レンブラント (1606ー69)


                            

                                      23歳の自画像 (1629)








           

                                テュルプ博士の解剖学講義 (1632)








                             

                                  ガニュメデスの略奪 (1635)








                    

                                        夜警 (1642)








                         

                                  本を読むティトゥス (1656−57)








              

                                     ユダヤの花嫁 (1660年代)








                           

                                     63歳の自画像 (1669)








オランダの画家,版画家。ルーベンス,ベラスケスと並ぶ17世紀最大の画家で,画種ごとの専門化が進む当時のオランダにあって,物語画(神話,聖書,古代史の物語に取材した絵画)と肖像画を中心に,風景や風俗的主題も広くとりあげ,それぞれ約400点の油絵とエッチングおよび約1200点の素描という,質量ともに他を圧する作品群を残した。とりわけ当時としてはまったく異例な約50点にのぼる自画像は,自己の内面を見つめ続けた画家の近代性を如実に語っている。抑制された動きと内部からにじみ出るような暖かい光の輝きを特色とする晩年の一連の作品は,近世以降の西洋絵画の中で最も深い精神性を備えたものに属する。また版画の分野ではエッチング技法の完成者として知られ,エングレービングにおけるデューラーと双璧をなす存在である。

 製粉業者の子としてライデンに生まれる。1620年,ライデン大学に入学するがすぐ退学し,ファン・スワーネンビュルフ J. van Swanenburgh に入門,次いでアムステルダムで P. ラストマンに学ぶ。ラストマンはイタリアからカラバッジョおよびエルスハイマーの影響をオランダに導入した一連の物語画家たち,いわゆる〈レンブラント前派 Pre‐Rembrandtists〉の代表格であり,旧約聖書に好んで取材し,前世代のマニエリストとは対照的に,寓意性を排して物語の明快な叙述を志向した彼の絵画は,レンブラントに永続的な影響を与えた。25年ころからライデンで活動を始め,友人のヤン・リーフェンス J. Lievens と競合しつつ,強い明暗対比と精緻な自然主義的細部描写を示す物語画を描く。

31年末アムステルダムに移住。翌年の《テュルプ博士の解剖学講義》で流行画家として名声を確立し,多数の肖像画を続々と生産する一方,ライデン時代に知己を得た文人政治家ホイヘンス C. Huygens の推薦で,オランダ総督フレデリック・ヘンドリックのために《キリスト受難》の連作を制作する。34年,フリースラントの名門出身のサスキア・ファン・アイレンビュルフと結婚し,画家組合に入会,次いで39年には市内に邸宅を購入。フリンク G. Flinck,ボル F. Bol ら多数の弟子を養成したこの時期の作品には,《アブラハムの犠牲》《目をつぶされるサムソン》など,劇的瞬間における激しい動勢と,いくぶん誇張された身ぶりと表情による感情の描出を特色としたものが多く,これらはレンブラントがイタリアに留学しなかったにもかかわらず,ルーベンスを筆頭とする当時の国際的なバロックの潮流にきわめて敏感に対応していたことを示している。

写実的なオランダ風景画の中にあって特異な位置を占める一連の独特の幻想的風景画の制作や,生涯の趣味となる美術品・骨董品や異国の武具・衣装などの大規模な収集も,このころに始まった。42年には市民自警団の委嘱で《フランス・バニング・コック隊長の射撃隊》を制作。《夜警》の誤称で知られるこの大作は,《解剖学講義》で効果をあげた集団肖像画へのドラマの導入をいっそう大胆に発展させたもので,従来の制約を破って,単調に陥りがちなこの画種を歴史画の理念と結合させた無比の野心作である。

 同年サスキアが息子ティトゥスを残して他界。このころから彼の作品は1630年代のバロック的動勢に代わって端正で均整のとれた古典的骨格を示すようになる。ファン・デイクの優雅な宮廷的画風がオランダに移入された40年代は,大衆の趣味とレンブラントの芸術的意欲の間に乖離(かいり)が生じ始めた時期であり,注文肖像画の制作は減るが,これに反比例して彼の作品は内省的性格を深めてゆく。大作《百フルデン版画》(《病者を癒し幼児を祝福するキリスト》)および《三本の木》《シックスの橋》などのエッチングの傑作や,斬新な風景素描の多くが生まれたのもこの時期である。

50年代には,ヘンドリッキエ・ストッフェルスとの内縁関係に対する教会からの非難,浪費癖のみじめな結末である強制財産処分など,私生活上の苦難にもかかわらず,聖書に取材した物語画,家族や親しい友人を描いた肖像画,自画像などに多くの傑作を生み出した。かつての大衆的人気は失ったが,遠くシチリアからのものを含め重要な注文も幾つか得ている。60年代にはいってからもヘンドリッキエ,次いでティトゥスに先立たれるなど不幸は続くが,彼の芸術はいっそうの進展を見せ,《ユダヤの花嫁》《ある家族の肖像》などの最晩年の傑作では,輝かしくしかも調和のとれた暖色系の色彩と息づくような大胆なマティエールが呈する,この上なく感覚的な絵画美が,深く内面的な人間性の洞察と稀有なあり方で統合されている。

 レンブラントの油彩技法を一言で概括すれば,ティツィアーノら16世紀ベネチア派の延長上に位置づけられるが,最初期から見られる絵筆の末端や指先の活用,ハイライト部分などに顕著な厚いインパスト,晩年の作品の特徴をなすパレットナイフの活用による大胆な面的構成など,革新的な創意にもはなはだ富んでいる。規範を重視する古典主義的芸術観が支配的であった17世紀後半から18世紀においては,あまりにも個性的なレンブラントの芸術は版画を除いて十分に高く評価されなかったが,ロマン主義の芽生えとともに再評価がなされて以後は,今日まで西洋絵画の最高峰の一人として揺るぎない名声を保っており,その影響を受けた芸術家も枚挙にいとまがない。