ドラクロア Delacroix 1798‐1863


                 

                           
キオス島の虐殺 1824









                      

                        
ミソロンギの廃墟に立つ瀕死のギリシャ 1826









          

                       
サルダナパルス王の死 1827−28








           

                              
民衆を導く自由の女神 1830








          

                                   アルジェの女たち 1834








                           

                                            自画像 1837









                           

                                         ショパンの肖像









                             

                                  子供を殺そうとするメディア 1838









フランスの画家。フランス革命で活躍し,政府高官を務めたシャルルを父に,著名な家具師エーベンben の娘ビクトアールを母にもったが,本当の父親はタレーランだとする説が今日では有力である。若くして両親を失ったが,リセ・アンペリアルで古典の基礎を身につけ, 1815 年ゲラン Gurin のアトリエにはいり,年長のグロやジェリコーと知り合う。翌年エコール・デ・ボザール (国立美術学校) に入学するが,師の教えよりもルーブルでの模写から多くを学び,ルーベンス,ベネチア派の躍動感と色彩の純粋さを賛美する。 22 年のサロンのデビュー作《ダンテの小舟》でティエールらからロマン主義の画家としての評価を得,国家に買い上げられた。 24 年にはギリシアの独立戦争という同時代の事件に題材をとった《キオス島の虐殺》を, 27 年には新しい英雄像《サルダナパロス王の死》を, 31 年には前年の七月革命を賛美する《民衆を導く自由の女神》を,それぞれサロンに送り,ジェリコーの後継者,ロマン主義の領袖とみなされた。

 この間,1825 年にイギリスに 3 ヵ月ほど滞在し,コンスタブルやボニントンの自然主義的作風と混色の少ない明るい色彩の影響を受けた。 32 年にはモルネー伯爵の外交使節団に加わってモロッコを訪問する。この旅でイスラム文化圏のエキゾティックな風俗と強い光の下の鮮やかな色彩に強い感銘を受け,帰国後の作品はロマン主義の一支流をなすオリエンタリズムの形成に大きな役割を果たすことになる。その中でも代表的なものは,《アルジェの女たち》 (1834), 《モロッコのユダヤの結婚式》 (1841) など。これらの制作と並行して,ドラクロアは政府から多くの建築物の装飾の注文を受けた。ブルボン宮殿の国王の間および図書室 (1833‐47),リュクサンブール宮殿図書室 (1840‐46),ルーブル宮殿アポロンの間 (1850),パリ市庁舎の平和の間 (1852‐54。71 年焼失),サン・シュルピス教会の天使礼拝堂 (1853‐61) である。これらにおいて彼は,古典や宗教に対する深い理解と,大画面装飾の才を示し,名実ともに巨匠としての地位を確立した。 55 年の万国博覧会ではアングルと並んで特別室を与えられ, 42 点を出品,62 年には 200 点にものぼる油彩画の展覧会を開いた。しかしアカデミーにはなかなか入れられず,数度の落選ののち 1857 年に正会員となった。 63 年にフュルスタンベール街のアトリエで亡くなり,今日それはドラクロア美術館となっている。

 ドラクロアは,古典の伝統をすぐれて受け継ぎながら,同時代のできごとにも深い関心を払い,また文学,とくにシェークスピアやバイロンらの英文学を多く題材にとる一方,宗教画もよくした。このように主題のうえではきわめて多岐にわたる。技法においては,色彩の補色の利用や,筆跡の残る大きなタッチを有効に用いるなど,印象派はもとより,後期印象派やフォービスムに影響を与えた。また 1822 年から亡くなるまで書き続けられた〈日記〉は,すぐれた批評の書である。