ルノアール(1841ー1919)
陽を浴びる裸婦 (1875-76)
ムーラン・ド・ラ・ギャレット (1876)
ぶらんこ (1876)
イレーヌ・カーン・ダンヴェール嬢 (1880)
田舎の踊り(1883)
パリのトリニテ広場 (1892)
ピアノに寄る娘たち (1892)
胸に花を飾る女(1900)
泉 (1910)
パリスの審判 (1914)
フランス印象派の画家。リモージュに仕立屋の息子として生まれる。一家はまもなくパリに出,13歳のときから陶器の絵付師としての修業をし,のちに家具や扇子にロココ風の装飾をして生計を立てる。
21歳のとき,エコール・デ・ボザール(国立美術学校)の生徒となり,グレール
M. G. C. Gleyre のアトリエに入り,バジール,モネ,シスレーらと親交を結ぶ。1863年ころフォンテンブローの森で戸外制作を試み,そこで会ったディアズ
N. Diaz dela Pe4a の影響もあって,色彩は明るさを増す。友人たち,とくによくいっしょに制作したモネが風景画に強い関心を示したのに対し,ルノアールは戸外人物にひかれる。
64年のサロン(官展)初入選作《踊るエスメラルダと山羊》(自身の手で破棄),《狩猟のディアナ》(1867)は物語性が強く,人工的な不自然さを残すが,68年にサロンに出品した《日傘の女》では,戸外に立つ白い服の女性に当たる光と影の効果を,きわめて自然なままに追求して新しい一歩を開いた。
このようにして74年の第1回印象派展を迎えたルノアールは,光あふれる戸外での幸福そうな人々の集いを描きつづけ,ドガと並んで印象派における人物画家として,1,2,3,7回目の印象派展に出品した(《船遊びの人々の昼食》1880‐81など)。
81年のアルジェリア旅行のあと,イタリアに旅立ち,ラファエロの作品に強い感銘を受ける。それはちょうど彼が,感覚を通して移ろいやすい視覚的効果を描き留めようとする印象派のやり方に疑問を持ちはじめ,より堅固で永続的なものを表そうとしていた時期であった。彼の様式は,輪郭線と冷たい色調で特徴づけられる〈酸っぱい様式
Mani≡re aigre〉に変わっていく。しかし88年,この様式に行き詰りを感じたルノアールは,再び輪郭線のない,あふれるような豊かさを示す色彩の開花へ,すなわち〈真珠色の時代Pレriode
nacrレe〉へと移行していく。
1903年,地中海岸のイタリアとの国境に近いカーニュ・シュル・メール
Cagnes‐sur‐Mer にコレット荘を買い取り,持病のリウマチに苦しめられながらも,裸婦や肖像画の制作を続け,意欲は衰えることを知らなかった。親しみやすい小作品がほとんどであったが,《水浴の女たち》(1918ころ)のような大画面に,晩年の裸婦研究の成果を結実させた。