ピカソ (1881−1973)
聖体拝領 (1895−96)
ハトを抱く子供 (1901)
老いたギタリスト (1903)
老いた乞食と少年 (1903)
悲劇 (1903)
青い裸体
青い少年
玉のり (1905)
家族
アビニョンの娘たち (1907)
ピエロ (1918)
海水浴客 (1918)
海岸を走る女 (1922)
鏡の前の少女 (1932)
夢
女 (1937)
Dora
Maar の肖像 (1937)
闘牛
三人の音楽家
田舎
ゲルニカ (1937)
半人半羊の神 (1946)
ハト (1957)
恋人たち
女性
母性
母と子供
若者の踊り
小さなアイリス
ドンキホーテ
平和のハト
ピカソ (1881−1973)
スペインの画家。その制作活動は,絵画のみならず,版画,彫刻,陶芸,舞台装置,タピスリーなどのあらゆる造形の分野にわたり,制作量は美術史上のあらゆる芸術家たちをしのぐ膨大な量に達している。その名声と評価もかつて例をみない。20世紀における造形上のもっとも大きな変革であったキュビスムの創始者として知られるが,様式は写実主義からシュルレアリスムに至るまで,きわめて幅が広い。ピカソの長い画歴は,直線的な発展として跡づけることは困難で,めまぐるしいほどに技法も主題も変化する(そのため,しばしば〈変貌の画家〉と名づけられる)。他方,彼の主題の中心をなすのは,戦争と平和,貧困,絶望,怒りと歓び,愛と性などであり,ピカソがつねに人間的主題について語り続けた画家であったことがわかる。
ピカソはマラガに生まれ,絵画教師であった父ホセ・ルイス・ブラスコ
Josレ Ruiz Blasco(ピカソは母方の姓)に学び,すでに少年時代から傑出した写実的技法と情緒表現の力を身につけていた。1895年バルセロナに移り,いわゆる〈カタルニャ・ルネサンス〉の躍進期にあった同市で青年期の芸術的形成を終える。マドリードにもごく短期間学ぶ。1900年初めてパリを訪れ(1901,02年にも赴く),04年よりパリに定住。1900年前後までは主としてキャバレー,バーなどを激しい筆触,強い色彩で表すが,01‐05年はいわゆる〈青の時代〉で,貧しい人々の絶望,悲しみを,青を主調とし,たとえば片方の肩をあげた表現的な姿勢で描く(《生》1903,クリーブランド美術館。《老いたギタリスト》1903,シカゴ美術館など)。
04年よりモンマルトルの集合アトリエ〈洗濯船
Bateau Lavoir〉に住む。このころより,しだいに画面に優しさが生まればら色が加わり,主題は曲芸師や旅芸人が多くなる(《玉のり》1905,プーシキン美術館など)。いわゆる〈ばら色の時代〉(1905‐06)である。
06年夏アンドラのゴソル Gosol に過ごしたあと,セザンヌ,イベリア彫刻,アフリカの黒人彫刻の影響下に,形態の単純化・平面化などの造形的な追求が始まり,07年の《アビニョンの娘たち》(ニューヨーク近代美術館)に到達する。これがキュビスムの先駆となり,セザンヌに注目し同種の絵画理念を抱いていたブラックとともに,写実的形式の解体,対象の分析,総合という,熾烈な探求が第1次大戦中までなされる(《カーンワイラーの肖像》1910,シカゴ美術館など)。
第1次大戦後,イタリア旅行,バレリーナのオリガ・コフロワ
Ol’ga Kokhlova との結婚,長男ポールの誕生などを契機として22年ころまで,〈古典主義的作風〉でギリシア風の堂々とした人間像のある明るい画面を描く。以後,表現主義,シュルレアリスムなどの影響を自由にとり入れ,成熟した確定的な画面を生む(《鏡の前の少女》1932,ニューヨーク近代美術館など)。表現主義的,シュルレアリスム的傾向は,30年代後半の〈ミノタウロス連作〉,ドイツ空軍によるバスク地方の町ゲルニカの爆撃を契機に制作された大作《ゲルニカ》(1937,マドリード美術館)で頂点に達し,30年代西欧の不安や戦争への怒りを表現した。
第2次大戦中はパリにとどまり,戦後,南フランスのアンティーブ
Antibes,ついでバローリスVallauris に移る。後者では大量の陶芸を制作。55年にはカンヌ,61年からはムージャン
Mouginsに住む。最晩年においても制作活動はまったく衰えず,版画などを含めて制作量は日に数点にのぼる場合もあった。ベラスケス,ダビッド,クールベなどの翻案による連作群,バローリス礼拝堂の《戦争と平和》(1952),油彩・版画を含めて〈画家とモデル〉の大量の連作など,彼のいう〈日記〉が展開された。ムージャンで没。