈を加えたものです。そして、私がこういうものを書こうと思い立ったのは、これらの本を手にとっていただく前段階として、とりあえず宗教というものに対する誤解を解き、興味を持っていただこうと思ったからです。と言っても私は出版社からお金をもらっているわけでも、著者と知り合いなわけでもありません。また、私自身が悟りを開いたわけでも、霊界と交信できたわけでもありません。ただ、私はこれらの本を読んで、それまで考え続けていたいろいろな疑問が解けたし、悩みが解消されて、とても生きていくのがラクになりました。ですから、もし私と同じように日々、人生に疑問を感じている人がいたら、是非これらの本をおすすめします。そして、私はここで敢えて、宗教団体に入ることはおすすめしません。私がおすすめしたいのは、これらの本を糧として生活することまでです。これらの本を書かれた高橋信次氏はもう亡くなられています。
あなたが正しい心のあり方、生き方を発見し、毎日を楽しく送られるよう祈っています。
一九九二年十一月十六日
高橋信次・心と人間シリーズ
心の原点…失われた仏智の再発見
心眼を開く…あなたの明日への指針
心の指針…苦楽の原点は心にある
心の対話…人のことば天のことば
人間・釈迦
(1)偉大なる悟り (2)集い来たる縁生の弟子たち
(3)ブッダ・サンガーの生活 (4)カピラの人びとの目覚め
悪霊
(1)あなたの心も狙われている (2)心がつくる恐怖の世界
愛は憎しみを越えて
原説・般若心経…内在された英智の究明
心の発見…現証篇・科学篇・心理篇
天と地のかけ橋三宝出版