「感動伝授手習鑑」 序幕/二幕目/大詰より抜粋

大詰 師弟の別れ涙河の場
                   
           取材…翔編集部          





2000年の春、京都造形芸術大学の副学長に就任された猿之助さん。さらに2001年春に
は大学自前の劇場『春秋座』が開場します。それらへの道は、1992年5月26日〜6月3日
にかけ開講された、第一回の公開講座、伝統芸術演習・歌舞伎集中授業が始まりでした。
以下の記事は、第一回集中授業最終日の夕刻、、生徒発表会終了後に能楽堂周辺を舞台
にして繰り広げられた感動の一大クライマックスシーンの再現です。《しつこさ》が身上の
『翔』らしく、走り回り、聞き集めた話の断片の数々を丹念につなぎ合わせて みたところ、
果して見えてきましたねェ、噂の「涙の別れ」の一部始終とやらが ……





□ 教えるとは共に希望を語ること 学ぶとは真実を胸に刻むこと




6月3日、午後5時。生徒発表会が全て終了すると、衣装、かつら、小道具等はすばやく数十個の荷物に纏め上げられた。数時間後には猿之助先生以下全員が早くも学内を去るのだ。

思い出多い授業との別れを惜しみ、中々立ち去る気配をみせなかつた学生たちもあらかたは姿を消し、ここ一週間は熱に浮かされたかのような空気に満たされていた直心館周辺も、黄昏の中、みるみるコンクリートの地肌もあらわな元のガランとした空間に戻りつつあった。
やがて瓜生山より望める、西山の連なりの向こうに陽が落ち、燃えるような夕焼けが始まった。間もなく能楽堂では、今回の授業に携わった先生側(猿之助以下役者一同)と、学校側(理事長、学長以下教授、職員等)との送別の宴か催されるという。
と、どこからともなく現れた学生の一団。おそらく男女合わせると30名近くはいると思われる。名残惜しさに耐え切れず、「せめてもう一度お別れを…」といった思いにかられ、三々五々と集まって来た者達ばかりなのだろう、手に手に花束を携えていた。
そして間もなく、パーティ会場のテラスに面したガラス戸側一面は、彼らの姿で埋め尽くされたのである。

別れを目前にたたずむ学生達の思いとは裏腹に、会場内は明るく華やいでいた。ガラス戸はどれもみな開け放たれていて、テラスにいても中の有り様は、人々の様子ばかりか、話し声や物音までもが手に取るようにわかる。
やがて理事長、学長の挨拶が終わり、続いて「一言を…」と猿之助先生が挨拶に立った。

まず、「私は歌舞伎を通して感動を伝えたいとこの学校にやって参りましたが、その通り感動を分ち合うことが出来たと思います。
たった一週間の授業、発表会の演技に至っては僅か三、四日の稽古しかありませんでしたが、みんなが一生懸命にやった結果、立派な成果を収めることが出来たことに、私も感動するとともに、大変嬉しく思っています」というような挨拶があった。続けて先生はさらに数通の手紙を取り出した。そしてテラスで聞き入る学生達に聞かせようとするかのように、ゆっくりと読み始めたのである。
それは、早くも先生の手元に届いた、一般受講生からの集中授業に対する感想を綴った手紙であった。
『涙が出る程感動しました。私もこの大学の学生になりたかった』
『講師陣ばかりでなく、学生達のすごい真剣さにもうたれました』『発表会では、舞台から発せられる膨大なエネルギーと、その気迫に押されるように舞台を見守る人々との思いが一つになって、舞台としても、いい、最高のものになっていたと思います』etc

読み終えると猿之助先生は、外にいる学生達に向かって言った。
「皆さんも一生懸命になったら、こうして実際に人を感動させることが出来たんです。あなたたちは、感動を与えたんですよ!」と。

すると、まるでその言葉が合図ででもあったかのように、学生達の間には、さざ波のようにすすり泣きが広がり、それはあたかも夜の気配ただよう瓜生山の空気と溶け合って、パーティ会場となっ能楽堂一帯をスッポリと包み込んでしまったかのような有り様となった。

やがて、学生達の思いに打たれた学校側の計らいで、花束贈呈と学生代表の挨拶が許され、弁慶を演じた宮本佐知子が進み出た。
彼女は、手にしたメモに時々目を落としながら、一つ一つの出来事を思い出し、噛み締めるように話し始めた。
日々、新しい発見と感動に包まれていたこの一週間がいかに充実していたか。
全員がどれほど結束し、一生懸命になり、キラキラ輝いていたか。
毎日学校に来ることが、どんなに楽しかったか等々について。 そしてついには「いつまでも、いつまでもこの時が続いてほしい!皆さん、帰らないで下さい。お願いだから帰ってしまわないで下さい!!」と、こらえ切れなくなった思いをぶつけるかのように絶叫したのである。

彼女は泣きじゃくっていた。テラスを埋め尽くした学生達も、幼児のように、泣きじゃくっていた。こうして会場の内と外は、いつしか名残を惜しむ涙で溢れかえり、猿之助先生以下、集中授業に携わった役者一同、また、その信じられないような光景を目の当たりにした大学関係者も、思わず込み上げる熱いものを抑えることが出来なかった。
そして、「なんや〜、あんた、もう泣きなやァ…」という学長のユーモラスな一言に、機転の名言「弁慶にも泣き所はあるんです」を返して、宮本佐知子は堰を切ったように泣きじゃくりながら学生達の方に戻って行った。
学生達をじっと見つめる猿之助先生の瞳の奥には確かにキラリと光るものがあり、弥十郎、段治郎の目からも涙があふれ出た。そして右近は、自分に言い聞かせでもするかのように「この感動を忘れてはいけない、忘れては…」と、何度もつぶやくのだった。続いて花束贈呈が行われ、それが終ると学長は学生達に退出を促した。「いつまでいても名残はつきないんだから…」と。

しかし学生達の胸には、ただ立ち去りがたいという思いだけがあふれかえっている。言われるままにパーティ会場を出てはみたものの誰一人帰る者もなく、テラスから能舞台の方に向かって全員がゾロゾロと移動しはじめた。
と、「見て、見て ! ! 」と誰かの声 ! !
振り向くと、居並ぶ役者達もいっせいに立ち去る学生達の後姿に向かって、いま手渡されたばかりの花束を手に手に高くかかげ別れを惜しんでいるではないか。
それがまたさらに学生達の涙をさそい、足を引きとめ、彼らは能舞台を下りたすぐの所に、或いはその近辺にと会場の華やぎが垣間見える辺りに腰を据えてしまった。中に入れなくても、せめて会場の雰囲気が伝わってくる場所にいて最後の別れを惜しみたいという思いからである。
そのうち、彼らに気付き思わず会場を飛び出した弥十郎は、アルコールが入っていたせいもあるが、目を真っ赤に充血させて近付くや彼等にに言った。
「俺、こういうの弱いんだよなァ…俺は大学行ってないし、大学生ってのが嫌いだったんだ゙。ちっとも勉強しないで遊んでばかりいるのが多いだろ。けど、お前ら見てると…好きになっちゃったよ〜」と。たちまち弥十郎の周りには人垣が出来、学生達はまた“ワーッ”と泣き出した。
やがてそんな光景を見かねたのか、「お前たちはしょうがないなァ…。もういいから入んなさい」という言葉が聞こえ、学生達は歓声とともに再びパーティ会場へと戻って行った。
それからの約一時間は双方にとって、ともに食べ、飲み、思い出を語り、或いは記念写真をとり、というこの上なく楽しいひとときとなった。
  
そしてついに八時十五分。八時後五十六分発の新幹線に乗るにはもうギリギリのタイムリミットである。とうとう席をたつ時がきた猿之助先生たちは、、能舞台への通路の両側に居並んだ大勢の学生達で図らずも出現した花道を、自然発生的に沸き起こった『蛍の光』の歌声と拍手の中、一人また一人と去っていったのである。
おそらくこの夜の能楽堂での出来事は、正に感動的一週間の熱狂的アンコールとして、長く長く、学生たちの胸に、猿之助先生たちの胸に、いや、その場に居合わせた全ての人の胸に焼き付いて決して消えることはないだろう。










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