リカが転校して来たのは、高校一年の二学期だった。学校にやって来て早々、彼女は男子生徒から喝采され、結果、女子生徒から疎まれた。
リカは、モテる。当たり前だ、誰もが認める美少女。
全身のスタイル、顔の造形、声、些細な仕草ですら完璧。まるで頑固な職人気質の神様が、こだわりぬいて創り上げた芸術品。パーツの一つ一つを見るだけでも、その完成度の高さに惚れる。
とりわけ、彼女の髪は強烈な印象を放っていた。お尻を隠すほどの長い髪は、艶やかで、日の光の中でも、蛍光灯の下でも、豆電球の安っぽい明かりの傍らでも、プラチナのように光った。リカは体育の時間以外は髪を束ねなかった。彼女が歩くと、髪がまるで黒い大蛇のように揺れる。私はその動きを無意識に目で追いかけていたと思う。
水田に広がる村に、私達の学校はあった。生徒数はわずか120人程度で、クラスは一学年に一つしかない。中高一貫、全寮制、制服なし、自由な風向が売りの、きわめて珍しい学校。明記された校則すらない。「法律を犯すな!」というのが学校から生徒に押し付けられた唯一の規則。
しかし、「暗黙の了解」があった。学生達が自ら作り出したルールだ。「伝統」と称して、先輩から後輩へ受け継がれる。どこでも「暗黙の了解」は内部者達にとっては絶対であり、外界の常識を多少遺脱していていても、ルールの継承者達にとっては、了解したものこそ「常識」だ。その学校は、外界から隔離された、子供達の城。
私はここに中学生の頃から住み続けていた。高校に上がっても、クラスメイトの面子はほとんど変わらない。夏の終わりに、「転入生が来る」と聞くと、男子はカワイイ女の子、女子はカッコイイ男の子が入ってくるといいな……と騒ぐ。
で、二学期が始まり、「転入生」はやって来た。黒い、長い、凄い髪を背中で揺らしながら……。
男女比は4対6。圧倒的に男子の買い手市場。
私はモテない女の子。当たり前だ。外見が拙い。私の顔は……詳しくは表現したくない。
これでも女の子が珍しい学校にいれば、少しはモテたかもしれない。しかし、私の学校は男子の方が少なく、女子は「あぶれ者」になる危機を常に感じていた。
そんなところに、リカという天使は舞い降りた。数少ない男共は皆、たった一人しかいないリカに恋をしたらしい。
二学期が始まって二週間と経たない間に四人の男子から「告白」された、という噂を耳にした。「愛多ければ憎しみ至る」の言葉どおり、リカが女子達の妬みの対象となるまで長い時間はかからなかった。
さやかは私のルームメイトで、中学生からの親友。武はさやかの彼氏だ。親友として、贔屓目で見れば、さやかは結構可愛い。武は、この不細工な私が言うのも難だが、ブ男だ。
ここが、我が校の「男女比マジック」。腐っても鯛、ブ男でも男。さやかは武に中毒気味なほど惚れている。この二人は中学二年の時から付き合っていて、理想的なカップルと見なされていた。
二学期が始まって三週間目、この二人が別れたというスキャンダルが校内を走った。原因はリカだ。信じられないことに、リカが武に「付き合ってほしい」と迫ったらしい。さやかは武に告白された日から、一途に彼のことだけを思ってきた健気な恋人だった。武がリカと付き合うために、さやかと別れるなんて考えられなかった。
蒼白な顔をして、さやかは寝室のドアに寄りかかって立っている。
「あゆみ……」と、私の名を弱々しく呼ぶ。
嫌な予感が当たってしまった。つい十五分ほど前、武が女子寮の入り口にやって来て、さやかを呼び出した。武の顔を見たときから、彼女の表情は硬かった。振られることがわかっていたようだ。
今、さやかは何も言わず、ベッドに倒れこんで静かに泣き始めた。私は何も言ってあげられないし、そもそも言って慰めになるような言葉などなかった。
寮には寝室と自習室がある。寝室は二人部屋で、二段ベッド、水道、鏡が一つずつ、タンスが二つ用意されている。寝室を共有する友人を「ルームメイト」と呼ぶ。
自習室は同じ学年の生徒が六人で共有する。六人の仲間は「スタディメイト」と呼ぶ。白い壁。明るすぎる蛍光灯。一つしかない窓。午後十時を示す壁時計。
やたら狭い部屋に六つのシンプルな学習机が窮屈そうに並ぶ。机同士がくっついて置かれているため、よく隣の机から本がなだれ込んでくる。私の隣は、リカだ。
本を手で押し戻しながら、「うざい」と私は言う。
リカは黙って本を並べなおす。
生徒会の会計兼書記係である私は電卓をせっせと叩いていたのだ。二学期はイベントがたくさんある。予算計算は複雑で面倒くさい。そこにリカの本が侵入。気をとられた私は、間違えて変なボタンを押してしまったらしい。合計金額が天文学的数字になっている。
私は自習室を眺めた。計算に没頭していたために気が付かなかったが、リカと私しかいない。
まずい。これは良くない。リカとは極力関係を持ちたくなかった。
彼女が編入してきてまだ一ヶ月も経っていない。リカがどういう子なのか、私はよく知らない。しかし、私はさやかのルームメイトで、「親友」という肩書きのような、名目のようなものが付いている。私は、リカに思いっきり腹を立てなければならない。憎まなくてはいけない……という立場なのだ。
何かキツイことを言ってやろうかとも思ったが、どんなことを言えばいいのか思い浮かばない。そもそもリカが傷つくような言葉をとっさに思いつけるほど、私はリカを理解していない。
止めよう。口喧嘩や罵り合いは得意じゃない。
私は何も言わず、無視することにした。リカなんていない。私には見えない。
また電卓の上で手を走らせる。来月にはマラソン大会がある。全校生徒のドリンクとゼッケンを用意しなくてはならない。予備も含めて、量の多い計算が必要なのだ。
隣から軽いため息がした。リカは椅子を不安定に揺らしながら、手で髪を梳いていた。
彼女の白い指は、黒い滝から流れる花弁のように見える。
リカと目が合った。
やばい。リカなんていない。
ドリンクは一箱850円、おそらく八箱は必要で……。
抜けた髪が手に絡まったらしい。リカは器用につまみあげる。私はゴミ箱を指差した。
「わかってるよ」
少しムッとした様にリカは言い、抜け毛を捨てた。
「あゆみちゃん……」と言いかけて、リカは私の後ろに立つ。手を触れた。私の髪に。
私の髪は、日に焼けて茶色い。顎の下辺りで切りそろえたボブカット。ボブにこだわっているわけじゃない。何でもいい。髪型を気にしようが、しまいが、顔は変わらないよ。私はブスだよ。
リカは遠慮がちに言った。
「あゆみちゃんも、ロングにすれば? 似合うと思うの」
私はリカの手を乱暴に振り払った。電卓とノートを抱え、椅子から立ち上がり、自習室の扉を開け、勢いよく閉める。
バタンッ
私の容姿にかまわないでよ!!
私の外見で誇れるものは何も無い。でも、私だって女の子だ。「可愛い」とか「美人」とか、一度は言われてみたい。でも、実際、私は可愛くないし、美しくも無いのだ。よほどの嘘つきでないと、私の外見を褒めることはできない。
心の優しい友人や私の家族は、仮定法を使って私を慰めようとしてくれる。
仮定法:「もし〜だったら、あゆみはきっと素敵になると思うよ」
「もしミニスカートを履いたら、あゆみはもっと可愛くなると思うよ」
履いてみたことがある。膝上10センチ以上のデニムのミニスカ。でも、すぐに別の子にこうに言われた。
「あゆみはパンツ姿が似合うよね」
髪型にしても、誰かが「伸ばせばもっと綺麗に見える」と言い、その通りにすると、他の奴が、「短い方が……」と、言う。
つまりだ、アドバイスの内容に確信など無いのだ。現実の私に褒めるところが無いのなら、架空の私を褒めるしかないじゃないか。……とは思うものの、私だってやっぱり可愛いって思われたい。ボブカットの今の髪型だって、誰だったか忘れたけど、誰かが「似合うと思う」と言い、素直にそうしてしまった。リカが言う「ロングにすれば?」も、そんな慰めの一つに過ぎない。
寝室に戻るとさやかが歯を磨いていた。部屋は既に天井の照明が消され、ベットサイドのスタンドライトのみが点いている。消灯するにはまだ早い。いつもは11時過ぎに寝る支度を始めるのに……。
口をゆすぐと、さやかは私の顔を見ずに言った。
「ライト、点けたままでいいよ……。おやすみ」
さやかは二段ベッドの上に登り、壁の方を向いて横になった。幽霊みたいに生気が無い。
私は、まだ生徒会の仕事が終わっていない。スタンドライトだけでは手元が暗い。しかし、寝ようとしているさやかのいる中で、蛍光灯をつけるわけにもいかない。自習室にも戻れない。リカがいるかもしれない。仕方ないので、友達の部屋に行くことにした。
部屋を出る前に私はさやかのベッドを覗きこんだ。
「さやか? もう寝た?」
モゾモゾとさやかが寝返りを打つ。寝てない。
私は彼氏を持ったことが16年間の人生の中で一度も無いので、もちろん、彼氏に振られたこともない。どれだけショックなことなのか想像できない。
「あのさぁ」
元気だしなよ。と言いかけて、止めた。
言ってどうする。元気なんてパワーは意味のない慰め言葉からは生産されない。
掛け布団を頭の上まで引っ張り、顔を隠すさやか。
私はスタンドライトを消して「おやすみ」と言い残し、部屋を出た。
二つ隣の部屋には千絵と早苗がいる。二人とも私のスタディメイトだ。千絵はちょっとぽっちゃりしている。色白で小さく、ハムスターを連想する。
早苗は幼顔。パッツン前髪が彼女をより幼く見せる。舌足らずなしゃべり方をする。動物に例えるならミニウサギ。
彼女達の部屋はいつもドアが開けっ放しになっているので、ノックの必要はない。
「ちょっと、部屋にいさせて」
千絵は二段ベッドの上で漫画を読んでいた。早苗は下のベッドの上に赤いチェックのプリーツスカートを広げ、アイロンをかけていた。
「いいよ、いいよ。入ってぇ。座る?」
早苗はスカートをベッドの脇に寄せようとした。寝室には二段ベッドとタンス以外に家具が無い。ベッドがソファ代わりだ。私はすぐに答えた。
「床に座る。ありがとう」
早苗のタンスに寄りかかり、胡坐をかくように座る。左手に電卓。右手にボールペン。おもむろにノートを広げる。早苗のアイロンのせいか、九月の残暑のせいか、部屋の中はやたら蒸し暑い。
早苗がノートを覗き込む。
「これってぇ、マラソン大会の為の?」
「そう」
「ああ〜!」
大きなため息。早苗は運動が好きではない。全校生徒強制参加で、十キロを走らされる十月のイベントに、好意を持つはずが無い。
「あゆみぃ、マラソン大会が中止になる確率は何パーセントぉ?」
仕事をしている私の努力をねぎらうことなく聞いてきた。
「お天気次第だからね、大雨が降ったら中止だよ。逆さテルテル坊主でも作ったら?」
「うん! そうする。……あゆみぃ、コード抜いてぇ」
アイロンのコードは私のお尻に轢かれ、タンスの横のコンセントに伸びている。とにかく部屋は狭いのだ。座りながらでもコンセントに手が届く。
私はコードを抜いて早苗に渡した。
「あのさぁ、聞きたいことがあるんだけどぉ……」
スカートをハンガーにかけながら、遠慮がちに早苗は言った。
「やっぱり武はさやかと別れたの?」
知るのが早すぎる。武がさやかを呼び出したのは今日の放課後だ。私は頭を掻いた。
「その話、誰に聞いた?」
「弥生と真美」
やっぱり……。どこの学校にも噂や詮索好きな女の子はいると聞く。弥生と真美はまるで週刊雑誌の記者ように他人のプライベートな話を探りまわる。で、二人はおしゃべりだ。明日には全校生徒が武とさやかの別れ話を耳にする事になるだろう。寮内で隠し事はできない。
「本当だよ。武はリカが好きになったんだってさ」
早苗が大きく息をつく。
「あの二人さぁ、中二の時から付き合っていたんだよねぇ。もう二年の付き合いになるのに……」残念だなぁと、早苗は小さくつぶやいた。
「男の子ってさぁ、やっぱり女の子のことを外見で選んでいると思わない? リカが武に告白したって噂を聞いたときはビックリしたけど、武ならさやかを捨てないと信じていたのになぁ。リカって綺麗だもんねぇ。さやかは、負けちゃったかぁ」
外見の話はしたくなかった。
早苗の話を適当に聞き流しながらペンをノートに走らせる。
「あゆみぃ、聞いてないでしょぉ?」
早苗が言った。睨まれたって、早苗の顔は怖くない。でも一応、「聞いてる」と答える。早苗は満足したようだ。「それでさぁ」と話を続ける。「これもまた弥生と真美に聞いた話なんだけどねぇ、リカが貞子先輩に『呼び出し』されたんだってぇ」
初耳だった。私はノートから目を放して早苗を見つめた。早苗は注目されたのが嬉しいのか、ちょっと得意そうに説明した。
「ほらぁ、編入してからリカはもう四人もの男の子に『好きだー』って言われたらしいじゃない? その四人のうちの一人が島先輩だったんだよねぇ」
早苗の話はまどろっこしい。だいたい、「好きだー」って叫ぶように告白する旧型体育会系のような男の子がこの学校にいるとは思えない。ま、そんなことはどうでもいいや。
「で?」
「でぇ、貞子先輩って、島先輩のことがずっと好きだったみたいなんだよねぇ。島先輩がリカのことを気に入っちゃったから、リカのことが嫌いなんだってぇ」
で、リカを呼び出したわけか……。
『呼び出し』は怖い。先輩達に取り囲まれて何時間も、或こと無いこと、とにかく酷い事を言われるそうだ。言われるだけじゃない。時には惨いことをされると聞く。特に貞子先輩に呼び出されて泣かずに帰ってこられた女の子はいないのではないか。幸い、まだ私は一度も呼び出されたことが無い。
貞子先輩は先学期にこの学校へやって来た二年生だ。編入早々、カリスマ的魅力を発揮し、すでに同い年や下級生の女子が取り巻きとなっていた。大人っぽい仕草や、知識の豊富さが多くの女の子達を惹きつけるようだ。しかし、気に入らない相手には取り巻きを使って容赦なく攻撃するという怖い噂が耐えない。
「それって、何時の話?」
「う〜ん、真美がリカが呼び出されて行くのを見たのは、夕食後くらいだったって、言ってたよぉ。……リカ、まだ貞子先輩に怒られてんのかなぁ」
「それは無いよ。私、さっき自習室でリカを見た」
「本当? リカ、泣いてたぁ?」
「いや、全然」
呼び出されていたなんてちっとも気が付かなかった。普通すぎるくらいだった。
早苗は「リカ、強いなぁ」とちょっと笑って言った。
突然、頭の上から甲高い悲鳴が聞こえてきた。
「が! が! ががががが!!」
千絵が意味不明なことを言いながら、右手の漫画をブンブンと大きく振り回して体をよじっている。私はすぐに理解した。
「蛾がいるんだね? 何処?」
千絵はキャーキャー言いながら蛍光灯近くの白い天井を指差す。千絵の声におびえて、蛾はパニックになっているようだ。蛍光灯の中に逃げ込もうとするかのように、何度も激しく体をガラスに打ち付けていた。二段ベッドの上に乗れば届く位置だ。
「早苗、ティッシュ頂戴」
ティッシュを片手にベッドによじ登り、手を伸ばす。素早く蛾を包み取る。ティッシュを隔てて、蛾の羽ばたきが私の手の内に伝わる。
「千絵、この蛾をどうしたい? 逃がす? 殺す?」
答えはわかりきっていた。
「殺して!!」
グジュッと嫌な音をたてて、蛾の一生はジ・エンドとなった。
千絵はやっと落ち着きを取り戻すと、「ありがとう」と言った。彼女は大の虫嫌いだ。千絵に限らず、ほとんどの女子は虫が嫌いだ。一匹の虫が運悪く部屋に迷い込むと、部屋中がパニックになる。私は虫が苦手ではない。だから悲鳴が寮内で聞こえると、虫退治に行く。行って、虫を捕まえると良い事がある。
「何でお礼を払えばいい?」
千絵が聞いてきた。
虫退治をすると、「お礼」に何か貰えるのだ。お金のやり取りなどはせず、大抵はお菓子で「お礼」は支払われる。
「チョコレート。小さな蛾一匹だったからね、板チョコ半分でどう?」
私はチョコホリックだ。
千絵が二段ベッドから降りてきて、タンスの中をゴソゴソと探し出す。
彼女のタンスの引き出しには漫画とお菓子がたくさん詰まっている。洋服はどこにしまっているのだろう……。
「……チョコは今持っていないや。明日、校内売店で買ってあげるよ」
「ありがとう」
千絵は再び二段ベッドに上がると、漫画に没頭し始めた。
ベッドわきの壁にはアニメのポスターや、千絵が描いたイラストが無造作に貼り付けられている。カラフル。
千絵はよく女の子の絵を描く。なぜ男の子の絵を描かないのか、聞いたことがある。彼女は、わからない、と言いながら、「こんな女性になれたら良いな……という願望を込めて描く方が楽しいからかな」とつぶやいた。
私は突然気が変わった。
「千絵。私、チョコレートはやめた。その代わり、イラストを描いて!」
千絵は私の言葉が耳に入らないらしい。漫画から目を放さない。
早苗がため息を付くように言う。
「千絵は漫画を読み出すと、現実が見えなくなるからなぁ」
そして、ベッドの柱を両手でつかむと力いっぱい揺らし始めた。
「千絵ぇ! あゆみが呼んでいるよぉ! こっちの世界に帰って来い!」
「じ、地震!?」
よほど驚いたらしい。漫画を投げ出すと、枕で頭を隠す。呆れた。
「千絵、『お礼』のことなんだけど、私、やっぱりチョコレートはいらない。千絵にイラストを描いて欲しいんだけど……」
千絵は、状況が飲み込めないという顔をしたが、イラストと聞いてすぐに「いいよ」と返事をしてくれた。
「どんな絵がいいの? 男の子? 女の子?」
「女の子の絵」
「どんな女の子?」
具体的には考えてなかった。どうしよう。
「すごい女の子……」
「えーと……どのへんが『すごい』女の子なの?」
「う〜ん」と悩んだ振りをしたあと、私は正直に答えた。
「考えてなかった。まあ、適当に描いてよ。」
千絵は不満顔だ。
「そんなんじゃ私は描けないよ。せめて雰囲気を伝えてくれないと」
「『女の中の女』って感じの子」
「……胸がデカイとか?」
やっぱり、女と言ったら胸なのかな……?
「目がデカイとか?」
「……よくわからないけど、私が憧れを抱くような女の子を描いてよ」
「どんな女が好みなんだ?」
「さぁ?……自分でもよくわからない」
千絵がため息をつく。
「まあ、何とかするよ。あゆみの憧れそうな女の子を想像するのも楽しいし、この仕事、引き受けます」
「ありがとう。あ、できればカラーでお願いします」
「え!?」明らかに嫌そうな顔をする千絵。
「カラーは時間かかるし、蛾一匹じゃ割に合わないよ。……『5本』付けてよ。そしたら、色付けてあげてもいいよ」
「わかった」
千絵の言う「5本」とは……、
「『うまい坊』、何味がいいの?」
「たこ焼き・とんかつソース・コーンポタージュ・めんたいこ・キャラメル・なっとう」
「わかりました。明日売店で買います。……あれ? さりげなく、6本じゃん!!」
「週末までに仕上げるからさ。よろしく〜」
「わかったよ。イラスト、よろしく」
早苗と千絵に「おやすみ」を言って私は部屋を出た。
中学生の時、男子達が食堂で爆笑しながら女の子の外見にランクをつけているのを聞いたことがある。セルフサービス形式の食堂で、サラダを取りに行こうとして、偶然、聞きたくもないのに聞いてしまった。
「田中は、中の上」
「木村さんは、結構良くね? 上の下くらいじゃん?」
「佐藤は、普通っぽいよな」
「中の中!」
「じゃあ、南は?」
急に自分の苗字が呼ばれて私は緊張した。
「やっぱり、下の下でしょ」
「拙いよなー、あの顔は」
ガラガラした笑い声が遠くに聞こえる。
「下の下」……私は不味くて食えたもんじゃない、腐ったウナギ。
それ以来、私の外観コンプレックスはひどく強くなった。
私はブスだ。そんなの自分でもわかってんのに、いちいち言わないでよ!!
水曜日の夕食後、いつものように私は生徒会室に行った。部屋には会長で高校二年生の小田茂先輩がいた。高校生の身で、すでに株にハマっている彼の口癖は、「数字で全てが読める!」だ。
「いいか、南さん。全てのものは数字で評価される。良い会社は利益率で、良い生徒は成績で、良い生徒会は校内のカップル数で決まるのだ!」
小田茂先輩の目はいつも理想を追い求めているせいで輝きに満ちている。
彼の理想を説明する。
青春真っ只中の高校生活。恋愛こそ、青春のメインイベント。誰もが彼氏(または彼女)を持ちたいと思っているはず。しかし、平凡な毎日、ときめきと刺激が足りない。なかなか秘めた胸のうちを明かす機会が無いのも現実。ならば、生徒会が心躍るようなイベントを創り、校内に活気と恋のチャンスを振り撒こう!!
「マラソン大会なんかで本当にカップルが出来るんですか?」
私はため息混じりに小田茂先輩に聞いた。
「できる! と思うよ。マラソンってさ、青春の代名詞だし」
「小田茂先輩って、『青春』って言葉が好きですよね」
「好きだよ。だって、いい言葉じゃないか」
「小田茂先輩って、歳いくつですか?」
「17歳だよ。南さんより一学年上だからね。何でそんなこと聞くの?」
「小田茂先輩って、老けて見えます。先輩が『青春』って言葉を使うと、過去のことを語っているみたいに聞こえる……」
「え? どういう意味? それよりさ、『小田茂先輩』って呼ぶのを止めて欲しい。なんでフルネームなの? 長すぎない? もっと短い呼び方していいよ」
「わかりました。じゃあ、略して『オダセン』」
「……短すぎない?」
生徒会室の扉が静かに開き、朝子先輩が入ってきた。朝子先輩も高校二年生。
「遅れてごめん」と言いながら、幾重にも折りたたまれた大きめの紙を机いっぱいに広げた。ご近所の地図だ。真新しい。
「去年もマラソン大会はあったけど、今年は二箇所で道路工事をしているから、ルートを変えなくちゃいけないよ。大会の前に道を確認するためにも、実際に歩いて見ないとね」
理想ばかり語るオダセンとは違って、朝子先輩は実行力がある。
「今週末にでも下見に歩いてみようか? 小田君、スケジュールは空いている?」
オダセンは「いや……」と言いよどんだ。「今週末はちょっと……」
「わかった。あゆみは?」
「空いています。何時に行きますか?」
「お昼ご飯食べた後はどう? 食堂の出口で待ち合わせ」
「わかりました」
私は手帳に「Lunch後、食堂前、朝子先輩と下見」と書き込んだ。
会議は終わり、私達は生徒会室を出た。廊下は静まり返っている。
夏が終わろうとする九月末、だんだんと日が沈むのが早くなる。少しでも過ぎてゆく夏を取り戻そうとするかのように、ほとんどの学生は、夕食後、外に出て遊ぶ。バスケットをする者、サッカーをする者、マラソン大会に備えて走る者……。季節はそろそろスポーツの秋になろうとしている。
先輩達と別れた後、突然嫌なことを思い出した。明日、英単語のテストがある! しかも、教室に単語集を置き忘れてきた。
生徒会室からそんなに離れていない教室に取りに行く。ドアを開けようとノブに手をかけようとすると、女の子の笑う声が聞こえた。高くも無く、低くも無いトーン。落ち着きと、透明感のある声だ。
私は無意識のうちに息を静めて、鍵穴から教室の様子を覗いた。
天使が窓枠に腰掛けている。黒い髪が一瞬の風にあおられて、窓の外へ流れ出た。背後にある緑の柳の枝と一緒に、風に任せてユラユラと自由に漂う。
あれは、リカだ。白いワンピースを着ているせいで、髪の艶やかな色が余計に目立つ。
リカは時々、「えー?」とか、「本当に?」「すごーい」とか言って楽しそうに笑っている。
彼女の足元に、ひざまずくような格好で座っている男子がいる。武だ。
姿を見たとたん、武の声も聞こえてきた。いつもとは違う、一オクターブ高い声。むやみやたらに笑っているという感じがする。武の緊張が、声を通じて私に届く。リカは武を見下ろすような格好で微笑み続けている。
一瞬、リカが翼を広げたように見えた。テンシ!?
息を呑む。が、すぐに目の錯覚だと気が付いた。リカが肩にかけている白いショールが風に煽られて背中で広がったのだ。
私はこんなところで何をやっているんだろう……。覗きなんて趣味はないのに……。そうだ、英単語帳!
私はノックもしないで乱暴にドアを開いた。二人は驚いたように私を見て、それから気まずそうに笑いを止めた。いや、止めたのはリカだけだ。武はだらしない笑みを顔に貼り付けたまま、リカに釘付けになっている。私の存在をまるで無視している。
「あゆみちゃん、どうしたの?」
リカが聞いてきた。
どうしよう。無視するべきか、答えるべきか……。
「別に。……忘れ物、取りに来ただけ」
ちょっとイライラした声で私は答えた。
机の中をガサガサとかき回す。すぐに教室を出たい。なのに、単語帳が見当たらない。私は教室の後ろに並ぶロッカーに歩み寄った。しゃがんでロッカー内を隈なく見渡すと、探し物が見つかった。手にとって、立ち上がり、振り向いた。
リカが正面に立っていた。
「わ!!」
私が驚いて飛び退くと、リカはクスクスと笑った。そして武には聞こえないような小さな声でささやく。
「あゆみちゃんと話したいことがあるの。消灯後に、渡り廊下に来て」
「嫌だよ!」
リカと二人きりで話しているところを、人に見られたくない。万が一、さやかがそれを知ったら、彼女がどう思うか不安だ。
「あゆみちゃんの心配事はわかっているの。だから、渡り廊下で会いたいの。ね、お願い」リカは懇願するように瞳を潤ませて言った。私はリカを睨み付けながら、渋々、
「いいよ」と言った。
「ありがとう!」
彼女は満面の笑みを浮かべた。
リカの遥か後ろに取り残された武が、思いっきり私を睨んでいた。その目が語っていた。邪魔者め! 失せろ!
消灯時間、11時。この時間になると、寝室の蛍光灯と廊下の電気が消され、生徒は寝る支度を始める。就寝時間の12時には、自習室の電気と、寝室のスタンドライトを消さなければならない。これも「暗黙の了解」。
11時15分。私は「渡り廊下」に出てきた。渡り廊下とは、三つの建物 ―「中学生寮」、「高校一・二年生寮」、「受験生寮」―から成る女子寮を三階部分で繋ぐ、屋外回廊のことだ。屋根も壁も無い、スチールの手すりだけの廊下に、夜の冷たい風が吹いている。昼間は残暑でも、夜はすっかり秋の気温だ。
この時間に、他の寮へ尋ねに行く学生はほとんどいない。渡り廊下は、無人になる。
暗闇の中、目を凝らしてみると、廊下の端で、手すりに肘をかけている人影が見える。リカだ。彼女は紺色のネグリジェを着ていた。髪と服が闇に溶けて、顔、腕、足首だけがぽっかりと白く浮かび上がる。
私が近寄ると、リカは髪を悠になびかせて振り向いた。月明かりが、一瞬だけ髪に反射して刃のように光る。
「来てくれないかと思った」
と、リカは嬉しそうに微笑んだ。
「話って何? ここは寒いから、用があるなら早くして」
戸惑ったような表情をしながらリカは思い切ったように言った。
「さやかちゃんの様子はどう?」
「最悪」
「そう……。やっぱり、私のせい?」
「当たり前じゃん!」
つい、声が大きくなった。
リカはさほどショックな様子は見せなかったが、黙りこんでしまった。仕方が無いので私の方から話しかける。
「……何で、武なの?」
「え?」
「何で武なんて格好悪いのを好きになったの? と言うか、あんた、本当に武が好きなの?」
突然リカは、夢見るような笑顔になった。
「武君は、素敵な人よ」
目、腐っているよ。と言いたかった。まあ、それを言ったら、さやかの目も腐っていることになってしまうのだけれど……。
「あゆみちゃん! あのね!」
黒曜石のような目が私にすがり付いてきた。
「私、知らなかったの。武君に彼女がいたなんて、本当に、私は知らなかったの!」
リカは私のひまわりプリントのついたパジャマの袖をヒシッと掴んだ。
「さやかちゃんには、本当に悪いことをしたと思っているの。……許しては、もらえないだろうけど……」
リカがこの学校に来てから三週間しかたっていない。武とさやかの関係を知らなくても確かにおかしくは無い。
私はリカの手をゆっくりと袖から放しながら、
「で?」と言った。
「私、さやかちゃんに謝る!」
「待った! それは、止めて」
それでは、さやかがあまりにも惨めじゃないか。リカが謝ったところで、武の心はすでにさやかからリカへシフトされているのだ。元には戻らない。
「わかった。リカに悪気があって武と付き合い始めたわけじゃないのは、理解したよ」
リカは安堵した表情を浮かべる。
それにしても……、
「どうして武を好きになったの?」
リカは少しはにかむと、
「好きになるのに、理由が要るの?」と聞いてきた。
さぁ……? 確かに「恋は盲目」と言うけれど、武の見た目の悪さに気が付かないほど、リカは目が悪いのだろうか? 彼女自身はこんなに綺麗なのに……。
秋の夜風がリカの髪を再び扇のように広げた。
日曜日の昼食後、朝子先輩と一緒に私は学校外に出た。快晴の空の色が水田に映り、視界は青一色。
「気持ちがいいですね」
私は歩きながら朝子先輩に言った。地図とにらめっこをしながら、先輩は私の隣を歩いている。
突然、先輩の体がグラリと揺れた。
「先輩! 気をつけて!」
私は朝子先輩の腕を思いっきり引っ張った。
「いたたた。あゆみ、握力強いね。」
「もう少しで水田に落ちるところだったじゃないですか! 地図を見ながら歩くのは止めてください!」
コースを歩き始めて、1時間近くたっていた。
「さっきの角を曲がったところに給水所を置こう。道も結構広いし。」
「そうですね」
「さてと。ゴールになる丘はあと少しだし、商店街に寄ってく?」
「はい!」
先輩は地図をたたんだ。下見の時よりも早いペースで私達は商店街の方へ歩いた。
ドラッグストアとスーパーに寄った後、小さな喫茶店に寄った。南フランス調の明るい黄色と青のお皿が壁いっぱいに展示されている、お洒落なお店、『プロバンス』。この店の窓から覗くと、日本の水田も、南仏のオリーブ畑に見えてくるから不思議だ。
私はミルフィーユ、朝子先輩はカフェ・エクレアを注文した。
「貞子のことなんだけど……」
突然、朝子先輩が話を切り出した。「言いにくいことをこれから言わなければならない」という顔をしている。私は少し身構えた。
「貞子先輩がどうかしたんですか?」
「あゆみの学年の『編入生』を貞子が呼び出したって話、聞いた?」
「はい。リカのことですね?」
「あの子、リカっていう名前なんだ?リカの様子はどう?」
「さあ……」私はリカとの接触を避けている。渡り廊下でリカと話した時以来、挨拶すらろくにしていない。
「貞子がね、リカに『髪を切れ』と命令したそうだよ。だけど、リカはそれを頑固にも断ったらしい。……なかなか勇気のある子だね」
リカに勇気があるのか、それとも本当は、ただ単に貞子先輩の怖さを知らないだけじゃないのか……? そして、寮の内側世界がどうなっているのかも知らないだけではないのか?
私はリカがこの学校にやって来て早々、二度の過ちを犯していることに気が付いた。一度目は、彼女持ちの男子を奪ったこと。二度目は先輩に逆らったことだ。
「ごめんね、あゆみ」
「え?」
突然すぎて、朝子先輩の言った「ごめん」という言葉が、謝りを意味しているのだと気が付くのに時間がかかった。何で謝るの?
「今、私達の学年の女子達、うまくまとまっていないんだよ。幾つかのグループごとに決裂している。貞子達が、あゆみやその下の学年の女の子達を『呼び出し』とかで脅しているのを、私は何とかしたいのだけど……」
朝子先輩は、私と同じように中学生の時から寮に住み続けている。中学あがりの寮学生達は皆、プライドが高い。寮内で起こる様々な問題は、学生達自身だけで解決しなければ気がすまなかった。学校や先生、親達に口出しをされるのを嫌った。その為、いじめなどの問題にはとても神経質だ。一度いじめが発覚すれば、学校が寮という自分達の「聖域」へ進入し、調査に乗り出すからだ。
この学校の高校三年生は、受験準備の為、寮は別に用意され、寮内で下級生達と交流をあまり持たない。高校二年生が、事実上の寮の支配者だ。女王達にとって、外地からの内部調査は、自分達の王国が傀儡国家と成り下がることを意味する。屈辱だ。
朝子先輩はお茶と一緒に言葉を飲み込んでいた。やがて、吐き出すように言った。
「貞子が異常なほど、リカを嫌っているんだ。あゆみ、リカを一人にしない方がいい」
「それは……島先輩のことがあったから? そしてリカが貞子先輩に逆らったからですか?」
朝子先輩は、しばらく考えた後、「それだけじゃない気がする」とつぶやいた。
喫茶店を出た後、私達は古本屋に寄った。
朝子先輩が、「一冊30円!!」のコーナーで、好きな作家の本を見つけたと言ってはしゃいでいる間、私はお店の表に並ぶ「新刊なのに半額!」のコーナーを漁っていた。新刊と言っているくせに、去年出版された本ばかりで少しガッカリする。
ふと目をあげると、さっきまで私達がいた喫茶店に一組のカップルが近づいてゆく。男の子の顔が見えた。
オダセン!! 生徒会の仕事を休んで、女の子と二人で喫茶店に行くなんて! 許せない!
ピンクのパーカーを羽織った女の子の背中。彼女が手で髪を払うと、フードの中に隠されていた髪がユッタリとこぼれ落ちる。
リカ!?
ヒップラインを超える髪を持っている女の子は滅多に居ない。あれは、リカだ。何でリカがオダセンとデートしているんだ?!
私は身近にあった大きめの本で顔を隠しながら、オダセンとリカをもっと近くで見ようとした。
「ちょっと、あんた!!」
分厚い手に肩を掴まれ、私は振り向いた。古本屋のおばちゃんが私を睨んでいた。
「その本、買うのかい? 買わないのかい?」
迫力に負けて「買います!」と言ってしまった。店から出てきた朝子先輩は不思議そうに私を見る。
「ふ〜ん。あゆみって、そういう趣味があったんだ?」
私は持っている本を見る。
『永久保存版・全国寺社辞典』
前ページカラーの超豪華版写真集は、半額なのに4000円もした!
寮に帰ると、私はすぐに静香の部屋を訪ねた。静香は私のスタディメイトだ。そしてリカのルームメイトである。
リカに会いたくない私は、静香を寝室まで訪ねに行きづらかった。幸い、私が行った時、リカは部屋には居なかった。まだオダセンと一緒に居るのかもしれない。
静香はベッドの上で、膝にノートパソコンを抱え、チャットをしていた。
「ちょっと頼みたいことがあるんだけど……」と私が言う。
静香の目がパソコンの液晶から離れて私を見た。
「何? 髪に関することだったら、『歌舞伎町揚げ』ね」
私はさっきスーパーで買ったばかりの「歌舞伎町揚げ」という名のせんべいを静香に見せた。
「部屋に入って、ベッドの上にでも座っていて」
言われたとおりに静香が座っている横に腰を下ろす。
美容師志望の彼女は寮内で、ヘアカットや染髪の手助けをして「お礼」を稼いでいる。練習だといって、静香は自分の髪型を学期ごとに変える。先学期までは栗色の巻き髪を胸下まで伸ばしていたが、今学期は黒に戻し、シャギーのたっぷり入ったストレートロングにしている。
静香はパソコンに素早く何かを打ち込むと、シャットダウンしてから私の方に向いた。優しく私の髪に触れると、「どうしたいの?」と聞いてくる。
「黒くしたい」
私は染め戻しの箱を見せた。これもさっき、ドラッグストアで買ってきたものだ。
「あゆみって、脱色していたっけ?」
「……してない」
私の髪はもとから茶色いのだ。日焼けのせいもあるが、生まれつきだろう。
「何で黒にしたいの?」
「……何となく」
理由は自分でもわからない。何で、私は黒い髪にしたいんだろう。艶やかな黒髪になりたい。そう、リカのような……。私は考えを遮断した。
リカのことを考えるのはよそう。彼女はさやかのライバルじゃないか。
「あゆみの髪は綺麗だよ。もったいないと思うけどな……」
静香の柔らかい手が私の髪をゆっくりと梳く。
私は、手の中にある染め戻しをジッと見つめた。静香はせんべいを見つめている。
「まあ、あゆみが黒にしたいって言うのなら、私はそれを手伝うけど」
「ありがとう」
「夕食後、この部屋に来て」
夕食まで、まだ少し時間がある。自習室に戻ると、机の上に白いA4サイズの紙が置かれていた。ポストイットのメモが貼ってある。千絵からだ。
『ご注文の品でございます。うまい坊はやっぱり美味かった、Thank
you! 千絵』
私はA4の紙を裏返して見た。
緑の草原に、一人の女性が立っている。
青い空。
明るい寒色の中央を斜めに横切るように、暖かい栗色の線が丹念に描かれていた。栗色の髪だ。ヒップ超える長さの豊かな明るい髪が、悠々と風になびき、絵の中で舞っている。
彼女は髪をかきあげようとするかのように、左手を額にあてている。
日に焼けた、健康的な腕。
彼女の顔は見えない。後ろを向いているからだ。それでも「美しい女の子」だと、容易に想像できる。彼女の堂々とした立ち姿に、自信がみなぎっているからだ。美しくない者は、このように胸を張って立つことはできないだろう。
「あゆみが憧れそうな女の子」
自分でも具体的に思い描くことが出来なかったのに……。
私は正直に千絵の想像力と絵を描く才能に感服した。
私はいつも、夕食はスタディメイトと一緒に食べている。つまり、さやか、早苗、千絵、静香、リカと私の六人だ。しかし、武との一件があって以来、さやかは、夕食の時間は部屋で寝込んでいる。
「食欲がない」と言うわりには、「リンゴ持ってきて」だの「サンドイッチ取ってきて」といろいろと注文する。
さやかはリカと顔を合わせたくないのだ。リカも、さやかに遠慮してか、夕食の時間はどこかに消えていた。
「リカ、何処にいるんだろう。食べなくて平気なのかなぁ」
早苗がスパゲッティをフォークに巻きつけながら言った。スプーンも使っているくせに上手く巻けていない。
「さっぱりわからない。ルームメイトと言っても、私とリカはほとんど話さないから……」静香が言う。
「私、知っているよ」
突然会話に入ってきたのは、噂好きな弥生だ。真美も一緒にいる。
「隣、座っていい?」
静香が「いい」と言う前に、もう弥生は腰を下ろしていた。
「男と一緒に何処かのレストランで食べているよ」
真美がその先を話す。
「水曜日の夜も、繁華街にあるファミレスで男の人と一緒に食事していたんだってー。目撃した中学生がいるんだよ」
弥生が、「この先は私が話す!」という勢いで割り込む。
「でね、その男の人っていうのが、白髪交じりの中年親父なんだってさー。絶対に援助交際だと思わない?」
「……」
私達4人は少しの間氷憑いた。おしゃべり女達はその反応に満足したようだ。再び口から土石流のように言葉が吐き出される。
「リカってさー、顔は可愛いけど、性格ブス!」
「男の子って見る目ないんだよね。すぐ外見にコロっと騙されちゃうんだから!」
「だいたい、何? あの長い髪の毛! うざったい」
「ホント、ホント。この学校が全寮制だっていうこと、忘れているんじゃない? リカが来てからもう二回もバスタブの水が流れなくなったらしいよ!」
「迷惑だよねー」
弥生と真美のおしゃべりは食事が終わるまで止まらなかった。
食堂からサンドイッチを持ち出して、私は寝室に戻った。
さやかがいない。いつもは布団に包まっているはずなのに……。
私はさやかのベッドに、ナプキンで包まれたサンドイッチを置き、静香とリカの部屋へ行った。
鼻の奥をツーンと突くような刺激臭がする。
私は髪を脱色したことがないので、染め戻しを使うのも、これが初めてだ。
鼻をつまもうとすると、
「止めな、鼻が黒くなるよ」と静香に止められた。自分の手を見てみると、染料で黒く汚れている。
「すぐに慣れるって」と静香が笑う。
冷たい液体を私の髪に塗りつけながら、
「弥生と真美の話、どう思う?」と聞いてきた。援助交際をリカがしているかどうかは別として、リカが男と食事に行っているという話には説得力があった。オダセンとリカが一緒に喫茶店へ入っていった事は、私は弥生達には言わなかった。この二人は話に脚色を付けたがる。
「まあ、援助交際の話はともかく、リカのせいでバスタブが詰まったっていう話は嘘だよ」
静香は言う。確信のある言い方だ。
「リカは、この学校に来てから一度もバスタブを使っていないからね」
「え?」
「いつも更衣室のシャワーを使っている」
更衣室は、寮の一番奥まったところにひっそりとある。古くて、部屋自体が汚いので、使っている人はほとんどいない。
「何でバスルームのバスタブを使わないの?」
静香は少し嬉しそうに
「あの子は髪に相当気を使っているからね」と言った。
「トリートメントを念入りにすると、どうしても時間がかかるんだよ。バスルームは皆が使うから、自分一人で長い時間は占領できないと思っているみたいだね」
バスルームの使用時間は一人二十分までと「了解」されている。また、一年生はゴールデンタイムにバスタブを使用することができない。ゴールデンタイムとは、午後九時から十一時のことで、一日のうちで一番バスルームの需要がある時間帯だ。
「リカがそう言っていたの?」私は静香に聞いた。
「いや……、でも、髪のことだからね、私には何となくわかる」
「リカと静香って、お互い良いルームメイトになれそうだよね」
静香はため息をつく。
「どうだろうね……。私は美容師になりたい。髪を切る仕事だよ。リカは髪をすごく大切にしているからね、いつもハサミ持ち歩いている私には近付きたくないだろうね」
「静香って、いつもハサミ持っているの?」
「うん。夏にバイトして買った、プロ用のやつ。お守りとしていつも持ってる」
そう言って静香は、いつも学校に持っていっているデニム生地のバックから銀色に光るハサミを誇らしげに取り出して見せた。
バスルームでシャワーを浴び、染料を落とす。排水溝に黒い水が渦を巻いて飲まれていく。ドライヤーで乾かしながら、鏡の中の自分を見る。ちょっとだけ、髪の艶が濃くなったような気がした。まあ、髪を黒にしようが、茶色のままにしようが、私の顔は変わらないのだけれど……。黒は、女の子をちょっとだけ神秘的に見せてくれる色だと思う。
少し湿り気が残るくらいまで乾かした後、私はバスルームを出た。
さやかが廊下を歩いていた。さやかの隣には……貞子先輩!
何故か私はとっさにバスルームの扉の影に隠れてしまった。
私、何しているんだろう……。
貞子先輩はロングブーツのヒールを廊下に響かせながら歩いている。尖ったヒールの先がタイル張りの廊下に刺さりそうだ。腰を振った歩き方。ベリーショートヘアなのに、先輩の髪は揺れる。
さやかは少し怯えた様子で貞子先輩の話に相槌をうっているように見える。二人は足を止めると、誰かの部屋に入っていった。
扉が完全に閉まるのを確認して、私はその部屋の前まで行く。ネームプレートに「貞子」と書いてあった。
リカと武が分かれたというニュースが流れたのは十月の第一週目だった。当然、振ったのがリカで、振られたのが武だ。
「たった二週間の付き合いだったねぇ」
早苗がエビチリを頬張りながら言った。
夕食の時間、私はいつものようにスタディメイト達と食堂にいた。仲の良いクラスの男子三人組、武、ユタ、健太郎を見つけたので、一緒の長テーブルに座った。
しかし、相変わらずリカはいない。
「何で、武を振ったんだろう……」
少しイライラした声でさやかがつぶやく。
最近では男子のリカへの考え方も変わってきているようだった。
「自分から誘っといて、二週間でポイ捨てはないよな……」
男の癖におしゃべり好きなユタがピザのチーズに翻弄されながら、武を一生懸命慰めている。
「ま、元気出せって。……そのポテト食わないならもらうぞ」
武は何も言わない。が、ユタは気にする様子もなく武の皿からフライドポテトをさらった。
さやかは、ショックで食事が喉を通らない状態の武の方を見ないようにしていた。武に振られた後のさやかとまるで同じ様子だ。
「ケン、水持って来いよ」
ユタの隣で影の様に食べていた健太郎が、のっそりと席を立つ。
「それにしても、リカは一体何処で夕食を食べているんだろう……」私がつぶやく。
「おい、静香。お前、ルームメイトだろ? ちょっとシメ上げて聞いてみりゃいいじゃねぇか」
静香はユタを無視した。が、ユタは気にせず話を続ける。
「リカが援交しているという噂は本当かよ?」
「さぁ……」千絵がサラダを突っつきながら気のない返事をした。
「そういう事は、弥生と真美に聞きなよ」
「あいつらの話には信憑性がねぇよ。……ケン、パン取って来い」
水を持ってきたばかりの健太郎はまた席を離れた。
「何か証拠があがったら、リカは退学になるよ。今のところ、退学どころか、停学処分も受けていないんだから、その噂は事実無根と見るべきじゃない?」静香は冷静に言った。
「でも、噂だけは止まらないねぇ、先週だって、リカが駅前の『狸寝入り像』の前に一人で立っていたのを見たっていう人がいたしぃ……」
「一人で立っていたなら別に問題は無いじゃん?」と私。
「お前、馬鹿じゃね? 一人で立っていたってことは、誰かを待っていたってことじゃねぇか」
「……それ、何時の話だよ?」
武が突然つぶやくように聞いてきた。
「おー!! 武、やっと生き返ったか! さあ、食え!」と、皿を武の方に押しやったが、皿は空だった。
「あ、俺全部食っちゃった。……ケン、武の飯持って来い」
「いらねぇよ! 食欲ねぇし! それよりも、リカが『狸寝入り像』の前で目撃されたのは何時の話だ?」
「確か……先週の水曜日、だったかなぁ……」早苗は自信無さそうに言う。
「ありえねぇ。それ、リカじゃねぇよ」武はきっぱりと言った。
「え?」
「おれ、その日はリカと一緒に飯を食ったんだ。早苗、その『リカモドキ』が駅前にいたのは何時だかわかるか?」
「いやぁ、そこまでは知らないけどぉ……」
「リカじゃないかもしれないけど、リカかもしれない」と静香。
「はっきりしないね」と、私はため息をつくように言った。
リカは教室の中でも大人しい。必要なこと以外はしゃべらないし、同級生と積極的に打ち解ける態度もない。休息時間はいつも一人で読書をしていた。しかし、存在感だけはある。誰かが陰でリカの悪口を言っていても、そこへリカが登場すると、おしゃべりはピタッと止む。リカの存在を恐れているかのように……。
私は、リカが数日後にはこの学校を辞めてしまうのではないかと思った。
中学生の時、編入して三日で辞めてしまった女の子がいた。
編入一日目、その子は皆と一緒に行動した。食事も皆と一緒だった。自習室で楽しく話した。
二日目、教室には来たが、食事のときは一緒にいなかった。自習室にも来なかった。
三日目、教室にも来なかった。夜になっても寝室に帰ってこなかった。皆で探したら、裏庭の物置小屋の中で、一人で泣いていた。
私ははっきりと断定できるが、「いじめ」と見なされる様な事は一切なかった。ただ、その子は全寮制のこの学校に合わなかっただけ。
リカは今、教室には来る。しかし、既に自習室には寄り付かなくなっている。静香によれば、寝室に帰ってくるのも消灯後。もしかしたら、今日の夜、リカは帰って来ないかもしれない……。
消灯後、宿題を済ませて、自習室を出る。寝室に戻る途中、暗い廊下でリカを発見した。リカはトイレに駆け込んだ。しばらくして水の音が流れると、おもむろにトイレの扉が開く。そっと音を立てないように気をつけているみたいだ。扉の影に身を潜め、廊下に人気が無いのを確認すると、足音をたてずに走り出した。渡り廊下に行くようだ。私は静かに後をつけた。
渡り廊下に出てみると、廊下の隅にリカがしゃがみこんでいた。ペンライトで照らしながら、本を読んでいるようだ。リカの白い肌にペンライトの黄色がかかった安っぽい光がかかる。髪は黄色い光を弾き飛ばす。
私はわざと足音を大きくたてて近寄った。
「何してるの?」
「……本を読んでいるの」
リカは立ち上がり、読みかけの文庫本を私の方に見せた。
「そうじゃなくて……」
何と言って良いのかわからなくなった。何で、自習室に来ないの? 何で、食堂に来ないの? と聞いてみても、答えは知れている。人に会いたくないから避けているのだ。
「自習室で読んだら? 今は誰もいないよ。ここ、寒いし……」
前にリカと話をした時よりも、グッと気温が冷え込んでいる。
リカは本を閉じてうなずいた。私は寝室へ、リカは自習室へ向かう。
別れ際、リカは「おやすみ」と言った。私も「おやすみ」と言った。
廊下の闇に、リカの髪が溶け込んで見えなくなった。
私は、リカが落ち込んでも悲しんでいるようにも見えないことにショックを受けた。
武を一方的に振ってしまった今、リカの味方になってくれる人はこの学校に一人もいないのだ。どうして冷静でいられるのだろう? どうして身近な学友、つまりは私達スタディメイト達ともっと積極的に仲良くしようとしないのだろうか。
私の目にはリカが得体の知れない新しい動物のように見えた。彼女はまるで、集うのが好きな犬の群れにやってきた一匹の黒猫だ。
群れない。媚びない。飼い慣らされない。
犬の群れの中で育った私は、リカという「猫」と、どうつきあったら良いのかわからなかった。
マラソン大会前日の夜、
「早苗!!」
私は怒りのあまり早苗と千絵の部屋へ怒鳴り込んだ。
窓には隙間無くテルテル坊主が逆さまに吊るされている。ベッドに腰を下ろしたまま、早苗は勝ち誇ったように私を見上げる。
外が光った。遅れて大砲のような雷鳴。雨が激しく地面を叩く音。
千絵がキャーと雷に怯えながら、「早苗、よくやった!」と言って喜んでいる。
悔しい!
明日のマラソン大会の為に、どれだけ生徒会は苦労したか! 放課後、ランニングをして備えていた生徒もいたのに!
「よし!」私は決心した。
「明日を晴れにしてやる!」
宣戦布告!!
自習室に駆け戻るとリカがいた。リカは手鏡を左手に持ちながら、右手で長い髪をいじくっている。
「雨で髪が……」
いつもは天使に見えるリカが、今日は何故かヒッピーに見える。しかし、そんなことはどうでもいい。
「リカ!! 手伝って!」
机の上のティッシュ箱を見ると、運悪く紙がない!私はトイレに行き、ロールをはずして持ってきた。
「これでテルテル坊主を作る!」
リカは迫力負けしたらしい。
「わかった」と言って手伝い始めた。
リカは、のっぺらぼうのテルテル坊主に黒いサインペンで顔を描いている。
私はここ数日間、リカに聞きたかったことを素直に聞いた。
「何で武と別れたの?」
リカは驚いた顔で振り向いた。質問が唐突だったのかもしれない。
「ちょっと違うな、と思って……」
「違うって、何が?」
リカは考えるようなそぶりを見せながら、
「説明しにくいのだけど……」とつぶやいた。
「武君がね、全然私を見てくれないから……」
それは嘘だ! と叫びたくなった。武はいつもリカに釘付けだった。穴の開くほどリカの顔を覗き込んでいたはずだ。
リカはため息をつく。
「私の付き合う男の子って、いつもそうなの。私の外見しか見てくれないの。全然本性を知ろうとしてくれないの……」
どういう意味だろうと考えながら、
「リカの本性ってどんなこと?」と聞く。リカは、
「さぁ?」と謎めいた微笑を返した。
「例えば、私が何を好きで、何をしたくて、何をしているか……とか?」と、リカは言った。
何をしているか……その部分だけが頭の中でリピートする。
「男の子って、妄想力はあるのに、想像力が足りないのよね。綺麗な顔をした女の子は綺麗なことしかしないんだって決め付けちゃうみたいなの。私って、そんなに良い子じゃないのに……」
良い子じゃない!?
私は恐る恐る聞いてみた。
「リカはいつも夕食の時、自習室にいない時、何処で何をしているの?」
「それは……」リカは口を閉ざした。
「秘密」表情が暗かった。
私は内心穏やかではなかった。秘密にしなくちゃいけないようなことをしているのか?!
そんな私の心配をよそにリカは「たくさん作れたし、テルテル坊主を吊るそうよ!」と明るく言った。
次の日の朝、
「晴れていますよ! でも何で中止なんですか?」
私は職員室で叫んでいた。すでにジャージを着込んでいるオダセンも頭を抱えている。朝子先輩は、地図にマーカーペンで×印を付けている。体育教員の林先生はため息をつきながら、×印を指差した。
「ここの道が使えないんだ。水田の水があふれ出てしまったらしくてね……。それから、既に生徒達にマラソン大会中止の告知を出してしまったから、今更やるぞ、なんて言えないぞ」
「せっかく晴れたのに……」
朝子先輩はしばらく考えた後、突然地図にマーカーを引っ張った。
「この道を回避するために、ここの角を曲がって、二本隣の道にコースを変更するのは、どうですか?」
林先生は困った顔をした。
「名案だが、もう中止宣言を出してしまった」
「自由参加にしません?」と私は言った。
オダセンが勢い良く顔を上げる。
「そうしよう!」
林先生も、
「他の先生にも相談してくる。」と言った。
一時間後、校内放送で、マラソン大会が参加希望者のみで行われることが告げられた。予定より三時間遅れでランナー達はスタート地点に立つ。快晴、絶好のマラソン日和。参加者は二十人ほど。ほとんどが男子生徒だ。
驚いたことに、リカが参加者の中にいた。今日は髪を後ろで一つに結び、それを三つ編みにしている。
気持ちの良いピストル音が鳴ると、生徒達はいっせいに走り始めた。
リカの三つ編みが蛇のようにうねりながら、白いTシャツの上で跳ねる。私は速度をあげてリカを抜いた。
ここからは、自分の世界に入り、ひたすら走るのだ。目に入る景色も、隣のランナーも私には一切無関係のものとなる。
自分の足音に合わせて、頭の中でラップ調の曲を歌ったり、自分が主人公のメロドラマを考えたり、走っている間、私の脳は恐ろしいほど活発に妄想を繰り広げる。
空想の中の自分はいつも、現実の自分なんかよりも遥かに綺麗な顔をしている。自信にも満ち溢れている。
私はちょうど、二十歳くらいの時の自分を思い浮かべた。背は今のままで少し低めだが、肢体はほっそりと引き締まっている。日に焼けた滑らかな肌は、明るい印象をはじき出す。
髪型は……ロングにしよう! リカみたいな、黒い艶のあるロングが良い。腰くらいまで……いや、もっと長くても良い。
でも……、私はリカみたいに綺麗じゃない。髪も、黒色じゃない。私の髪は、焦げたパンのような色をしている。だから……、だから、ロングなんて似合わないかも。それに、ロングヘアにしたら、リカみたいに孤独になるんじゃないかな……。
頭の中のスクリーンに、一枚の鮮やかな絵が浮かび上がった。
「すごい女の子を描いて」
後ろを向いた栗色の髪の女性。千絵は私の憧れを描き示した。
「あゆみの髪は綺麗だよ」
私の髪色は黒よりも栗色に近い。静香が私の髪を撫でながら褒めてくれた。
「ロングにすれば? 似合うと思うよ」
今までロングヘアに挑戦した事はなかった。憧れのロングヘアを持つリカが私に勧めた。
「あゆみの憧れる女の子」
あのイラストは千絵が私だけの為に描いたのだ。
私が成りたい女性。それは……?
私は何がしたいの?
私はどうなりたいの?
なだらかな斜面で、少し速度を落として登る。ゴールは丘の頂上だ。
マラソンに参加しなかった生徒達が、応援に来ている。タイムを計る先生や、それを記入している中学生がいる。写真を撮っている健太郎が見えた。
さやかの声が聞こえた。
「あゆみ! 頑張って!」
「がんばれぇ!」と早苗も高みの見物をしている。
「ファイト!」と千絵は言いながら、道に出てきて、私の横を一緒に走る。が、すぐに
「疲れた」と言って戻ってしまった。
前方に武が走っている。
「あゆみ! 負けるな!」静香の声。
私の中でマグマのような闘志が湧いてきた。女を泣かせた男に負けてたまるか!
速度を徐々に速める。静かに武の背後につく。武は私に気がついていない。
「行け! あゆみ!」さやかが叫んだ。
武が振り向く。全速力で武を抜く。一瞬遅れた武も負けじとついてくる。短距離走のスピードで、私達はゴールに向かう。
応援する声。
拍手の音。
連打する鼓動。
何も聞こえなくなる。
武が後ろで吼えた。
踏みつけた、白いライン。
ゴールした。
すぐには止まれず、近寄ってくるさやか達を避けながら、私はまだ走っていた。荒れ狂う鼓動を抑えなければ、私はこの場で吐き出してしまうだろう。
心臓が徐々に落ち着きを取り戻したのを確認してからようやく止まった。さやか達に取り囲まれる。
「お疲れ」
武がゴールから離れた場所で仰向けに寝そべっているのが見えた。
「チクショー!」と空に向かって吼えている。
「すごい、あゆみぃ。早いねぇ」と早苗。
ゴール近辺にはまだ数人のランナーしかいない。皆、相当疲れた顔をしている。
ジャージを肩から掛けたオダセンも芝生の上に座って水を飲んでいた。その傍らに座っているのは……、
「リカ!?」
いつの間にゴールしていたんだ?
リカは既にピンクのフワフワのワンピースに着替えていた。ダウンスタイルの髪が芝の上にかかっている。
静香が笑い出した。早苗と千絵も苦笑いをしている。
「やっぱり、あゆみも騙されたか!」とさやかは言った。
「先輩の所に行こう!」
近寄ると、リカは……リカじゃない!
その女性は可愛いが、リカには全く似ていなかった。
私達に気が付くと、オダセンとその女性が立ち上がった。何だかオダセンの顔が赤い。
「紹介するよ……」と小声で言いながら、隣の女性の顔をチラッと見る。
彼女は微笑んでいる。
「僕の彼女の和美さん」
「はじめまして」と、和美さんは私に軽く会釈をした。
可愛い。
反射的に私も「どうも」と言う。
「南あゆみです……」
「いつも茂がお世話になっています」と和美さんは言った。
はい。お世話しています。とは言えずに「こちらこそ」と返した。
和美さんはとても楽しそうだ。
風が吹くとスカートの裾と一緒に髪が広がる。
「わぁ、ステキ!」早苗が感嘆する。
「あの……シャンプーは何を?」と静香がちゃっかりと取材を始める。
「『WAKAME』です」
「ああ、『WAKAME』ですか。評判良いですよね。私のルームメイトも使っていますよ。彼女も、髪の栄養には人一倍気を使っていますから」
「もしかして、リカちゃん?」
「知っているんですか?」
和美さんは首を振った。
「会ったことはないのだけれど、茂からいつも話を聞いていたの」
突然、ゴール前が騒がしくなった。また誰かがゴールに近付いてきたらしい。声援が聞こえる。私達はゴール前へ急いだ。
朝子先輩が白いラインを超えるのが見えた。オダセンと和美さんが朝子先輩の下へ駆け寄る。
「来た! リカだ!」と静香が叫んだ。
丘を登るリカの姿が見えた。
「リカ、がんばれー!」千絵が叫ぶ。
「もう少し!」と早苗も手を叩く。
私は道に走り出て、リカの横に並んだ。このまま一緒にリカとゴールしよう。
さやかはジッとリカを見つめている。
武は背中を向けていたが、手を叩いて励ましているのが聞こえた。
ゴールまであと50メートル。
突然リカが髪の束を片手でぬぐった。
私の視界が黒一色に染まる。頬に伝う、絹で撫でられたような優しい感触。広がるフローラルの香り。
リカがヘアゴムを取ったのだ。
右に、左に、黒龍が暴れる。龍は滝を登る。
リカが速度を上げた。少しでもタイムを縮めたいようだ。私も速度を上げる。リカを追い越さないように、でも追い立てるようなスピードで走る。
嵐のように髪は揺れる。荒れる、黒い海。
私は腕に髪の感触を受けながら、白いラインを踏んだ。
その日の夕食にはリカも一緒に食堂へ来ていた。
「まぁ、噂の真相なんて、こんなものでしょ」と味噌汁をすすりながら静香は言った。
「でもぉ、まさか近所にリカと同じ長さのロングヘア女性が住んでいたなんてぇ、考えたことも無かったぁ」
早苗は早くもイチゴタルトに手をつけている。
「私も、びっくりした。この学校に来て、初めてヒップラインを超えた人を見たから……」
リカは眠そうに言った。洗い立ての髪は湿り気を含んでいて、少しカールしていた。良い匂いがする。
「ケン、デザート取って来い、リンゴのタルトな」
ユタの命令に、音もたてずに健太郎は席を立つ。
「でも、援交疑惑が晴れて良かったじゃねぇか」
「まあ、あれは弥生と真美が言い出したことだから、もともと嘘臭い感じがしていたけどね」と静香。
リカがうつむいたまま、
「そんな噂が流れていたなんて、知らなかった……」と言った。
「痛ぇ!」とユタが飛び上がる。テーブルの下で、千絵がユタの足を踏みつけたのだ。
さやかは武から一番離れた席に座って、黙々と白いご飯を口に運んでいる。
私はため息混じりに言う。
「リカの髪の毛が強烈な印象を周りに与えるものだから、皆、『黒髪のロングヘア=(イコール)リカ』という方程式に支配されるんだ。」
「そうだよねぇ、和美さんとリカって全然似てないもん。皆、後姿を見て『あれはリカだ!』って、決め付けちゃったんだねぇ」
早苗の言葉は私をうなずかせる。
「紛らわしいよな。……リカ、お前、髪切ったら?」
「ユタ! そんなこと言うなよ! お前は少し黙ってろ!」武はユタを叱りつけた。
今日の武はかなりご機嫌斜めの様子。きっと私に抜かされたことを悔しがっているに違いない。
気まずい雰囲気が食卓に流れる。
私はお茶をすすりながら、和美さんのことを考えていた。
オダセンが和美さんと出会ったのは、今年の夏休みだそうだ。彼女は東京の短大をでた後、そこで就職をしたが、夏の初めに母親が他界、すぐに実家に帰って来た。一人になった父のことが心配で、そのままこちらで仕事を見つけて住み始めた……。あれ?
「和美さんって、歳、いくつ?」と私は言った。
「それ、私も疑問」と静香。
「私も聞いたんだけどぉ、はぐらかされちゃったよぉ」
「まあ、いいじゃねぇか。早苗、女の人に歳聞くなよ」と武が言ったので、再び気まずくなる。
とにかく、レストランで目撃されたグレーの髪の男性とは、和美さんのお父さんだったのだ。『狸寝入り像』の前で立っていたのも、仕事から帰ってくる父を待っていたらしい。
しかし……、
「リカ、夕食の時間って、いつも何処で、何していたの?」と私は昨日と同じ質問をした。
リカは俯く。
「あゆみ!」と武が怖い顔で睨むので、私は黙って茶をすすった。
****************************************
「リカ・I」終了
つづき:リカ・II