ラファエロ (1483−1520)

                              

                                     美しき女庭師 (1507)









                  

                                       アテネの学園 (1508) 








イタリア・ルネサンス期の画家,建築家。英語ではラファエル Raphael。ウルビノに生まれ,ローマで没。古典主義絵画の大成者であり,その後西欧絵画の歴史のうえで,最高の範例と仰がれた。

 父ジョバンニも画家で,少年時代に最初父から絵画の手ほどきを受けたとされる。次いでペルジーノのもとに学び,おそらくはペルージアのカンビオの壁画装飾に協力,またペルジーノの影響の強い《聖母の結婚》(ブレラ美術館)を描いた。他に初期の作品として,《騎士の夢》(ロンドン・ナショナル・ギャラリー),《三美神》(シャンティイ,コンデ美術館)などがある。1504年秋ごろからフィレンツェに移り,フィレンツェ派,とくにレオナルド・ダ・ビンチの作品を学んで,静謐で安定した様式を完成した。この時期の代表的作品として,《聖母の埋葬》(ボルゲーゼ美術館),《アニョロおよびマッダレーナ・ドーニの肖像》(ピッティ美術館)のほか,《大公の聖母》(ピッティ美術館),《ひわの聖母》(ウフィツィ美術館),《牧場の聖母》(ウィーン美術史美術館),《美しき女庭師》(ルーブル美術館)など,多くの聖母子像が挙げられる。

08年,教皇ユリウス2世に招かれてローマに赴き,ユリウス2世,レオ10世の下でバチカン宮殿の〈署名(セニャトゥーラ)の間〉(1508‐11),〈エリオドーロの間〉(1511‐14),〈ボルゴの火災(インチェンディオ)の間〉(1514‐17),〈ロッジア〉(1517‐19)などの装飾活動に従事した。とくに,〈署名の間〉の壁画《アテネの学園》《聖体の論議》は,変化に富んだ人物表現と完璧な全体構成によって,ルネサンス期の最高の傑作に数えられる。

この〈署名の間〉は,四周の壁や天井の装飾にいたるまでラファエロの構想になり,制作もほとんど彼自身の手になると考えられるが,それ以後の装飾活動においては,しだいに多くの協力者の手を借りるようになり,〈ボルゴの火災の間〉や〈ロッジア〉の装飾などは,ラファエロの基本構想と下絵に基づいて,ジュリオ・ロマーノら多くの弟子たちが制作に参加した。また,システィナ礼拝堂を飾るタピスリーのための原寸大下絵〈使徒行伝〉のシリーズ(ビクトリア・アンド・アルバート美術館)を制作したり,14年,同郷の先輩建築家ブラマンテが世を去った後はサン・ピエトロ大聖堂造営の総指揮を任されるなど,教皇庁のためにデザイナー,建築家としても活躍した。さらに15年には,教皇レオ10世より古代遺物監督官に任命されて,多くの古代遺品の調査にあたった。

 ローマでのラファエロの活動は,教皇庁のためだけにかぎらず,多くの富裕な保護者(パトロン)にも捧げられた。とくに銀行家アゴスティノ・キージのためには,その別荘ファルネジーナ宮殿の装飾(《ガラテイアの勝利》の壁画ほか)や,サンタ・マリア・デル・ポポロ教会のキージ礼拝堂の設計と天井装飾および彫像のデザインを引き受けた。それとともに,タブローにおいても休みなく制作を続け,天上の音楽に魅せられる美しい《聖カエキリア》(ボローニャ絵画館)をはじめ,彼が最も得意とした聖母子像において,《フォリニョの聖母》(バチカン絵画館),《アルバ家の聖母》(ワシントン・ナショナル・ギャラリー),《システィナの聖母》(ドレスデン国立絵画館),《小椅子の聖母》(ピッティ美術館)などの卓越した名品をつぎつぎに生み出した。

また肖像画においても,《ユリウス2世の肖像》(ロンドン・ナショナル・ギャラリー),《レオ10世と2人の枢機縁》などの高位聖職者をはじめ,ラファエロと親しかった人文主義者《バルタザーレ・カスティリオーネの肖像》(ルーブル美術館)や,彼の恋人を描いたとされる《ベールの女》(ピッティ美術館)などの絶品がある。
 これらの優れた作品や,残された多くのデッサン,あるいは版画複製などによって,ラファエロの作品はヨーロッパ中に知られ,最も完成された美の規準として,19世紀の新古典主義にいたるまで,西欧の絵画理念に最も大きな影響を与えた。