歌川広重 (1797−1858)
東都名所 − 掘切の花菖蒲
東海道五三次 ー 日本橋
東海道五三次 ー品川
東海道五三次 ー 川崎
東海道五三次 ー 神奈川
東海道五三次 ー 保土ヶ谷
東海道五三次 ー 戸塚
東海道五三次 ー 藤沢
東海道五三次 ー 平塚
東海道五三次 ー 大磯
東海道五三次 ー 小田原
東海道五三次 ー 箱根
東海道五三次 ー 沼津
東海道五三次 ー 原
東海道五三次 ー 吉原
東海道五三次 ー 蒲原
東海道五三次 ー 由井
東海道五三次 ー 嶋田
東海道五三次 ー 金谷
東海道五三次 ー 日坂
東海道五三次 ー 袋井
東海道五三次 ー 見附
東海道五三次 ー 浜松
東海道五三次 ー 荒井
東海道五三次 ー 吉田
東海道五三次 ー 岡崎
東海道五三次 ー 池鯉鮒
東海道五三次 ー 宮
東海道五三次 ー 桑名
東海道五三次 ー 石薬師
東海道五三次 ー 亀山
東海道五三次 ー 阪之下
東海道五三次 ー 水口
東海道五三次 ー庄野
東海道五三次 ー 京都 − 三条大橋
安房 ‐ 雪景色
安房 ‐ 入り江
江戸名所 − 日本橋 ー 雪の朝
名所江戸百景 ー
日本橋通り一丁目
名所江戸百景 ー
上野 ー 月の松
名所江戸百景 − 亀戸 − 梅の庭園
名所江戸百景 − 高輪 − 虹
名所江戸百景 − 麹町ー山王祭
名所江戸百景 − 深川上空を飛ぶ鷲
歌川広重 (1797−1858)
江戸後期の浮世絵師。姓は安藤氏,幼名徳太郎,のち重右衛門。江戸八代洲(やよす)河岸の定火消同心の子として生まれ,13歳のとき両親を失い,家職を継いだ。生来絵が上手であったが,1811年(文化8)歌川豊広に入門,翌年より歌川広重と名のり,18年(文政1)ころ画壇へも登場。英泉風を採り入れた美人画や役者絵など意欲的に取り組んでいる。さらに23年には鉄蔵と改名,家督を嫡子に渡し,画家として立つ決意を固め,絵本類や風景画をも手がけるようになる。
そして31年(天保2)ころ,一幽斎の落款をもつ初期の傑作《東都名所》を世に送り,清新な色彩感覚を示すとともに風景画家としての本格的スタートを切った。32年には幕府の八朔御料馬献上の行列に随行して京都へのぼり,帰府後,一立斎の落款をもつ代表作《東海道五十三次》の続絵を発表。抒情的で親しみやすい画風が人気を集め,風景画家として浮世絵界に確固とした位置を占めるに至った。以後《近江八景》《木曾街道六十九次》など多くの名所絵・風景画の佳品を制作する。
一方,花鳥画にもすぐれた資質を見せている。この34年から40年までが彼の絶頂期で,広重芸術の完成期でもある。なお,広重は若年のころ,火消同心の岡島林斎から狩野派を学び,また南宋画や四条派も何らかの形で習得したと伝えられている。天保改革のころは一時歴史画が中心となるが,その後弘化・嘉永期(1844‐54)には,背景の風景と人物に同等の比重を置いた美人画や,洒脱な戯画,絵本類も描いた。
このころより乱作の影響もあって,マンネリ化・類型化が目立ち,また顔料の質的低下も手伝って通俗的傾向が著しくなる。しかし,最晩年の56‐58年(安政3‐5)にかけて,118枚に及ぶ広重作品中の最大のシリーズ《名所江戸百景》を発表,老成した手腕を発揮した。広重は,やまと絵における四季絵・名所絵の伝統を江戸末期に復活し,田舎や都会の自然の風情を抒情的に表現することによって日本的風景画の一様式を完成した。またその絵はゴッホなどヨーロッパの画家にも影響を与え,国際的評価を得ている。弟子には,重宣(2代広重),重房,重政(3代広重)などがいる。2代広重(1826‐69)は,初代広重の養女お辰の婿となる。〈横浜絵〉に腕をふるい,また風景画・美人風俗画にも優品があるが,初世に比べ,ほとんど評価されていない。のちお辰と離縁し安藤家を出て,喜斎立祥と名のった。