☆8月23日・横浜アリーナ

▽WBC世界ライト級タイトルマッチ12回戦

○ チャンピオン セサール・バサン VS ● 挑戦者 坂本 博之

117−111

118−110

118−111

mario's scorecard

セサール・バサン

10

10

10

10

10

9

10

10

9

9

10

10

117

坂本博之

9

9

9

9

9

10

9

9

10

10

9

9

111


by mario kumekawa

完敗だったが敗北感はほとんどない。妙な話だが、多くの観衆はそう感じたのではないだろうか。

まったく、見事な坂本の戦いぶりだった。「大和魂」という言葉はほとんど死語になってしまったが、僕は坂本博之こそは大和魂の権化と見たい。精神一到、何事か成らざらん。過ぎた時代の武道家の魂が、坂本を通じて現代のリングに蘇ったのだ、と。

坂本のボクシングには、いくつか致命的な欠点がある。より正確に言えば、坂本のボクシング観は、通俗的な意味では間違っている。「ぶっ倒す」ことはボクシングの目的ではないし、最良の勝ち方でさえない。「最後に立っている奴が一番強い奴(今世紀初頭のように、45回戦でもやれば、坂本は20ラウンドあたりでバサンをKOする可能性はかなり高そうだが)」とか「判定でも勝ちは勝ち、なんていってる奴に俺は倒せない(考えてみれば当たり前だ)」と、心の底から本気で言っているとすれば、それは少なくともスポーツとしてのボクシングを(故意にせよ)取り違えている。

だが、坂本はどうしようもなく美しかった。世界王者にあまりにアナクロな「やるかやられるか」の勝負を挑み、美しく敗れ去った。

大和魂は、勝てるはずのない相手に立ち向かうときに、その美が極まる。メカニカルな次元でははるかに力量の上回るセサール・バサンという相手を得て、坂本のボクシングはますます輝きを増していった。

坂本は、そのボクサーとしての本質からして、「美しき敗者」として運命づけられていたのかもしれない。

だが、坂本のようなファイトで世界の頂点に立ったボクサーもそれほど少ないわけではない。たとえば、ロッキー・マルシアノがそうだ。へたくそでぎこちないが、その小さな肉体を精神が支え、その固い拳にも必殺の決意が込められていた。エザード・チャールズやジャーシー・ジョー・ウォルコット、アーチー・ムーアといった洗練され尽くしたファイターたちに、狙い澄ましたパンチをしたたかもらいながらも前進を繰り返し、ついに豪打一撃、強敵をねこそぎなぎ倒した。

残念ながら、坂本にはマルシアノの拳骨がない。本当は、坂本は強打者ではないのだ。彼が不調のとき、比国の中堅ランカーを持て余す試合などを目撃したことのある人は、「坂本って、ほんとはパンチないのか」と思ったはずだ。 坂本は天性のパンチャーではなく、一撃必倒の意志を込めて振り抜くからこそ、相手を圧倒する攻撃力となるのである。

バサンはチャベスやピントールのような「アステカの戦士」タイプではないが、パンチとテクニックに加え、向こう気の強さも持っていた。試合の前後くり返しバサンが言っていた「サカモトは私のレベルにはない」という言葉も、実感だけではなく、自己を支える作業の一環でもあっただろう。そんなバサンは、坂本の猛攻を、時折体を泳がされながらも悠然としのぎ切った。 坂本の戦いはいつも極度に美しいが、世界チャンピオンと呼ばれる男を打倒するには、なお力不足のようだ。よほどボクシングに新境地を拓くか、運が向くかしなければ、3度目の世界挑戦が実現したとしても(また凄い試合をするだろうが、「奪取」に関しては)大きな期待はできない。

坂本にはそういうありていな栄光ではなく、徹底的な敗北こそ訪れて欲しい気がする。つまり、ある意味では、ジョンストンやバサンでは、坂本の相手をするには役不足なのだ。勝つための技術的な工夫を驚くほどやらず、ひたすら体を鍛えてL・ヘビー級のフセインとスパーリングを重ねる坂本は、本当は世界王者にないたいのではなく、誰かとてつもない男に打ち倒されたいのではないだろうか。そこそこの判定勝負など、おそらくどうでも良いのである。

坂本の脳裏にあるイメージは、全盛期のロベルト・デュランであるようだ。ああいう、太陽神のようなファイターの熱い拳とぶつかり合い、全身を焼かれるようにして壮絶に散る。そんな敗北を待っているのではないだろうか?
オリバレスと死闘を演じた金沢和良、ホセ・メンドーサに挑んだ矢吹丈、レイ・ロビンソンを追い続けたジェイク・ラモッタのように・・・。


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