記事タイトル:平安女性の付け毛 |
飯島伸子「髪の社会史」を読んで、平安女性の付け毛について 考えてみました。風俗史の大家・江馬務は、少なくとも その著書「日本結髪全史」では、平安時代の女子の髪型につい て、身長より長いとする髪の形容が物語に見えるけれども「こ れは決して偽りではない」といっています。そして女子の髪が 短くなって、つけ毛をするようになったのは主に安土桃山時代 以降というようなことをいっています。 でも『紫式部日記』には、 「髪もいみじくうるはしくて、長くはあらざるべし、 つくろひたるわざして、宮にはゐる。」 とあり、「つくろひたるわざ」をつけ毛として解釈するようでした。 微妙...と思いました。平安時代にもつけ毛の人もなかにはいたのでしょう。 『枕草子』でも、七九段「返る年の二月二十日余日」の中で、 清少納言自身が「いとさだ過ぎ、ふるぶるしき人の、髪なども わがにはあらねばにや、所々わななき散りぼひて」と描写され ています。ここの「わがにはあらねばにや」という部分につい ては「自分の髪ではないつけ毛をしている」もしくは「自分の 髪を自分のではないように言っている」という解釈があるよう です。つまり、どちらにしろ、清少納言は地毛がちぢれている か、つけ毛をしていたといえ、美しい髪の持ち主とは考えられ ないわけです。しかし、「髪の社会史」の著者、飯島氏は、「 『枕草子』の作者自身も、髪の様子のたいへん美しい人でした 」と言い切っています(絵の部分に添えられて)。一体何を根 拠に言っているのか、示してほしいものです…。一五二段「う らやましげなるもの」で髪の長くて美しい人がうらやましい、 といっているのだから、自分自身の髪が美しい可能性は低いと 思うんです。 【管理人より】 管理人多忙のため、この文章(と次の「宮古姫伝説の補足」)を 最初にいただいてから掲載まで1月くらいかかってしまいました。[2004/08/11 23:52:41]
イロコさんのご意見を拝見して、平安時代の付け毛について『源氏物語』と『枕草子』 を少々めくってみました。 まず、地毛の長さに関して。 > 飯島伸子「髪の社会史」を読んで、平安女性の付け毛について > 考えてみました。風俗史の大家・江馬務は、少なくとも > その著書「日本結髪全史」では、平安時代の女子の髪型につい > て、身長より長いとする髪の形容が物語に見えるけれども「こ > れは決して偽りではない」といっています。そして女子の髪が > 短くなって、つけ毛をするようになったのは主に安土桃山時代 > 以降というようなことをいっています。 背丈より長い髪があり得ない、作り事か鬘だ、という見解に対して「そうではない」と いう意味であれば、江馬務氏の記述は正しいと思います。 現代だって、こちらのギャラリーを飾っておられるロングヘアの方々の中には身の丈を 越す髪をお持ちの方が何人もいらっしゃいますものね。 まして平均身長が140cm程度だったとも推測される平安女性なら、栄養事情を割り引いて もやはり可能だったでしょう。 ただ、近世以前は鬘をしなかった、というのは誤りです。 (『日本結髪全史』は読んでおりませんので、そういう意味で書いてあるのかどうかは わかりませんが・・・手間を省くために自分の髪は短くして鬘で長さを補うのが一般的 になったのがその時代、という文脈なら話は違ってきますので) 『源氏物語』にも『枕草子』にも、はっきり「鬘」という言葉が出てきます。 次の文は『源氏物語』初音巻の用例です。 「御髪などもいたく盛り過ぎにけり。やさしき方にあらぬと、葡萄鬘してぞつくろひた まふべき。」 源氏の妻の一人である花散里の髪の描写で、年嵩の女性が衰えてしまった髪を「葡萄鬘」 で補ったことがわかります。 また蓬生巻には、末摘花(髪だけが取得の不美人と語り手に酷評されている女性)が長 く仕えてきた女房に自分の抜け落ちた髪を集めてつくった見事な鬘を贈る、という場面 もあります。 『枕草子』の方は、一五八段「昔おぼえて不用なるもの」の中に 「七、八尺の鬘の赤くなりたる」 と出てきます。 以上の例から、鬘が平安時代にも使用されていたのは間違いありません。 またイロコさんがお気になさっておられる清少納言の髪のことですが、『枕草子』二百 六十三段「関白殿、二月二十一日に」の中で 「つくろひ添へたりつる髪も、唐衣の中にてふくだみ、あやしうなりたらむ、色の黒さ 赤ささへ見えわかれぬべきほどなるが、いとわびしければ、ふともえ下りず。」 と記しています。 「つくろふ」だけなら「手入れをする、着飾る」といった意味なので地毛の可能性も考 えられますが、ここでははっきり「添ふ」とありますので、間違いなく付け毛です。 しかも「黒さ赤さ」と言っていますので、地毛と付け毛で色が合っていないのでしょう。 一五八段に出てきているような、傷んで赤茶けてしまった鬘だったのかもしれません。 それが人目に晒されるのが辛くて、牛車からすぐに降りられない、というのがこの一文 です。 ちゃんと読み直した訳ではなく思い出した箇所を拾っただけですが、ご参考になりまし たら幸いです。[2004/08/23 01:14:12]
> 鬘で長さを補うのが一般的 になったのがその時代、という文脈なら ・・・という文脈だと思います。 この書き込みは、 「ロングヘアアート」の「本」の『髪の社会史』の記述へのレスというか、 飯島伸子氏の文化史の記述にはちょっと、マズい部分があるんじゃないの? という一例をあげたまでで、 「付け毛について考えた」 とは書いてありますが、 本来ならもっと「鬘」、「仮髪」、「かもじ」などの用例を あげて考えるだったと思っております。 平安時代の「葡萄鬘」は「かもじ」と同じと解釈するのが通例のようですが、 ほかにどんな用例があるのでしょうかね・・・? 初音の巻というと、お正月ですかね? 蓬生の巻は原文ではなんて書いてあるのですか? 毛が(時間を経て?)赤くなる、 ということに関連して思い出すのは、 戸隠山の山中院に鬼女紅葉の毛だと伝えられるものが蔵されていて、 色は赤黒く縮れて長さ5,6尺だった、と 中山太郎が報告しているらしい、ということ。 (『旅と伝説』二巻十一号←宮田登『女の霊力と家の神』)[2004/08/24 02:46:21]
「葡萄鬘」という用例は、『源氏物語』ではここにしか例がありませんし、他の作品にも 出てこないようです。 初音巻の文脈から考えると、やはり「かもじ」と解釈するのが妥当かと思いますが。 盛りを過ぎて衰えた髪を繕うものって、付け毛の類以外に何かあるでしょうか。 平安時代は神事や儀式のときを除いて髪に装飾品を着ける習慣がなかったようので、髪飾 りとかは考えにくいと思います。 因みに初音巻は、ご推測のとおりお正月の場面です。 引用した文は、お正月用の新しい衣裳を着た花散里を光源氏が見て心の中で批評している 場面でした。 もうひとつご質問の蓬生巻の原文は、以下のようになっています。 「わが御髪の落ちたりけるを取り集めて、鬘にしたまへるが、九尺余ばかりにて、いとき よらなるを、をかしげなる箱に入れて、昔の薫衣香のいとかうばしき、一壷具して賜ふ。」 尚、原文は、いずれも渋谷栄一氏のサイト「源氏物語の世界」から引用しました。 http://www.sainet.or.jp/%7Eeshibuya/index.html[2004/08/28 00:12:36]
「葡萄鬘」(原文ではおそらくひらがなで「えひかつら」) について私も少し確かめてみましたが、 本当に、他に用例がないみたいで、 調べようがなくて、もどかしかったです。 古注釈では『河海抄』が 『日本書紀』にこじつけて注釈しているようでしたが。 ちなみに、 > 年嵩の女性が衰えてしまった髪を「葡萄鬘」 > で補ったことがわかります。 > 光源氏が見て心の中で批評している これは実際に花散里が鬘をつけた姿を源氏が見ているのではなく、 「〜べき」ですから、 源氏が髪のやせた花散里を見て「葡萄鬘でもつければいいのに」と思っている (実際には鬘をつけていない) と解釈されているようです。 源氏はイヤミな男です(笑)。
[2004/09/03 08:41:55]