第1章 社会問題を解決する
 1.テロを契機として世界を変える  2.愛を行う
 3.不打開する  4.最も優れた経済システムは何か?
 5.拉致事件を考える  6.美しい環境を創る
 7.ボランティア活動をする  8.自殺を予防する  
 9.新聞に対する要望 10.香田さんの死を悼む
11.地震対策はできているか? 12.9.11衆議院選挙 − 政党と有権者を評価する


 私たちは社会から離れて生きていくことはできません。もしも無人島に一人で生きていくことになったら、どうなるかを想像してみれば、明白でしょう。生きていく上で必要なものの大部分を、対価を払うにせよ、社会から受け取っている事実を認めざるを得ません。しかし、私たちが日々の生活で体験する不満、不快、悩みの原因のかなり大きな部分が社会にあることも事実です。このような社会問題の一部を取り上げて、その解決案を考えるのがこの章の目的です。

 また、自分と家族の平和の維持に努力するだけで十分で、他者のことを考える余裕はないし、必要性も強く感じないという生き方が間違っていることは、「愛を行う」でクジ引き理論として証明しました。

    1.テロを契機として世界を変える

           
           9.11テロで崩壊した世界貿易センタービルの跡地。犠牲者の名前も掲示されている(2005年6月撮影)

1.テロの背景
 2001年9月11日にニューヨークで大惨事を起こした多発テロに関して新聞やテレビは必ずしも全体的多角的視点から報道しているとは言えない。昔、中近東を旅行したとき、イスラエルや英国や米国がいかにひどいことをしてきたかということについて、ヨルダンではパレスチナ難民の青年が、また、イラクでは普通の市民が、一旅行者に過ぎない私(日本人なら理解してくれると思っているような雰囲気だった)をわざわざ自宅に招いて、熱っぽく語りかけてきた。

 今回のテロ事件を直接に起こしたのは、アルカイダという過激イスラム原理主義をとる国際的なテロネットワークに所属する人間である。しかし、何故、アルカイダのような組織とそれに共鳴する多くの人々が存在しているのだろうか? 911テロ事件を考えるときに忘れてはいけないのは、「事件を引き起こした背景の中に、窮鼠猫を噛むというような事実はなかったのだろうか? もしそうだとしたら、自分の利益のために相手を窮状に追いやった者は、何の責任も問われないのだろうか?」というような全体的多角的視点を持つことである。発展途上国の人々はアメリカという国をどのように見ているのかを知る上で、インド人が訴えていることは、テレビに登場する評論家の話と違い、現実感がある。
 
 テロの再発を防止するためには、厳罰や取り締まり強化だけではダメで、事件の背景にある極端な貧困や西側諸国の市場経済論理一辺倒による圧迫や国内の民主化の遅れなどの問題を解決する必要がある。貧困に対する欲求不満や怒りが、そのはけ口の一つとしてテロのような暴力行為を発生させるというのが真実の因果関係ではないだろうか。その意味で、今回のテロは世界の現状を皆が真剣に問い直す一つの契機を与えている


2.貧富の格差の実態 
 開発途上国(93か国)の極度の貧困を最も端的に示すものは、慢性的栄養不足人口(1日当りのエネルギー摂取量が体重を維持し、軽作業を行うのに必要な水準以下の人々)が 1988/90年に7億8千百万人で、これは総人口の20%を占めていて、年間1500万人が栄養失調で死んでいるという事実であろう。 

 世界の国々の貧富の格差はどれくらいあるのだろうか?世界全体の人口と国民総所得(GNI)の合計に対して、富める国と中位の国と貧困な国が占める割合は次のようである。(1997/2001年度の実績)


世界国勢図会より。   世界銀行は1999年から統計資料の国民総生産を国民総所得に変えた。
 
              1997年一人当りの国民総生産(GNP)     2001年一人当りの国民総所得(GNI) 
低所得国            785ドル以下                     745ドル以下 
中所得国の下位        786ドル以上,3,125ドル以下           746ドル以上,2,975ドル以下
中所得国の上位        3,126ドル以上,9,655ドル以下           2,976ドル以上,9,205ドル以下
高所得国            9,656ドル以上                    9,206ドル以上

 この統計で最も注目すべきことは、2001年の低所得国の人口は世界全体の41%なのに、彼らが享受した物やサービスは世界全体の3%に過ぎないという事実である。 また、低所得国の人口は1997年から2001年の4年間で、35%から41%に増えて、貧富の差がさらに拡大した。

ちなみに、G7諸国の一人当り2001年のGNI は以下の通りある。
日本:35,610ドル、アメリカ:34,280ドル、イギリス:25,120ドル、ドイツ:23,560ドル、フランス:22,730ドル、カナダ:21,930ドル、イタリア:19,390ドル、
これらは名目上の所得なので、日本人の実質所得は一番ではない。

ユニセフ親善大使をしている黒柳徹子は開発途上国の貧困について、次のような例を話している。
「美しいカリブ海に面しているハイチでは、長い間、独裁政治が続いたせいで、国民の80%が失業中。親は子供を育てていけないので、子供は家を出てストリート・チルドレンになる。大人が80%も仕事がないのだから、子供に仕事があるはずもなく、仕方なく女の子は売春をする。ハイチで売春している人の72%はエイズに感染している、という報告がある。これも貧しさからだ。墓地で売春していた小柄な12歳の女の子は、私に同行したテレビのカメラマンに「私を買ってよ」といった。「いくら?」と聞くと、「6グールドでいいわ」といった。日本円に直すと42円。「エイズ、こわくないの?」と聞いたら「エイズになっても何年かは、生きていられるでしょう?私の家族は、明日食べるものがないの」といった。この子は、42円で家族を養っている。私は言葉が出なかった。


3.貧困の原因
 開発途上国が極度の貧困から脱出して、経済的発展がなかなか進まないのは何故だろうか? その要因は国によって異なり、天然資源、気候、歴史、宗教、政治、経済システム、教育、交通など多くの要因が複雑に絡み合っている。それらの緒要因のうち最大のものとして、長い間西側諸国の植民地だったという他責のものと、民主主義と自由主義が行われていないという自責のものを指摘できる。植民地だった過去の歴史を変えることはできないが、民主主義と自由主義を普及することは為政者の意思でできる。

一国の国民総生産はその国民が持っている潜在能力をどれだけ発揮できるかに最も影響される。そして、それは民主主義と自由主義がその国でどれだけ普及・徹底されているかに最も影響を受ける。


 韓国や台湾も戦前まで日本の植民地だったが、現在は先進国の仲間入りを果たしている。植民地の後遺症を韓国や台湾が克服できたのに、インドやイスラム諸国ができないのは、やはり民主主義と自由主義の遅れによるところが大きい。インドのカースト制度にみられる階級差別やイスラム諸国の女性差別などは、国民全体の潜在能力の発揮をどれだけ阻害しているか計り知れない。

 他のアジア・アフリカ諸国と比べて、日本がこれだけ経済発展できた最大の要因は、明治維新と太平洋戦争の敗北という2度の契機によって、民主主義と自由主義が急速に普及して、一人一人が持っている潜在能力を十分発揮できる環境が整備されたことではないだろうか。

 同じ民族でありながら、北朝鮮と韓国、旧東ドイツと旧西ドイツの間に見られた大きな貧富の差は、民主主義と自由主義の普及度の差によるところが大きい。アメリカがヨーロッパよりも繁栄していることと、民主主義と自由主義がヨーロッパよりも、普及・徹底していることの間には密接な関係がある。
 
 アラブ諸国の場合、市民生活の自由度は、「ニューズ・ウイーク」2001/10/17号によると、以下のとおりである。(1=最も自由度が高い、7=最も自由度が低い)
モロッコ(4)、アルジェリア(5)、チュニジア(5)、リビア(7)、エジプト(5)、サウジアラビア(7)、イエメン(6)、オマーン(5)、クウエート(5)、バレーン(6)、カタール(6)、アラブ首長国連邦(5)、シリア(7)、レバノン(5)、ヨルダン(4)、イラク(7)、イラン(6)

 


4.開発途上国の貧困を解決する方法
(1)自由主義と民主主義の確立
 民主主義とは、「人民の人民による人民のための政治」(リンカーン)を実際に行うことであるが、発展途上国によく見られる一部の金持ちと多数の貧困層の二極化は、「人民のための政治」が行われていない証拠である。

(2)変革の推進
 テロ事件の容疑グループはイスラム原理主義の信奉者であると推定されているが、彼らは極めて保守的で変革を嫌っている。
 世界の経済の仕組みは、MITのサロー教授が指摘しているように、今、大変革期にある。このように激しく変化しつつある世界の環境の中で生き延びていくには、いかなる国家も自ら変わることが求められている。日本でも、変われなかった多くの大企業が倒産したり、苦境に立たされている。

(3)自立援助の強化
  ODA国連の援助が自由主義と民主主義の確立を条件として行われる必要がある。そうしないと、援助の効果がその場しのぎで一時的なものになってしまう危険がある。

本来なら、かって宗主国だった西欧諸国(日本も含む)が植民地時代に搾取したものを現在の金額に換算して、植民地賠償金として開発途上国に支払うべきである。しかし、植民地時代の搾取という不正を行った人々はすでに死んでいて、現在生きていて直接関与しなかった人々は先祖の償いをせねばならないという考えに同意できないかもしれない。だが、親が資材の一部を他人から盗んだものによって立てた家に住んでいる子供は、やはそれなりの償いをする義務がある。

(4)グローバリゼーションの陰をなくす 
 グローバリゼーションには光と陰があって、多くの開発途上国はこの陰に置かれている。
このグローバリゼーションの光と陰は、単純化して言えば、資本主義経済の功罪と重複している。資本主義は長所と同時に短所をもっていて、放任しておけば、貧富の二極化や恐慌や失業や環境破壊などの悪が生じるので、短所を除く努力を常にしなくてはならない。
 現時点では、人類はこの資本主義という経済システムよりも総合して優れたものを持っていない以上、もっと進歩した代替システムが登場するまでは、これを捨て去ることはできない。したがって、国連が中心になって、グローバリゼーションの陰をなくす政策を各国に実施させねばならない。

(5)世界連邦、地域連合の樹立
 国家間に貧富の差が生じるのは、同じ国の中で個人の間に貧富の差が生じるのと、本質的には同じような事情による。例えば、資源の豊かな国は、親から莫大な資産を相続した人に似ている。民主主義国家の内部では、富の再配分が政治の力によって行われるので、貧富の二極化は回避されているが、国家間では富の再配分を強制的に行う世界政府が存在していないので、貧富の差が放置されている。ODAのような先進国から発展途上国にたいする援助もまだ規模が小さいので、顕著な成果を挙げていない。

 戦争、極端な貧困、飢餓、環境破壊のように国家間の話し合いだけでは解決困難な問題に対処するために、現在の国際連合は決定的な力を持っていないので、世界連邦を樹立する必要がある。

 しかし、世界連邦政府を一挙に樹立することは難しいので、先ず第1段階として、EU(欧州連合)のような地域連合をアジアやアメリカやアフリカでも作り、各地域内では共通貨幣を使い、労働力の移動を自由にすることである。このような地域連合を作るだけでも、諸問題の解決は大きく前進する。ヨーロッパの将来の政治的統合については、ドイツは欧州憲法制定や大統領制などに基づく欧州連邦を、イギリスは国家主権の維持を、フランスは国家主権と強固な国家連邦の共存を提案している。いずれにせよ、ヨーロッパの統合のステップは世界連邦のモデルとして注目されている。

 アジアでも、日本が第2次大戦中、大東亜共栄圏を作ろうとして、侵略的性格のため失敗したが、その表向きの目的は、東アジアに地域的経済連合を作って協力し、欧米列強の植民地主義に対抗しようとしたものである。将来、高齢化少子化によって労働人口が減る日本に、隣国から労働者が自由に移動できれば、日本も隣国も経済的に豊かになる。このような動きは既に始まっていて、2002年1月13日に日本とシンガポールの間で自由貿易協定(FTA)が締結され両国間の貿易量の98%で関税が無くなったが、日本、中国、ASEANを中心とする東アジア経済統合圏も2010年ごろまでに誕生させようとしている。

また、キューバを除く南北アメリカの34カ国が2005年までに自由貿易協定(FTA)を成立させる合意を2001年に行っている。

アフリカでは、既に1963年に設立されたアフリカ統一機構(OAU)が発展して、アフリカ大陸の53カ国が2002年にアフリカ連合(AU)を誕生させた。そして、貧困・飢餓・内戦などの問題を解決するために、ヨーロッパの欧州連合(EU)を真似て、国家の枠を超えたアフリカ議会、裁判所、共同市場、共同通貨の構想を打ち出している。

以上のように地域連邦、世界連邦成立へ向けた現実の歩みは遅々としているが、世界平和を実現するための切り札はこれしかないのである。


5.ウサマ・ビンラーディンの発言

2004年10月30日の産経新聞の次の記事によると、ウサマ・ビンラーディンは9.11のテロ事件を起こしたことを初めて認め、その理由・動機として、パレスチナやレバノンに対する米国とイスラエルの不正義や、1982年にイスラエルのレバノン侵攻(レバノンの高層ビルが破壊された)をアメリカが承認したことを挙げている。

中東の衛星テレビ、アルジャジーラが29日に放映した国際テロ組織アルカーイダの指導者ウサマ・ビンラーディン容疑者の発言要旨は以下の通り。

 一、米国民に言おう。わたしのメッセージは新たな(ニューヨークの)マンハッタン(の悲劇)を繰り返さないための最善の方法や、戦争の因果に関するものだ。身の安全は人間生活の重要な一部であり、自由な人間は安全の確保をあきらめたりしない。

 一、われわれが自由を憎んでいるとブッシュ(米大統領)が言うなら、なぜわれわれは(米国を攻撃し、同じ自由の国)スウェーデンは攻撃しなかったのか説明せよ。

 一、ブッシュと同政権を相手にするのは難しいことではなかった。われわれの国々(イスラム諸国)の(抑圧的な)王政や軍事政権と同じだ。

 一、ブッシュは(中枢同時テロについて)本当の理由を隠し、国民を誤った方向に導いている。同じことが繰り返される理由がまだあるのだ。

 一、世界貿易センタービル攻撃(計画)はたまたま思い付いたわけではない。我慢に我慢を重ねて堪忍袋の緒が切れ、パレスチナやレバノン人民に対する米国とイスラエル同盟の不正義やかたくなな態度を目にした後に浮かんできたのだ。

 一、私が影響を受けた出来事は1982年にさかのぼる。米国がイスラエルのレバノン侵攻を承認した後のことだ。レバノンの建物が破壊されたのを目にし、同じやり方で不正な人々を罰するという考えが浮かんだ。米国の建物を破壊し、われわれが感じたことをあいつらにも感じさせ、われわれの子供や女性を殺すのをやめさせようと考えたのだ。

 一、ブッシュと同政権が気付く前に、20分以内ですべての作戦を実行し終えることで、実行犯のリーダー、モハメド・アッタと意見が一致した。

 一、安全はケリー(民主党大統領候補)でもブッシュでも(国際テロ組織)アルカーイダでもなく、おまえたち自身の手の中にある。われわれの安全を脅かさないすべての国は、安全を保障されるだろう。





  2.愛を行う

倫理的な愛の行為について、ここで独立させて取り扱う理由は、世界平和を実現するとき、あるいは、ペシミズムとニヒリズムと戦うときに、倫理的な愛の行為が大きな力を発揮するからである。

1.愛の種類
愛という言葉は、各人が状況に応じて、いろいろな意味で使っているので、一般的な定義をすることは難しいが、ここでは便宜上、以下のように愛の対象による分類を行い、考察を行うことにする。

(1)自己に対する愛。(自己愛)
(2)親、子供、兄弟姉妹、他人、動物、植物などに対する愛。
   − 倫理的な愛(思いやり)。
   − 倫理とは関係ない愛。 
(3)異性に対する情熱的な愛。
(4)特定の物事(真理、美、芸術、仕事、趣味、自然など)に対する愛。


2.倫理的な愛
「自分がして欲しくないことを、人にもするな」というを孔子は説き、「人に喜びを与え、苦しみを取り除け」という慈悲を釈迦は説き、「自分がして欲しいことを、人にもせよ」というをキリストは説いた。社会の中で人間が他者と共に生きるとき、最も大切なこととして三人が到達した結論は本質的には同じで、これらの言葉は普遍的な真理として受け容れられてきた。この言葉を倫理的な愛の行為の基準として採用すると、私たちの日常の行為が、倫理的な愛の行為か、愛に反する行為か、容易に判定できる。

 人は他者に対して何故、このように倫理的に行動すべきなのであろうか?その根拠を以下に列挙する。
1.最も身近な親に対する愛から出発して,その愛の及ぶ範囲を順次拡大してゆき、終極的には全ての人間を愛すべきであると孔子は考えた。
2.世界は、人間と自然、自己と他者というように分割され得ず、本来は一つのものであるから、自己と他者は対立しないで一体として調和すべきであるという自他不二の考えを釈迦は説いた。
3.神の本質は愛である。人間が神の子であることを自覚するなら、親である神に習って人間も愛の人になるべきであるとキリストは説いた。
4. 誰もが生まれながらにして自由、平等で幸福を追求する権利を持っている。したがって、他者に対して苦痛を与えることは、他人の自然の権利を侵害することになる。
5. 人々が倫理に反した行動をすれば、社会の秩序が失われて、誰にとっても大変に住みにくい世界になってしまうので、スポーツにルールが必要なように、社会にも倫理というルールが必要である。
6.クジ引き理論は私独自の主張で、別の項目とした。


3.ジ引き理論
倫理的な愛の行為が生まれるためには、その前に、「他者を理解する」ことと、「自分を他者の立場に置き換えて考えてみる」ことが必要である。各人が置かれている立場は、個々のケースで異なるが、自分が自ら選び取ったものや、生み出したものであるという面よりも、自分では変えられない他の様々な要因が偶然に積み重なって生まれた面のほうが強い場合が多い。つまり、偶然の運命次第で、人間は現在の自己の立場ではなく、他者の立場に置かれたかもしれないという可能性を、強く認識する必要がある。この認識ができるかどうかが、愛の行為を実践できるかどうかの分かれ道の一つになる。

 「生きがいについて」を書いた神谷美恵子は、ライ病患者の治療に献身的な活動を始めた動機を 「何故自分はライ病にならないで、あの人たちがライ病になったのだろうか? 自分の身代わりとして、あの人たちはライ病になったのである。」と説明している。 

これをクジ引き理論で説明すると、一万人がクジ引きをして、そのクジ箱の中にライ病のクジが一本入っていれば、誰かがそのクジを引かざるを得ない。そうすると、ある人がそのクジを引いてくれたお蔭で、残りの他の人たちはライ病を免れることができたことになる。だから、運悪くライ病のクジを引いてしまった人を、私たちは支援すべきだという結論が導かれる。

 このクジ引き理論は、いたるところで成立している。いかなる時代に、どの国の、どの親から生まれるかということ自体も、くじ引きと本質的には同じである。家畜に生まれること、戦争で命を失うこと、多数の餓死者が出るほど貧困な低開発国に生まれること、大きな障害をもって生まれること、失業することなどを考えるときも、クジ引き理論を適用できる。 これらの不幸に会う人や動物は自分には関係ないと思うのは間違いで、同じクジ箱の中から彼らがその悪いくじを偶然に引いてくれたおかげで、自分はそれを偶然に免れることができたに過ぎないと考えるのが正しい。自分もその悪いクジを引く確率は、その人と同じくらいにあったのである。何故なら、この世界ではそのように悪いクジが一定の確率でクジ箱の中に混じっているからである。もしも、この事実に気が付けば、彼らを無視し放置して、自己の利益だけに関心を持って生きることは間違いで、彼らを支援すべきであるということにも気が付かねばならない。


4.愛が与える人生の意味
 愛の行為は、その愛の対象にとって大きな価値があるだけでなく、行為者の人生に対しても深い意味を与え、宇宙全体に意味を与えることはできないが、個人のレベルでペシミズムやニヒリズムに打ち勝つことは可能である。その実証例を以下に挙げる。
 
 フランクルは「生きる意味を求めて」という著書の中で、次のよな患者との会話を載せている。

患者「遅かれ早かれ人生は終わり、その後には何も残らず、人生には意味はない」
フランクル「あなたが本当に尊敬できるような、そんな業績を成し遂げた人に、今までに出会ったことはありませんか?」
患者「わが家のホームドクターは素晴らしい人でした。彼が患者のためにどのように手を尽くしたか、どれほど患者たちのために生きたか…」
フランクル「そのお医者さんは亡くなったのですか?」
患者「はい」
フランクル「彼の生涯はおおいに意味のあるものだったのではないですか?」
患者「もし誰かの人生に意味があるとしたら、彼の人生には意味があったと思います」
フランクル「でもこの意味は、彼の生涯が終わると同時になくなってしまったのではないですか?」
患者「いいえ。決して。彼の人生が意味にあふれるものだったという事実を変えることはできません」
フランクル「もし患者が誰もホームドクターの尽力に感謝しなかったらどうでしょう?」
患者「あの先生の人生の意味は残ります」
フランクル「患者の誰一人として、それを覚えていなかったらどうでしょう?」
患者「それでも先生の人生の意味は残ります」
フランクル「いつか彼の患者だった人がすべて死んでしまったらどうでしょうか?」
患者「それでも、残ります」

 アメリカの自動車組立工場で働いていたヘンリー・スパイラは、「苦痛や苦しみに満ちた世界を変革するためには、どこで自分が最もよく活動できるか」と自問しながら、いろいろな活動をしてきた。化粧品メーカーのレブロン社がウサギの目に苦痛を与えて、自社製品のテストを行っていたのを糾弾し、遂に、10年後に動物を使用するテストを止めさせ、他のいくつかの化粧品会社もその例にならった。あるインタビューで、どんな墓碑銘を望むかと聞かれて、彼は「豆粒ほどのことをなした者ここに眠る」という言葉を挙げている。





  3.不況を打開する

新年おめでとうございます。2002年が皆様と、日本と、世界にとって良い年になることを心から願っています。 今回は年の初めにふさわしく、日本の社会から元気を無くしている不況の打開策をテーマとして取り上げ、失業者が減り、リストラの不安が小さくなる日が早く来るために、今、何をなすべきなのかという働く人間にとって最大の問題に焦点を当てて考えてみました。


1.不況の実態
 不況は不景気の同義語で、広辞苑によれば、不景気とは経済状態の沈滞状態で、物価・労賃の下落、生産の全般的萎縮、失業の増大などを伴う事態を指す。
バブルが崩壊した1990年から現在に至る日本経済は、正にこれに該当していて、土地の値段や株価が暴落し、デフレが生じ、金融機関も含む大企業が破綻し、リストラが当然になり、失業率が5%を超え、バブル時代には想像もしなかった事態が長く続いている。そして、これに対処する政府の施策はどれもうまく行かず、近い将来に明るい見とおしは持つ者は少い。2002年の日本経済の成長率は0%から−1%の間という予測が多いが、デフレスパイラル(物価が下がることによって売上が下がるプロセスが螺旋階段のように循環して景気がどんどん落ち込んでいくこと)による恐慌の発生を恐れている人もいる。
 民間調査会社の「マクロミル」が首都圏の男性サラリーマン約千人に行った調査によると、「あなたの会社ではリストラが行われているか」という質問に対する回答は、「現在行われている」が32%、「以前あったが今はない」が12%、「今後行われると思う」が30%を占めている。また、自分もリストラの対象となるかもしれないという不安を感じている人は36%を占めている。(2001年12月8日付読売新聞による)


2.不況の原因
10年以上も長引く不況の原因は複雑であるが、主要なものを以下に挙げる。 

(1)  バブル経済の形成と崩壊
いかにしてバブル経済(泡沫のように実体のない経済のことで、泡が膨らんだ後はじけるように、あるレベルまで土地や株の価格が急激に上昇すると、その後はまた急激に下がって行く)が形成され、そして、崩壊したのだろうか?
 1980年代、不況と貿易赤字に苦しむアメリカは輸入を減らすため、1985年にG5(先進五カ国)にドル安になるように依頼した。各国はそれに協力して為替相場を意図的に変動させ(プラザ合意)、日本でも1ドル=240円(1985年)が1ドル=120円(1987年)というようにドル安円高が急速に進んだ。その結果、輸出産業は同じ製品を同じ価格(例:100ドル)で売っても、円の収入は24000円から12000円に減少したので、経営が悪化して円高不況が起きた。

 円高不況に対処するために、日銀は公定歩合を5%(1986年)から2.5%(1987年)に引き下げたので、それに伴い銀行の金利も下がった。その結果、企業、不動産業者、投資家、個人は銀行から借金して、金利よりも高い値上がり率が期待できる土地や株を競って購入したので、土地や株の価格は急激な上昇を続け、本当の価値や実態とかけ離れた裏付けのない高額になっていった。このような現象をバブル経済と呼んでいる。

 バブルによる地価や家賃の高騰のため、住宅の取得や家賃の負担が困難になった人々が増えた。このような地価の上昇を抑えるために、不動産投資のために銀行が融資できる金額を一定限度以内に決め、それ以上は金を貸さないという不動産総量規制を政府は1990年に実施した。投機のために借金して土地を買う動きを抑えるために、日銀も公定歩合を2.5%から6%に引き上げた。この施策によって、土地の買い手が減り、不動産業者は借金して買った土地を持ちつづけることは金利の支払い負担が大きいので、土地を売りに出した。この結果、1990年以降、土地の値段は下がりつづけた。これがバブルの崩壊である。

(2) 不良債権処理の遅れ
 バブル期に土地や株を担保にして企業に多額の融資をしていた銀行は、バブル崩壊後、企業が借金を返済できなくなったので、不良債権(貸した金を返済してもらえないこと)を抱えることになった。土地や株の値段が下がり始めたときに、銀行は担保の土地や株を売却しておけば、小さな損害で済んだのに、土地も株もまた値上がりするだろうと楽観して保有していた。しかし、その後、土地も株も下落を続けたので、銀行の損失は甚大になり経営が悪化して行った。

(3) 銀行の貸し渋り
 欧米や日本の銀行間で金の貸し借りをするとき不健全な銀行とは取引できないので、「国際業務を行う銀行は、自己資本比率を8%以上に保つ必要がある」という国際規定(BIS規制)が1990年代につくられた。自己資本比率=自己資本/総資産(貸し出し、債券)=8%=1/12.5 これは、自己資本の12.5倍までしか貸し出せないことを意味している。そして、自己資本の中には、所有株式の含み益(購入時の値段と現在の値段の差)の45%を含めてもよい。その結果、景気のよいときは含み益が増大するので、たくさん貸し出せるが、不景気になって株価が下がりつづけ含み益が減って自己資本が小さくなると、貸し出しを減らさざるを得なくなる。このために銀行から借金が出来なくなった企業の資金繰りが難しくなり経営が悪化して行った。

(4) 企業の過剰人員、過剰設備、過剰債務
 バブル期に社員を増やし、借金して土地を買ったり設備投資した企業は、バブル崩壊後に経営が悪化して、過剰の社員と設備と債務を抱え込むことになったが、その整理がまだ完全に済んでいない。また、バブル期に他社株の値上がりに惹かれて投資をしたが、バブル崩壊後に株価が暴落して大損をし、借金を返済できなくなった企業もある。

(5) 供給と需要のアンバランス
 不況の最大の直接原因は、社会全体で供給が需要を上回り、そのギャップが長い間続くことである。すなわち、生産したものが売れないで過剰になるために、企業は生産を縮小し価格を下げるが、それでも生産と消費がバランスしない場合は、企業はさらに生産の縮小と値下げを行うので利益は出なくなる。その結果、株価は下落し、人員の削減が行われ、倒産が起こり、失業者が増える。(デフレスパイラル)

 それでは、日本の場合、供給(生産)と需要(消費)がなかなかバランスしないのは何故だろうか? 需要(販売先)は国内と海外に分けて分析する必要がある。先ず、国内市場の場合、国民の所得そのものは、ほとんど低下していないので、金がないから買わないのではなく、貯金や金融資産に金を廻しているのである。その主な理由として、第一は、将来が不安で、生活が苦しくなったときのために、今は消費を控えて貯蓄すること、第二は、すでに間に合っているものは値段が安くなっても新しく買う必要がないこと、第三は購買意欲をそそるような新しい魅力的な商品やサービスがないことを挙げることができる。

 海外市場の場合、最大の輸出先であるアメリカで今までは幸いに好景気が長く続いたので、大きな問題はなかった。しかし、テロ事件、ITバブルの崩壊などによって、今後の見とおしは明るくない。


3.不況の打開策
 一方で消費が増加し、他方で生産者側の努力と調整が行われて、社会全体で、供給(生産量)と需要(消費量)がバランスをとるようになり生産が回復すれば、失業者も吸収されて不況は終わる。そのような状態に持っていくには、不況の打開策として具体的にいかなる施策が必要であろうか?さらに、その不況の打開策を考えるときは、グローバリゼーションによって世界経済が一体化しつつある環境の中で競争に生きぬくために求められる変革も視野に入れなければならない。

(1) 不良債権問題の解決
 過剰債務を抱えた企業が再生するまで今後も支援を続けるのか、再生の可能性がほとんどないところは支援を打ち切るのかについての問題を今までのように先送りすることはもはや許されない事態なので、銀行は最終決断を迫られている。また、今まで過保護だった銀行がもっと徹底したリストラを行うことも求められている。

(2) 銀行への公的資金の投入
自己資本比率を8%以上に保つという国際規定(BIS規制)を守りながら、銀行の貸し渋りを改善するために、政府は60兆円の公的資金を暫定的支援処置として銀行の自己資本に投入した。

(3) 構造改革
■  企業内部の構造改革
 人員削減をリストラと呼ぶ場合が多いが、リストラクチャリング(Restructuring)の本来の意味は事業の再構築、構造改革である。第一にやるべきことは、バブル期に抱えた過剰な人員、設備、債務の整理の先送りを止めて解決し、収益性を高めることである。そのためにはリストラされる人の受け皿(再就職先)を用意する必要があるが、それができない場合は、人員を減らす代わりに、一人当りの労働時間を減らして賃金を減らすことにより会社全体の人件費を減らすワークシェアリング(少なくなった仕事を従業員が分かち合うこと)の実施が必要である。アメリカのように労働市場の流動性が高く景気がよい国では容易に再就職できるが、日本のように労働の流動性も低く景気が悪い国では再就職先を見つけるのは難しいので、ワークシェアリングが適している。経営上の失敗の責任を経営者が取らないで、自殺者が出るほど従業員の一部に犠牲を払わせて、残りの人は無傷というやり方よりも、景気が回復するまで皆で痛みを分かち合うというやり方の方が公平である。

 第二にやるべきことは、選択と集中で、成長性が高く、かつ、得意な分野を選択して、そこに経営資源を集中することが、激しい競争に生き残るために企業に求められている。 したがって、非成長部門は廃止するか縮小することになるので、そこの従業員は、成長部門に異動するか、リストラされることになる。この選択と集中をうまくやらなかった企業は、うまくやった企業との競争に敗れて、存亡の危機という厳しい現実に直面することになる。 

 社会全体の構造改革
 構造改革という言葉は、行政改革、経済構造改革、財政構造改革、金融システム改革、社会保障改革、教育改革などの総称で、古い社会に合わせて作った様々な仕組みが、新しい社会や世界の大きな変化に合わず、うまく機能しなくなったので、見直しを行って改革することを目的としている。 

 経済構造改革の中で一番重要なことは、社会全体の需要と供給のバランスを図りながら経済成長を達成するために、非成長産業を縮小し、成長産業を拡大することである。そのためには、人、金、物という資源を非成長産業から成長産業に移動する必要があるので、非成長産業の企業の倒産、縮小、人員削減が行われ、関係者にとっては大きな痛みを伴うことになる。

 したがって、その痛みを小さくするため、失業者の受け皿を用意したり再就職を支援する施策(セーフテイネット)が同時に必要である。国民の最低限度の文化的生活を憲法で保障しているので、雇用の維持は政府の最優先政策である。
憲法第25条【生存権,国の社会的使命】(1)すべて国民は,健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する。(2)国は,すべての生活部面について,社会福祉,社会保障及び公衆衛生の向上及び増進に努めなければならない。
したがって、政府はセーフテイネットの整備を十分にできないならば、失業者の増大を防ぐために、企業に対する行政指導でワークシェアリングの導入を図る必要がある。非成長産業を縮小し、成長産業を拡大するという構造改革の推進に対して、このワークシェアリングの導入が障害にはならないことを、既に導入して良い結果を生んでいるヨーロッパ諸国が実証している。

(4) 消費の増加
■ 消費者にとって魅力があり、成長性もある新しい商品・サービスを開拓・創出することによって、新たな需要(消費)を創造する。
 新しい商品・サービスとは今までにないもの(例:携帯電話。ウオッシュレット)であるが、その中には現在あるものの改善(例:パソコンにテレビ受像機の機能を組み込んだもの)も含まれる。このようなものが販売されれば、貯金重視の消費者も財布を開けるのである。ただし、消費の増大を考えるときの前提条件として、地球の有限な資源を節約することや環境破壊に関与しないことを忘れてはいけない。

 アメリカが不景気の1980年代を脱出して、好景気の1990年代を迎えることができたのは、ベンチャー企業が情報産業の分野で新しい魅力的なビジネスを開拓したことによるところが大きい。アメリカのように最優秀な学生は大企業や官庁に行かないで、ベンチャービジネスに行くというような風潮が日本でも生まれるように、社会構造と資本調達方法と教育を改革することが望まれる。

■ 労働市場の流動性を高める
 三人に一人がリストラの心配をしているのだから、将来のために彼らが消費を控えて貯蓄に励むのは自己防衛上当然であり、そのために社会全体の消費が大きく減退し、時間が経過しても回復しないのである。

 日本では給与レベルの高い中高年者がリストラの対象になるが、失業した場合に彼らが再就職するのは容易でない。その原因は、第一に、大企業の採用は原則として新卒者を中心に行われ、既卒者の採用はまだ例外的少数である。第二は既卒者を採用する場合でも、中高年者は敬遠される。第三に大企業と中小企業の所得格差が甚大である。したがって、アメリカのように労働市場の流動性を高めて、年齢による障壁をなくし、大企業と中小企業の格差という二重構造を改めることが求められる。今後は不況が終わった後も終身雇用制度が崩れて、アメリカのレイオフと同様の雇用調整が恒常的に行われるのであれば、失業者が再就職しやすい環境整備(セーフテイネット)が必須である。

 民間企業がこれをできないならば、政府や地方自治体が自ら成長産業(情報、福祉など)の事業を起こして、失業者に職場を与え、軌道に乗ればそれを民営化するような施策が必要である。

 老後の社会保障を充実する。
 人は定年になったり、定年のない職業でも働けなくなれば、退職して収入が無くなるので、職業に従事している間に、現在の活動資金だけでなく退職後の生活費も準備しておかねばならない。現代の日本のサラリーマンを例に取ると、退職後の生活費の主要な原資は、遺産相続のようなものを除けば、公的年金と退職金の2本柱であるが、これだけでは余裕がないので、貯金が必要になる。

 そして、自分がいつ死ぬか分からないので、結果から見ると必要以上の貯金をして、生きている間に全部を使わないで残すことが多い。したがって、貯蓄を減らして消費にまわすためには公的年金の充実が求められるが、今は逆行していて、公的年金が将来破綻する心配を持たれていて、人々は自己防衛のため消費を抑えて貯蓄に励んでいる。

 バブル崩壊前までの日本人は一億総中流意識を持っていたが、この10年間に所得格差が拡大している(最近の調査によれば、日本はアメリカよりもやや平等であるが、ドイツやイタリアよりもはるかに所得格差が大きいそうである)ので、老後の準備を個人の貯蓄に任せる政策は、拡大している貧富差を死ぬまで存続させることになり、富の再配分による貧富差の軽減を図れなくなる。






  4.最も優れた経済システムは何か?

 前記の2つの節で、開発途上国で貧困と餓死の苦しみに毎日直面しながら生きている数億の人々と、日本社会を10年以上襲っている不況について、その原因と解決案を提示した。また、第2章の「活動資金をつくる」では、職業に従事するとき生じる問題点とその解決方法を示した。その際、資本主義という現行の経済システムを前提にして分析を行ったが、さらに一歩進めて、最も望ましい経済システムは何か?という問題を探究することが、この節の目的である。

社会主義
 資本主義国家が成立して以来、それが生み出す現実に苦しむ労働者は、問題を解決する希望を社会主義に託してきた。しかし、1985年にソ連のゴルバチョフはペレストロイカ(改革)を行って東欧諸国に対する支配を緩め、1980年代末に東欧諸国の一党独裁体制が崩壊し、1990年に西ドイツが東ドイツを編入して東西ドイツが統一され、1991年にソ連が消滅するに及んで、資本主義諸国の労働者階級は、自分たちの問題解決の道を社会主義に結びつけることができなくなった。社会主義国家の労働者は自分たちよりもずっと悲惨な生活を強いられ、社会主義を捨てて、資本主義への移行を強く望んでいることが明白になったからである。すなわち、資本主義は大きな欠陥を持っているが、社会主義にはもっと大きな欠陥がある事実を、世界の労働者が認めたのである。

 自然科学でも、社会科学でも、人文科学でも、ある理論が正しいかどうかは、それを現実の中に投げ入れて、検証し、吟味してみれば分かることである。マルクスが主張した社会主義理論の仮説は、1917年の革命から1991年のソ連崩壊までの74年間ロシアで続けられた実験の結果、正しくないことが証明された。それは、ロシア共和国の初代大統領エリツインが1991年6月モスクワの民主ロシアの集会で行った次の演説からも、明白である。

「われわれの国は幸せではなかった。この国はマルクス主義の実験をおこなうように決定づけられていた。運命ががわれわれをまさにその方向へと追いやったのである。この実験は、アフリカのどこかの国ではなく、まさにわれわれの祖国で開始された。そしてつまるところ、マルクス主義の理論など存在する余地はないことが立証された。この理論はわれわれを、世界の文明国がたどった道から踏み外させただけだ。国民の四割が貧困に悩む今日の現状、さらに配給切符を見せて商品を受け取るという、いつもながらの屈辱のなかに、そのことははっきりとあらわれている。この耐えざる屈辱は、この国において諸君が奴隷の存在であることを一時間ごとに思い起こさせてくれるのだ。」

何をどれだけ生産し、いかなる価格で売るかということは、資本主義の下では市場原理(需要と供給のバランス)に基づいて企業が決めるが、社会主義の下では官僚が中央計画を立てて決めていたことと、競争原理を排除したことが社会主義を失敗させた根本原因であった。そして、官僚が立てた中央の計画に対して、人々がさまざまな異なる意見を言えば、国家全体の意思統一ができないで混乱するため、人々の自由な発言や批判を抑える必要があった。
 
「社会主義国家が失敗した理由は、マルクス理論が正しくなかったせいではなく、その運用の仕方が間違っていた」という説明がしばしばなされ、私もそのように思ってきた。しかし、もしもそうならば、あれだけ多くの社会主義国家が存在していたのだから、成功した国が半分くらいはあるべきだが、事実はそのようにならなかった。アジアにおいても、台湾、韓国の一人当りの国民所得が中国、北朝鮮をはるかに凌駕した主因は、自由主義、民主主義、資本主義という政治経済システムにあったことは、誰も疑わないだろう。仮に、マルクスの考えは理論としては正しく、うまく運用できれば所期の結果をもたらすが、実際は何十年やっても誰にもうまく運用できないのであれば、そのような理論は現実には採用すべきではないだろう。

「資本主義国家と比べると、確かに社会主義国家は自由がなく、豊かではないが、人々の間に平等を実現した」という擁護論もよく聞かれた。しかし、一部の特権階級と人民の間の貧富の格差は、現在、民主主義を達成していない第三世界内部でしばしば見られる貧富の二極化と大して変わらないのである。

このように社会主義国家は経済効率が悪いだけでなく、共産党の一党独裁の下で恐怖政治を行い、言論の自由を禁止し、基本的人権も保証しないことが、国民の支持を失わせた。したがって、社会主義国家の実態を知らされた資本主義国家の労働者が、自国の経済システムとして、資本主義を捨てて社会主義に乗り換える選択をしないのは当然である。社会主義国家の破綻は、社会主義国家の労働者だけでなく、資本主義国家の労働者の希望まで壊してしまったのである。


福祉国家
 最大多数の最大幸福という最終目標を実現するために、いかなる経済システムが最適であるか? それは資本主義でも社会主義でもなく、両方の長所をとりいれ、短所を排除した福祉国家である。福祉国家とは、「資本主義国家で、完全雇用と社会保障政策によって全国民の最低生活の保証と物的福祉の増大とを図ることを目的とした経済体制」(広辞苑)である。自由放任の資本主義の下で、私的利益追求のために、地球の有限な資源の浪費と環境破壊が止まらない現代の危機を救うためにも、全体の福祉を優先する福祉国家の方が適している。

 封建社会が崩壊して近代社会が生まれる過程で、資本主義社会が自然発生的に成立し成長・発展して、帝国主義国家に行き着き、アジア・アフリカ諸国は植民地化され、二度の世界大戦を引き起こした。この資本主義に内在する諸問題を解決する理論としてマルクス主義が提唱され、社会主義国家が誕生したが、この制度は人間性の正しい理解に基づいていなかったため、人々を幸福にしなかった。資本主義と社会主義の両方の深刻な欠陥を体験した人類は、両方のメリットを最大限に生かし、デメリットを最小限に抑えた福祉国家に最後にたどり着いたのである。

 それでは、福祉国家はいいことずくめで、何の欠点もない理想的なシステムなのであろうか?決してそんなことはない。現実の世界を見ると、純粋のイデオロギーだけに基づく国家は存在していないが、主たる傾向によれば、資本主義の代表がアメリカで、社会主義の代表が旧ソ連で、福祉国家の代表がイギリスであり、日本は資本主義国家と福祉国家の間に位置している。 イギリスはサッチャーによる改革までの長い間英国病に悩んだし、日本も不況に苦しんでいる。いかなるシステムも実際に運用してみて、問題が生じれば、その解決のために変えていくしかない。その際、変革や改善の方向・内容については国民的合意が不可欠である。

 今、グローバライゼーションの下でアメリカの1人勝ちが進んだ結果、これに対抗するために、また、不況から脱出するために日本では社会主義の比重を低くして、資本主義の比重を高める動きが起きている。それが最終的に私たち自身にとって望ましい結果をもたらすかどうか、一つ一つの施策を注意深く見守る必要がある。

日本の各政党が目指している政治経済システムはどのようなものかを、政党が発表している基本理念・規約・綱領から、ある程度知ることができるが、はっきり明記することを避けている党もある。しかし、これらをよく読んで、自分の理想に最も近い主張をしている政党を選択して、選挙権を行使すべきである。支持政党を持たない無党派層が、今の日本人の中に多数存在している第一の原因は、各政党の基本理念をよく知らないからではないだろうか? どの政党が政権を担当しても、自分の生活は大して変わらないと考えているのではないだろうか?確かに、各党の基本理念を読み比べると、大差ない面もたくさんある。しかし、何を最重要視し、最優先するかという点で、相当の違いがあり、それが各党を区別するものであり、それを読み取るべきである。なぜなら、政党は他のものを犠牲にしても、その優先順位一番のものを達成しようとするからである。すなわち、あなたにとって最重要なことを犠牲にする政党もあれば、どんなことがあっても守る政党もあるからである。したがって、無党派層がどの政党に投票するかによって、日本の政治は変わり、人々の生活も変わり得るのだ!

自由民主党 
民主党
公明党
日本共産党
社会民主党

2002年4月29日現在の党派別衆議院議員数と構成比(%)、合計480名
自由民主党 241名(50%)、民主党・無所属クラブ 125名(26%)、公明党 31名(6%)、自由党 22名(5%)
日本共産党 20名(4%)、社会民主党 18名(4%)、保守党 7名(1%)、無所属 13名(3%)、欠員 3名(1%)


政党支持率

世界の政党
 


以下、福祉国家の説明をコンパクトにまとめた世界大百科事典(平凡社)を引用した。

福祉国家 welfare state
福祉国家は新しい型の社会体制であり,それに先行する自由主義国家とも異なるし,これと対抗関係にある東欧型の社会主義国家とも違っている。それは私有財産制と利潤動機という資本主義の二つの基本的要素を受け入れている,という点で社会主義体制とは相いれない性格をもっている。しかし市場経済の欠陥を是正するために政府が積極的にこれに介入し,構成員全体の福祉向上を国家に義務づける集団主義的志向をもっているという点では資本主義体制とも違っている

福祉国家がしばしば半社会主義体制と半資本主義体制ないし半自由主義体制との混合体制とみなされているのはこのためである。福祉国家の経済的側面に注目してこれを混合経済 mixed economy と呼んでいる理由も,このことから明らかであろう。


福祉国家の理念  
 福祉国家の基底にある理念もまた,ある特定の哲学に基づいて形成されたものではなく,時代を異にして生まれた幾多の思想や哲学に起源を発し,それらが結合され融合されて今日にいたったものである。フランス革命の自由・平等・友愛,J. ベンサムによる功利主義,ビスマルクの社会保険の方式,ウェッブ夫妻のナショナル・ミニマム原則,ベバリッジの社会保障などは,その代表的なものである。

これらの思想や理念にかなりの違いがあるにもかかわらず,ビスマルクを別にすると市民的自由を基礎とし,人道主義と平等主義を追求しているという点に共通性がある。福祉国家とは,このような理念に基づき,国民全体の福祉向上のために,政府がより積極的な役割を果たしている体制を備えている国家をいうのである。

このため福祉国家は,すべての財貨・サービスが市場を通じて自由に交換され,生産能力に応じて分配されて政府の役割を最小限度に制約している自由放任型の夜警国家と異なっているばかりでなく,財貨・サービスの生産や分配に積極的に政府が介入しているが,市民的自由を大幅に制限している全体主義的な独裁型の警察国家ともその本質を異にしている。政治的・社会的自由と民主主義は福祉国家の不可欠の要素である。


言葉の起源 
 福祉国家という用語の起源は必ずしも明確ではない。ドイツでは1880年代にビスマルクが創設した社会保険を含む政治体制を福祉国家 Wohlfahrtsstaat と呼んでいるがこれはむしろ慈恵国家というのがふさわしい。現代的な意味で福祉国家という用語が用いられたのは,1930年代の終り,大恐慌のもとで市民の福祉を追求する民主主義政体への懸念が高まっていたとき,著名なオックスフォードの学者ジマン AlfredZimmern(1879‐1957)がファシスト独裁の権力国家に対照させたのが始まりだといわれている。

しかしこの用語を文書の中に初めて載せたのは,イギリスのヨークの大主教 W. テンプルである。彼はその著《市民と教会員》(1941)の中で,国家は一般市民の福祉向上のために存在するものであると規定したが,〈ベバリッジ報告〉(1942)にこの用語が用いられてからイギリスで広く用いられ,ファシズムに対するイギリスならびに連合国の戦争目的を明らかにし,国民の戦意高揚にも大きな役割を果たした。ベバリッジ自身は福祉国家よりも社会サービス国家 social‐service state という用語のほうを愛好したといわれるが,これが戦後アメリカに浸透しはじめたころには自由放任か一般福祉国家かという文脈で受け入れられ,あるいは批判された。しかし,福祉国家の理念が民主主義の先進国のなかで根を下ろしていったことは福祉国家の本質を考えるうえできわめて重要な点である。


福祉国家の目標 
 福祉国家の目標は,第1に貧困の解消であり,第2は生活水準の安定であり,第3は富・所得の平等化と機会の平等化であり,第4は国民一般の福祉の極大化である。この場合,政治的・社会的自由と民主主義が基本前提になっていることはいうまでもない。

 貧困や窮乏の救済や解消が福祉国家の第1の基本目標であることに異論はない。貧困を個人の責任とする自由放任主義下の救貧法思想から,貧困発生の理由のいかんを問わずナショナル・ミニマムを全国民に保障するという生存権思想が定着したのは,ベバリッジの〈社会保障計画〉によるところが大きい。これはもとより人道主義に根ざしているが,貧困に象徴される経済的不自由からの解放によって人々の自由が拡大するということも無視できない点である。

 第2の生活水準の安定というのは,将来の不確実な危険や障害の発生に対して適切な保護策が公的にとられることであり,社会保険の普遍化や各種の社会サービスの拡大によって具体化されている。社会保険の方式はビスマルクの社会保険立法に起源をもつものであるが,これがしだいに欧米先進国に普及する過程でも,対象者はまず低賃金の筋肉労働者であり,ついで一般労働者に拡大されたが,さらに進んで自営業従事者を含む一般国民にまで普遍化されたのは第2次大戦後のことである。社会保険や社会サービスの拡大によるリスクの縮小や不確実性の低下のための諸政策は,現状を打破し危険なフロンティアをきり開いて経済を発展させ生活水準の向上をもたらすという資本主義のエートスに反するものだ,との批判がある。しかし不確実性やリスクに対する安定策があればこそ創造的発展も可能になり,危険をおそれない新機軸に挑戦する気運を助長することになるという反批判も成立する。福祉国家が公共政策として展開している不確実性の縮小による国民生活の安定は,いうまでもなく反批判にみられる適度の対応策を前提としていることはいうまでもない。

 第3の富・所得の平等化と機会の平等化も福祉国家の重要な目標である。富・所得の平等化が強調されるのは,その極端な不平等化が経済力のみならず,政治的・社会的権力の過度集中をもたらす可能性があるからである。富・所得の不平等化の是正は分布の両端における不平等を減少するということで,完全な平等化の実現ではない。過度な平等化はかえって社会的不公正をもたらし,最も創造的な人々の努力を減退させてしまうおそれがある。社会的公正を損なわないことが平等化の範囲を決定する場合の基準になる。機会の平等化ないし均等化には義務教育の普遍化と充実に加えて,就業の保障すなわち完全雇用政策がある。

 第4の国民福祉の極大化は,最低生活水準の保障や機会の均等だけではなく,豊かな社会のもたらしている社会的アンバランス,すなわち私的部門に比べて生活環境,自然環境などにみられる社会公共部門の立遅れを是正し,生活の質を向上させることなどがある。


現代福祉国家の課題 
 福祉国家では経済成長による財源の拡大等によって政策目標の多くは実現されたが,同時に多くの問題に直面している。第1に,福祉国家では政府主導で各種の政策が展開されてきたため,政府の組織が拡大し,官僚化,中央集権化を強めたことである。イギリスの行政学者 W. A. ロブソンによれば,福祉国家は単一のセンターから放射状にのびるワイヤによって統制される機構になりつつあるということになり,いわば管理社会へと傾斜している。福祉国家が市民的自由と民主主義を基底にしていることを考えるならば,これこそ現代福祉国家の危機である。これを打破するには,分権化を進め,これまで中央政府の占有物と考えられてきた諸政策を地方自治体,地域の非政府機関,各種の地域集団,職域集団に下ろし,それぞれの役割分担と努力によって推進していくことが必要である。

第2は,福祉国家はもともと最低保障と機会均等を最大の目標としていたにもかかわらず,しだいにその範囲の拡大とともに,政府への依存度が強まり,政府はまた再分配政策によって市民の多様な経済的欲求に対応するという態度をとってきたために,一方では非経済的サービスへの関心が低下し,他方では経済的権利の主張が強くなって適正な市民的義務の意識が低下してきたことである。人口高齢化が進行し,心身障害者が増加しているとき,福祉向上のために必要とされているのは個人のサービスである。社会のすべての成員が金銭ではなく時間の寄与によってこの必要にこたえていくのが一つの解決策である。また福祉国家は市民的連帯を基礎におかないかぎり成立しえない。市民や多くの利益集団が生存権に基づき政府による公共福祉の拡大を求めるときには,反面で義務を負っていることを自覚し積極的にその負担に応じていくことも必要である。国際連盟の提唱者でありノーベル平和賞を受賞したフランスのブルジョア Lレon V. A. Bourgeois(1851‐1925)が《連帯の哲学論集》(1902)の中で〈人は生まれながらにして人間社会の債務者である〉と述べているが,現代福祉国家の市民はこの点に思いを致すべきである。

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  5.拉致事件を考える

 北朝鮮は日本人を拉致した事実をついに認めたが、既に死亡したとされる人々に関する不自然な情報について虚偽と捏造の疑いが持たれている。これに対して日本政府は国交正常化交渉の過程で真相の解明と適切な対応を図ろうとしている。人権を蹂躙した拉致という国家的犯罪に対して日本国民が大きな怒りをいだくのは至極当然である。
 一方の北朝鮮は、「過去の日本人が朝鮮人に対して犯した非道で大規模な悪事を棚に上げておいて、相手の非だけを徹底的に糾弾するのはいかがなものであろうか?」という態度を暗に示している。このような事態に対して、私たちはどのような立場をとるべきだろうか?


1.日本の過去を償う
植民地化
 日本は明治維新によってヨーロッパ列強に対抗できる富国強兵に努めて、植民地化されないで独立を保つことができたばかりでなく、ヨーロッパ列強の帝国主義を模倣して、1895年に台湾を、1910年に朝鮮を植民地とした。そして、日本人の土地会社や入植者に土地を与えるために朝鮮人農民から土地を没収したので、土地を奪われた多くの朝鮮人は食べるために日本に来たが、劣悪な労働条件の下で日本の最低賃金労働者よりもはるかに安い賃金で働かされ、疎外され、在日朝鮮人問題が生じて、現在まで根強い差別が続いている。


関東大震災事件
 1923年9月の関東大震災直後、約6000人の朝鮮人を虐殺した事件は悲劇であった。「関東大震災は1923年9月1日午前11時58分に発生した。ちょうど昼食時であったため、各所に火事を誘発して被害はいっそう大きくなった。政府は東京市と府下4郡、さらに埼玉、千葉4県一帯に戒厳令を布き、またこの間に朝鮮人が暴徒化したという流言のために東京市内には各所で自警団が作られ、混乱の中で朝鮮人、社会主義者に対する殺傷事件が頻発した。日本の官憲や自警団と称する民衆によって、朝鮮人であるという理由だけで殺された数は6千人を上回った。腹をさかれた妊婦(東京)、のこぎりで首をひかれた男(群馬)と残酷な殺人が『朝鮮人が襲ってくる』というデマを根拠に堂々と行われ、多くの善良な日本人市民がその蛮行に加担した。当時の在日朝鮮人人口は約8万人で、東京に1万2、3千人、神奈川に3千人といわれたから、その犠牲者の数がいかに多かったかがわかろう。

 この大虐殺で重要なことは、朝鮮人暴徒化という流言の出所が日本政府であったことだ。その理由は、食糧暴動の起こるのを防ぐため、民族憎悪の感情をかきたて、政府に向かう民衆の反抗を朝鮮人に向けたわけである。・・・・・・関東大震災における朝鮮人虐殺は日本人の記憶からは、故意に消し去られようとしているが、朝鮮人側には『ドイツ・ナチスがやったアウシュビッツ収容所における虐殺に勝るとも劣らない』として記憶されているのだ。 (「65万人 在日朝鮮人」 宮田浩人編著、すずさわ書店)


強制連行
 第2次大戦中、国内の労働力の不足を補うために、66万人の朝鮮人を日本に強制連行して、炭鉱などで苛酷な労働をさせた。「1942年3月、勤め先からの帰宅途中、夜のソウルの街頭で理由もなく警官につかまり、そのまま北海道の炭鉱の飯場へ連行された一朝鮮人は、その回想記の中で次のように語っている。

『やがてわたしたちはひとところに集められて警察の係の主任から訓辞を受けた。『諸君はこの非常時に皇国臣民として、なすべきことをわきまえねばならぬ。いま北海道であたらしい鉄道の敷設をやっているのでそこへ行ってもらいたい。給料もよいし、もちろん待遇もよい。今からすぐ出発してもらう』 わたしたちはざわめいた。あまり突然のことで、あっけにとられてしまった。(中略)一行67名がホームで待っていると、特別したての列車が入ってきた。この列車は全部徴用労働者をつめこむためのものであった。わたしはあらゆる努力をかたむけて家に連絡をとろうとしたが、一切許されず、そのまま囚人のように釜山に護送されることになった。同行者の中には下駄をはいているもの、野良着のままのもの、よそ行きを着ているものなど、まちまちであったが、みんな私と同じように、理由もなくむりやりに連行されたもので、連行された場所は、だれもかれも街頭であった。私の唯一の荷物は、朝会社へ持っていった空弁当だけであった。』

街頭で、田畑で、文字通りの人狩りが行われ、日本国内の炭鉱や鉱山、土木現場、工場などへ強制連行され、タコ部屋同然の飯場に監禁状態にされて酷使された。強制連行と酷使と虐待は多くの負傷者を出しただけでなく、6万人におよぶ死亡者と無数の逃亡者を出した。まさに20世紀の奴隷狩りであった」 
 (「65万人 在日朝鮮人」 宮田浩人編著、すずさわ書店)


従軍慰安婦
 同様に第2次大戦中、日本兵士の性欲処理のため戦場に作った慰安所に、朝鮮の女性を強制連行して従軍慰安婦とした。

従軍慰安婦だったあなたへ


 日韓共同開催のサッカー・ワールドカップで、日本人の多くは日本と韓国が共に勝ち進み横浜で決勝戦に臨むことを期待していたのに対し、韓国人の多くは日本が早く敗退することを望んでいたそうだが、そのような心の背景には忘れられない過去の記憶がある。もしも、自分が朝鮮人として生まれていたら、どれだけ苦しみ、日本に対してどのような感情を抱くか想像してみるべきである。

 このように朝鮮人が日本人から受けた苦しみと、朝鮮人によって拉致された日本人とその家族の苦しみとの間に質的な差異はない。しかし、日本人の大部分はこのような朝鮮に対する過去の国家的犯罪を知らないか、忘れ去っている。今回の拉致事件をきっかけにして、日本国民は自分たちの過去の行為をしっかり自覚し、償いをしなくてはならない。マスコミの報道にこの点が欠落しているのは何故だろうか?国交正常化交渉において、この償いを賠償と呼ぶことを北朝鮮は求めたが、結局、日本政府は経済援助と呼ぶことにした。経済支援の理由と目的について両国民が誤解を避けて真意を理解するためには、経済援助(金持ちが貧乏人に恵みを施すというようなニュアンスがある)という言葉よりも、賠償(他に与えた損害や罪を償うという意味)という言葉の方がふさわしい。


2.拉致事件の真相を究明する
 もしも、北朝鮮が事件の真相を隠蔽し続けるならば、真相の公表を日本政府は経済援助の条件とすべきである。なぜなら、国民の安全を守る使命を持つ国家にとって、それほどに重大な事件だからである。
 また、北朝鮮では日本人を拉致した事実すら国民には知らせていないようである。しかし、規模は違うにしても、日本人だけでなく朝鮮人もまた拉致という国家的犯罪をする存在であるということを北朝鮮の国民全体が知るべきである。


3.朝鮮民族の平和を実現する
 北朝鮮と日本の国交正常化が東アジアの政治的安定に不可欠であることは言うまでもない。しかし、それ以上に大切なことは北朝鮮国民の自由と人権と生活の安定である。数百万人の餓死や絶えない亡命が示すように、北朝鮮国民は深刻な苦しみの中に置かれている。日本は経済援助を行う条件として北朝鮮の政府が国民の人権を守ることを約束させるべきである。そうしなければ、経済援助が独裁政権の延命を助けるだけで、国民に償い、国民を助けることにはならないからである。

 北朝鮮の政権がソ連や東欧のように今まで自己崩壊しなかったのは、中国の支援によるところが大きい。したがって、北朝鮮との交渉はその後ろに控える中国の政策を無視しては成立しないので、容易ではない。最終的には、東西ドイツのように、不運にもソ連とアメリカの利害によって長年にわたり北と南に分断された朝鮮民族が念願の統一を果たし、自由主義と民主主義の下で平和を享受することを目標にして、国交正常化交渉の戦略を策定することが日本政府に強く求められている。




  6.美しい環境を創る

 美しい並木通りで知られる東京都国立市に建設されたマンションの訴訟で、東京地裁が2002年12月18日に下した判決は、既に完成された14階建てマンションの7階から14階までの部分を壊して撤去することを不動産業者に命じるという驚くべきものであった。経済性と効率性を追求する企業に対して、景観美の維持を訴える住民が戦って勝ち取った結果である。戦後、全ての価値に優先して経済を成長させてきた日本社会が、この10年間の不況の下で価値観の見直しを行った一つの試みであり、これが前例となって他の分野でも同様な規制や見直しが行われることが望ましい。

 東京では経済成長に合わせて、金をかけた建物が次々に建てられたが、街全体で観ると美し場所が意外と少ないのは何故だろうか?日本では電車の駅を中心にして街が形成されるが、駅周辺の建物の高さや様式はバラバラで、大きな広告塔、看板、電柱が林立し、電線が蜘の巣のように空を覆い、東洋的猥雑と言われる雰囲気が醸し出されている。

 あるいは、日本の表玄関である成田空港ビルの壁面全体はほとんど灰色に塗られ、海外の明るい空港から戻ったとき、落ち着きというよりも暗さを感じさせる。

 また、新宿副都心の高層ビル群は最先端の建築技術によって建てられているが、その多くは巨大な無機物の箱という印象を与え、都庁ビルのように豊かなデザインと色調を備えた美しい建物は少い。

 日本は世界第2位の経済大国であるが、訪れる外国人旅行者数は2002年は524万人で、海外を訪れた日本人旅行者数(1,652万人)の3分の1以下で、外国旅行者受入数の国際ランキングでは、世界第33位である。一位のフランス(7,700万人)や第五位の中国(3,680万人)の足元には到底、及ばず、韓国の535万人と比べても少ない。このように観光小国である事実は、街並の景観に魅力が無いことにも関係があるにちがいない。日本の自然の美しさに異論を唱える人は世界にもいないだろうが、日本の街並が美しいと言う人もいないだろう。


 美という漢字は羊が大きいと書く。美という漢字の語源は、大きな羊は美しいからという説もあるが、羊は天に捧げる犠牲として使われたので、大きな犠牲を払うという意味もある。(今道友信著「美について」より)
確かに、美を創るには、それなりの犠牲が必要になる。例えば、花を買うには金を支払わねばならないし、大きな看板を無くすには企業の自由な利益追求行為を規制しなければならないし、電柱や電線を撤去するには金をかけて地中に電線を埋めなくてはならない。

 したがって、街並を美しくするためには、経済を最優先する価値観を修正しなければならないのである。行政官庁は美に対して高い価値観や優先順位を持っていないので、街並全体を美しくするという計画をほとんど持っておらず、そのための規制が無く、自由放任である。日本人は海外に出かけて、美しい街の景観に感銘を受けて帰ってくるが、毎日生活する自分たちの街並も同じように美しくするために犠牲を払うことは躊躇する。

以上のことを考えると、国立市のマンションの訴訟の判決は、憲法や法律に基づいて価値判断を行う裁判所が美のために大きな犠牲を払うべきであることを国民に示した点で、画期的な出来事であった。


東京国立博物館
 2004年10月中旬に東京国立博物館の平成館で開催中の中国国宝展を観た。紀元前3500年ごろの作品も多数陳列されていて、人類の文明発祥の地として、エジプト、メソポタミア、インドと並んで、中国が挙げられている理由が、具体的な作品を通して理解できた。

 その後、前回訪れた時はリニューアル中で閉鎖されていた本館が、9月から新たにオープンしていたので、大きな期待を持って訪れた。しかし、中に入ってがっかりした。先ず玄関を入ってのホールは、立派な階段が中央から踊り場を経て左右に伸びているが、全体が古色蒼然とした墓石の中にいるような、暗くて陰気な雰囲気に包まれていて、そこから早く出たいような気分になる。

 もしも私が改装するとしたら、ホールの天井からシャンデリアを三個ぐらい吊るして、明るさを最低でも現在の二倍以上にする。そして、一階のホールと階段の踊り場と二階のホールにいくつかの立像、陶器、絵画など大きくて豪華で目立つ作品を陳列して、訪れた人に先ず驚きと賛嘆と期待感とうきうきした気分を抱かせたい。

 2階に行って、常設の「日本の美術の流れ」を観たが、縄文時代から江戸時代までの代表的な美術品を陳列してあり、中には国宝もあり、価値の高いものである。しかし、ここも全て薄暗くて、壁の色も明るさを欠いて、じめじめした雰囲気が漂っているため、展示された作品の魅力が半減している。

 日本の伝統的な美術品は、西洋と違い、地味で目立たないものが多いが、奥ゆかしい美しさを秘めてもいる。その美しさを引き出して、観るものに感銘を与えるような展示環境が必要である。例えば、有楽町の国際フォーラムにある相田みつを美術館は書道作品だけを展示しているが、照明と壁の色が明るいので、作品が生き生きと感じられる。パリのルーブル美術館やオルセー美術館の内部の底抜けの明るさに比べると、東京国立博物館の本館の暗さは対照的である。

 日本の古来からの美術品をこれだけ幅広く集めて展示している場所として、 東京国立博物館の本館に匹敵する所はないだろう。この日、本館を訪れていた人の半分は外国人であった。おそらく、観光目的で日本に来た外国人の相当数は、ここを訪れるだろう。しかし、彼らが帰国後、「この博物館を是非、訪れるべきだ」と友達にすすめるとは思えない。美術館の演出のまずさによって、日本の美術品は過小に評価されるという損失を受けている。世界33位の観光小国日本の汚名を本気で挽回したいのならば、このような点を真っ先に改善して、もっと魅力的な博物館にする。そして、ルーブル美術館やオルセー美術館を観ることを第一の目的として、フランスに行く人がいるように、東京国立博物館を観るために日本を訪れる外国人が現れたら素晴らしい。

 今回のリニューアルを手がけた人々は、もちろん専門家で、世界各地の美術館もたくさん観ているはずなのに、何故このような改装をしたのか全く理解に苦しむ。これならデパートの改装をやる人たちに注文した方が、良い結果を生んだにちがいない。かれらは、競争が激しい小売業界で生き残るために、一人でも多くの客に来店してもらおうと必死になって、最善の努力と工夫をしている。一方、東京国立博物館は独立行政法人として、運営は国から独立しているとは言え、経費の大部分は、入場料ではなく、国からの交付金に依存し、職員の給料は、倒産や失業の心配がない国家公務員と同じで、入場者数が多くても少なくても変わらない。もっと実質が民営的な運営が必要ではないだろうか。


  7.ボランティア活動をする

 さまざまな社会問題を解決する責任を担うものは中央・地方の行政、民間企業などそれぞれの該当組織である。しかし、市民の立場から見た時、これらの組織の活動が不完全であったり問題がある場合、改善要求を出したり、それを補完したり是正するのが広義のボランティア活動で、NGO(non-governmental organization), NPO(non-profit organization)も含まれる。狭義の場合には、社会福祉を目的とした活動として理解されている。ボランティア活動は一人でもできるが、効果という点から考えると、一般には多くの人々が協力する組織として活動する方が力を発揮する。

 日本国憲法の[第25条]では、「すべて国民は,健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する。 国は,すべての生活部面について,社会福祉,社会保障及び公衆衛生の向上及び増進に努めなければならない。」と述べられていて、この理念を実現するための社会保障制度も存在しているが、その恩恵の網の目からこぼれてしまい、露頭に迷う人も少なくない。


 例えばホームレスと呼ばれる街頭生活者の場合、行政は彼らをほとんど助けることをせず、放置同然の状況が見られる。その彼らに援助の手を差し伸べるボランティア活動の実例として、救世軍とそれに参加するボランティアの人々を紹介したい。

救世軍

 私も2月のある日、救世軍の活動にボランティアとして参加してみた。夜の6:50に新宿中央公園の広場に皆で一緒に到着した時は、すでに配給を待つ人々の長い行列ができている。調理済みのカレーを入れたいくつもの大きな鍋と御飯のジャーは冷めないように毛布で包んであるので、毛布を取って、トラックから降ろす。また、一般の人が提供した中古の衣類や、ホカロンも所定の場所に並べる。7:10から使い捨ての容器に御飯とカレーと福神漬けを盛って、配給を開始。それを順番に受け取った人は広場で立ったまま黙々と食べる。私も公園に来る前に食べてきたがとても美味しくて、これなら皆も満足すると思った。間もなく、、広場の中央で女性の救世軍人がトランペットの演奏に合わせて賛美歌を歌い始める。

           いつくしみ深き  友なるイエスは、
          罪とが憂いを   とり去りたもう。

          こころの嘆きを  包まず述べて、
          などかは下ろさぬ、負える重荷を。


          いつくしみ深き  友なるイエスは、
          われらの弱きを  知りて憐れむ。

          悩みかなしみに  沈めるときも、  
          祈りにこたえて  慰めたまわん。


          いつくしみ深き  友なるイエスは、
          かわらぬ愛もて  導きたもう。

          世の友われらを  棄て去るときも、
          祈りにこたえて  労りたまわん。


 私はクリスチャンではないが、この賛美歌は好きだ。特に、この日は「世の友われらを  棄て去るときも」という部分がホームレスの心境を表しているような気がして、心に沁みこむ。歌が終わると、彼らを励ます内容のキリストの教えを語り始める。カレーを食べ終わった人は並べてある衣類から自分が好きなものを選んだり、ホカロンをもらう。この日は417人が配給を受け、その内60人がカレーのおかわりをもらうことができた。1人が私のところに来て、鍋やジャーを保温するためにトラックの中に置いてある毛布を見て、「毛布をもらえないか」と言ってきたので、救世軍人に相談したところ、「これはあげられない」という返事だった。私の所有物なら渡したいと思ったが、それを見た他の人たちが大勢要求してきたら、対応できないだろうと考えた。7:50に全ての配給が終了して、後かたづけをして、8:10に解散した。

 このように食物と衣類については、救世軍の援助などにより何とかなっているようだが、寒さだけはどうにもならなくて、冬を無事に越すのは大変らしい。現在、日本全国に24000人(その内5600人が東京)のホームレスがいて、毎年800人が凍死しているそうだ。冬山で遭難して凍死した場合は、新聞でも大きく報道されるが、ホームレスの凍死は一切報道されないのは何故だろうか? もし報道されれば、一般の国民の関心も高まって、皆が対策を真剣に考えるのではないだろうか? それとも、彼らの凍死は同情に値しないという冷酷な価値観が、日本社会で暗黙裡に形成されているのだろうか?

 ホームレスの窮状を見ても無視する人の中には、「彼らは過去や現在、働かないで怠けた結果、このようになったので、自業自得である。怠け心を抑えて、懸命に働いてきた自分が彼らを援助する必要はない。」と考えている人もいる。確かに、そのようなケースも一部にあるかもしれないが、実際には、身体が弱くて土木工事のようにハードな労働に就けない人、きちんとした教育を受けられなかった人、リストラにあった人など、働く意志はあっても、何らかの事情によりこの不況社会で就職を拒絶され、収入の道を閉ざされて、やむを得ずホームレスになった人が多い。そのため、「すべて国民は,健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する。」というような主張を自らはできないので、彼らの代わりになって訴えたり、直接に援助を行う人が必要になる。


 私たちは職業を通じて他者が必要としたり欲するものの提供に従事しているが、これは金銭の報酬を条件にした交換行為であり、ビジネスである。一方、ボランティア活動は金銭の報酬を期待しない愛の行いである。助けを求めている人を支援する行動が誰にとっても必要な理由や意義は、既に 2.「愛を行う」という節でクジ引き理論として説明したとおりである。阪神・淡路大震災が起きた1995年を日本のボランティア元年と呼ぶほど、それを契機に日本でも多くの分野でボランティア活動が生まれた。しかし、アメリカではボランティア活動の経験がない人間を探すのが難しいくらい日常生活の一部になっているが、日本ではボランティア活動の経験者を探すのが難しいくらい例外的存在であるのは何故だろうか? 

 第一に、現代は宗教不在の時代といわれているが、それでも欧米では愛を説くキリスト教が人々の生活のバックボーンになっているのに対して、本質的には愛と同じ慈悲を説く仏教が日本では全く形骸化している。そして、宗教に代わって倫理の大切さを教えるものが社会に欠落しているため、生活原理がほとんど利己主義に基づく打算的行動に支配されている。

 第二に、欧米では市民が自らの自由な意志によって社会問題を解決するという市民社会が成熟しているが、日本ではまだ市民が主人公という意識が確立していない。そのため、社会問題の解決は、それに関係した組織や専門家に全てを任せて、自分は傍観者的態度をとるか、自分が動いても世の中は変わらないという消極的態度をとる。

 第三に、日本は経済をすべての価値に優先してきた結果、世界第二位の経済大国にはなったが、その一方で、経済的価値と直接関係ないものは軽視したり無視する傾向がある。そして文化や福祉は、本来ならば経済活動の最終的目標なのに、本末転倒して、生活の単なるアクセサリーに近い従属的な位置しか占めなくなる。ホームレスの人々を邪魔者扱いして殺人を犯す中学生の姿に、このような社会の価値観が反映されている。


 いろいろな事情により直接ボランティア活動ができない場合は、ボランティア活動の団体の会員になったり寄附をして、支援することが同じ効果を生む。例えばホームレスの人々を援助する場合、街頭でおにぎりを直接手渡す活動はできなくても、1万円を寄附すれば、100人に対して100円のおにぎりを提供でき、精神的にも励ますことができる。

 アメリカ人は平均して年収の2%を寄附しているという統計がある。アメリカの富豪の中には、莫大な金額を寄附する人が少なくないので、全体の平均値を高めているのかもしれない。金額の多少を問わなければ、誰でも自分にふさわしい寄附行為を定期的にすることはできる。


ボランティア団体−1
ボランティア団体−2
NPO
NGO


  8.自殺を予防する

 インターネットで自殺の仲間を募って、一緒に車の中で練炭による一酸化炭素中毒死を図る出来事が、最近、新聞で報道されている。大多数の人は、これを見て、全くの他人事で自分とは関係無いと思うだろうが、それは必ずしも正しくない。

 1998年を境にして自殺者は
2万人台から3万人台に一挙に増加している。そして、男性の年齢別死因順位における自殺の順位(2001年度)は、15‐19、20−24歳の各年代で 2位(1位は不慮の事故)、 25‐29、30−34、35−39、40−44歳の各年代で 1位、 45‐49歳で 2位(1位はガン)、50‐54、55−59歳の各年代で 3位(1位はガン、2位は心疾患)である

 これほど多くの青年や壮年が、本来なら夢や希望を持って生きるべきなのに、自殺するほどの絶望状態に置かれているという問題
は、マスコミにもほとんんど取り上げられず、放置されているように見える。自殺は個人的な問題であって、社会問題ではないと見なしているとしたら、それは間違いである。

誰でも自殺について考察しておくべき理由として、次ぎの3つを挙げたい。

(@)自殺の原因・動機の中で、社会の在り方の問題が大きな比重を占めている。それを改善すれば、自殺者を減らすことができる。
(A)長い一生の間には、実際に自殺しなくても自殺を想うことや、身近な人が自殺を企てることは誰にも起こり得る。
(B)自殺について考えることは、人生の意義についての考え方を深めてくれる。


(1) 自殺の実態
 日本における自殺の実態を警察庁の統計資料に基づき、グラフにまとめてみた。

★★ 年次別、年齢別、職業別、原因・動機別自殺者数の推移
 死因と自殺の統計

 2001年度の自殺者 31,042人は、交通事故による死亡者数 8,747人の3.5倍で、平均して毎日85人の人々が自らの意志で自らの命を絶っていることになる。さらに、自殺未遂者の数は既遂者の約10倍、自殺志望者はその数10倍いると推定されている。そして、彼らの行為から大きな悲しみと苦しみを受ける身近な人たちはその数倍いることだろう。

年齢別自殺者数を10万人当りで見ると、85歳以上の超高齢者を除いた場合、リストラの影響からか、55歳から59歳までの年代が42.2人で最多である。(2001年度)

性別自殺者数を10万人当りで見ると、男は34.2人、女は12.9人、平均23.3人で、男は女の3倍に近い。(2001年度)

外国と比較すると,1980年の統計では,ハンガリー(44.9),デンマーク(31.6),オースリア,スイス(ともに25.7),フィンランド(24.7,ただし1979年の統計),西ドイツ(20.9),スウェーデン(19.4)、日本(17.7)というような状況である。

自殺の手段は,1981年の統計では,縊首・絞首・その他の窒息(54.7%),ガスによる中毒(10.9%),入水(7.3%),固体または液体による中毒(6.8%),高所からの飛降り(6.3%)というような順位である。


(2) 自殺の原因
 苦しみの大きさが、苦しみをうまく処理する力を超える時、自殺が起きる。すなわち、苦しみに耐えられなくなった時、そこから逃れるための方法として、自殺という行為が選択される。

 苦しみにどれだけ耐えられるか、苦しみを処理する方法や力をどれだけ持っているかは人によって異なる。したがって、同じように苦しい状態に置かれて、自殺する人と自殺しない人が生まれる。

 先の原因・動機別自殺者数のグラフが示すように、1998年以降は、健康問題によるものが50%、経済・生活問題によるものが20%、家庭問題によるものが10%で、これら3つで全体の80%を占めている。そして、顕著な動向として、1998年を境に経済・生活問題によるものが1000人と2000人台から6000人台(2002年は7940人)に急増している。その内容は、借金、生活苦、事業不振、失業、倒産などで、この最大の原因は10年以上続く不況のため窮状に追いこまれた人たちの増加であることは間違いないだろう。生を支える土台として、そこそこの健康と金と愛情が必要であることを、このグラフは示している。

 自殺に関する学説によると、はじめに自殺の準備状態(自殺傾向)というべきものが生まれ、その後に直接的動機が加わって、自殺が実行されるという。したがって、自殺の原因を分析するためには、直接的動機と準備状態(自殺傾向)という2つの要因を調べる必要がある。準備状態(自殺傾向)の要因として、生物学的要因,心理学的要因、社会・環境的要因の三つが考えられている。しかし、これとは逆に、はじめに直接動機が発生して、それによって準備状態(自殺傾向)が生まれるというケースも多い。

 生物学的要因の代表例はうつ病で、うつ病に見られる特徴の一つが自殺願望である。うつ病は遺伝的に起きる場合と、後天的に起きる場合がある。最近は、経済・生活問題などの直接動機から受ける強いストレスによって、うつ病、あるいは、うつ病傾向という準備状態(自殺傾向)が生まれ、自殺が増加していると言われる。


(3) 自殺の是非
 自殺は法律で罰を与えるような犯罪ではないが、一般の社会通念上は、他殺に次いで悪いことのように見なされている。しかし、ここでは、先入観を取り払って、白紙に戻して、自殺がもたらす主要なプラス点とマイナス点を考えて、その上で自殺の是非について総合評価をすることにしたい。

プラス点
(@)自殺すれば、自分が現在直面している耐え難い苦しみから解放されることは間違い無い。死んで肉体が消滅し、意識がなくなれば、いかなる苦しみも感じなくなるのは当然である。

(A)人間は遅かれ早かれ、いずれは皆死ぬのである。この世に生まれてきたことや、その時期は自分の意志で決められなかったのだから、死ぬときくらいは自分の自由にしたい。そのように考える人にとっては、自由を行使する機会が自殺である。

(B)「生は絶対的に善であり、死は絶対的に悪である」という社会通念は、根本的に考えると、必ずしも正しいとは言えない。

「真に重大な哲学上の問題はひとつしかない。自殺ということだ。人生が生きるに値するか否かを判断する。これが哲学の根本問題に答えることなのである。」という疑問をカミュは投げかけた。 
                                                          
 「第四の血路は弱気のそれである。この行き方は、人生の悪であり無意味であることを悟りながらも、せん術の無いことを予め知って、ぐづらぐづらとそれを引きのばして行くという方法である。この部類の人々は、死の生にまさることを知ってはいるが、理性に基づく行動に出て、ひと思いに虚偽を打破して自分の一命を絶つだけの元気が無く、まるで何ものかを待っているように、ぐづらぐづらと煮え切らないその日を送って行くのである。」と考えて生きていた時期が、トルストイにもあった。最終的には、トルストイはキリスト教に救いを求めた。

 マイナス点
(@)問題解決のために、もっと、時間と努力を注ぎ、広範囲の協力を求めれば、自殺以外の解決の道が見つかる可能性があっても、自殺を遂げてしまえば、可能性はゼロになる。自殺の原因がなければ、本当はもっと生きていたいという欲求が心の奥底にはある場合が多いのだから、あの世に行ってから後悔しても取り返しがつかない。

(A)子供をこの世に生み出した親は、わが子が幸せな一生を送り、天寿を全うしてくれることを願っている。自殺はこの親の願いを無残にも踏みにじるもので、子供の自殺が親に与える悲しみや苦しみの深さは計り知れないそして、自殺を招いたり、止められなかった責任の一部が自分にもあるのではないかと考えて、罪悪感に悩む。自殺は最大の親不孝である。このような感情は親だけでなく、配偶者、自分の子供、兄弟、親しい友人たちにも与える。

(B)この世界の存在には意味も目的も無いし、戦争、肉食などの悪が至るところに存在している。一方、この世界にはどうしても存在すべき価値は見当たらない。この世界の悪の総和は、善の総和によって相殺できないほど大きい。。だから、この世界は存在するよりも、存在しない方が望ましい。このように考えるニヒリズムとペシミズムは、最も重要なことを見落とさず、世界の全体を慎重に洞察する人間にとって真実である。しかし、この世界に絶望して自殺しても、彼の死後、この世界は存続し、無意味も悪も消滅しないで存続する。したがって、自殺しても問題は解決されないのである。自殺はこの問題から、ただ逃げ去る行為に他ならない。それなら、せめて、できるだけ長く生きて、ニヒリズムとペシミズムと戦い、わずかな成果でもよいから実績を作る努力をする生き方のほうが、逃げ去るよりも望ましいことになる。
 
以上のような分析に基づき総合評価をすると、最終的には、自殺はプラス点よりもマイナス点の方が高いことになるため、自殺は一般的には否認されるべきものである。

 ただし、末期のガンで痛み止めの薬が効かないで、我慢できない激しい苦痛の後には死しかない場合、その死を多少早めるために、安楽死を図る尊厳死(自殺の一種)は是認されるべきである。このほかにも、是認されるべき例外はあるかもしれず、それは個別に判断されるべきである。たとえば、十分に長く生きて、心身ともに生きることに疲れてしまい、一方では、人生に愛着を感じるものが全くなくなり、自分の死を悲しむ人もいなくなった場合、死の本能のようなものが生じて、自殺しても、これは生物がたどる自然死に近いもので、是認されるのではないだろうか。


(4) 自殺を予防する
 
大多数の病気の場合、病気になっった後、治療することができるが、自殺の場合は、起きてしまってから対処しても生きかえらないので、予防するしかない。  

 自殺の原因となった苦しみは、自殺以外の方法によって除去、あるいは、軽減できる可能性がある。あるいは、苦しみそのものは変えられなくても、それにうまく対処する方法や考え方を見つけられる可能性がある。自分、あるいは、身近な人たちの限定された知識と体験と考察だけでは、他の望ましい解決方法を思いつかなかったのかもしれない。実際の自殺の大部分は、客観的に見れば、自殺よりも望ましい解決方法があり、自殺がベストというケースは尊厳死のように少数だと考えられる。  

 苦しみの大きさと、それに耐え、うまく処理する力がアンバランスになったとき、自殺が起きるのだから、自殺を予防するために必要なことは、(@)苦しみを除くか、耐えられる程度に減らす、(A)苦しみに対処する力を増す。(B)両方を行う。ということである。これを、具体例で考えてみたい。
  
(例1) 病気
    ― 日本人は痛みに対して、弱音を吐かないで、我慢強いことを美徳としてきたが、欧米人はすぐに痛みを訴えると言われる。この違いが、欧米では痛みを和らげる医学を発達させ、日本では遅れさせたとも言われる。医療者の満足ではなく、患者の満足を中心とした医療がなされなければいけない。
    ー なかなか治らない場合は、その病気の分野で最先端の治療をしている病院を探して行く。
    ― 東洋医学、民間療法も含め、効果があると言われる治療法を全て試してみる。それらの一つ一つの効力は小さくても、全部を合計すれば、大きな力になる可能性がある。
    ― 苦痛が耐えられる程度に、痛み止めの薬を使い、病気との共存を図る。そして、医学は日進月歩なので、新しい治療法の開発を待つ。
    ー 病人の介護をめぐる問題も、自殺の一因になっていると考えられるので、十分な対策が必要である。

(例2) 経済的困窮
    ― 不況の長期化と慢性化が多くの経済的困窮者を生んでいる以上、景気の回復を最優先する施策が求められる。
    − 2002年に経済生活問題で自殺した7940人の約半数にあたる4143人は負債によるものだった。借金をどうしても返済できない場合は、個人破産の手続きを行う。
    ― 失業して、希望の職に就けなかったら、妥協して、どんな仕事でもよいから働きながら、適職を探す。
    ― それがうまく行かない場合は、社会で需要の多い仕事の資格を取ったり、職業訓練、職業紹介を受ける。
    ― それもうまく行かない場合は、生活保護などの社会保障を受けて、景気の回復を待つ。
            
(例3) いじめ
    ― いじめが生まれる主な原因は、家庭と学校にある以上、親や教師がいじめを起こさせない教育をすることが、一番に求められる。
    ― いじめの被害者が加害者に対して有効な対抗策をいろいろ講じてみる。
    ― 教師や親が、いじめを強制的に止めさせる。
    ― それでも効果がない時は、いじめの無いクラスや学校に移る。

どれほどやり場の無い状況に置かれても、自殺を予防するために、以下のことは大切である。

 ー 客観的に見ると、いくつかの選択肢や出口があるのに、自分で自分を出口のない袋小路に心理的に追いつめてしまうことがないよう、気をつける。 問題を解決するために、自殺しか方法がないという結論は不十分で誤った判断であり、自殺以外の選択肢はいろいろあることを学ぶ。
 ― 自殺は絶望から生まれるので、希望を持てるような生き方を学ぶ。
 ― うつ病傾向に陥らないために、辛いことだけに目を向けないで、リラックスして、自由時間にやりたいことをして楽しむ。もしも、うつ病がひどくなったら、病院で治療を受ける。
 ー 同じような状況に置かれた人たちと情報を分かち合うことによって、問題に対するさまざまな対処法を学ぶ。
 ― 信頼できる人、または、自殺に関する悩みを受けつける公共機関に相談する。


どんぐりの会
イデアフォー

多重債務に陥らないために
個人破産の基礎知識
失業119番
生活保護110番

自殺と自殺予防の心理

  9. 新聞に対する要望

 毎日、新聞に目を通さない日本人はほとんどいないだろう。本やテレビをあまり見ない人でも、新聞だけは手にするはずである。必需品と言ってもよいだろう。

しかし、今の新聞に満足している人はどれくらいいるだろうか?おそらく不満派の方が多いのではないか。不満に思う点は人によっていろいろだろうが、最も多い不満は、新聞の内容が報道中心で問題解決型になっていないということではないだろうか。それは朝日、毎日、読売、産経のどの新聞にも当てはまる。

時々刻々起きる出来事について、いつ、どこで、誰が、何を、何故、いかにしたかという5W1H型の記事がほとんどである。次から次に目の前で起きる出来事の伝達に終始しているようにさえ見える。

私たちが新聞に最も期待していることは、理想社会の実現と社会の改善を最終目的として、その障害となっている社会問題を提示し、その原因を究明し、原因を除いて問題を解決する方法を考え、最適な解決案を該当機関が実行するのを監視することだ。

新聞は一般に報道,論評,教育,娯楽,広告という五つの機能をもっていると言われるが、最大の機能、あるいは、使命として「社会問題の解決案の提示と実行の監視」を掲げることを要求したい。社説はこの機能の一例であるが、その内容は量も質も不十分で、おざなりに書かれたようなものも少なくない。

毎日毎日、来る日も来る日も、人々が興味や関心を持つ出来事や事件が起きるのを待ち続け、出来事や事件があると飛んでいってそれを報道することの繰り返しでは、理想社会の実現のために大きな貢献はできないだろう。

もしも、問題解決型の紙面作りによって不偏不党、公正中立という立場が多少揺らぐことがあっても、それが平和や正義や理想の実現のために必要ならば、やむを得ない。平和や正義や理想の実現を犠牲にして、不偏不党、公正中立を守っても意味がない。


  10. 香田さんの死を悼む

 海外を旅行中の香田証生さんが、2004年10月にイラクで殺害された。彼と同じように、私も、昔、イスラエルからアンマンを経てバグダッドを一人で訪れたことがあったので、彼の行動には特別な関心を抱き、助かって欲しいと願っていた。

 イラクの過激派が香田さんを殺害した直接の理由は、日本政府が自衛隊撤退を拒否したことである。しかし、その背景の動機として、多数のイラク市民を殺害したアメリカを支持して、派兵した日本に対する報復がある。つまり、香田さんは日本政府とそれを支持する日本国民の身代わりとして、報復を受け惨殺されたのである。

 小泉さんが「自衛隊は撤退させない」という声明を、直ちに出さないで、第一段階では交渉の余地があるポーズを示して、時間を稼ぎ、先ずテログループとの接点を探し出し、第二段階でいろいろな駆け引きをすれば、最悪の結果を避ける可能性が生まれたのではないか。政府の対応のまずさが非常に目立った。香田さんが、もしも自分の子供だったら、小泉さんは同じ対応をしただろうか?

 今回の拉致事件に接して、小泉さんの頭の中では、「ブッシュの機嫌を損なわないためには、自分はどう発言し、どう行動すればよいのか?」という問題の方が、「香田さんを助けるためには、自分はどう発言し、どう行動すればよいのか?」という問題よりも優先順位がはるかに高かったようだ。

自衛隊派遣の是非を考える時の基本的な論理関係は以下のとおりである。
(1)大量破壊兵器が存在する。フセインがアルカイダを支援して911テロを起こした→イラク戦争は正しい→自衛隊を派遣する
(2)大量破壊兵器は存在しない。フセインがアルカイダを支援して911テロを起こしたのではない→イラク戦争は間違っていた→自衛隊を撤退する

 香田さんが殺害された真の原因は、香田さんの無謀な行動ではなく、イラク戦争と自衛隊の派遣にある。大量破壊兵器は存在しないこと、フセインがアルカイダを支援して911テロを起こしたのではないこと、イラク戦争は間違っていたことが判明した以上、自衛隊を撤退させることが正解であり、長期的に見れば国益にも沿っている。

 香田さんの死は、香田さんとご家族にとっては、悲劇・不幸以外の何物でもない。もしも彼の死から何らかの意味が生まれるとしたら、香田さんの悲劇に接した全ての日本人がイラク戦争と日本のアメリカ追従が間違いであったことに気付き、それに反対する行動を起こした時である。つまり、今回の悲劇が意味あるもになるか、単なる悲劇に終わるかは、これによって国民がどれだけの反省と行動を起こすかに懸かっている。これは原爆の犠牲者によって、太平洋戦争が終結して、平和が訪れた関係と似ている。

 しかし、新聞やテレビなどのマスコミが、その後、この事件をほとんど扱わなくなったことや、香田さんの悲劇を彼の自己責任にすり替える論調が強いことを見ると、香田さんの死が犬死に終わりそうな気がして残念だ。

 香田さんの斬首映像は、正視に堪えないが、これを見た日本人は、世界のあり方と、それに対する自らの行動について、自分の頭でもっと深く考え直すに違いない。

 以前、アメリカ民間人の初めての斬首画像を見た時、イラク戦争に賛成派のアメリカ人でも、これを見れば、反対派に変わるだろうと思った。しかし、ブッシュの再選に見られるように、まだアメリカ国民の過半数はイラク戦争を支持している。あのショッキングな映像は、おそらく一部の人しか見ていなかったのだろう。


香田さんとご家族の方へ

香田さんとご家族の方は、残酷な斬首映像が公開されることを望んでおられないでしょう。もしも、私自身が同じ立場に置かれたとしたら、あらゆる努力をして、それを消滅させようとするでしょう。

しかし、私たちは、これを見ることによって、心の底に眠っていた良心が目覚めるのを感じます。どんな話や本でも、これほど大きな力を持っていません。

私たちは平和ボケと言われ、殺人や暴力シーンで溢れる映画やテレビに囲まれ、感覚が麻痺してしまい、何事にも驚かなくなってしまいました。

そんな私たちでも、斬首映像が心の底まで与える衝撃から逃れることはできません。そして、戦争を起こす者や平和の実現を妨げている者に対抗する気持ちが起き上がるのを抑える事ができません。

香田さん、ご家族の方、 どうぞ、映像が与えるこのように人々を平和に向かわせる偉大な力に免じて、映像が公開されることをお許し下さい。


香田証生より

私の処刑映像の公開について許可を求めていますね。初めは絶対にダメだと返事するつもりでしたが、その後、考え直して許可することにしました。その理由を以下に述べます。

危険なイラクに、しかも100ドルしか持たないで入国した私に対して、無謀過ぎる!自己責任だ!という批判の方が、同情よりも圧倒的に多いのは本当に悲しいです。

私はもちろん危険を承知していましたが、人質になる確率は統計的には10%以下だと考え、残りの90%の方に賭けたのです。世の中の冒険家と言われる人たちは皆、そのように高い生存率の方に賭けて行動してきたと思います。そうでなければ、誰も冒険などしないでしょう。

そして、バグダッドからサマワに行き、そこで自衛隊に頼んで何か仕事をさせてもらうことを考えていたので、100ドルでも間に合うだろうと思い、入国しました。将来、海外の平和協力隊に入って活動することを希望していたので、その前にいろいろな体験を積んでおきたかったのです。

しかし、賭けの結果は10%の悪い方が起きてしまい、さらに、武装グループはサマワ行きの話を聞いて、私を自衛隊員だと誤解してしまいました。だから、もしも小泉さんが最初から強硬姿勢で臨まないで、私が単なる旅行者に過ぎないことを、もっと真剣に、もっと粘り強く説得してくれたら、私が解放される可能性が生まれたかも知れません。

でも彼らが私を残酷な方法で殺した根本の理由は、そのような誤解や自衛隊の撤退拒否というよりも、心底からの怒りだと思います。あれだけ多くの罪のない市民を無残に殺害した米軍と、それを支援する外国の軍隊に対する怒りです。もしも、私がイラク人だったら、同じような怒りで心が一杯になったでしょう。

彼らがその怒りをぶつけようとする時、強力に武装された軍隊では立ち向かえないので、私のような弱い人間を捕まえて、軍隊の身代わりとして私を殺して、憂さ晴らしをしたのです。

私の処刑映像を見て、多くの同胞を無慈悲に殺されたイラクの国民が、少しでも気が晴れるならば、あるいは、日本人が平和の実現に本気で力を尽くす気持ちになれるならば、私の死は犬死とは言えないし、映像も大きな価値を持つと考えました。

しかし、そんなことよりも、私は死にたくなかった!もっと生きたかった!本当に無念だ!

  11. 地震対策はできているか?

1. 問題

昨年(2004年)末に起きたスマトラ沖地震の犠牲者は、大部分は津波によるとはいえ、15万5千人(1月3日現在)に達する。日本でも1995年の阪神・淡路地震で、死者:6433人、重傷者:1万683人、軽傷者:3万3109人、全壊家屋:10万4906棟、半壊家屋:14万4274棟にのぼった(朝日新聞より)。2004年10月の新潟県中越地震では40人が命を失い、約3000の家屋が全壊した。22年前に新築した家のローンの支払いを1年前にやっと終えた直後に、この地震で家が全壊してしまい、途方に暮れている71歳の男性の借家生活の様子ををテレビで放映していた。

このようなニュースに接した時、私たちは被害者に対して心からの同情を抱くと同時に、自分たちは大丈夫だろうかという不安に襲われる。特に阪神・淡路地震の犠牲者の死因は主に倒壊家屋の下敷きによる圧死であることを考えると、将来、大地震が起きた時、自分が住む家が果して壊れてしまうのかどうか心配になる。

木耐協(日本木造住宅耐震補強事業者協同組合)が平成13年7月1日から平成16年6月30日まで(3年間)に実施した耐震診断44,682件の耐震診断結果は以下の通りである。

耐震診断対象家屋:全国/昭和25年以降、平成12年5月までに着工された、木造在来工法2階建て以下の建物      
耐震診断基準:建設省住宅局監修「木造住宅の耐震精密診断と補強方法」に基づき
A地盤・基礎 B建物の形 C壁の配置 D筋交い E壁の割合 F老朽度を調査。
その結果が1.0点を標準点とする4段階の結果に評価され、1.0点以下の建物は「既存不適格住宅」と呼ばれる。

1.5以上 安全です
1.0以上1.5未満 一応安全です
0.7以上1.0未満 やや危険です
0.7未満 倒壊または大破壊の危険があります

(イ)1980年(昭和55年)以前の建物:24,532件 (平均築年数 34年)
安全です:2%、一応安全です: 12%、やや危険です: 21%、倒壊又は大破壊の危険があります:65%  → 耐震性に危険がある住宅は86%

(ロ)1981年(昭和56年)以降の建物:20,150件 (平均築年数 12年 )
安全です : 12%、一応安全です: 28%、やや危険です: 26%、倒壊又は大破壊の危険があります:34%  → 耐震性に危険がある住宅は60%

木耐協 

木耐協の最終目的は家屋の耐震補強工事なので、必要以上に厳格な診断をして人々の不安を増大させ、工事の注文を増やそうとしているのではないかと疑いたくなるほど、この調査結果はひどい。しかし、都心の直下で大地震(M6.9)が発生した場合、死者は最悪で阪神大震災の倍近い約1万2000人に達し、約85万棟の建物が全壊、焼失する可能性を政府の「首都直下地震対策専門調査会」は昨年の12月に公表しているので、木耐協のデータはそれなりの信頼性があると考えてよさそうである。
 


2. 原因

(1) 1981年以降に建てられた木造住宅の場合
1981年に建築基準法が改正され、必要壁量を大幅に増やし、震度5強程度までは倒壊しないとされる「新耐震基準」が採用され、平均築年数も12年という短さにもかかわらず、耐震性の危険が60%という驚くべき調査結果が現実に出ているのは何故だろうか?

考えられる第1の原因は、新建築基準法は震度5強に耐えられることを基準にしているが、耐震精密診断は震度7(阪神・淡路地震の最大震度は7)に耐えられることを基準にしていることである。両者の間に整合性がないため、建築基準法にしたがって建てられた家でも耐震診断では悪い結果が出る。

建築基準法は、建築物の敷地,構造,設備,用途に関する最低の基準を定めて,国民の生命,健康および財産の保護を図り,公共の福祉の増進に資することを目的として昭和25年(1950)に制定された法律である。「国民の生命,健康および財産の保護」の中には当然、地震から家と人命を護ることも含まれているはずである。これは,第2次世界大戦後の社会状況の変化と建築の技術の進歩に伴い,それまでの市街地建築物法(大正8年(1919))に代わって制定された。

建築基準法に基いて建てられた家が大地震に弱いということは、建築基準法そのものが欠陥と不備な点を持ち、目的を達成していないことになる。

考えられる第2の原因は、実際の住宅には新建築基準法を遵守して建てられていない違法建築がたくさんあるということである。


(2)1980年以前に建てられた木造住宅の場合
日本は地震が頻発する国だから、耐震の建築法は昔から改良を重ねてきているはずである。特に1923年に死者・行方不明者を14万人も生んだ関東大震災などの経験を教訓にして、耐震建築の知識は十分に蓄積されてきたはずである。また、昭和25年から昭和55年までは、戦後の混乱期が終わって、日本全体の再建が軌道に乗り、高度成長を遂げた時期である。にもかかわらず、この時期にできた家屋の大部分(86%)の耐震性が危険であるというのは何故だろうか?
その原因として考えられることは、本質的には(1)で指摘したことと同じで、その度合いがもっと高いということであろう。


3.解決案・対策

(1)第1原因(建築基準法と耐震診断の非整合)を取り除く
第1の原因を生んだ責任は、震度5強を超える地震に耐えられない家でも合格とする建築基準法を制定し、それと整合性のない耐震診断方法を作成し、その状態を放置してきた行政官庁(建設省)にある。東京では大震度がいつ起きてもおかしくないと言われてきたのに、1981年に改正された建築基準法は震度7ではなく、震度5強を基準にしたのが誤りであった。 したがって、建築基準法を遵守した建物は、当然に耐震診断でも合格するように、建築基準法を修正する。
その場合の建築コストは多少は高くなっても、地震に強い家を建てるほうが、地震による人命や財産の被害よりも小さくて済むだろう。

(2) 第2の原因(違法建築)を取り除く
第2の原因を生んだ責任は、違法建築を行った建築業者と、それを監視しなかった行政官庁(建設省)にある。
全ての住宅について、それが建築基準法を遵守しているかどうかを完成前に検査する第三者の機関を設置し、違反が見つかったら直させることを義務付ける。
既存の住宅についても検査を行い、違法建築であることが分かったら、建築業者に無料で直させる。その際、建築業者だけでは負担できない場合は、国、都道府県、家主もそれなりの負担をする。

さらに、このような問題を取り上げて責任を追求しない議員やマスコミにも責任がある。
また、このように無責任な関係者に対して怒らない国民にも責任がある。

以上の分析で明らかなように、地震の発生そのものは天災であるが、家屋が倒壊して多数の人々が命を奪われることは人災である。したがって、地震対策として最も必要なことは、耐震性の危険がある住宅を増大させた前記の原因に責任のある行政官庁(建設省)、建築業者、議員、マスコミ、国民の全てが、その原因を取り除くための行動を直ちに取ることである。

しかし、現実問題として、このような行動が直ちに取られるとは期待できず、それが実現するまでに大地震が起きて甚大な被害が発生してしまう危険がある。だから、私たちは自衛のために自分が住む家の耐震検査をして、それに基づいて予算の範囲内で耐震効果の高い補強工事をするしかない。
   
一方、自分が生きている今後数十年間に、家屋が倒壊するほど大きな地震が、自分が住む地域で本当に起きるかどうかについて、その確率はかなり低いのではないかという思いもある。また、高い費用を支払っても、補強工事が絶対に安全を保証するものでもないということもある。実際に耐震診断を受けて、補強工事をしているのは一部の人であるのは、多分このような思惑があるからだろう。

自分の家に耐震補強工事をするかどうかは、結局、保険の一種と考えることができるかどうかにかかっている。自動車保険に入っている人の大部分は、結果的には掛け捨てになっているが、だからと言って入らないという道を選ばない。耐震補強工事は自動車保険とはいろいろな点で異なるが、本質的には同じものであろう。


4.耐震工事の実施

我家も木耐協の耐震診断を参考にして、補強工事を行った。いろいろ考えたが、最終的には「家の倒壊を防ぎ、命だけは守る」ために必要な最小限度の対策として、ホールダウン金物を家の四隅(実際には5つ)の柱に取り付けた。

この金物の設置は、平成12年6月の建築基準法改正で、義務付けられるようになった。平成12年6月以降に建築された家屋を、木耐協が耐震診断の対象外としているのは、このためである。

地震の振動の向きが垂直(タテ揺れ)でも水平(ヨコ揺れ)でも、家が倒壊する最大の原因は、四隅の垂直な柱が土台の横木から分離してしまうことである。 ホールダウン金物は四隅の柱と基礎のコンクリートを接続して固定することによって、この分離を防ぐ働きをする。建物の形、壁の配置、筋かい、壁の量が多少不完全でも、ホールダウン金物を取りつけることによって、倒壊を防げることが、実験により確かめられているそうだ。そして、10年前の阪神・淡路地震で倒壊した家の大部分は、もしも、このホールダウン金物を取りつけていたら、倒壊しなかっただろうと考えられている。

将来、大地震が実際に起きた時、我家の倒壊を本当に防いでくれるかどうかは、その時になってみないと分からない。しかし、現実的な対抗策を実施することによって、心の不安はかなり和らいだと言える。

  12. 9.11衆議院選挙 − 政党と有権者を評価する

1.政党選択の基準

9月.11日の衆議院選挙で単独過半数を獲得した自民党が今後4年間の政権を担当することに決まった。選挙前の世論調査と同じ結果ではあるが、予想をはるかに上回る大勝という最終結果を見せられると、いろいろ考えざるを得ない。この結果を見て抱いた最大の疑問は、「有権者はどのような思考プロセスに基いて、自分が投票する政党を決めたのだろうか?」ということである。

本来あるべき政党選択の思考プロセスは、次のようなものであろう。
(1) 自分にとって最も重要な問題で、政治のあり方と密接に関係するものを、7項目くらい列挙して、それらを優先順位の高いものから順に並べる。
(2)それらの問題別に、各政党の基本的な考え方、具体的解決案(政策)、実績を調べて、比較する。
(3) この比較に基いて、総合して自分にとって一番満足できる結果を出してくれそうな政党を選ぶ。

問題の優先順位リストは、個人個人によって異なるだろうが、次の2つの順位は、誰にとっても共通しているだろう。つまり、この2つのことは、自分だけでなく、他人にとっても最大の基本的欲求なのである。

1. 生涯にわたり安定した収入を得られること。
2. 安全であること。

したがって、ここでは、この2項目について、各政党の取り組み方を比較して、評価して見よう。おそらく、郵政の民営化の問題は、このリストの中で上位の7つに入ることもないだろう。


2.最大の争点

1) 生涯にわたり安定した収入を得られること。

国民の平均的所得(厳密には中央値)の50%以下の所得しか得ていない人々(所帯)の割合を貧困率と呼ぶ。経済開発協力機構(OECD)が2005年2月に公表したデータによれば、アメリカ 17.1%、アイルランド 15.4%、日本 15.3%、イタリア 12.9%、イギリス 11.4%、オーストラリア 11.2%、カナダ 10.3%、ドイツ 8.9%、フランス 7.0%、スウエーデン 5.3%、デンマーク 4.3%である。日本は10年ほど前の8%台から、急激に2倍になり、一億総中流意識は昔の話になった。

先進国中、日本の貧困率は3位という現実がある以上、国民が生涯にわたり安定した収入を得られるという目標は、全く実現していないし、将来も自民党の政策の下では実現が難しい。たとえ自分自身の収入は安定していても、国民全体の貧困率をこれだけ高くしている政府を是認すべきでない。例えば、野宿しているホームレスの人々を横目でみながら、自分はそのような心配がないからと言って、満足できるだろうか?政治の究極的な目標は、最大多数の最大幸福であることを考えれば、これだけの貧困率は政治の失敗である。

また、所得格差を表すジニ係数が高位のグループ(30.6%以上)には、米国 35.7%、イタリー 34.7%、ニュージーランド 33.7%、英国 32.6%、日本 31.4%などが入る。中位水準(27%〜30.5%)グループには、ベルギー、フランス、ドイツなどのEU諸国とカナダ、オーストラリアなどが入る。低位グループ(27%以下)には、デンマーク、スウェーデンなどが入る。

日本の貧困率と所得格差を高くしている第一の原因は、所得の再配分が極めて不十分なことである。所得の再配分の方法としては、児童手当・失業給付・生活保護などの社会保障による現金給付と課税がある。税・社会保障給付を含めない市場所得のみによる貧困率では、日本は主要な欧米諸国よりは低い。しかし社会保障給付と課税後の可処分所得における貧困率では、日本は米国を除いたヨーロッパ諸国の貧困率を大きく上回っている。つまり、ヨーロッパ諸国は、社会保障給付と課税によって低所得者の可処分所得を大きく引き上げているが、日本はその再分配政策が貧弱なため、可処分所得の貧困率は高くなっている。

第二の原因は、10年以上続いている不況である。それによって企業の倒産や失業者が増え、賃金の上昇は抑制された。

第三の原因は低賃金の非正規社員(パート、契約社員、派遣社員など)が雇用者全体に占める割合の増大である。この比率は、10年前は約20%だったのが、2004年には約30%に急増している。このように非正規社員が急増した最大の要因は、不況によって悪化した業績から脱出するために、企業が人件費の削減策として、事業の中心的業務は正社員にやらせ、周辺的業務は低賃金の非正規社員にやらせる施策を推進したことである。

第四の原因は、人口の高齢化による高齢者世帯の増加や単独世帯の増加である。

これら4つの原因のうち、第一と第二の原因は、政権を担当してきた自民党の経済政策の失敗によって引き起こされたということは、国内と海外の多くの専門家が指摘しているとおりである。

自民党以外の政党が政権を担当したら、この貧困や所得格差の増大を抑えることができるだろうか? 民主党も共産党も社民党も実際に政権を取ったことがないので、実績から判断はできない。しかし、基本的な考え方を比べるなら、野党は自民党よりも、所得の再配分政策をもっと強力に進めることは間違いない。何故なら、自民党は市場原理を最優先するアメリカ型の経済システムを目指しているのに対して、民主党は市場原理に立脚しつつも、福祉を重視するヨーロッパ型の経済システムを尊重しているからである。

自由な競争市場においては、需要と供給の関係によって、財貨やサービスの生産量や価格、雇用者の数や賃金などが決まる。政府の介入、規制、管理を排除して、そのような市場メカニズムに任せて経済を運営することが、社会全体で最も効率的な結果をもたらすという理論 を市場原理と呼んでいる。自民党と民主党は、市場原理を重んじる点では共通しているが、市場原理の弊害である貧富の格差への取り組み方については、大きな違いがある。

民主党の基本理念には、次の言葉が明記されている。
・「市場万能主義」と「福祉至上主義」の対立概念を乗り越え、自立した個人が共生する社会をめざし、政府の役割をそのためのシステムづくりに限定する、「民主中道」の新しい道を創造します。
・経済社会においては市場原理を徹底する一方で、あらゆる人々に安心・安全を保障し、公平な機会の均等を保障する、共生社会の実現をめざします。

市場原理が行き過ぎると、国民の貧富の差が拡大する。一方、政府が介入し過ぎたり、福祉が行き過ぎると、経済効率の低下、社会の活力の後退、税金の増加などが起こる。
したがってそのバランスをいかに取るかという問題があるが、現在の日本社会は、貧富の格差が目立つ状態なので、それを是正するためには、民主党の基本理念が求められる。


(2) 安全であること。

既にアメリカ人の過半数が間違いだと認めているイラク戦争に自民・公明連立政権が賛成して、数万人が殺害されている事実を見れば、安全であるという目標は、実現されていない。これだけ多くの他国の犠牲者に対して、自国の政府が責任を持つならば、自分自身が死の危機に曝されなくても、そのような政府を是認すべきでない。
この点では、初めから野党はイラク戦争に反対していたので、野党が政権を取っていたら、日本がイラク戦争の犠牲者に責任を持つことはなかったであろう。


3.民主党の敗因

(1) 有権者

以上の分析により、国民にとって最も重要な2つの課題について、与党の自民党よりも野党の方が、望ましい解決を図れるのではないかという推断ができる。したがって、今回の選挙では、野党に政権を交代させるという投票が、最善の選択だったであろう。

しかし、政権交代は実際には起きなかった。国民の多数は政党の選択について論理的な思考プロセスを放棄して、重要度の順位が7位にも入らない「郵政の民営化に賛成か反対か?」と問う小泉さんの戦略にはまってしまい、最重要な問題を忘れてしまったからである。選挙では、政党の力量が評価されると同時に、有権者の見識も評価されるが、今回ほどそれを見せつけられた選挙はない。「どの国も、その国民の見識に相応した政府を持つ」という言葉は、真実である。   


(2)民主党とマスコミ

だが、今回の選挙で政権が交代しなかった原因を、国民の見識不足だけに帰するのは正しくないだろう。何故なら、1.で指摘した市場原理と福祉に関する自民党と民主党の基本理念・方針の違いを知っているのは国民の一部で、多くの人は知らないからだ。というよりも、知らされていないのだ。民主党はマニフェストでも、新聞広告でも、テレビ討論会でも、演説でも、この違いについてはっきりした説明をしていない。新聞社もテレビ局も同じである。

また、2.のイラク戦争についても、政府の対応が誤っていたことを国民に思い出させて、その責任を問うことを、民主党は選挙中にやらなかった。

もしも、これら2つの最も重要な問題を民主党が選挙の争点にしていたら、無党派層の絶大な支持を得て、選挙に勝利していたのではないだろうか。以上のことを考えると、民主党が選挙で大敗した最大の原因は、選挙で何を国民に訴えるべきかについて、判断を誤ったことにある。したがって、次回の選挙で勝つためには、この敗因の分析に基いて、自民党を上回る戦略を構築することが絶対に必要である。


(3) 選挙制度

今回の選挙で自民党と民主党の議席獲得数の差が、得票率の差をはるかに上回ったのは、小選挙区制度による。1選挙区から1名の議員を選出する小選挙区制度は、イギリスやアメリカのように二大政党制が誘発され政権交代が起こりやすくなるという長所がある反面、死票が多くなり、少数意見が反映されにくいという短所がある。

イギリスの保守党と労働党、アメリカの共和党と民主党は、それぞれ日本の自民党と民主党と政策が似ている点がある。保守党や共和党の市場原理政策が行き過ぎて、大きな問題が起きると、労働党や民主党に政権が交代されて、その是正策が取られる。このよな政権交代によって、社会全体がバランスよく発展していく。英米の二大政党による政権交代のモデルが、日本でも小選挙区制度を導入した目的である。

もしも、イギリスやアメリカが、今日の日本のように問題だらけの状況に陥れば、政権交代が行われただろう。しかし、日本では行われなかったということは、小選挙区制度の弊害だけが現れて、本来の目的が達成されないことを意味する。このようなことが今後も繰り返されるならば、選挙制度の見直しが必要になるだろう。


(4) 公明党

選挙で民主党が戦った相手は、自民党と公明党の連合軍である。小選挙区の自民党の得票のかなりの部分は公明党支持者によるものなので、得票からそれを差し引き、それを民主党の得票に加えれば、民主党が勝っていた選挙区がたくさんあるだろう。したがって、もしも公明党が民主党と共闘していたら、自民党は敗北していた可能性が十分にある。

公明党の基本理念や政策は、自民党とはかなり対立し、民主党と共通点が多い。公明党の母体である創価学会は、福祉を最優先し、いかなる戦争にも反対している。それにもかかわらず、民主党ではなく、自民党と連合するのは、何故だろうか? それは創価学会の利益のためには、基本理念を犠牲にしても、野党より政権党である方が、得策だと判断したからだろう。

平和と民衆の救済を聖教新聞で毎日唱えている学会が、政治の世界では、それに反した行動を取っているのは、大きな自己矛盾である。しかし、そのために、学会が混乱に陥ることがないのは、学会員自身が同じ自己矛盾を抱えているからだろうか?

この自己矛盾に悩まないのは何故だろうか? 学会員にとって学会の教義はこの世で幸せになるための一つの方便に過ぎず、目前の利益と教義が対立した場合は、教義を犠牲にして、目前の利益を取る方が合理的だと考えているのだろうか? もしも、そうだとすると、創価学会は純粋な宗教団体とは言えないだろう。

                                                                   ― 2005年9月12日 記す −


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