ゴーギャン (1848−1903)
(1873−1880)
(1881−83)
(1888)
説教のあとの幻影 : ヤコブと天使の争い (1888)
ひまわりを描くゴッホ (1888)
黄色いキリスト (1889)
自画像 (1889)
タヒチの道 (1891)
ゴルゴダの自画像 (1896)
タヒチの女性 (1897−1900)
われわれはどこから来たのか。われわれは何か。われわれはどこへ行くのか (1897)
フランスの画家,彫刻家。後期印象派を代表する一人。ゴーガンとも呼ばれる。パリに生まれ,マルキーズ諸島のアトゥオナ
Atuona で没。父は共和派の政治記者,母は,サン・シモン主義者でフランス婦人運動の先駆者
F. トリスタンの娘。ゴーギャンの生涯は最初から数奇なものだった。1849年,ルイ・ナポレオンのクーデタによる迫害を恐れた一家は,富裕な親類を頼って,ペルーのリマに逃れる。55年,帰国するまで,この異国の都でゴーギャンは幻想的で,恵まれた子ども時代をすごす。
65年から71年にかけて,最初は水夫,ついで水兵と大部分を海ですごしたが,71年より株式仲買人としてめざましい働きをみせる。一方,この頃より,後見人の,実業家で高名な美術収集家アローザ
Gustave Arosa の影響のもとに,美術に大きな関心を示し,日曜画家の道を歩きはじめる。74年,ピサロを知り,印象派の作品の収集にも心がける。76年,サロンに初入選。79,80,81,82年の印象派展に出品。
ゴーギャンの芸術家としての生涯は83年,株式仲買人をやめて,画業に専念することを決意したときにはじまる。生活はただちに困窮したが,画面はしだいに独自性を強め,初期の印象派風のものから,理知的な画面構成と装飾的な色彩を調和させた,文学性の濃い,いわゆる象徴主義絵画へと展開してゆく。これは世紀末特有の中世趣味と無縁ではない。86年,第8次にして最後の印象派展に出品したのち滞在したブルターニュの小村ポンタベンの,ひなびた中世風のたたずまいはゴーギャンを強くひきつけた(ポンタベン派)。
翌87年のパナマ,マルティニク島滞在で南国の強烈な光に触れて獲得したゴーギャンの色彩は,88年夏,再度のポンタベン滞在において内面的な深みを帯びることになる。その色彩は,簡潔ではあるが重厚な形態に平坦に区分され,《ヤコブと天使の争い》(1888)にみられるような宗教的ともいえる精神性を生みだした。浮世絵版画,エピナル版画,ステンド・グラス等に影響されたこうした区分主義(クロアゾニスムcloisonnisme)により,〈主調色にのみ注目しつつ行われる,形と色彩の総合〉が可能となり,画面全体は暗示にとんだ,まさに総合的な装飾性を獲得する(総合主義またはサンテティスムsynthレtisme)。
こうして,88年から90年にかけて,〈ゴッホの耳切り事件〉に結末をみるアルルでのゴッホとの共同生活をはさみ,一連の象徴主義的な傑作,すなわち《黄色いキリスト》(1889),《処女喪失》(1890),《恋する女たちであれ》(木彫,1889)等が制作され,ゴーギャンは象徴主義絵画の第一人者と目される。
しかしながら,ヨーロッパの腐敗した文化,社会にあきあきしていたゴーギャンは,失われた楽園を求めて,91年タヒチに旅立つ。以後,一時は帰国したものの(1893‐95),かの地にとどまり,畢生の大作《われわれはどこから来たのか。われわれは何か。われわれはどこへ行くのか》(1897)をはじめとして,人間存在の意味を深く問いただす多くの作品を制作する。ゴーギャンのこうした思想的側面は正しく継承されたとはいえないが,その音楽的ともいえる自在な色彩は,ナビ派,フォービスムの画家たちに強い影響を与えた。