第1部 人間と人間の間の平和を実現する 一人の人間の命は地球より重い |
「一人の人間の命は地球よりも重い」という言葉は決して誇張ではない。一人ひとりの個人にとっては真実である。だが、歴史を振り返ると、その命が一本の毛のように軽く扱われることが頻繁にあり、今も世界のあちこちで起きている。人間の命が奪われる事態の中で最大規模のものは戦争である。第1部では、人間と人間の間に平和を実現するために、戦争の悲惨な実態を1で確認し、その原因を2で究明し、戦争を防止するために、具体的に何をなすべきかを3で考える。
戦争によって世界中で死んだ人間の数は、軍人と民間人を合わせて、一六世一六〇万人、一七世紀は六一〇万人、一八世紀は七〇〇万人、一九世紀は一九四〇万人、二〇世紀は一億七八〇万人という推定がある(米年報『ワールド・ミリタリー・アンド・ソーシャル・エクスペンディチャーズ』)
二〇世紀の戦争別の死者の概数(民間人を除く)について、上位の一〇を並べると、次のようになっている。第二次世界大戦(一九三九‐四五)一五八四万人、第一次世界大戦(一九一四‐一八)八五五万人、朝鮮戦争(一九五〇‐五三)一八九万人、日中戦争(一九三七‐四一)一〇〇万人、ナイジェリア内戦(一九六七‐七〇)一〇〇万人、スペイン内戦(一九三六‐三九)六一万人、ベトナム戦争(一九六一‐七五)五五万人、インド・パキスタン戦争(一九四七)二〇万人、ソ連のアフガニスタン侵攻(一九七九‐八九)二〇万人、イラン=イラク戦争(一九八〇‐八八)二〇万人(ラッセル・アッシュ『世界なんでも
TOP一〇 』)
戦争という言葉は、武力による国家間の闘争の意味で普通使われるが、国家内部の武力紛争(内戦)も含める方が現実的だ。人間による人間の殺害という点では、全く同じだからだ。オーストリア継承戦争(一七四〇年)からソ連のアフガニスタン侵攻(一九七九年)までの二四〇年間に起きた主要な武力紛争三七七件のうち、国家間の戦争は一五九件(四二%)で、国家内部の戦争は二一八件(五八%)という調査がある。第二次世界大戦以降では、八一件の武力紛争のうち、六四件(八〇%)が内戦である。
また、戦争による死者の中に民間人が占める比率は、第一次大戦 五%、第二次大戦 四八%、朝鮮戦争 八五%、ベトナム戦争 九五%と増加している。
いかなる戦争も残酷な結果をもたらす。しかし、戦争と平和について考えるとき、アウシュヴィッツの強制収容所と広島・長崎の原爆投下は必ず思い起こすべき原点であり続けるだろう。ここでは特に広島・長崎の原爆投下について取り上げる。
八月六日
かつて広島を訪れたとき、原爆記念館から広場に出て、一九四五年八月六日に原子爆弾が落とされた直後、そこで繰り広げられた光景を思い起こそうとした。炎熱地獄の中で、苦悶している無数の老若男女の姿を頭の中に再現しようとしたが、実際は想像をはるかに超えるものだった。
一九四五年七月一六日、アメリカのニューメキシコ州で世界で初めて行われた原子爆弾の実験は成功した。この実験と同じ日に、リトル・ボーイと命名された原爆を積んだ戦艦インディアナポリス号は、サンフランシスコを出航し、七月二六日、太平洋上のテニアン島で原爆を陸揚げした。この戦艦は、その後フィリピンに向けて航海中の七月三〇日、日本の潜水艦に撃沈され、九〇〇人の乗組員が死亡している。
八月二日、第一目標は広島、第二目標は小倉、第三目標は長崎とする爆撃命令が、テニアン基地の米軍に下った。八月六日午前〇時三七分(日本時間)、先ず、目標の広島・小倉・長崎の天候を別々に調査するため、三機の気象観測機がテニアン基地から出発した。午前一時四五分、リトル・ボーイを搭載したB二九型爆撃機エノラ・ゲイ号は、爆発観測と記録撮影を任務とする二機の随伴機と共に、テニアン基地を離陸した。先に広島上空に着いた気象観測機のイーザリー少佐から、七時二五分、広島の天候が良好なので原爆を投下せよという指令を受けたエノラ・ゲイの機長ティべッツは、この時点で行き先を広島に確定した。
広島市上空の高度九六三二メートルに侵入したエノラ・ゲイの爆撃手フィヤビーは、八時一四分三〇秒、投下目標の相生橋を確認した。その三〇秒後八時一五分、照準器のガラス上の十字線の交点と相生橋が重なった瞬間に、彼は自動装置のスイッチを入れた。八時一五分一七秒、原子爆弾は機体を離れて落下を始め、四三秒後の八時一六分(広島市は八時一五分を採用)、目標地点の相生橋から二八〇メートル外れた島病院の真上の上空五八〇メートルで炸裂した。
この日の朝、広島市では午前七時二五分に警戒警報が発令されたが、七時三一分には解除されたので、人々はいつもと同じような一日(月曜日)の行動を始めていた。八時十二分、広島市の東三〇キロメートルの西条で一人の監視兵がエノラ・ゲイと二機の随伴機を見つけて、広島城の通信司令室に電話で報告した。そこから直ちに広島放送局に電話がかけられ、八時一四分にアナウンサーは近くのスタジオへ入ったが、一瞬の差で空襲警報のサイレンは間に合わなかった。
爆発の瞬間、爆心は摂氏数百万度の超高温となり、〇・一秒後には表面温度が三〇万度、半径一五メートルの紫がかった赤い火の玉になった。火の玉は熱線と放射線を放出しながら急速に膨張して、最大時には直径五〇〇メートルに成長し、約一〇秒間輝き続けた。その後しだいに冷却し、上昇して空気の抵抗を受けて、球形からドーナツ形に変化し,さらにきのこ雲に姿を変えていった。
核爆発から生じた全エネルギーの五〇%は爆風、三五%は熱線、一五%は放射線になって、それらが同時に人と物に作用した。これにより、半径五〇〇メートル以内の人々はほぼ即死し、一・二キロメートル以内の人々の半数は即死か、それに近い死に方をした。爆心から二キロメートル以内の全ての建物は、鉄筋コンクリートを除き全壊・全焼し、三・六キロメートル以内の窓ガラスは全部割れた。
即死を免れても、爆発後の大火災と大量の放射能により一〇日以内に死亡した人々も入れると、十一万九〇〇〇人が死亡した。そして、一九四五年末までに、約一四万人が死亡し、一九五〇年一〇月までに、約二〇万人が死亡した。
八月九日にはB二九型爆撃機ボックス・カー号が、初め小倉上空に飛来したが、雲に遮られて目標を見出せなかった。そのため、長崎に行って、十一時二分に原爆を投下した。その結果、一九四五年末までに、約七万人が死亡し、一九五〇年一〇月までに、約十四万人が死亡した。
被爆者と私たちの関係
広島と長崎の被爆による死者のことを考えるとき、同情だけでは済まされない。彼らは私たちの身代わりになって死んでいったという事実に気づかねばならない。小倉の人は、長崎の人が自分たちの身代わりになって死んでいったことが、よく分かる。他の都市の人も、広島や長崎が選ばれなければ、自分たちの都市が標的に選ばれたかもしれないと思うだろう。
もしも、原爆投下がなかったら、戦争はもっと長引いて、米軍の本土上陸が行われただろう。事実、一九四五年十一月一日に九州へ侵攻せよという命令が、五月二十五日にマッカーサーとミニッツに出されている。そうなれば、全国で膨大な数の日本人とアメリカ人が死に、その中に私たちの祖父母や両親や私たち自身が含まれていて、現在、私たちは存在していないかもしれない。あるいは、原爆の恐ろしさが広島・長崎で実証されていなければ、第三次世界大戦が勃発したかもしれない。
このようなことを考えると、今、私たちが生きていられるのは、広島と長崎の人々の犠牲のおかげであることが分かる。ところが、広島・長崎の悲劇を他人事のように扱って、被爆者を差別したため、被爆者は被爆の体験を隠してきた。ここでもクジ引き理論が成立していて、被爆者をもっと支援することが皆の義務である(第T部第7章3)。
戦争の原因は個々の戦争によって異なる。戦争が起きる一般的な要因を(1)で概観し、次に日本が起こした一五年戦争の原因を(2)で究明する。
(1)戦争の誘発要因と抑止要因
戦争や紛争を誘発する要因は、国家間の戦争の場合は、領土の拡大、植民地支配、特別な利権や資源の獲得、市場の確保や拡大、宗教的対立、報復、自衛などである。内戦の場合は、複数勢力間の政権獲得の争い、階級・民族・宗教・イデオロギーの対立などだ。一方、戦争や紛争を抑止する要因は、国内の批判や反対勢力、為政者や国民の倫理観、敵から蒙る人的物的損失、国際的な非難や制裁措置などである。
戦争を抑止する力が、誘発する力よりも弱くなり、さらに、戦争に勝つと予測したときに、戦争は起きる。これは、本質的に次の例と似ている。普通の人間は日常生活で法律違反をしないので、社会の安全と秩序が保たれている。それは、違反によって得られるもの(誘発要因:金など)よりも、失うもの(抑止要因:良心や罰など)の方が大きいからである。良心が麻痺したり、罰への恐れが小さくなったり、捕まらないと思ったとき、犯罪は起きる。
(2)十五年戦争の原因
日本では第二次世界大戦というと、太平洋戦争を連想しがちだが、太平洋戦争は一五年戦争の最終段階として扱わないと理解できない。一九三一年の満州事変と、その後の日中間の衝突から、日中戦争(一九三七〜一九四五)を経て、太平洋戦争(一九四一〜一九四五)が終結するまでの一連の戦いを、一五年戦争と総称している。
一五年戦争による死者は、日本では軍人と民間人を合わせて、三二〇万人とされている。中国では軍人と民間人を合わせた死傷者は三五〇〇万人と、江沢民国家主席が一九九五年に発表している。さらに、朝鮮や東南アジアやアメリカなどの死傷者も含めると、犠牲者は膨大になる。
十五年戦争は、中国を侵略しようとする誘発要因に対して、それに反対する勢力の抑止要因が弱かったことと、無謀な戦争計画によって引き起こされた。
一五年戦争の誘発要因
第一の誘発要因は、世界的な恐慌である。アメリカでバブル化した株価の大暴落(一九二九年)から始まった恐慌は、日本にも波及して、失業率は 八 〜 九 %に達し、未曾有の不況に陥り、社会不安が増大した。この恐慌を打開するには、国内だけの施策だけではなく、海外への進出も必要だという考えが軍部を中心に強くなった。これが満州事変の第一の誘因である。しかし、一九三三〜一九三五年ころには恐慌から脱出しているので、一九三七年に始まった日中戦争の原因を恐慌によって説明することはできない。
第二の誘発要因は、日本の対外膨張の野望である。徳川幕府が倒された後、明治政府が富国強兵に励んだ第一の目的は、日本が西欧列強の植民地になることを防ぐことだった。しかし、その後、西欧列強をお手本にして、その植民地政策を見習い、日本も他国を植民地化する政策をとるようになった。その対外膨張の潮流の最後の段階で一五年戦争が起きた。台湾と朝鮮を植民地化した後に残されたのが、中国だったのである。
日本はすでに朝鮮の支配権をめぐる日清戦争(一八九四‐九五)に勝って、台湾などを獲得した。さらに、満州や朝鮮の支配権をめぐる日露戦争(一九〇四‐〇五)に勝って、日本は韓国の指導権や南満州の利権などを獲得し、一九一〇年には朝鮮を併合した。一言で言うと、満州事変と日中戦争は、台湾と朝鮮の植民地化に成功した日本が、次の目標を中国に置いた侵略戦争であり、それを制止しようとしたアメリカとの衝突が太平洋戦争である。
これら二つの要因に誘発された軍部は一九三一年に満州事変を起こし、一九三二年に日本が事実上支配する満州国を建設した。そして、満州国を足場にして中国北部の占有(満州国の西南に広がる華北地域を第二の満州国にすること)を目指した軍部は、一九三七年に日中戦争を起こし、中国全土の侵略を始めた。
一九四〇年に日独伊三国同盟が成立すると、イギリスとアメリカは中国を積極的に援助し、日米関係は破局に直面した。日本はアメリカと和平交渉を始めたが、日本に対するアメリカの最終的要求(十一月二六日のハル・ノート)は、満州事変より前の状態に中国を戻すことであり、軍部はとうていこれに同意できなかった。
政府は一九四一年十一月五日の御前会議で、「百万の大兵を出し、十数万の戦死者、遺家族、負傷者、四年間の忍苦、数百億の国幣を費やしたり。この結果は、どうしてもこれを結実せざるべからず」と決断し、中国から撤退するわけにはいかないと考えた。そして、十二月一日の御前会議で「対米交渉は遂に成立するに至らず。帝国は対米英蘭に対し開戦す」という最終決定を下し、米国の撤兵要求を拒絶し、十二月八日に真珠湾を攻撃して、太平洋戦争が始まった。
一五年戦争の抑止要因
一五年戦争では、戦争を抑止すべき要因がほとんど機能しなかった。満州事変も日中戦争も太平洋戦争も軍部が中心になって始めた戦争だが、それに反対すべき勢力が戦争を抑止できなかった。
@ 政治システム
議会や政府が軍部の独断的軍事行動を制止できなかった最大の要因は、非民主的な大日本帝国憲法にあった。この憲法では、天皇は立法・行政・司法の三権を掌握する最高の統治権を持ち、その下に議会や内閣や裁判所があった。また、「陸海軍は天皇が統帥する」として、軍隊は三権から独立して、直接天皇に属していた。そして、天皇自身も実際には軍隊をコントロールできなかったので、軍部は主体的に行動することができた。
A マスメディア
満州事変の勃発後、日中戦争の前までは、まだ言論の自由が残されていた。この時期に新聞が軍部の暴走に強く反対していれば、その後の歴史は変わったかもしれないと言われている。しかし、実際には、新聞は満州事変と満州の独立を支持して、戦争をあおる役割を果たした。このような挙国一致の報道によって、国民が熱狂的に戦争を支持する潮流が生まれた。この世論の突き上げと軍部の圧力によって、最初は反対していた政府も満州国を承認した。
日中戦争以降は、言論統制が行われたので、新聞は自由を失い、太平洋戦争が始まると、政府の宣伝機関になった。結局、本来なら戦争の抑止要因になるべき新聞が、一五年戦争の全期間を通して、戦争の誘発要因になってしまった。
B 国際連盟
関東軍が満州事変を起こして、一九三二年に満州国を建設したとき、リットン調査団の報告に基づいて、国際連盟は日本軍の満州撤兵を勧告した。これを不満とした日本は国際連盟を脱退したが、勧告を強制する力を国際連盟は持たなかった。
無謀な戦争計画
一五年戦争の原因は、抑止要因が誘発要因よりも弱かったということだけではない。さらに、戦争に勝つという軍部の予想があった。戦いに負けると予想して、戦争を始める者はいない。無謀な戦争計画というべきその予想は、次のようなものだ。
第一は、中国の過小評価である。中国では一九一二年に孫文が指導する辛亥革命によって清朝が滅亡し、中華民国が成立したが、その後は軍閥が割拠し、孫文の国民党は弾圧され、分裂と混乱の状態が続いた。国民党を率いる蒋介石は一九二八年、軍閥を破って中国を統一したが、中国共産党との対立が深刻になり、内戦状態になる。このように中国は国民が分裂し、団結していなかったので、日本は短期間で勝利するだろうと見込んだ。
しかし、満州事変を契機に民間の抗日運動は激化し、国民党と共産党が休戦して、強力な抗日民族戦線を作って徹底抗戦に出た。そのため、中国の力を過小評価し、戦争の早期終結を予測していた日本軍は、泥沼化した長期戦に引き込まれた。
第二は、ドイツの過大評価と英米の過小評価である。アメリカの国力が日本よりもはるかに勝っていることは認識していたのに、なぜアメリカと戦争を始めたのだろうか? この点について、一九四一年十一月一五日の大本営政府連絡会議で決まった「対米英蘭戦争終結促進ニ関スル腹案」に、次のように書かれている。
「蒋介石政府を屈服させる。その上でドイツ・イタリアと提携して、イギリスを屈服させ、アメリカの戦争継続意思を喪失せしめる」。
これは、「日本は中国に勝つだろう。ドイツはイギリスに勝つだろう。そうすれば、アメリカは孤立して戦意を喪失し、日本に有利な講和を結ぶだろう。その時まで、日本はがんばればよい」ということを意味している。つまり、アメリカと戦争を始めた時から、自力で勝つための戦略は持たないで、イギリスの敗北とアメリカの戦意喪失を前提とした戦争計画を立てていた。日本の指導者は、このように無謀な戦争計画に基づいて、国家の命運を決める太平洋戦争を引き起こした。
現実には、ドイツはソ連やアメリカの底力に対抗できず、イギリスは敗北せず、アメリカは真珠湾の奇襲によって逆に戦意が高揚した。
アメリカ戦略爆撃調査団の『太平洋戦争報告書』にも、次のように日本の無謀な戦争計画が指摘されている。
「日本の根本的な敗因は、日本の戦争計画の失敗である。日本は短期戦に賭けたが、予想ははずれ、その貧弱な経済をもって、はるかに優勢な一〇倍以上の経済力を持つ強大な国家、アメリカと長期にわたる対抗を余儀なくされたことにある」
戦争を抑止する力が、戦争を誘発する力よりも弱くなったときに、戦争は起こるので、戦争を防止するためには、戦争の誘発要因を弱め、抑止要因を強めることが必要だ。
(1)戦争の誘発要因を弱める
戦争や紛争に発展するほど深刻な政治的、経済的、民族的、宗教的な問題や対立が生じないように、予防する必要がある。例えば、第一次大戦後に締結されたベルサイユ条約は、敗戦国のドイツに莫大な賠償金を課して、経済的な窮地に追い込み、第二次大戦の原因の一つを作った。現在、韓国が北朝鮮に対して制裁的ではなく、援助的な太陽政策を採っているのは、そのような考え方に基づいている。
もしも、戦争を誘発するような問題が生じても、戦争以外の解決方法を考えねばならない。アメリカでは、ニュー・ディールと呼ばれる政策によって、大規模な公共事業などで失業者を減らし、一九二九年に始まった大恐慌からの脱出に成功した。日本でも満州事変(一九三一)の誘因の一つだった恐慌の打開策は、中国の侵略しかなかったわけではない。事実、諸々の政策によって一九三三年ころには生産水準は、恐慌以前の水準に回復している。
(2)戦争の抑止要因を強める
民主主義と自由主義を確立・普及する
民主主義とは、基本的人権を尊重し、自由と平等を守り、多数決と法律に基づいて政治を行うことである。二つの民主国家の間で、戦争は過去にほとんど起きていないことが検証されている。戦争で最大の犠牲者になる民衆が、自ら戦争を起こすことはないからだ。また、民主主義のルールは、暴力ではなく、話し合いで問題を解決することだからだ。第二次世界大戦は独裁政治の下にあった日本・ドイツ・イタリアによって始められた。もしも、これらの三国で民主主義と自由主義が行われていたら、大戦は起きなかっただろう。
第二次大戦後、アメリカとソ連の間で冷戦が続いた。しかし、ソ連が経済の行きづまりを打開するために、共産党の独裁政治と決別し、民主主義と自由主義に路線変更して、やっと冷戦が終結した。
イラク戦争は間違っていたことを、大半のアメリカ人も認めるようになった。他方、手段は間違っていたが、イラクを独裁国家から民主国家に変えて、そこから中近東全体に民主主義と自由主義を波及させようとしたアメリカの計画には価値がある。もしもこの計画が実現すれば、中近東の平和の礎が、大きな犠牲の上に築かれることになる。
アメリカの政治は、政府とマスメディアとNPO(非営利組織)・NGO(非政府組織)によって動かされていると言われている。日本のNPO・NGOはそこまで育っていないが、マスメディアが国民の意思形成に与える影響は絶大だ。新聞社・放送局・出版社のようなマスメディアは、戦争の抑止要因だけでなく、一五年戦争のときのように誘発要因になることもある。マスメディアの誤った情報に操作される危険から逃れるためには、私たちは多方面から情報を集める必要がある。
言論の自由がない国が、現在でもたくさんある。自由がある限り、マスメディアは、自国・他国を問わず、政府や社会や世論を監視する責任を持つ。外部からの圧力や発行部数の維持・拡大などのために、その責任を放棄し、政府や世論に迎合することがあってはならない。
核兵器と迎撃ミサイルの戦争抑止力
第二次大戦後今日まで、朝鮮戦争・ヴエトナム戦争・イラク戦争、あるいは、カンボジャ・コソボ・ルワンダにおける大量虐殺など、戦争や紛争が絶えなかった。しかし、大規模な世界戦争が起きなかったのは、原爆や水爆という核兵器の戦争抑止力に負うところが大きい。核戦争では、敵国を壊滅しても、同時に自国も壊滅すれば、戦争する意味がないからだ。
一方、核兵器の拡散という問題が新たに生まれた。核兵器の製造技術がもはや先進国だけの独占物ではなくなった今、核兵器を所有する国が増えつつあり、それが独裁国家やテロ集団によって使用される危険が生じている。
理想は、この世界から核兵器を廃絶することである。そのためには、敵の核ミサイルが上空に飛んで来る前に、それを探知して、一〇〇%の確率で撃ち落せる迎撃ミサイルは有効だ。このシステムが完成すれば、核ミサイルを使用しても無駄になるので、所有する意味がなくなるだろう。
国連を改革する
国際連合の最大の目的は、世界平和の維持であるが、今までベトナム戦争・ソ連のアフガニスタン侵攻・イラク戦争など多くの戦争や紛争を阻止できなかった。戦争防止という最大の使命を国連が果たせなかったのは、なぜだろうか?
最大の原因は、国連の安全保障理事会の決議の仕組みにある。安全保障理事会は五つの常任理事国と一〇の非常任理事国によって構成されているが、決議には、五つの常任理事国全てを含む九カ国の賛成が必要だ。もしも、五つの常任理事国(アメリカ・イギリス・フランス・ロシア・中国)のうち一カ国が拒否権を発動すれば、決議は成立しない。つまり、これら五カ国のうちの一カ国の国益が、世界平和よりも優先される仕組みになっている。
そのため、常任理事国の一つが国連を無視して単独行動を起こしても、制止できない。イラク戦争の場合、安全保障理事会の決議なしにアメリカは開戦したが、国連はそれを阻止できなかった。
このように、国連が平和維持という使命を果たせないため、抜本的改革が求められてきた。しかし、今まで改革できなかった現実を見ると、今後も多くを期待できない。
世界連邦を建設する
国際連合が戦争を防止できないのなら、残された道は世界連邦の建設しかない。世界連邦の下でも国家は存続するが、軍隊を持つことは禁じられ、世界連邦警察だけが兵器の所有を認められて、世界全域の平和維持に任じる。戦争だけでなく、貧困・飢餓・人権無視・環境破壊のように緊迫した問題も、国際連合では解決できないので、世界連邦の建設を急がなければならない。しかし、何も無い白紙の上に世界連邦を一挙に建設することは難しい。現存の組織を基にして世界連邦を建設するために、二つの道がある。
@ 国際連合を世界連邦に作り変える
現在の国際連合を強化・発展させて、世界連邦に作り変える。その運動を現在推進している世界連邦運動(WFM)は、各国の世界連邦運動団体の国際組織として一九四七年に結成され(本部はニューヨーク)、国連に対して提言を行っている。約二〇〇名の国会議員も加入している日本の世界連邦運動協会が策定した世界連邦建設への道程(ロードマップ 二〇〇七年版)は次のようなものである。
・国連憲章に代わる世界憲法の最終案を日本政府は国連総会に提出し、世界連邦設立条約への加盟を各国に求める(二〇一三年)
・条約の批准国による世界連邦設立連合を結成する(二〇一八年)
・国連加盟国の三分の二以上(国連安全保障理事会の全常任理事国を含む)の批准を完了する(二〇二三年)
・世界連邦の設立(二〇二五年)
世界連邦の建設という構想に対して、日本では二〇〇五年に衆議院本会議が「国連創設及びわが国の終戦・被爆六十周年に当たり、更なる国際平和の構築への貢献を誓約する決議」を採択し、その中で、次のように「世界連邦実現への道の探究」を挙げている。
「政府は、日本国憲法の掲げる恒久平和の理念のもと、唯一の被爆国として、世界のすべての人々と手を携え、核兵器等の廃絶、あらゆる戦争の回避、世界連邦実現への道の探究など、持続可能な人類共生の未来を切り開くための最大限の努力をすべきである」
「世界連邦実現への道の探究」という業務は、外務省総合外交政策局・政策企画室が担当することになった。この窓口を通して、日本の世界連邦運動協会は国連改革や東アジア共同体の樹立など、世界連邦の実現につながる政策を日本政府に提言している。
A 地域連合の上部組織として世界連邦を設立する
第一段階として、EU(ヨーロッパ連合)をモデルにして、アメリカ・アジア・アフリカ・中近東でも経済的地域連合を作る。第二段階として、それらの地域連合の上部組織として世界連邦を建設する。
アメリカではキューバを除く南北アメリカの三四カ国が、二〇〇五年までにFTA(自由貿易協定)を成立させる合意を二〇〇一年に行っているが、一部の国の反対があって、まだ実現していない。アジアでは、日本・中国・韓国・ASEANを含む東アジア共同体の構想があり、日本の外務省・h自民党・民主党はその実現に向けて意欲的である。アフリカでは二〇〇二年に五三ヵ国がAU(アフリカ連合)を誕生させたが、十分な成果をまだ達成していない。
ヨーロッパの政治的統合については、ドイツは欧州憲法制定や大統領制などに基づく欧州連邦を、イギリスは国家主権の維持を、フランスは国家主権と強固な国家連邦の共存を提案している。いずれにせよ、ヨーロッパ統合のステップは、他の地域連合だけでなく、世界連邦建設のモデルとしても注目されている。二度の世界大戦の反省から誕生したEUの成功は、夢物語に過ぎなかった世界連邦の建設を、現実的な課題に変えた。
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