セザンヌ (1839−1906)
水浴する3人の女たち (1879-82)
サント・ヴィクトワール山 (1887)
曲がった木 (1888-90)
座る農夫 (1890-94)
カード遊びをする二人の男たち (1890-95)
赤いチョッキの少年 (1890-95)
パイプの男 (1891‐92)
キューピッド像のある静物 (1894-95)
りんごとオレンジ (1895-1900)
アヌシー湖 (1896)
フランスの画家。後期印象派を代表する一人。印象主義の決定的な影響を受けるが,そのあまりに感覚的で,しまりのない画面にあきたらず,〈印象主義を,美術館の美術のように堅固で持続性のあるものにする〉ことを目ざし,自然を前にした際の,刻々と変化する〈感覚
sensation〉そのものを,厳密に構築的でありながらも晴朗な画面のうちに〈実現
rレalisation〉しようとした。また,〈自然を円筒,球,円錐によって処理する〉(エミール・ベルナールあての手紙。1904年4月15日)といったセザンヌの分析的な思考は,キュビスムの画家たちに根底的な影響を与えたばかりではない。自然を〈深さ〉として実現するその自在な色彩処理は,抽象絵画の展開,とりわけ抽象表現主義において本質的な役割を果たしている。
フランス南部,エクサン・プロバンスに生まれ,同地で没。父は成金の銀行家で,およそ芸術には縁遠い人物であったが,この父のもとで抑圧されながらも彼は一生,生活に困ることはなかった。最初エクサン・プロバンスの大学で法律を学んだが,1861年親友のゾラに刺激されてパリに出て行く。まったくの独学で,アカデミー・シュイスに通うかたわら,バロックの画家たち,ドラクロア,クールベらの模写を通じて自己形成していったが,エコール・デ・ボザール(国立美術学校)不合格(1863),相次ぐサロン落選(1844‐69)など不遇な時代がつづいた。
このころの作品はおおむね,生来鬱屈した複雑な性格の持主であったセザンヌの,暗い情念,性的抑圧に根ざした,厚塗りの,ロマンティックで陰鬱なものである。69年モデル女のフィケ
Hortense Fiquet を知り,翌年父親にはないしょでいっしょに暮らしはじめる(正式に結婚したのは1886年)。またこのころから印象派の画家たちと接触し,とくにピサロからは多くの教示をうける(1874,77年,印象派展に参加)。
こうして,《首つりの家》(1873)のような,静謐な風景が描かれる。とはいえ,この作品にすでに明らかなように,印象主義的な色彩理解のもと,あくまでも自然に即しながらも,古典主義的な秩序感覚を画面に取り戻す方向にむかう。色彩と形は互いに支え合いながら――〈色彩が豊かになれば,形は充実する〉と,のちに彼は言っている――幾何学的ともいうべき強固な世界を築きあげていく。それはしかし,印象主義全盛の当時にあって,セザンヌの孤立をますます際だたせるものでしかなかった。
こうして82年以降,郷里のエクサン・プロバンスに引きこもり,その画面も,自然をより内面的に再構築したものになっていく。風景も静物も人物も,その内的構造を明らかにしつつ,重なり合う色彩の輝きのうちに秩序づけられる。純粋絵画ともいうべきこれらの作品には,一見したところなんの主観的な意味づけもないように思える。しかし,たとえば彼の描く果物はときに,その性的コンプレクスを反映してか,女体のようになまめかしい。
また,不動のようにみえる画面そのものも,彼自身の屈折した感情のうねりをおもわせる一種の動勢――形態の差異,ゆがみ,傾斜――によって震動している。こうして,80年代前半から頻繁に描かれるサント・ビクトアール山は,セザンヌにあって,生動する自然の大いなるイメージであるばかりか,孤高で気位の高い彼自身の象徴として現出してくる。86年ゾラと絶交。この痛手は,暗い室内で2人の人物が向きあっている《トランプをする人々》(1890‐92)に影を落としている。
こうした内奥性は晩年に特徴的なものであり,80年ころから描かれる一連の,森の中で《水浴する人々》にしても,しだいに重苦しいものになってゆく。この傾向は最晩年にますます強まり,暗い小さな色面を構築的に重ね合わせただけの,ほとんど抽象絵画ともいうべき,事物そのもののような画面が登場することになった。
セザンヌは,いわば絵画の始源を問いつづけた。それだけに生前はなかなか正当な評価を得られず,画商ボラールによって最初の個展(150点出品)が開かれたのは,1895年のことであった。