記事タイトル:宮古姫伝説の補足 |
(1) もっと昔の髪長姫 『古事記』と『日本書紀』の応神天皇十一年・十三年(5世紀 前半ころ)の記事に日向の国の「髪長媛(髪長比売)」という 女性が出てきて、容姿が美しかったために後の仁徳天皇にみそ められて結婚します。この記事は国文学の研究に多くとりあげ らていますが、おおよそが結婚の経緯(応神天皇との三角関係 )や、ここにでてくる歌謡の分析が多いので、髪が長い女性の 魅力について深く言及されていないようです。というのも、古 い史料ですから髪長媛は「顔容麗美」「姿容端正」(『古事記 』)「形美麗」(『日本書紀』)としか形容されていなくて、 本当に髪が長かったのかもよくわかりません。「髪長」という のは地名から由来する名前かもしれないそうです。 また、それより時代は下り、宮田登「女の髪」(『ヒメの民俗学』青土社)に よれば、宮 子姫伝説とほとんど同じストーリー(紀国の美女の髪を鳥がく わえて運ぶという話)で白鳳時代、天武天皇の后になった女性 がいるという伝承があるそうです。これだと宮子姫より30年く らい前のことになります。ただ文武天皇と天武天皇を間違えて るだけかも。 上記の宮田登の著作が基づいている史料は一応、江戸時代のものですが 『筆のまにまに』らしいです。ただし原文は確かめていません。 なぜわかったかというと、 柳田国男が書いている 「髪長姫」という文章(『柳田国男集 第八巻所収) にありました。 宮田登、ほとんど柳田のパクリじゃん・・・ (2) 本当は可哀相な(?)宮子姫 藤原宮子は、文武天皇と結婚して、出産してめでたしめでたし …だけではない史実。 「夫人」という格下の称号を与えられ、 出産後すぐ鬱になって、この子ども(のちの聖武天皇)にはず っと顔をあわせることはなく、 その鬱が晴れるきっかけをつくってくれた入唐僧・玄オとの密 通の噂をたてられ、 養父不比等が死んでその遺産は不比等の実の娘である光明皇后 がほとんど相続してしまったという…。 (3) 女の髪と鳥 宮子姫伝説には、 1. 宮子姫はもともと髪が長い海女で、自分で海底にもぐって 千手観音像を髪につつんでもちかえり、道端で宮子姫自身の髪 の長さがみそめられた というパターンと、 2. 宮子姫は生れてから髪が生えなかったのでそれを案じた母 が海底にもぐって千手観音像をもってきたおかげで髪が生える ようになったために、その髪を大切にして、抜け毛も人に踏ま れないように木の枝にかけていたところ、その毛を鳥が京に運 んで巣をつくったので、見出された というパターンがありました。 後者のほうがドラマチックで印象深いのですが、これに関して また民俗学の柳田国男や宮田登のいう民間伝承に興味深いもの がありました。 「女が縁側で髪を梳いていてうっかり髪の毛を落としてしまう と、鳥がとんできてその髪をくわえて遠くへ行ってしまう。す るとその女性は魂を奪われたことになり早死にするという言い 伝えがあり、だから縁側で髪を梳いてはいけないというタブー が生れている。」 または「鳥が来て抜け毛をくわえ、神樹にたまたま巣を作るよ うなことがあった場合、その女は気ちがいになってしまう。」 あと「その女は良縁に恵まれなくなる」なんていうのもあった 気がします…。 この伝承と宮子姫の伝説との関連については宮田登は全然語っ ていないのですけれど、なんらかの関わりがあるような気がし てなりません。 みなさんはこのような言い伝えをお聞きになったことはありますか?私は関東 に住んでいますが、聞いたことはありません。 ちなみに、日向の国の髪長媛にホレてしまった仁徳天皇は当時 皇太子で、その名前を「大雀命」(『古事記』)または「大鷦 鷯尊」(『日本書紀』)といいました。鳥っぽい名前になにか 関係があるのでしょうか。髪長媛の結婚は幸福だったかどうか といえば、自分が産んだ皇子は安康天皇に殺されてしまったり して天皇になれなかったため、髪長媛は国母とはならなかった 、ということは言えます。 ただし、飯島伸子(「髪の社会史」の著者)氏は西洋でも小鳥の巣作りに利用さ れると頭痛がおきるという民間伝承がペトロニウスの『サテュリコン』 の中に見えると指摘しているので、世界共通の科学的な根拠が あったりするのかもしれません(?)。
[2004/08/11 23:53:20]