7月
いちがつ


7月29日(木) 母、逝去

今夏、7月18日(日)に母が逝去しました。
以下に、、FaceBookにアップした文章を掲載します。

【母の旅立ち】

暑い夏、7月18日。母が遠い空へと旅立ちました。
誕生日が1月18日なので、ちょうど86年と半年の生涯でした。


母が息をひきとる、その瞬間を、私は生きました。母の額に手を当て左手を握っている時に、母の命はふっと消えました。人は死ぬとき、ほんとうに息をひきとるのだ、と私は実感しました。それはとても生々しく、「死」についての本をいくら読んでも得られないものでした。


母の生涯はどんな一生だったのだろう?母は幸せだっただろうか?特に晩年の8~9年間、私は母のさみしい心にほんとうに寄り添えただろうか?いっしょにいてくれる家族を求めていた母への想像力に欠けていたのではないか?他者への想像力に欠けるなんて、音楽家として致命的だろう?

でも、母からの携帯電話が1日に40回くらい鳴るような日常を過ごし、携帯のベル音にノイローゼ気味になり、自分も自律神経の薬を服用するなど、いわば母の介護をしていた時期は、正直、私も限界だった。

それで、姉弟で当番を決めて母と共に寝泊まりしようと話し合ってからすぐ、2014年9月、母は出血性脳梗塞で倒れてしまった。いわゆる「声出し」の症状があり、病院で手足を拘束されていた母は、ありったけの声を振り絞って私と妹の名前を呼び続けた。その叫ぶような声が病院の外の駐車場まで聞こえてきたとき、私はその場で泣き崩れた。

そして翌年夏に再発し、右半身麻痺、寝たきりになり、少しずつ言葉も失い、結局、9月に施設に入居してもらった。母がまだ声と言葉を持っていた頃、施設のベッドの上で「もう、いい」と私を見ながら言ったことは、今でも鮮明に憶えている。これで、よかったのだろうか、何度も自問し、空にいる父にも問いかけた。

というようなことが、頭の中をぐるぐる巡っているのが、今。母のことを自分の心にきちんと収められるのは、まだ先のことになると思います。時間が解決してくれるかもしれませんが、現実的には人が亡くなるとやらなければならないことが山のようにあり、これはもうひとつずつやっていくしかないと思っています。

ともあれ、お母さん、ほんとうにありがとう。どうかやすらかに。


<追記>
今春5月11日に発熱して入院。現在、病院ではコロナ感染防止で面会が一切許されないため、6月末に私たち姉弟はつらい決断に迫られました。

このまま病院で延命措置(栄養や水分を補給する点滴/身体に手術するべき病巣はあるけれど、もはや耐えられる体力はないことから手術は断念)を受けながら、ほんとうに最期という状態になった時の病院からの呼び出しを待つか。

そうした延命点滴はできないけれど、そして既に経口摂取が難しくなってきていた母は少しずつ水分も摂れなくなることが予想されるけれど、施設に戻るか。

結果、生命は短くなるが質の高い時間をはるかに得ることができるという主治医の勧めもあり、6月29日に退院することに。それから20日間、私はどうしても仕事で行けなかった2日間を除き、毎日、母に会いに行きました。コロナ禍にあっても、幸い、施設では居室での面会を許してくれたのです。母の最期の時間にきめ細かく対応してくださった看護師さんや食支援の方々には感謝してもしきれません。それはほんとうに有難いことでした。


黒田家は神道なので、7月21日に通夜祭、22日に葬場祭と十日祭を、子どもたち家族だけで行いました。実際、市民聖苑や葬儀屋さんからは、コロナによる人数制限や時間制限を厳しく言われたこともあり、親戚などには連絡はしたものの、子どもたちと孫たち8名で、丁寧に見送りました。確か、父の葬儀の参列者は1000名弱、祖父のときはのべ2000名近かったことを思うと、ずいぶんさみしい葬儀になりましたが、父は母のことをちゃんと迎えに来てくれて、私たちは母をしっかり見送ることができたと思っています。


添付した写真は、母の二十歳の時の写真。この母に惚れ込んだのが父で、もう一枚は新婚旅行in熱海。当時は熱海に新婚旅行に行くのが流行りだったと聞いたことがあります。
ちなみに、母の名前は惠子と書いて「えいこ」と読みます。うーん、どう考えても、私は似ていません。どちらかというと父親似なのでありまする(苦笑)。




7月31日(土) 御礼(母の逝去)

母の逝去に伴い、多くの方から心を寄せていただきました。
また、あたたかいメッセージもいただき、心から感謝しています。
ほんとうにありがとうございました。

正直、SNSやWebで公表することには逡巡しました。

が、特に父が亡くなってから、母は私が演奏するコンサートやライヴなどを楽しみにしてよく足を運んでくれたので、その会場でお会いした方やお世話になった方もいらっしゃるかと考え、公けにすることにしました。

また、私自身が母の死を受け止めて顔を上げることができるようになるためには、言葉で理性的に考える必要があると思った、ということもあります。折に触れ、その都度、句読点のようなものをひとつずつ打ちながら、母のことを心に収めていく、そんな感じでしょうか。介護からの時間が長かったので、それなりの時間は必要になるかもしれないのですが。



東京都のコロナ感染者数は7月28日に3000人を超え、その数は増え続けています。このコロナの状況下で、大切なご家族や友人などを亡くされた方も多くいらっしゃることと思います。コロナ感染対策のため病院や介護施設などでは自由に面会することが許されず、またコロナで亡くなられた場合はその最期の姿すら見ることができず、悲しくつらい思いをされている方たちのことを想うと、私の胸はとても痛くなります。母の最期の20日間、短い時間でも面会を許され、母が息を引き取る時に手を握って寄り添うことができた私は、それだけでもしあわせだったと思います。



昨日、東京都に出されている緊急事態宣言は8月31日まで延長されました。昨夜の記者会見で、尾美会長は強い口調で危機感を共有してこのコロナを乗り越えていくことの大切さを訴えていましたが、相変わらず記者からの質問にきちんと答えない、どうやら日本語がわからないらしいスガさんからは深い失望と絶望しか感じることができませんでした。



7月も終わりを告げようとしていますが、今年はどんな一年だったかと、今、問われたら、私は迷いなく「矛盾」と答えます。

コロナと東京五輪。どう考えたって、おかしいでしょう?(私は東京五輪は中止するべきだと思っています。)

ただ、五輪に参加しているアスリートの方たちには、私は深い同情を抱きます。彼らがこのコロナで余儀なくされていることが山のようにあることは容易に想像でき、それは私たち音楽家や芸術に携わる人たちが強いられている状況や思いと重なるところがたくさんあるからです。

安い賃金で医療従事者や介護施設で働く人々の苦労や苦悩と、一方で大儲けしている人たちや大儲けしようとしている人たち、贅沢な時間を過ごしている人たち(IOCバッハ会長は一泊300万円のインペリアルスイートに宿泊し、その警護費用は人件費だけでも1億円を超えると言われている)がいる状況。これも、おかしいでしょう?(3.11の時も強く感じたことです。)

母が入居していた施設では、病院を退院する際にPCR検査を受けることが必須になっていました。母は退院予定だった日が1度NGになり、2度目に退院できたのですが、そういうわけでPCR検査を2回受けることになってしまいました。これらのPCR検査は自費となり、なんと1回3万円近く費用がかかりました。2回受けたので計6万円です。病院によっては1回5万円というところもあると聞きました。

この自費によるPCR検査の費用のことを主治医に尋ねると、先生は病院はあまり儲かっていないと言いました。ではどこが儲けているのか?検査会社、だそうです。



まあ、腹の立つことも多い毎日で、おまけに猛暑で、母の逝去後にやらなければならないことが山のようにあり、今週はさすがに私も疲れて2日間ダウンしました。免疫力が少し落ちたのか、頭痛と口唇ヘルペスに見舞われましたが、これから少しずつ復活できると思います。緊急事態宣言を受けて、音楽家の仕事を取りまく環境は変わらず非常に厳しいですし、私は仕事数は少ないですが、誠実に音を奏でたい、今を生きたいと思っています。





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