「頼む! 僕を女子寮に入れてくれ!」
寮の入り口で、虚しくわめくオダセンの声が廊下に響く。
「先輩、我慢してください。和美さんはきっと無事ですから……」静香が丁寧に対応していた。
貞子先輩が和美さんと共に更衣室に引きこもってから、少なくとも二時間が経過していた。外は既に闇に包まれている。
更衣室の扉に鍵がかかった後、すぐにリカ達は職員室に飛び込み、事情を説明して寮監督の先生を連れてきた。しかし、更衣室の扉を開く事はできなかったのだ。
古くて汚い更衣室は、要らないものを置き貯めるだけの倉庫と化していた。貴重なものが何も無い倉庫に、外側から開閉できる鍵はなかった。内側から閉められたこの扉は、内側からしか開けることができなくなっていた。
静香になだめられながらも、オダセンはあきらめきれない様子だ。
「もし、貞子が和美に……和美が嫌がるようなことをしたら……、僕は貞子に何をするかわからない……」
私は密かにオダセンの言葉にしびれていた。
静香は私が近くにいるのを見ると、すぐに「様子を見に行って」と、目だけで合図した。私は更衣室の前までまた戻った。
状況は全く変わっていない。寮監督の土屋先生と、朝子先輩だけが扉の近くに立っているだけで、他に誰もいない。貞子先輩を刺激しないように、他の生徒達を遠ざけたのだ。時折、好奇心旺盛な女子たちが近付いてくるが、朝子先輩が睨んで追い返す。
近付くと、朝子先輩はうんざりしたように睨み顔をつくろうとしたが、すぐに私と気が付いて、手招きをした。
「どう? 小田の奴、まだ寮の前にいる?」と先輩は聞く。
「はい。ものすごく心配しています。寮に入れてあげたらどうでしょう?」と私は土屋先生の方を見た。土屋先生は私のお母さんよりも歳は上だろうと思われる、少し小太りな、優しい先生だ。
しかし、先生は首を横に振った。
「小田君はまだ相当に興奮しているのでしょう? そんな状態でここに連れてくるのは逆効果ですよ」
先生の言葉に、私も朝子先輩も頷いた。扉の向こうからは、時折、すすり泣きが聞こえるだけで、何が起こっているのか全くわからなかった。私は、オダセンの元へ戻った。
まだ扉が開きそうにないと告げると、オダセンは力なく寮の入り口に座り込んでしまった。
「大丈夫ですか?」
静香が助け起こそうとして、ハッと身を引いた。
オダセンは泣いていた。
寮の扉を拳で何度も殴りつける。
廊下に響く堅い音から、オダセンの不安と苛立ちを感じた。
私と静香はお互いに「どうしよう」という顔で見詰め合った。男子が人前で泣くのを見たのは久しぶりだったので困惑したのだ。
彼の涙が悲しみによるものなら、慰めることができたかもしれない。でも、これはきっと違う。オダセンは悔しいのだ。何もできず、ただ寮の前で立っているしかない自分とこの状況に怒りを感じているのかもしれない。
気を使って、オダセンを一人にしてあげようよと、静香は目と手振りだけで私に伝えた。私もどうすればいいのかわからないので、彼女と一緒にオダセンのそばを離れることにした。
寝室に戻ると、さやかがベッドに腰掛けて、ぼんやりとしていた。
私に気が付くと、
「どう? 和美さん、出てこられた?」と聞いてきた。私は首を振る。
さやかはまた顔を覆って泣き始める。
「私が、悪いんだ。……私がリカを恨んだせいで、こんなことに……」
リカの髪を切ろうという陰謀は貞子先輩がたてたものだ。さやかはそれの加担者ではあったが、さやか一人のせいで、今の状況があるわけではない。
「ねぇ、さやか。……どうしてリカは髪が長いんだろう?」
「は?」
さやかは泣くのを止めて私の顔を覗き込んだ。私はさやかの顔をのぞき返して聞いた。
「どうして貞子先輩はリカの髪に目をつけたんだと思う?」
「それは、リカの髪があまりにも目立ちすぎるからでしょ」
さやかは、当然のことを言うように答えた。私はうなずいた。
「確かに。リカを陥れようとする人なら、別に貞子先輩でなくても、リカの髪を切ろうとしただろうね」
だから私にはわからない。どうして、他人に目をつけられる前に自分で髪を切ってしまわないんだろう? なぜ、リカは自分の髪に執着するのだろう? リカの身にテロが起きるなら、真っ先に髪が狙われる。リカは自分のもっとも弱い部分をさらけ出して歩いているようなものなのだ。
リカの髪は素敵だ。私もあんな髪を持ちたいと思う。でも、私には無理だ。私はきっとリカのように堂々と長い髪をさらけ出して歩くことはできないだろう。私は、自分のために、自分に不利に働くような要素は全て除外したいのだ。
寝室の扉がノックされたので、私はさやかから離れて、ドアを細く開けた。静香が立っていた。
「和美さんと貞子先輩が出てきたよ」
私は部屋を飛び出した。泣いていたさやかも出てきた。
すすり泣く声と共に、和美さんたちは廊下に出てきた。ほとんど全ての部屋から生徒達が様子を見ようと出てきている為、よく見ることができない。
土屋先生と朝子先輩が廊下をふさぐ様に群がる女子達をかき分けている。その後ろを、和美さんと貞子先輩が並んで歩んでくるのが見えた。
泣いているのは……貞子先輩だ! 数時間前まで独裁者の様に振舞っていた貞子先輩は今、和美さんの腕にすがりつきながら、弱々しく歩いている。反対に、和美さんは堂々としていた。大仕事を終えて帰ってきたような、スッキリとした表情だ。強く波打つ黒髪も、和美さんの内面から溢れる自信を表しているようだった。
寮の出口に近付くと、和美さんは情けない顔をして突っ立っているオダセンに気が付いた。朝子先輩が和美さんの腕から貞子先輩を離すと、土屋先生に預ける。そして、一心不乱に事の成り行きをすべて見てやろうとしている、寮の住民全員に向かって、
「部屋に戻って!」と一喝した。
文化祭二日目の朝は、昨晩に何事もなかったかのように穏やかに始まった。
展示室でオダセンに会うと、オダセンは気まずそうに私から目を逸らせた。
朝子先輩も展示室に入ってきた。そして、
「貞子は今日の朝、学校を出て行ったよ」と静かに言った。
私はきっとそうなるだろうと思っていたので、かすかに頷いただけだった。でも、一応聞いておきたかった。
「自分から辞めたんですか? それとも、退学処分?」
朝子先輩はパネルに貼られた写真の一枚一枚を確認しながら「自分から」と言った。
自分から学校を辞めるのと、退学処分を受けるのとでは雲泥の差がある。次の学校入学にも大きく響くのだ。私は、貞子先輩が自らの意思で、この学校生活に幕を引いたことに少し安堵した。
朝子先輩はオダセンの方を振り向いて穏やかに言った。
「本当は、貞子は退学処分になるはずだったんだよ。でも、和美さんがそれを止めたんだ。」
オダセンは理解できないという顔をした。
「あんな奴を庇うことない! 何故、和美が貞子を庇うんだ? あの二人は昨日出会ったばかりじゃないか?」
口元だけで朝子先輩はにんまりと笑った。
「小田に聞きたいことがあるんだけど……。和美さんっていくつなの?」
オダセンは少し身構えた。
「何でそんなこと聞くんだよ? 何歳だっていいじゃないか! 僕は和美が好きなんだ!」
オダセンの顔が赤い。叫んでしまったことに、自分でも驚いている様子だ。
「わかってるよ。ムキになんないで落ち着いてよ。……で、いくつなの?」
「に……二十二歳」
私は思わず「え?」と言ってしまった。朝子先輩は「なるほど」と頷いている。和美さんが二十二歳……。見えない……二十歳過ぎには見えなかった。
「貞子はね、和美さんの高校時代の同級生なんだってさ」と朝子先輩は言った。という事は……当然、
「貞子先輩も二十二歳?」
「そうなるね」
私はいつか弥生達が自習室で話していることを思い出していた。「貞子先輩が校門の前で堂々とタバコを吸っていたところに林が通りかかったんだけど、林は何も言わなかった。林は先輩を恐れているんだよ」
この学校の唯一の校則は「法律を犯すな!」だ。二十二歳の成人した女性が、学校の敷地外でタバコを吸っているところを教員に見つかっても咎められはしない。林は貞子先輩を恐れていたのではなく、注意する理由がないので見て見ぬ振りをしただけだ。
廊下が段々とにぎやかになり、文化祭らしさを取り戻していった。
「Go! Fight! Win! Go! Fight! Win!」
弾けるようなリズムとパワーで、チアリーディング部の女の子達がクレープを買ってくれたお客に「応援」をサービスしている。水色のユニフォームを着た、元気と若さ溢れる女の子達に取り囲まれた中年男性は少し恥ずかしそうに……いや、かなり嬉しそうに鼻の下を伸ばしながらクレープを頬張っている。
男って、幾つになっても可愛い女の子が好きなんだよね、全くもう!
「あゆみ!」と、その中年男が私の方へ駆け寄ってくる。ん? あれは……
「お父さん!?」
口の周りにクリームをくっ付けたまま父は、「あゆみ、しばらく見ない間に大きくなったな……」と私の肩に手を置こうとする。
「ちょっと! クリームがついた手で触んないでよ! 服が汚れる!」
「ん? あ、本当だ」と、父は指をなめようとするので、
「ちょっと! なめないでよ、汚いな〜。トイレ行って洗ってきて!」と、私は父を手洗いまで連れて行った。
まあ、数ヶ月ぶりの親子の再会なんて、こんなものだ。
男性トイレの前で、父を待っていると、ラグビー部のユニフォームを着てジャガバターを売り歩いている武に遭遇した。
「お前、女のトイレはあっちだぞ。それとも……」
「お父さんを待っているだけだよ!」と私はムッとして言った。
武は「そうか」と言うとだまり込んだ。そして、急に真面目な顔になると、
「さやかが、昨日の騒動に加担していたというのは本当なのか?」と聞いてきた。どうやら男子寮にもパパラッチたちは潜伏するらしい。
隠し事は無意味に思えたので、私は頷いた。
「そうか……」とつぶやいて、また黙り込む。私は少し苛立って言ってやった。
「さやかを責めないでよ。さやかが馬鹿なことをしたのは、武のせいなんだからね」
「そうか……」ため息をつくように言うと、武は
「さやかのことは、あゆみに頼む」と言って去ってしまった。
文化祭最終日は慌しく過ぎていった。三時ごろに校庭へ出てみると、ユタが後夜祭の為の準備をしていた。ステージを何人もの男子を使って組み立てている。ドラムやアンプなどの軽音楽機材が運ばれる。ユタの左手には重そうなトランシーバーが握られている。その機械からは、時折島先輩の声が聞こえてきた。おそらく、島先輩は他の仕事で校庭に出てこられないのだろう。
ユタは何度も腕時計を見ていた。後夜祭まであと二時間だ。
私は過ぎていく時間をうらめしく思った。……高校一年の文化祭が終わろうとしている。あと、この学校では二回、文化祭を楽しむことができるだろう。でも、それは今日の文化祭とは別物なのだ。来年には、島先輩も、オダセンも、朝子先輩も、勉強で忙しくなり、私達とはあまり深く関わらなくなってしまう……。
「先輩!」ユタは時々トランシーバーに向かって島先輩を呼んでいる。中学のころから島先輩の下で委員会に貢献してきたユタにとって、先輩と創り上げる文化祭は、今年で最後になるのだ。来年の文化祭にはユタが責任者となり、彼に指示を出してくれる人はいなくなる。
来年には……私達が寮の支配者になれるのだ。不思議だった。もう、時間を気にして風呂に入ることもないし、視聴覚室のテレビだって好きなときに見られる。先輩から呼び出しされて怯えることも無い。
私は急に使命感のようなものを感じた。私達が支配者になった時には、何かを変えたいと思った。くだらない「伝統」は一つ一つ破っていこう。「呼び出し」をして下級生を脅すことも決してあってはならない。改革をするためには、同学年女子、いや、男子達も含めた全員の協力と団結が必要なのだ。
私はルームメイトのさやかを思った。そして、スタディメイト達を思った。それから、武、ユタ、健太郎を思った。弥生や真美のような、普段はあまり関わりあうことの無い同学年女子達を思った。ついにはクラスメイト、つまりは同学年全員を思った。そして、きっと私たちなら上手くやっていけると確信した。
島先輩がステージに上がる。すでに日が落ちて、校庭の空気は清涼感のある冷たさを含んでいた。島先輩がマイクを持つ。白い息が見える。
「お疲れ様です」低いけれど、はっきりと響く声で先輩は言う。
校庭にいた人達は、一斉に島先輩に注目した。拍手をする音、島先輩への掛け声。
「今年の文化祭も、最後まで、皆一緒に楽しみましょう!」そして、大きく息を吸う。
「後夜祭、スタート!!」
光と、音の洪水にステージが包まれる。校庭に集まった生徒達がいっせいに盛り上がりだした。ギター部や軽音楽部の演奏、チアリーディング部の演技、ダンス部のパフォーマンス、……後夜祭のプログラムは盛りだくさんだった。
○×ゲームの商品はアイポット。乗り気でなかった学生も、これには全員が参加した。校庭の真ん中をロープで仕切り、質問の答えが○だと思う人は右側へ、×だと思う人は左側へ移動させ、正解者を絞ってゆく。生徒も、先生も、父母達も一緒になってクイズに夢中になった。商品を手に入れたのは、中学生女子のお母さんだった。
後夜祭が派手な打ち上げ花火と共に幕を閉じた時、私の腕時計は7時を過ぎていた。
展示場になっていた教室には、いつものように机と椅子が並べられ、文化祭の跡は何一つ残らなかった。一つだけ、B5サイズに引き伸ばされたマラソン大会の写真が私の手元に残った。後夜祭が終わった後、慌しく片づけが始まった。教室にも、廊下にも、校庭にも、すでに文化祭らしきものは残されていない。明後日からは通常の授業が始まる。
この学校では、文化祭の次の日は休日だ。保護者の希望があれば、学生は保護者と今夜一緒のホテルに泊まれる。寮に帰らなくてもよいことになっている。
私の父は、明日から仕事があるので、早々と帰っていった。私は寮に残る。千絵と早苗は両親と共に近くのビジネスホテルに泊まるようだ。リカも母親と一緒に町のホテルへ泊りに行った。私は写真を手に持って、自習室へと帰った。
「お帰り」と自習室で私を待っていたのは、さやかと静香、和美さんだった。
「和美さんは、今夜だけ寮に泊まってみたいんだって」と静香は言った。
「寮生活って、したことないものだから、どんな感じなのか、一度だけでも味わってみたいと思って……よろしく」と和美さんは着替えの入ったバックを引き寄せながら言った。
和美さんは今夜、リカのベッドで寝ることになった。もちろん、リカがそうするように言ったのだ。消灯後、私とさやかは、静香とリカの寝室へ、パジャマ姿で訪ねに行った。
さやかは昨晩の騒ぎの責任が自分にもあることを深く思いつめているようで、和美さんとの会話もぎこちない。しかし、それでも何とか打ち解けようと努力している様子だ。
静香は洗面台の鏡に向かって歯を磨いていた。
和美さんはブラシで髪を梳かしている。そして、おもむろにバッグの中から長細い布製の袋のようなものを取り出した。
「それ、なんですか?」とさやかは聞いた。
「髪袋って、私は呼んでいるんだけど……、市販のものではないから、一般に何と呼ばれているのかは知らないわ。ほとんどの人は使わないでしょうね……」と説明しながら長い髪を袋の中に入れ、布の上からゆるくゴムで縛った。
「なるほど……」と静香は興味深く見ている。
「そうすると、髪が寝ている間に絡まらないんですね? リカは髪袋を使っていなくて、毎朝絡まった毛を時間かけてほぐしているんですよ。帰ってきたら、教えてあげよう……」
和美さんが微笑む。
「髪が長いと色々と大変なんですね」と私は言った。
「でも、好きでしていることだから大変だと感じたことはあまり無いな……」
「リカを初めて見たとき、正直に言って、驚いたんです。お尻を隠すほどに長い髪を持つ子を初めて見たから……」
和美さんは穏やかに「そう?」と私を見た。そして、
「私は、自分の身長と同じ長さの髪を持っていた女の子を知っているから、ヒップまでの長さくらいでは、驚かないな……」と言った。
私はビックリした。私だけじゃない。さやかも静香も驚いた顔で和美さんを見つめている。和美さんは夢見るように話を続ける。
「高校生の時、同じクラスにいた女の子が身の丈のロングヘアで、本当に綺麗だった……。私は、その時はまだ胸くらいまでしかなくて、早く貞子と同じくらいの長さになればいいなーって思ってて……」
「今、『貞子』って、言いませんでしたか?」静香が鋭く言った。
「ええ。貞子は高校一年生のころ、超ロングヘアだったの」と和美さんは答えた。
「でも、今は二年生でベリーショートですよ。しかも二十二歳」と私。
和美さんは深くため息をついた。
「昨日、貞子の変わり果てた髪を見て、本当に私はショックを受けたわ。でも、貞子の話を聞いてもっと驚いたのだけど……」
昨晩の更衣室で、貞子先輩が和美さんを見た瞬間に激変した態度に出たことが鮮やかに蘇る。和美さんが全てを知っているのだと私は確信した。
静香が遠慮がちに聞いた。
「もしかして……貞子先輩、いじめに合っていませんでしたか? 中学生の時に……」
和美さんは静香をハッと見上げた。そして、「ええ、多分……」と、曖昧な返事をした。
いじめの定義とは曖昧なものだ。恐らく、和美さんにも貞子先輩がいじめに合っている事に気が付かなかったのだ。だとしたら、その「いじめ」の内容は、悪質か否かを判定するのが難しいほど、微妙なものだったに違いない。
私の脳裏にいつもショートカットを揺らしながら歩く活発で、挑発的な服装をした貞子先輩の姿が浮かび上がった。貞子先輩は常に都会的な雰囲気を漂わせていた。でも、もしあの高慢で自信に溢れた態度そのものが、つくられたものだとしたら……。
「どういういじめだったんだろう……。嫌なあだ名を付けられたとか?」と私は聞いた。
「いえ。そのまま、皆、貞子って呼んでいたわ」と和美さんは答えた。
活発なイメージを振りまく先輩。
ふと、棚から牡丹餅が落ちてきたように私は思いついた。
「あれだ! 映画だ! あの……名前は忘れたけど、テレビから幽霊がでてくるヤバイ怖い映画!! 先輩はあの幽霊のイメージを払拭したかったのかもしれない!」
「そうだ!」と静香も手を打った。「幽霊の名前が『サダコ』だった! 貞子先輩はあの映画の影響を受けて、『サダコ』という嫌なニックネームを貰ってしまったんじゃありませんか? でも、貞子先輩の本名がサダコだったから、いじめている子達と、いじめられている先輩以外の人たちには、貞子先輩が幽霊のニックネームをつけられているとは気が付かなかったかもしれない……」
和美さんは大きく目を見開いて静香を見つめていた。
「そう言われてみれば……。クラスの男の子達が、やたらと貞子の名前をしつこく呼んでいたわ……まるで、からかっているみたいに……。でも、私、映画のことには気が付かなかったから、貞子は男の子達に人気があるのだと、ちょっと妬いていたの……」
実際、貞子先輩は美人だし、本当に男の子達に人気があったのかもしれない。しかし、男の子が女の子に対して優しく自分の気持ちを表すことができるとはかぎらない。ほとんどの子は素直になれず、からかって貞子先輩を困らせていたのではないか? そして、周りの女の子達は貞子先輩の密かな人気に対して嫉妬し、彼女から離れてゆく……。ちょうど、リカがそうだったように……。
「まさか……そのせいで……」と和美さんは突然つぶやいた。そして、私達の視線に気が付くと、ゆっくりと説明し始めた。
「高校一年生の二学期、文化祭の当日に、貞子が自分で自分の髪を切っちゃったことがあるの……十センチくらいだったかな……衝動的にハサミをあてて切ってしまったという感じで……。もしかしたら、自分の黒くて長い髪が幽霊を連想させるのではないか気にして切ってしまおうとしたのかもしれない。でも、大好きな髪だから、バッサリとは切れなかったのでしょうね……。私は、貞子の長い髪が好きだったから、ハサミを髪にあてて教室に立っていた貞子に『やめて!』って叫んだんだけど……」
和美さんは自分の長い髪に袋の上から手をあてた。存在を確かめているかのように優しくなでる。
「でもね、それから、不登校が続いて……とうとう、三学期には学校に来なくなっちゃったの。一度だけ、貞子の実家に会いに行ったことがあるのだけど、貞子のお母さんから『病気で会えない』って言われてしまって結局会えなかったわ。……それから、昨日まで、貞子とは一度も会わなかった」
和美さんは私達の顔を見回した。一人一人の顔を、信頼を確かめるように。
「これから私がここで話す事は、貞子の為に、明日には全て忘れて欲しいの。……約束できる?」
私と静香は無言で頷く。さやかは一人、恐れているように部屋の隅へ隠れたが、
「昨日、貞子先輩が、更衣室で話したんですね……?」と、和美さんをまっすぐに見た。
和美さんは頷く。
「なら、私も知りたいです」さやかの声は和美さんに対して少し敵意を含んだ言い方だった。和美さんは話を続ける。
「貞子は自分の髪をとても大切にしていたのだけど、男の子達にからかわれたり、女の子達に無視されるようになってから、自分の髪の長さを維持することに悩むようになったのだと思う。それで、きっと不登校が続いたりしたんだわ。でも、そんな貞子を貞子のお父さんは理解してくれなかった。冬休みのある日、『そんなに悩んでいるなら、いっそ切ってしまえ!』ってどなって、貞子の髪をバリカンで耳まで短く刈ってしまったって……」
和美さんは自分でしゃべりながら怖くなったらしい。自分の髪の束を両手で包み込んだ。
「ひどい……」静香がうめく。
「バリカン? 耳まで? そんな……」私も言葉が出てこなかった。
さやかは何も言わずにジッと和美さんが話し出すのを待っている。
「それから、部屋にこもるようになってしまって、学校にも行けなくなってしまったそうよ……五年間も、貞子は一人で我慢していたのね……」
五年は長い。私はそれがどれだけ長い時間なのか想像しようとした。が、無理だった。私はこの学校に来て、まだ四年も経っていない。五年間、貞子先輩は孤独の中にいたのだ。
「貞子がショートヘアを今でも維持しているのは、その時のトラウマがあるからよ……。本当は、心から長く伸ばしたいのだと思う。でも、そうすると、父親にまた切られるかもしれないという恐怖があるから、伸びてくると、自分で切ってしまうのね……」
和美さんは自分の髪束を顔に付けた。袋から少しだけ出ている毛先を指にからめる。
もしかして、全寮制のこの学校に来ることを決めたのは、父親から離れるためだったのではないか? そして、リカの長い髪に異常なほど執着したのも、自分のトラウマがあったからこそ、何も恐れることなく黒髪をさらしているリカに激しく嫉妬したのではないだろうか。
「だから、ショートヘアなのに、私にあんな変な脅し方をしたのか……」静香が自分の短い髪に手をあてながら言う。
きっと貞子先輩は、女の子は皆、ロングヘアに対する憧れを持っていると思い込んでいるのだ。
まあ、それは、きっと、ちょっとは真実なような気がしないでもないような……。
現に私は短い髪をしていながら、リカのロングヘアに憧れているではないか。
和美さんは、暗い眼をしてつぶやくように言った。
「貞子が髪を自分で切ってしまうのは、自傷行為だわ……」
「あの……」と、今まで黙っていたさやかが突然遠慮がちに言った。
「貞子先輩には、本当に自傷癖があるんです……」
和美さんは驚いたようにさやかを見た。
「自傷癖って、リストカットとか……?」
「はい」
私は貞子先輩の手と腕を思い出そうとした。が、傷があったような気がしない。貞子先輩はよくノースリーブや袖の短い服を着ているし、大きめな腕輪や時計は付けたりしないので、もしリストカットしているのなら、すぐにでも誰かにバレてしまうはずだ。
「手首じゃないんです。貞子先輩が自分で切るのは足首なんです……」
廊下に突き刺さるようなヒールの付いたブーツ。いつでも、貞子先輩はブーツを履いていた。そうだ、私達の部屋に入ってきた時だって、ブーツを脱がなかったじゃないか! さやかは、貞子先輩の足首に傷があることをきっと前々から知っていたに違いない。
「私、貞子先輩に何かしてあげたかったよ……。貞子先輩が何故足首を切っちゃうのか理由は知らなかったけど……先輩は、怖い時もあるけど、優しい時のほうがよっぽど多いよ。何故か、それを隠しているみたいだけど……」
さやかはまた泣き出した。貞子先輩がいなくなってしまったことを実感してしまったらしい。
「先輩は、これからどうするつもりなんだろう……」と、小さくつぶやいた。
次の日、朝早く目覚めた私は生徒会室に行き、展示室の受付に置かれていたメッセージカード用ポストを開けた。色とりどりのカードがいっせいに箱から雪崩出る。明日までに全てのカードを生徒達に届けなければならない。少しでも配りやすくする為に、私は宛名を見ながら、寮ごとにカードを分けていった。
ふと、手が止まった。
そのカードは、すでにこの学校を去ってしまった人へ宛てられていた。
「貞子へ」男性的な無骨な文字でそう書かれていた。差し出し人を見ると「父」とある。
文化祭に来たのだ。貞子先輩の様子を見に来たのだ。先輩は自分の髪を無残に切り捨てた父に会ったのだろうか……。
私は和美さんにカードを託して、貞子先輩に渡してもらおうと、静香の寝室へ向かった。
昨晩、和美さんから聞いた貞子先輩の話は、この学校で私が知っていた貞子先輩とはまるで別人だった。更衣室から出てきた先輩は惨めだった。和美さんの腕にすがって泣き続ける貞子先輩の姿を思い出した瞬間、私に抱きついて泣いていたさやかの姿と重なった。
私は気が変わって、廊下を引き返した。
このカードはさやかに託そう。
さやかがきっと先輩の手に直接渡してくれるだろうと思った。
カレンダーはまだ11月だというのに、メディアは早々とクリスマスを特集し始める。気温も既に冬だ。雪も、積もりはしなかったが二度降った。マフラーと手袋無しには外に出る気がしない。
文化祭が終わって早々、生徒会も、学期末のイベント「クリスマス会」に向けての準備を整え始めた。クリスマス会では、軽音楽部のバンド演奏などが予定されている。ゲームや仮装ファッションショーなど、プログラムは盛りだくさんだ。
私は前々から疑問に思っていたのだが、宗教に興味を持たない多くの日本人にとってクリスマスとは、一体どういうイベントなのだろうか。
冬休みに都心のホテルでアルバイトをしたという早苗の話によれば、イブの夜は、レストランも部屋も予約で一杯なのだそうだ。もちろん、皆、カップルで来る。イブの夜に寝て、25日にチェックアウト。
不謹慎かもしれないが「クリスマスを恋人と過ごせない奴は負け犬」という信仰を多くの人が持っていると思う。だからクリスマス前はカップルが急増する。皆、一人でクリスマスを迎えたくない、負け犬にはなりたくないのだ。
学校内でも、新しいカップルが続々と登場していた。毎日が電撃スキャンダルに溢れているので、噂好きの弥生と真美はこの時期が一番輝いている。
「クリスマスバブル」、虚しくも、何だかウキウキしてしまう季節。
バブルとは幻想だ。皆、自分の彼氏や彼女に「幻想」というマガイモノを被せている。でも、需要があるからマガイモノでも構わないのだ。付き合って、相手を知っていくうちに、被された幻想は徐々に剥がされていく。
クリスマスが終わり、お正月、バレンタインデー、ホワイトデー、と、カップルと企業に都合の良いイベントが続くうちは良い。しかし、3月の末頃になると、幻想は終わる。バブルは弾ける。カップルは別れる。ホワイトデーまで持続したカップルはまだ耐久力があったほうだ。大抵は、2月14日以降、続々とカップル数が減少する。(よって、悔しいことに、大抵の男子はプレゼントの貰い逃げをする!)
「何で皆、彼氏とか彼女が欲しいんだろう……?」と私はつぶやいた。
「あゆみは、彼氏欲しくないの?」とさやかは聞いてきた。
「どうせ、すぐに別れちゃうのがわかっているのに、この時期に付き合い始めるのなんて、馬鹿馬鹿しいよ」
私は二段ベッドの上に上がった。もうすぐ就寝時間だ。
どうせ、私はこの「クリスマスバブル」の恩恵に触れることはないのだ。他人の幸せを手の届かない場所から見ているのは不快ですらある。全く面白くない!
天変地異が起きた、私の身に。
全く、信じられない。これは夢か?! 神様が書いた脚本に誰かがいたずら書きをしたのではないか? ちょっと運命が変更されてしまったらしい。
何故かよくわからないが、とにかく、今、私は食堂前の廊下にいる。もうすぐ夕食が始まるので廊下にはたくさんの人たちがいる。皆、興味津々で私達を見ている。
私と健太郎を……。
健太郎は、よく聞き取れないような小さな声で、好きだから付き合って欲しい、みたいなことを私に言った。……と、思う。
いかんせん、彼の声は最新のリニアモーターカーの騒音よりも小さいし、野次馬達の声は球場の声援のごとく。健太郎は私を見ておらず、廊下の床をゆっくりと横断しているテントウムシの方を向いていたと思うが、まさか虫に向かって「付き合って」と言うはずはなく、従って、健太郎が居るところから一番近い位置に立っている私、半径一メートル以内に居る私に向かって、彼は「告白」をしたと、私は理解した。
野次馬の視線が私に注目する。
待ってよ……。何を言えば言い? どうすればいい?
こんな時、リカはどうするんだろう?
男の子から「好きだ」なんて言われる日がこようとは、夢にも思わなかった。いや、願望はあったが、その願望が叶うとは思っていなかった。しかも、健太郎によって叶えられるとは……。
突然、私の心臓は発作を起こした。と、思ったほどに胸が苦しくなった。
顔がしもやけにでもなったかのように、熱く痛くなってくる。
どうしよう。何これ……。何を言えばいい?
野次馬達が私の反応を見て騒いでいる。そして、私の言葉を待っている。
一方、健太郎はまだ下を向いていて、私の顔を見ようともしない。
何かを言わなくては……あゆみ、決断の時!!
私は大きく息を吸い、呼吸を整えてから、
「いいよ!」と叫んだ。
そして、寮に向かって駆け出した。居ても経ってもいられない気持ちだった。
私が駆け出したとたんに、中学生の男の子が一人、男子寮に向かって走って行った様な気がする。「号外」を知らせに行く新聞小僧みたいだ……。
「告白」って、なんかイメージしていたのと違うぞ。
人気の無い静かな教室。ドキドキという擬態語だけが聞こえる。恐る恐る男の子は女の子に話を切り出す。女の子は照れながら、上目遣いで、可愛くコクリと頷く。花びらが舞う。嬉しさのあまりに女の子に抱きついてしまう男の子。大輪の花で囲まれた最後のコマの下に書かれているのは―End―。
「千絵、その漫画はウソツキだ」と、私は自習室で言った。
千絵は相変わらず無反応で、漫画から目を離さない。
結局私は食堂に行く勇気がなく、さやかにサンドイッチを持って帰ってきてもらって、自習室で食べていた。
数分前に自分の身に起こった不思議な出来事について既に静香、さやか、リカ、早苗に話してある。千絵にも話したのだが、聞いていないので放っておく。
早苗は素直に「やったー! ステキ!! あゆみに彼氏ができた!」と歓声を上げた。
が、リカ、静香、さやかはお互いを困った顔で見合わせている。
「まさか……」と、静香が言いかけた。
「静香! そうと決まったわけじゃないんだから! 黙って!」とさやかが静香を止める。
「何? 何なの……?」私は不安になった。告白されたと思ったのは、私の勘違いだったのだろうか……。私は頭でも打って気絶して、その間に願望丸出しの夢を見ていたのだろうか……。
リカが髪をサラサラと揺らしながら、首を横に振った。
「あゆみちゃんは、何も心配しないで。……おめでとう!」と微笑んでくれた。
私は急に恥ずかしくなってきた。それと同時に、天にも昇るような幸せな気持ちが湧いてきた。
明日から、教室で健太郎に会ったら何と言えば言いのだろうか……どうしたらいい?
何と、バブリーな幸福感! クリスマスバブル、万歳!!
次の日、教室に行くと健太郎の態度はかなり怪しかった。まるで、私など存在しないかのように無視するのだ。
「おはよう」と声をかけても下を向いて通り過ぎてしまう……。
何なんだ? 一体?
苛立ちと疑問に捕らわれて立ち尽くす私と、そそくさと自分の席についてしまう健太郎。
それを見ていたユタが楽しそうに笑った。そのユタの背中を武が密かに蹴る。ユタが武を睨むが、武は怖い顔でユタを睨み返す。
何なの?!
昨日の幸福感とは一変して、ひどく不安になった。
何で皆私の顔を見ようとしないのだろう……?
「だからさ、罰ゲームだったんだ」
ユタがオムライスにケチャップをたっぷりとかけながら言った。
私は、さっき飲み込んだレタスが食道に詰まってしまったような気がした。
心臓を吐き出しそうなほど気持ちが悪い。
武がものすごい勢いで立ち上がる。
「ユタ! 黙れ!」
食堂にいた生徒全員が振り向く。
私は突然、スポットライトがまぶしい舞台の中央に引きずり出された気分になった。
生のエンターテイメントを目の当たりにした生徒達は皆、好奇心と期待に満ちた目をしている。
「どういうこと?」一応聞いてみるが、答えは既にわかっていた。
言われる前に、私から言ってやる。
「ゲームに負けたから……、健太郎は、私に『好きだ』と言ったの……?」声が震える。
健太郎は食堂に来ていなかった。気が弱い彼のことだ。自分から本当の事は言い出せなかったのかもしれない。
静香が私の背中を優しくさすりながら、ユタと武を睨みつける。
「あんた達、最低」
ユタが静香を見据えながら、
「俺達だけじゃねぇよ」と悪びれもなく言った。
「ゲームには、高校生男子が十五人ほどが参加していた。うちの学年の奴もいたし、一年上の先輩達もいた。ゲーム内容は『将棋』で、負けた奴を絞り込む、『逆トーナメント』で競った」
ユタはまたオムライスに視線を移しながら、淡々と説明する。
「ゲームを始める前に、既に罰ゲームの内容は決めておいた。『負けた奴が女に告白する』。告る対象の女は三人いて、あゆみはその中のひとり……」
パリンッ
乾いた音をたてて、グラスがタイル張りの床に叩きつけられた。
さやかが机の下にもぐり、大きな硝子の破片を手に持ってユタと武に向ける。
「もう我慢できない! あんた達の話は聞きたくない! 出て行ってよ!」
ユタは口に運びかけていたオムライスをポロリと落としてしまった。
「出てけって言ったって……ここは皆の食堂だぞ?」
武がトレイを持ってゆっくりと席を立った。
「ユタ、行くぞ」
「え? 俺、まだ食っている最中なんだけど……」
「じゃあ、もう食うな!」
雷のような武の怒鳴り声にユタははじかれたように立ち上がった。そして、「ったく、何なんだよ……」とブツブツ文句を言いながら武の後を追って出て行った。
私は何も言えなかった。何も思いつかなかったし、何も考えたくなかった。
それなのに、私はわかっていた。
罰ゲームに選ばれた女の子達……。どんな基準で選ばれたのか、聞かなくたってわかる。
「下の下」
誰も欲しがらない、腐ったウナギ。
女の子としての価値が無い者。
「あゆみ、気にすることないよ」
静香が私の顔を覗き込んだ。
「男って、最低!」さやかは武達が去っていった方をまだ睨んでいる。
「本当!」早苗も怖い顔を作っていた。
「現実の男なんて、馬鹿ばっかり!」千絵はフォークを握り憤っている。
「千絵は漫画に出てくる男の子にしか恋してないもんねぇ」と早苗が言う。
「だって、あいつらを見ていて、恋しくなれるかよ!? 腹立つだけじゃん!」
「そうだねぇ」
早苗も、千絵も、静香も、私もため息をついた。さやかだけがそんな私達に反抗的な視線を一瞬だけ投げつけた。「武は違うわよ」と目が言っている。
テーブルの向かい側から、リカは悲しそうな顔をして私を見ている。その顔は作り物のように完璧だった。作り物……きっと、リカは悲しい表情を「作っている」のに違いない。リカには私の気持ちなど、絶対に理解できるはずがない。
私とリカは、同じ「人間・女」という生き物なのだろうか?
リカはこんなにも美しく、私はこんなにも醜いのに!!
私は、いつかリカが自習室でため息混じりに言っていたことを思い出した。
「私の付き合う男の子って、私の外見しか見てくれないの。全然本性を知ってくれようとしないの……」
それが何だよ!?
外見であろうが、中身であろうが、男の子達はリカを見ている。それでいいじゃないか!
私はリカが羨ましいと思った。そして、妬ましいと思い、憎らしいと思った。
リカを見ているだけで、私は惨めになる。リカの自信に溢れた態度は、私をますます卑屈にさせる。リカの存在が、私にとって脅威になった。
ショックで食欲も無くなり、授業を受ける気もしなくなり、遂には寝室に閉じこもる……のではないか、と私は自分で思っていたが、意外にも私の心と体は頑健だった。
ユタから衝撃の事実を知らされて二日後、私は既に「まあ、こんなこともあるか」と開き直っていた。
自分の外見が醜いことに気が付いたのは、何もつい最近のことではない。幼稚園にいたころには、自分は他の女の子達とはちょっと違うと思っていた。可愛らしさや美しさを決して武器にはできない女。人生の比較的早い段階で、その事実に気が付くことができたおかげで、私は顔のことをなじられたり、笑われたりしても深手を負わない鋼の心を持った。「女は顔じゃない」と信じている。だから、勉強だってちゃんとするし、リーダーシップを取れる、体力のある女になることを目指してきたのだ。
でも……、やぱり、ムカつく。阿呆な男共、同情するだけで何もしてくれない女友達。時々、私は私を含めた周りの人間全てに敵意を持った。
何で私や他の皆の脳は、リカを「美しい」と判断し、私を「醜い」と選別するのだろう。美的意識って、人それぞれとか言われている。美しいものには様々なタイプの美しさがあって、人によってそれが好意的な美しさだったり、そうではなかったりする。醜さにだっていろいろなタイプがある。好意を持たれる醜さだってあるだろう。でも、醜いものは絶対的に醜いのだ。例え、一人の変わり者が好意を寄せる醜さでも、それが醜いものであることには変わらない。決して美しいものへとは変われない。「醜いアヒルの子」はお伽噺だ。現実はそうそう甘くない。
「さっさと男を一人出せ!」と、私は言った。
ホームルームの時間。毎年恒例「クリスマス会」の目玉イベント、ファッションショーに出る男女を一学年一カップルずつ出すことになっている。ショーでは舞台と花道が用意され、自作の衣装を着て全校生徒の注目を一身に集められるのだ。喝采を浴びたい女の子には夢のような瞬間。すでに高1女子からは早苗が出たいとはしゃぎまくり、皆彼女が出ることに賛成した。しかし、男子からは、まだ一人も立候補者がいない。そもそも、このファッションショーには裏があった。
「男じゃねぇよ。女役を出せって事だろ?」一番前の席に座る男子が不満顔で言う。
「そうだね。男装女装ファッションショーだから、男の子には女装してもらうよ」
私は黒板にもたれかかりながらため息をついた。男達は私と目を合わせないように全員下を向いている。俺に不幸な役が回りませんように!!と、必死で祈っている。
ユタだけがニヤニヤ笑いながら私を見ていた。
「何だよ。ユタ、あんた女装したいんじゃないの?」
先日のこともあり、私はユタに話しかけるときには棘棘しい声しか出せない。
「はあ? やりたくねぇよ! 馬鹿!」
ユタも私の敵意を感じているようだ。口調が荒い。しかし、相変わらず顔はにやけている。
「決まり! 候補はユタね。……多数決にします。『反対』の人は手を挙げて下さい。」
民主主義の活用法、可決させたい提案には、絶対に賛成派の挙手を求めてはならない。反対派の挙手を求めるのだ。
予想通り、誰一人手を挙げなかった。皆、疲れた、どうでも良い、誰でも良いからさっさと決まれ!という顔をしている。
ユタが私を鋭く睨む。私は口元を緩めて言った。
「全員賛成ということで、女装する男子はユタに決定」
生徒会が終わった後、自習室に戻るとリカが窓際に腰掛け、ヘッドホンをつけて音楽を聴いていた。暖房のせいで乾燥した部屋に風を通すためか、窓は細く開けられている。リカは目をつむり、うっとりと音楽に聞きほれている。左手には花柄のティーカップを持っている。淡いグレーのワンピースにまとわりつく髪が時折風で揺れる。
完成された美がそこにあった。
優雅とか、清楚とか……私のような俗物が入り込む隙間が無いほど美しい。
悔しいけど、やっぱりリカは綺麗だよ。だから嫌なんだよ……。
私がドアを閉めるとリカはパッチリと目を開けた。
「あゆみちゃん、生徒会お疲れ様」
笑顔で言ってくれる。
リカは優しいし、良い奴だ。
私はリカの欠点を探そうとした。そうでもしないと、もっとリカを嫌いになりそうだったから……。
非の打ちどころのないお嬢様は、存在自体が悪だ。少なくとも、私の様に外見が醜くて、ついでに、心もひん曲がった奴には「非」こそが「魅力」なのだ。そう思わなければ自分が辛い。だから「非」が無い奴には敵意すら抱く。
リカは……リカは、きっと自惚れ屋だ。男の子にちやほやされて、心が高慢になっているに違いない。そして、リカは鈍感だ。私や他のスタディメイト、そして朝子先輩がリカの長い髪を守るためにどれだけ奮闘したか、リカ本人は知らない。そう言えば、貞子先輩に更衣室で髪を切られそうになった後、助け出した私達に「ありがとう」の一言も無かったぞ。
今まで気が付かなかったが、けっこう欠点ってあるもんだな……。
リカは不思議そうに私を見つめている。
私は今考えていたことを全てリカに打ち明けてやりたいと思ったが、リカに好意を持ち始めたところなので、心に余裕があった。
私は笑顔を作って言った。
「バスルームを使いたい? 私とさやかの靴でごまかしてあげてもいいけど?」
リカは顔を輝かせて「ありがとう!」と言った。そして、
「私、支度してくるね」と言って、ヘッドホンを窓枠に置き、部屋を出て行った。
リカが居なくなった後で、私はちょっとだけリカの気分を味わってみたいと思った。
優雅に腰掛けて、可愛らしいティーカップを持ち、クラッシックミュージックに耳を傾ける……。
ヘッドホンを耳に当てる。
機関銃が連発されたような音が耳の奥に響く。
驚いてはずし、廊下の音に耳を澄ませるが、何も聞こえてこない。
何だったんだ? 今のは……?
もう一度ヘッドホンをつけると、機関銃の音は激しく叩かれるドラムの音だとわかった。引き裂くようなエレキ音。雷鳴のようなドラム。突然、
「ワギャレカ! ズギャレガー! ボスズバリドバス!」
意味不明な叫び声がした。
これは……もしかして、「ヘビメタル」と呼ばれる音楽ではないだろうか?
私は騙された気がして、しばらくその曲を聴いていた。
「ダバデリー! ダバデリー! ヂガンドガチマンガン!」
何語だ?
ふと、花柄のティーカップの中を覗いてみる。小さなニンジン、ジャガイモ、ねぎ、そして豚肉の破片が濁ったカフェ色の液体の中で浮いている。ドライフリーズの豚汁だ。
豚汁……私も大好き。
一気にリカに対して親近感が湧く。
何なんだ? このミスマッチ感は? まるで、キャビアから始まった本格フレンチのフルコースの最後のデザートに、ところてんが出てきてしまったようなミスマッチ感。
ん? どうして「ミスマッチ」と感じるのだろうか? リカは清楚だからヘビメタを聴かない? 豚汁なんかを飲まない? ……そんなわけあるか! リカはただ単に自分が好きなものを選りすぐっていただけだ。なのに、私は勝手にリカに対して先入観を持っていたのだ。
リカ自身とリカに付きまとうイメージ。私はきっともっとリカに驚かされることになるかもしれない。
「ねえ、本当かどうか知らないのだけど……」と、おしゃべり弥生が遠慮がちに切り出した。自信の無さが顔に表れている。これは極めて珍しい。彼女はいつも、情報が不確かだろうが嘘だろうが、気にすることなく喋り捲る。
「リカが島先輩のバンドに入ったんだって」
島先輩は軽音楽部所属でボーカルとしてバンド活動をしている。メンバーは全員高校二年生の男子で、時々キーボードを弾けるユタが「お手伝い」として仲間に加わっている。
真美が身を乗り出して話を続けた。
「ドラムを担当していた先輩が、先週の体育で肩の骨を痛めちゃって、それでピンチヒッターとして、リカがドラムを叩くことになったんだってさ。クリスマス会で演奏するらしいよ」
消灯後、就寝前のわずかな間に、弥生と真美は私とさやかの寝室にやって来た。特別な目的など無い。彼女達は人の噂をできる限りたくさんしてから一日を終えようと、各部屋を寝る前に回っているのかもしれない。「ご苦労さん」と言いたい。
「リカって、ドラム上手いの?」と、さやかが私に聞いてきた。
「さあ……知らない」
何故私に聞くんだ? リカのことなんて何も知らないよ。でも、激しいリズムの音楽が好きなリカだから、ドラムも上手く叩くのかもしれない。
リカは一体どんな子なんだろう……。私はリカに会って初めて、リカのことを良く知りたいと思った。外見から想像されるリカではなく、真実のリカを知りたい。
「幽霊!?」
放課後の教室。私は真面目な顔をして頷く武を見つめていた。そして噴出す。
「寝ぼけたんじゃないの?」
「からかうなよ! 本当だ!」
武はムキになる。
静かな教室。ヒーターの穏やかな騒音だけが聞こえる。
つい三十分ほど前に終わった歴史の授業中、私の机に丁寧に折りたたまれたメモが回ってきた。「あゆみへ」と小学校低学年生が書いたような雑な字を見たとたん、それが武から送られたものだと私は直感した。メモには「放課後、二人で話したいから、教室に残って欲しい」と書かれてあった。で、他の人たちに怪しまれないよう、たわいも無い会話を武と続けながら教室に辛抱強く居残り、つい数分前に最後の邪魔者が教室を出て行った。
「で、どんな幽霊だったの?」
私は、どうせ武の思い違いだろうと思いながら、面倒くさそうに聞いた。
「女の幽霊だよ。黒い、長い髪の……」
私はとっさにリカを連想した。が、それは無いと打ち消した。武が幽霊を見たのは消灯後だ。そんな時間に女子生徒が男子寮に行くわけが無い。
「リカの髪より長かった。立ち上がった状態で、床に髪がつくくらい」
「え?」
今度は貞子先輩を連想した。和美さんが言っていたではないか。貞子先輩は以前、身の丈ほどのロングヘアの持ち主だったと……。しかし、先輩は現在、ショートヘアで、髪がそんなにすぐ伸びるわけが無い。
「あのさ、この学校ができる前、この土地に神社が建っていたっていう噂があるだろ」
武の言葉に私は頷く。それはただの噂ではなく、本当のことだ。歴史好きの生徒と教員が近所の資料館などを訪ねて調べた結果、わかったことだ。
「そこの神社は、『ある物』を特別に供養してくれるとかで、ここ近辺では結構有名だったらしいぜ」
もったいぶった武の口調が気に触る。
「ある物って何?」
「わかるか?」
「さっさと答えてよ。でなきゃ、聞かない」
武はつまらなさそうに眉をひそめた後、言った。
「ハサミだよ」
意外だった。ハサミを供養する神社なんて聞いたことがない。
「よく『長く使われたものには魂が宿る』っていうじゃねぇか。ハサミを捨てる時に、信心深い人たちはハサミに宿った魂を供養してから捨てたらしい。特に床屋のおやじにとって、ハサミは商売道具であり、ビジネスパートナーだろ? 簡単には処分できない気持ちがあったんだろうな」
「それと、武の見た幽霊と、どう関係があるの?」
「きっと、髪を無理矢理切られた女の執念がハサミに乗り移って、幽霊になって出てきたんだ」
私は目を丸くした。そしてまた噴出してしまった。
「なにそれ? こじつけじゃん?」
「こじつけじゃねぇよ。ユタだって中学生の時に、その女の幽霊を見たって言うんだ。それに、戦争中はこの辺りは疎開地だっただろ? 都会からやって来たお嬢さん達の髪を『贅沢は禁止』とかで、無理矢理切ったっていう話だってあるんだぞ!」
また笑ってやろうかと思ったが、武の顔があまりにも真剣だったので止めておいた。
考えてみれば、悲惨な時代が終わって明るく自由な時代になった、にもかかわらず、現代の女の子達は「女の贅沢」の一つだったロングヘアを復権させようとはしない。「長ければ手入れが面倒」などと言って短くする。そのわりには、髪にお金をたくさんかける。パーマ、ヘアダイ、シャギー・レイヤー、ヘアーアイロン……そのどれもが、髪を自ら傷つけるものだ。現代女性の髪に関する「贅沢」とは、髪を傷めることなのだ。
「まぁ、この話はどうでもいい。俺があゆみと話したかったのは幽霊のことじゃないし」
武がつぶやく。
何だよ! 早く本題に入れよ!
「さやかのことなんだ」
と、武は遠慮がちに言った。
武とさやかが付き合い始めたのは、中学二年生の時だ。
当時、さやかは胸下までのワンレングスロングヘアだった。艶やかな髪をいつも三つ編みに結って教室に行っていた。
女の子のロングヘアが胸や脚よりも大好きという武は、さやかに恋心を持った。そしてその恋は成就した。
が、付き合って2ヶ月たったある日、さやかは髪を肩まで切った。部活動を始め、髪を邪魔に感じるようになったらしい。切ったのは本人の意思だった。
「朝、教室に行ってさ、短くなったさやかの髪を見たとき、めちゃくちゃショックだった。でも、そんなこと、さやかには言えないじゃないか! だから『似合う』って、言ったよ」
武がため息を付いて言う。暗くなり始める教室で、私は辛抱強く武の昔話を聞いていた。
もともと仲が良かった武とさやかは、友達のような恋人関係をその後も続けてきた。
「でもさ、時々『俺本当にさやかが好きなのかな』って疑問だったんだ。なんか、ずるずると成り行きで付き合いが続いているという感じだったから……」
「何それ?」
私は腹が立った。
「それじゃあ、武はさやかの髪は好きだったけど、さやか自身は好きじゃなかったっていうことじゃない?」
武は黙り込んだ。代わりに私から言ってやった。武が傷付くような言葉をわざと選ぶ。
「だから、長い髪を持った超美人のリカが現れた時、武はさやかなんて、どうでも良くなっちゃったんだ? 最低!」
「……一目惚れだったよ」
うめくように武は言う。
「でも、長くは続かなかった」
武はリカに振られたのだ。リカの内面を見ようとしなかったから!
大きくため息を吐いて、武は私を見つめた。
「俺さ、すげーショックだった」
「そうだろうね。二週間でポイ捨てされたんだもんね」
「そのことじゃねーよ! ……文化祭中に、リカが貞子先輩たちに髪を切られそうになった事件があっただろ? あの時のことだ!」
「へえ? 武って、やっぱり髪の毛にしか興味が無いんだ? リカの髪が切られそうになったことが、振られたことよりもショックだったって言うの?!」
「違う! 俺は、さやかがあんなことに加担していたことが、リカの髪が切られそうになったことよりもショックだったんだ!」
私は頭が混乱した。でも、すぐに武を睨みつける。
「さやかが、あんなことをしたのは……」
「俺のせいだよ」
教室に再び沈黙が訪れた。暖房が効きすぎた教室は、少し暑いくらいだ。外では、この冬三度目の雪が激しく降っている。きっと、積もるだろう。
「最初にあの騒動の事を聞いたのは、文化祭二日目の朝だった。二年生の先輩から聞いた。情報は不確かで、リカの髪がバッサリと切られたと聞いたんだ。でも、そんなことはその時の俺にとってはどうでもよかった! さやかが、貞子先輩と一緒にいたと聞いた時、本当にどうしようかと思った。だって、もしリカが学校に訴えれば、さやかはきっと処分を受ける。退学になったりしたら……」
しかし、リカの髪は切られてはおらず、リカもさやかを学校に訴えなかった。学校を出て行ったのは貞子先輩一人だけだった。
さやかとリカの間には今でもギクシャクしたわだかまりが残る。それは仕方が無いことだ。しかし、さやかがリカの髪を切ろうとすることは、もう二度とないだろう。
「俺はさやかのことが好きなんだよ。どうしても気になるし、側にいたいと思うんだ。……あゆみ、何とかしてくれないか?」
自分で何とかしろ! と叫んでやろうかと思ったが、私は考え直した。
もし、さやかと武の関係が元に戻れば、きっとリカとさやかの関係も今後上手くいくに違いない。自習室に平和が戻る。結構なことだ。
私は武を見つめ返した。
「さやかはきっと今後も髪を伸ばさないと思うよ。部活動に打ち込んでいるからね。武はそれでも良いの?」
「いい」
キッパリと武は言いきった。
「じゃあ、今日の夕食後、理科室の前の廊下で待っていて。さやかをそこに呼び出すから」
武は笑顔になって「ありがとう」と言った。そして、
「お前、いい奴だな」と恥ずかしそうに言った。
教室を出ると、廊下に健太郎が立っていた。
私は思いっきり彼を睨み付けた。鋼の心を持っているといっても、やっぱり罰ゲームに使われた事に対して、私は傷ついていた。しかも、健太郎はそのことについて私に自ら謝らなかった。おしゃべりで調子の軽いユタに説明させたのだ。卑怯だと思う。
恨みのこもった私の視線を避けるように、健太郎は廊下の床を見つめた。
無視して足早に過ぎ去る。
「あゆみ! 待てよ!」
叫んだのは健太郎ではなく、武だった。
武は健太郎の肩に手を置いて、
「ケンがお前と話をしたいそうだ、教室に戻ってくれ」と言う。
「何で武が言うわけ? 健太郎には口があるでしょ? 声も出るでしょう? 何でいつもコソコソ他の男子にくっついて歩いているんだか!」
健太郎が顔を上げた。
一瞬、目の前にいるのは本当に健太郎なのだろうかと疑った。それほど、いつもの彼とは違った真剣な表情をしていた。
私は渋々教室に入る。健太郎も入ってきた。
教室の明かりをつけようと、スイッチを入れても蛍光灯は光らなかった。暖房の使いすぎでブレーカーが落ちているらしい。頻繁に起こることだ。
しばらくの間、私達は暗い教室の中で互いの表情を読めぬまま向かい合っていた。風の音が煩い。雪が固まって窓に殴りつけられる。窓ガラスはパシリパシリと軋む。
曇るような声で健太郎は「ごめん」と謝った。そして、
「これから俺が言う事は、罰ゲームとかじゃなくて、俺の本心だから……」と言い切った。顔はよく見えない。しかし、だからこそ健太郎の緊張を感じ取ることができた。心臓が体内に血液を送る音。彼の血は今、血管ハイウェイをF1レーサー並みのスピードで駆け抜け、上昇している。きっと耳の先まで真っ赤な顔をしているのだろう。顔の辺りで血液が騒いでいる。
私は身構えた。
健太郎の次の一言が、きっと私の何かを変えるに違いないことを予感した。
「俺と付き合って」
教室に白い明かりが戻った。ブレーカーが元にもどったのだ。
寮に戻ると、廊下で土屋先生がリカと向き合って話していた。リカは必死な形相で先生に嘆願している様子だ。先生の手には大きなドライヤーが握られていた。
パパラッチ弥生がもっと近くで見てやろうと二人に近付く。
「何があったの?」と私は弥生に聞いた。
「さっき停電があったでしょ? あれは、リカのドライヤーのせいらしいよ」
各寝室には備え付けのドライヤーが置いてある。私物のドライヤーを持ち込む人はほとんどいない。
「マイナスイオンが出る、特別なタイプのドライヤーらしいよ」
なるほど、髪の痛みに敏感なリカが使っていそうだ。
弥生は好奇心に顔を輝かして言う。
「今は暖房をよく使う季節だからね、停電を防ぐため、電気消費の激しい家電製品の取締りを寮内でやるという話が職員会議で出ているんだって!」
それで、先生がリカのドライヤーを手に持っているわけか……。
静香が私と弥生に気が付いて歩み寄ってきた。
「リカがどれだけあのドライヤーを必要としているかを、私から先生に訴え出てあげても良いのだけど……」静香は考え深げに言葉を切った。
「だけど?」
「私は、リカが大人しくあのドライヤーを先生に渡した方がリカの為に良いと思うんだよ」
「何で?」と弥生が詰め寄る。私も理由を知りたい。
「没収の理由が正当だからだよ。各部屋にドライヤーが一つずつ置いてあるのは、電気の使いすぎを防ぐ為でもある。リカのドライヤーは私達の使っているドライヤーの二倍も電力を消費するんだ。もし、リカが今後もマイドライヤーを使って停電が起きたら、リカはひんしゅくを買うだろうよ。そうしたら、また……」
きっと誰かが言い出すだろう。「髪を切れ!」 と。
リカには髪を伸ばす自由と権利がある。リカの髪によって誰かが不利益をこうむることにさえならなかったら、誰もリカの髪に文句をつける筋合いはない。しかし、逆に言えば、不利益が起きれば、リカは髪を伸ばす権利を剥奪される。
私達は寮で共同生活をしている。それは、常に、「個」よりも「全体」を優先する社会だ。もし、個人のわがままで全体に迷惑がかかれば、その個人の自由は制限される。そうやって秩序を保ってきた。
リカはまだ諦めきれない様子で先生の手の中のドライヤーを見つめている。
先生は「退寮日に返すから」と言って、リカに背を向けて持ち去ってしまった。
悲しげなリカに少し同情したが、私は内心、これで良かったと思った。
「リカの奴、すごいらしいぞ」
ユタがハンバーグを箸で割りながら言った。
「リズム感もあるし、女の癖に体力があるんだ。激しい曲でも息切れすることなくドラムを叩き終えるって、島先輩が褒めていたぞ」
リカ本人は、バンドの練習の為、夕食の席にはいなかった。
「クリスマス会での演奏、楽しみだなぁ」
早苗が野菜炒めのニンジンを皿の端によけながら言った。
「そう言えば、男装女装のショーの服、決めた?」
さやかがご飯に醤油を垂らしながら早苗に聞いた。
早苗はユタの方をチラリと見て、「まあ、一応」と言った。
「『和』な服を着ようと思って……」
「でも、クリスマスに『和』は合わないんじゃない?」
千絵が刻みレタスにソースをかけながら言った。
「だから良いんじゃねーか。他のペアはきっと派手な西洋服を着ると思う。そこに、俺達が和服で花道を歩いたら、目立てるだろう」
嫌がりながらショーに出ることが決まったユタは今ではやる気満々の様子。根は目立ちたがり屋でお祭り好きなのだ。
武は黙々とご飯を口に運んでいる。緊張しているのだ。無理も無い。この後に彼はさやかと対面するのだ。
武の隣には健太郎がいる。食事中にしゃべる事は一切無い。箸でサラダに乗っているミニトマトを器用につまむ。私の視線に気が付いた。トマトを落とした。
私は、にやける顔をどうしても元に戻すことができなくなってしまった!
夕食を終えた。食堂を出ると、武は目だけで私に合図をしてきた。私は指を広げた両手を見せ、それから片手を見せた。「十五分後」という合図だ。武は理解したようだ。笑って、口元に拳をあて、横に引くそぶりを見せる。そして男子寮を指差した。「歯を磨きに、一度寮へ帰る」という意味だろう。さやかの前で口が臭かったら大変だ。
私はさやかと部屋にもどると、「十五分以内にできる限りのおしゃれをしろ」と言った。さやかは面食らったようだ。わけが解らないという顔をしている。
「理科室前の廊下に行けば、すぐに理由がわかるよ」と私は言った。
さやかはついさっき寝室を出て行った。私は居ても経ってもいられなかった。様子を見に行きたいとも思ったが、それでは弥生や真美と同じになってしまう。
しかし、時計が時を刻むごとにじっとはしていられなくなってしまった。
ちょっと観てくるだけ。ほんの一瞬だけなら、さやかと武の様子を見に行ってもいいよね。ただの好奇心からではないよ。だって、心配じゃないか。さやかはもしかしたら武を殴るかもしれないよ……。
ありえるはずの無い言い訳を頭の中に浮かべながら、私は理科室前へ歩んだ。
「頼む! さやか!」
武の悲痛な声が聞こえてきた。
「一度裏切っておいて、今更何よ!」
さやかはぶち切れている。
「やり直したいんだ! 本当なんだ!」
「信用できない!」
私は人気のない理科室前にこの二人を呼んでおいて正解だったと思った。でなければ、大変な騒ぎになってしまう。
「さやかが怒るのは俺にもわかる! だけど……」
武がさやかの肩に手を置いた。それは致命的なミスだった。
「触らないでよ!」
と叫ぶと、さやかは素早く武の腕を掴み、武の巨体を背中に担ぎ上げ、床に投げつけた。
一本! 勝負あり! と、思わず叫びたくなるような見事な背負い投げが決まる。
さやかは柔道部員だ。
冷たい廊下に叩きつけられてのびている武を見捨てて、さやかは寮に戻ろうときびすを返した。
「待ってくれ! さやか!」
武が起き上がる。
「俺が悪かった。だけど許して欲しい! その為に、お前の気が済むようにしてくれ!」
さやかが振り向いた。そして、武の胸倉を掴みあげる。
「今言った言葉、忘れないでね」
「え?」
間抜けな声を武が出した瞬間、彼はすでに宙に浮いていた。慌てる武。
「ちょっと、待ったー! ここ、タイルだし! そうだ、道場に行こう! 道場へ!」
再び廊下に激しい振動が響き渡った。
まったくもう。やはり私は見に来て正解だったよ。これではすぐに人が集まってきてしまうだろう。
「一本! 勝者、さやか!」
私は叫び、二人の前に駆け寄った。
武もさやかも気まずそうに私を見つめた。
「リカ・III」終了
****************************************
つづき:リカ・IV