はじめに |
1.ホームページの目的 |
平和とは戦争のない状態であると、狭義の解釈をしている人は、戦争がない時や、自国が戦争の当事者でない場合は、「平和を実現するために、今、何をなすべきか?」という問題に緊迫感を覚えないでしょう。しかし、平和の本来の意味は、自分と全ての生きものが肉体的、精神的に大きな苦痛が無く、自分がやりたいこと、やるべきことをしている状態で、私たちはこの平和を目標にしなければなりません。この視点から眺めると、地球上に苦しみを感じる生物が現れてから現在に至るまでの数十億年の間、世界が平和であった状態は一時も無かったのです。
平和を実現するために私たちは何をなすべきかという問題を取り上げ、その実態を指摘し、原因を究明し、実行可能な解決方法を一緒に考え行動に移すことが、このホームページの目的です。平和を実現するために、このホームページがいささかでも貢献できれば、大変に幸せです。
このホームページに提示した考えや情報に対して、賛成、反対、異なる考え方、新情報等がありましたら、生き方を考える広場(masayama@mtc.biglobe.ne.jp)へ、e-mailでご連絡下さい。皆で討論する場にしたいと願っています。
2.ホームページの構成 |
この地上にはさまざまな苦しみが存在していますが、他の生物によって命を奪われるということよりも大きな苦しみがあるでしょうか? この苦しみを無くすことは平和の第一歩ですが、それを実現するために何をなすべきかという問題は、三つの場合に分けて考えるのが実際的です。
まず、人間が他の人間によって殺害される事態の中で最大規模の戦争を取り上げ、人間と人間の間の平和を実現する方法を第1部で提案します。
次に、動物が人間によってよって殺害される事態の中で最大規模の肉食を取り上げ、人間と動物の間の平和を実現する方法を第2部で提案します。
そして、動物が他の動物によって殺害される動物相互の肉食の事態を取り上げ、動物と動物の間の平和を実現する方法を第3部で提案します。最後に、第1部から第3部で扱っていないことで、平和を実現するために必要な緒問題の解決法を第4部で提案します。
これらは、相互に密接な関係があるので、単独で分析する場合よりも、比較しながら考える方が多くの真実がわかってきます。何故なら、ある生きものが己の利得のために他の生きものを犠牲にするということで共通点があるからです。例えば、一方で許されていないことが他方で許されていることに矛盾を見出したとき、その矛盾がなぜ存在してよいのか納得のゆく理由を考えてみるべきです。
このホームページで提案した方法は、実行されなければ、価値がありません。そして、その行動を求められているのは、他の誰でもないわれわれ自身です。現代のように分業と専門化が極度に進んだ社会で生活していると、自分がやるべきことは自分が従事している仕事だけで、他のことはそれぞれの専門家がやってくれているはずだから、任せておけばよいと考えます。その結果、平和を実現する仕事も、政治家、官僚、マスコミ、評論家、学者、宗教家などの専門家の仕事だから、かれらに任せておこうと思ってしまいます。しかし、それが間違いであることは、平和がかって一度も実現されたことがない事実を見れば分かります。
巨大な世界や社会を変えるためにわれわれが行動を起こすとき、「千万人といえども我行かん」という意気込みで一人で戦うことは意義がありますが、力の差で、勝つことは非常に難しい現実があります。政治が多数決原理で運営されることは、民主主義社会の最大の長所ですが、本来は正しくない事が多くの人に認識されず、あたかも正しい事として取り扱われることが起こり得ることが最大の短所です(衆愚政治)。例えば、1932年のドイツの総選挙でナチス(国民社会主義ドイツ労働者党)は37.4%の得票率で社会民主党を破って第一党となって政権を獲得し、1933年の総選挙では43.9%という得票率で圧勝しています。
そのような場合は、少数派が多数派の認識や判断を変えるために努力するほかありません。そこで必要になるのは、同じ問題意識を持つ市民が、共通の目的を達成するために、団結して協力し大きな力を発揮することです。
このような市民運動が西欧の民主主義、自由主義社会を創り発展させてきました。残念ながら、日本の市民運動が社会を変えるほど大きな力を持つレベルまで育たなかったのは、西欧的な意味での市民というものが日本では十分に育たなかったことによるのかもしれません。なぜ、そのような市民が日本で十分に育たなかったのでしょうか?例えば、日本では一人の人間を考えるとき、その人個人の属性ではなく、XX会社の社員とかXX学校の学生というようにその人が所属する集団の属性で判断する傾向があります。
本人も自分が従事する集団や職業や専門という狭い分野に自らを閉じこめて、社会や世界全体に対する関心や責任を自ら放棄してしまう傾向があります。新渡戸稲造がかって「日本人は閉じこもる」と批評した日本人の性格は昔も今も変わっていないようです。自ら変革を好まないで、外圧がないとなかなか変わらない性向と、閉じこもる性向は、もしかすると同じ原因から生じているのかもしれません。
一人一人の人間は、かれがたまたま所属する集団や職業の一員である前に、一人の個人であり市民であるべきです。そして、欧米では、その点からの評価の方が実際に重要視され、優先していますが、日本ではまだその逆が行われています。ここでいう人間、市民とは、個人主義(individualism)に近い概念と考えてよいでしょう。個人主義とは、「個人を立脚点とし、社会や集団も個人の集合と考え、それらの利益に優先させて個人の意義を認める態度。利己主義(egoism)と同一視されるが、基本的に別である。」を意味します(広辞苑)。また、市民社会とは「特権や身分的支配・隷属関係を廃し、自由・平等な個人によって構成される近代社会」(広辞苑)を意味し、1人1人の個人が主人公として光り輝く社会のことです。
個人主義や市民社会は、制度上は日本でも認められていますが、実際はそれを奨励するのではなく、むしろ和を乱すものとして敬遠し抑圧する傾向の方が強いのは問題です。本来は、市民や個人主義と和は両立するはずです。何故なら、和とは、少数の犠牲者を無視して、全員が同じ考えや行動を取ることではなく、最大多数が最大幸福になる方法を民主的に決め、その実現のために協力することだからです。社会がダイナミックに進展するためには、真の意味の個人主義と市民社会が成熟することが必要です。そのような市民が増え、平和を実現する力を持つ市民運動が発展することを祈って、この「生き方を考える広場」のホームページを作りました。