ボッティチェリ (1445-1510)
春 (1478)
ヴィーナスの誕生 (1485)
イタリアの画家。フィレンツェ生れ。父は皮なめし業を営む。1462ころ‐67年,当時プラートにあったフィリッポ・リッピの工房で徒弟として修業。70年にはフィレンツェ市内で独立した工房を構え,70年代前半にはしだいに制作依頼が増えてきたもようである。この時期は,ベロッキオの影響を感じさせる繊細な写実主義を示している。70年代には,一般にこの時代の作とされる3点の《三博士の参拝》(ロンドンのナショナル・ギャラリーの2点,およびウフィツィ美術館のいわゆる《ラーマ家の礼拝》)制作を通じて,写実と理想との均衡のとれた様式と,盛期ルネサンス絵画を予告する端正な求心的構図法とを確立する。
そのような様式の頂点に存在するのが,《春》(1478ころ),《ヴィーナスの誕生》(1485ころ)など,一連の神話画である。これらは,他の追随を許さない精妙な描線と洗練された色彩が生む完璧な視覚美によって,彼の代表作であると同時に,西洋美術史上最も人々に愛好される作品となっている。さらにこの2作品は中世以来最初の異教的主題の大画面である点で特異であり,15世紀という時点でそれが可能であったのは,ボッティチェリが神話画において単に神話的情景を描くことだけを目的としておらず,新プラトン主義の視覚化を試みているゆえであろう。
81‐82年,教皇シクストゥス4世に招かれてローマに赴き,バチカンのシスティナ礼拝堂壁画を他の画家たちと競作し,名実ともに一流画家としての地位を固めてゆく。フィレンツェ帰還後も,市庁舎内の壁画やロレンツォ・イル・マニーフィコの個人的依頼など重要な注文は後を絶たなかったが,そのかたわらで,80年代後半以降,しだいに感情的表現の濃厚な,均衡を欠いた様式になってゆく(《受胎告知》1490)。次いで90年代に帰せられる作品には,激しい動感,刻みこむような描線,強烈な色彩などの目だつ,悲壮な雰囲気のものが多い。多くの研究者たちはこの変化の原因を,ボッティチェリがサボナローラの教えに帰依したことに見いだしている。
1501年には,唯一の年記と署名入りの作品である《神秘の降誕》でイタリアの動乱の時代に対する憂慮と来るべき平和に対する期待を表明した。ロレンツォ・ディ・ピエルフランチェスコ・デ・メディチの依頼によって,おそらく1480年代から描きつづけてきたと思われるダンテの《神曲》挿絵素描の最後の部分もこのころの制作になるものであろう。しかし,そのほかには没年までの活動は記録されておらず,バザーリは病身の晩年を送ったと記している。明瞭な描線を主体とするボッティチェリの様式は,レオナルド・ダ・ビンチやラファエロなどの柔らかな16世紀的描法とは正反対のものであり,新しいものを求める当時の顧客の関心を引かなくなっていた。その意味で彼は15世紀の終末とともに姿を消すべく運命づけられた画家であったといえよう。