『翔』六号より
    ある 俳優論
               碇 知子




 古本屋で買った本を読んでいたら、次のような文章にぶつかった。ある劇評家が、ある歌舞伎役者を評した文だが、役者の名前を伏字にしておく。〇〇〇って誰だと思う?
(以下、本からの引用)

 『まず、長い間私が抱いている疑問を書いてみたい。それは、重っ苦しく心におおいかさる憂鬱な疑問なのだ。疑問とは、果して今日の名優〇〇〇が、歌舞伎を正しく演じて見せる人であるかどうかということなのである。
 もちろん、歌舞伎がひと頃より盛んになったという事実の前に、その原因の一部として、〇〇〇のもっている人気を無視することはできないだろう。しかし、〇〇〇が時として世界人の前に代表して立つところの歌舞伎は、仮に「〇〇〇歌舞伎」とでも呼ぶべきもので、正しい伝統を踏んだ技芸といっていいかどうかは、疑って見る方が正しいらしいのである。』(以下略)
別の文章ではこうも書いている。
 『それでも30年近く、彼は憩うことなく歌舞伎の伝統に対し、刃向かい通した。世間はいつの間にか〇〇〇に軍配をあげている。満々たる闘志はついに物を言ったのである。』『将を乗り越えて、広汎な沃野をかけまわろうと欲望するのは、駿馬なればこそである。

 自分の相を認識するためには、手を広げて、何でもかでも、ちょうど蚕が桑をはむようにむさぼっている〇〇〇を、その企画に同情する故に私は弁護しておく。(中略)歌舞伎の没落を、清盛ではないが扇をあげてせき止めねばならぬ大役を背負わされている彼にとって、道楽っけなどの存する余裕のない、真剣味を認めるのが正しい。
そしてこの文章は、こう結ばれている。
 『ともかくもすたれつつある古典を、全く新しい分野に救い出すだけの力が、彼にもとめられるものかどうか。〇〇〇の価値はやっぱり、その結果がはっきり決まるまで、きめることはできないのだろう。道を求めながら、かれはひとり歩みつづけて行くのである。傲然と胸を張りながら』

 〇〇〇って誰?
 ほとんどの人は、何を今さらと思いつつ、≪猿之助≫と入れるのではないかしら。確かにこの文章は今日猿之助について言われることにそっくりである。

 ところがこれは、昭和17年発行の、戸板康二著「俳優論」
(冬至書林)の中にある文章で、論じられているのは、
なんと、あの菊五郎なのです。
 六代目!!びっくりしたでしょ?本はもちろん伏字になん
かしてないから、私は六代目のことと知って読んだのだが、
にわかには信じ難かった。
 私は、2年前の義経千本桜で猿之助狂、歌舞伎狂に
なった新参者だけれど、以来、歌舞伎の本をいろいろ読み
あさった。そしてほとんどあらゆる本の中に、六代目菊五郎
の巨大な影を感じた。芝居の神様、名人の中の名人、ありと
あらゆる賛辞がささげられるこの巨人に、実を言うといささか
うんざりしてきて、「エラい人、素晴らしい役者だったってこと、

よおっくわかったけど、もう40年も前に亡くなった方でしょ。もういいかげんに六代目離れしてもいい頃じゃない?」と言いたくなっていた時に、この本に出会ったのだ。しかも著者は戸板康二さんだと言う。
 戸板さんってあの、「六代目菊五郎」を書いた人でしょ? あの本の冒頭はたしか、「僕は同じ時代に、六代目菊五郎といふ歌舞伎俳優をもち、彼の演技をある程度堪能したことを、生涯の幸福に思っている。」っていう、今でもあっちこっちで引用される有名な文じゃなかったっけ?狐につままれたような気分であった。

 この文章が書かれたのは、戸板さんがまだ22・23才の頃だろう。 若き気鋭の劇評家の、ある「気負い」が、すでに名人の名をほしいままにしていた菊五郎に、あえて異をとなえさせた、と思えないこともない。あるいは、俗にいう可愛さあまって、の苦言であったのかもしれない。だが、こういう声は確かにあったのだ。

 六代目菊五郎は、言うまでもなく五代目菊五郎の実子であり、九代目団十郎が自分の後継者として目をかけた人である。伝説的なこの二人の名優の、かけあわせが自分である。という自負が、この人の終生のささえだったと言われる。六代目は、この二人の先達の芸を、素直にそのまま受け継いだわけではなかったことが、前記文章を読むとわかるけれども、こうした超エリートの血すじが、彼の舞台での冒険を受け入れやすくした点も、あっただろうと思う。「菊五郎だから許せる」というふうに。もちろん、この若き戸板さんのように「菊五郎だからなお許せない」と息巻く人もいただろうけれども、結局六代目はそれらの人をもねじ伏せてしまったらしい。

 一方猿之助の方はどうだろう。祖父猿翁は一代を画した名優ではあるが、あくまで傍流の人だった。私がかつて読んで、一番憤慨した文章にこんなのがあった。
 『猿翁は、晩年、舞台で菊吉をもしのぐ名演技を示すことがあった。ところが彼には軽演劇とか、弥次喜多とかいうレッテルがあったために、時の批評家はその演技に正統な評価を与えなかった。猿之助は、その轍を踏まないよう、気をつけてもらいたい、云々』というのである。これはあきれかえるでしょ?責められるべきは猿翁ではなくて、くだらないレツテルに惑わされて正統な評価ができなかった当時の批評家だし、前者の轍を踏まないよう気をつけなければならないのは、猿之助ではなくて今の批評家であるはずなのに。

 よく歌舞伎は、正系をただして整備すべきだ、古態を厳密にたどるべきだ、とか言うけれど、歌舞伎の古態って何だろう、と思う。
 能が、神道とかかわりを持ち、 幕府や皇族などの支配層をパトロンとしていたのと違って、歌舞伎の相手はいつも庶民、移り気な一般大衆だった。だから、時代の流れにそって、歌舞伎もどんどん変わってきているはずである。明治の”団菊”が、まず、それまでの流れを大きく変え、六代目でまた変わった。その辺を飛び越して、幕末の小団次に戻ろうとする猿之助が、古態をたどっていないというのなら、古態というのは六代目のことかしら。

 しかし、冒頭の引用文でもわかるように、猿之助がしてきたことは、ある意味では六代目がしたことでもあるらしいのだ。この本の中で、さらに戸板さんは、『菊五郎は正しく名優ではあるが、歌舞伎のためには、決して有難い存在ではない、というのが、相変わらざる私の感想であった。』とまで言っているのですゾ。理由は、型が統一されていない芝居を、好き勝手な演出で混乱させるから、だそうだ。今日猿之助の歌舞伎について、似たようなことを言う人たちが、神様のようにあがめている六代目も、かつてこう言われた、とすると、正統な歌舞伎って、一体何だろう、とますますわからなくなってくる。

 歌舞伎の王道、とか正道とかいうものが、過去から未来へつながる一筋道としてドーンとある、と思うのが間違いなのじゃないかしら。卓越した、勇気ある役者が、教えられた道から一歩はずれて歩きだす。最初はけもの道のような、細い小さな道でも、大勢の客に支持され、後進がついて行って、やがてそれが本道になっていくって体のものじゃないかしら。あるいは、歌舞伎の真髄に至る道はたくさんあって、その中から自分に本当にあった道を見つけられた人だけが、そこに到達できるのかもしれない。それなのに今は、最初から本道が決められていて、少しでもそれようとすると、「そっちじゃないでしょ!」というヒステリックな声が先導者たちからとんでくるみたい。おかしな話だ。道は未来に続いていて、先のことは誰にもわからないのに。そして、そういう人たちは自分の気にいらない役者が人気があると、今度は客の方を槍玉にあげて、「衆愚」などと呼ぶ。何だというのだろう。歌舞伎は庶民のものじゃないのかしら?時代にあわせて工夫を重ね、それぞれの時代の庶民に愛されて、四百年の命を保ってきた演劇じゃないのかしら。

 私は十八歳の時、初めて歌舞伎を観て、寝倒した苦い経験がある。ほとんど寝ていたから、演し物も出演者も覚えていないのだが、最近になって、あれはいったい何だったのだろう、と気になりだし、調べてみた。ただ一つ覚えていた場面――主人公らしい女性が( 割と皺深い人だった ) 舞台で一人きりで、延々と、長い長い間泣いていた――を手がかりに。そしたらこれが驚いたことに、大成駒の『加賀見山旧錦絵』であった。


 歌右衛門と言えばもちろん人間国宝、現代最高の至芸の持ち主と言われる人である。本道中の本道。た゜けど十八歳の私にはちっとも面白くなかった。歌舞伎通の人から見れば、ハシにも棒にもかからないマヌケ、ということになるのだろうけれど、当時の私は、あまり利口ではないにしろ、文学や歴史の大好きな、ごく平均的な十八歳だったつもりなのだが。
 この話しを友人にしたら「あら、もったいなかったかったですねェ…」と非難の眼差しになった。彼女は「政岡」や「玉手」に感激して、歌右衛門に心酔しているのである。だけどだけど、彼女が芝居狂いになったきっかけは、猿之助の『小栗判官』だったのだ。私だって政岡は凄いと思うけど、いきなり観て、あの「飯炊き」の長さに耐えられる自信はない。
 いつだったか、ある高名な劇評家がTVで、「本当にいいものは一度観たくらいじゃなかなかわからないのだから、最初のうちは授業料払うつもりで何度か観ていただければ、きっとわかると思います」とかいう主旨の発言をしていて、私はその無邪気さと傲慢さに呆然としたことがある。TVが24時間体制で様々な映像を茶の間に送りつづけ、どんな田舎町にもレンタルビデオショップがあり、巨大レジャー施設は続々オープンし、つまり、日本中いたる所に暇とお金の受け皿たらんとするコマーシャリズムが大口開けてるような状況で、高いお金払って眠くても我慢して、お勉強しに劇場にいらっしゃいだってさ。
 この人にとって劇場は、古典芸能をお勉強する場らしい。そうして彼は、名教師のつもりなのだろう。何しろ、自分と観客の反応がくいちがう時は、いつも客のレベルの低さをなげくことで自分を正統化するという、並はずれた心臓の持ち主なのだから。
 だけど大多数の人は劇場に、お勉強しになんかいかない。夢を見に行くんじゃないのかしら。どんな娯楽よりも楽しく美しいゆめを見せてくれるからこそ、お金も払うし、遠くからでも足を運ぶのだと思うんだけれど。

 私は何も歌右衛門をおとしめようなどと、毛頭思ってはいない。長い間、最高に美しい夢を送り続けてきた方だし、歌舞伎に対する熱意も愛情も素晴らしいものだと思っている。いま一番歌舞伎を愛し、信じている役者は歌右衛門と猿之助、これはどこにでも書いてあることだし、私もそう思う。なのに片方が正で片方が邪、というような故ない差別は、いいかげんにやめてほしいと思うのだ。前よりはずっと減っているとは思うけれど、いまだに時折見かける、歌右衛門の芸のわかる人は、猿之助や、玉三郎のミーハーファンよりは人間が上等なのだよ、と言わんばかりの口吻に至っては、もううんざりである。

 私は猿之助に歌舞伎の面白さを教えられた。
 「本当の芸の分からない人は来ていただかなくて結構なんでございますよ」という感じで一度閉められた芝居小屋の扉を、彼が再び開けてくれたようにさえ思っている。だから私は六代目菊五郎との邂逅に感謝した戸板康二さんではないけれど、いまの時代に、三代目猿之助という歌舞伎俳優をもち、彼の演技を真直ぐな心と目で堪能できることを生涯の幸せに思っている。そしてこの思いはこれからもずっと変わらないだろうと、それだけは確信している。

 





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