3月
さんがつ


3月11日(金) 5年経った

3月11日、午後2時46分。
その時間、今年は静かに黙祷を捧げた。
涙があふれる。
朝からテレビでは5年前の映像が流れているけれど、なぜか、今年は直視できない。
心臓がばくばくする。

私自身は被災者ではないが、あの年の3月、春の様々な光景や心情がフラッシュバックする。

庭へ出るガラス窓にしがみついた。玄関の樋から、ざぶっつざぶっと水が波のようにあふれて落ちるのが見えた。大きい。

あの日は水谷浩章(b)さんと初めてのデュオで、横浜・ドルフィーで演奏する予定だった。電話がつながらない。やっとつながって、とにかく、キャンセル。そのときはまだ仕事に行くつもりでいて、事の重大さがよくわかっていなかった。

そして、テレビの向こうの風景はこれまでに見たこともないものだった。

新宿も渋谷も暗かった。
放射能は不気味だった。今も、だけれど。
2回目の雨のとき、ずいぶん濡れてしまったことを思い出す。

東北支援ライヴもずいぶんやった。どこに寄付するのか、具体的な支援先を必死になって探した。顔が見えて、声が聞こえるところに送った。

母はまだとても元気で、物置から火鉢と炭を出してきて、暖をとり、お湯をわかしていた。「戦争中を想えば(なんてことない)」という感じだった。母とろうそくの灯りで食事をした。

東電からの計画停電のおしらせは、今でも冷蔵庫の扉に磁石で貼り付けたままにしている。

約三か月後、慣れ親しんできたはずの東北の地に立ったときのこと、演奏したときのことは、生涯けっして忘れることはないだろう。

そして、今、この国は狂っていると思うことが増えた。




3月14日(月) 行動

冷たい雨が降る今日。3月2日に到着したまま机の上に載っていた『写真記録 チェルノブイリと福島 人々に何が起きたか』(広河隆一 著/DAYS JAPAN)を、やっと、見て、読んだ。昨日までは、なぜか心臓がバクバクして、これを手に取ることができなかった。

この一冊の分厚い写真と言葉には、ジャーナリストとしての広河氏の自分自身への厳しい問いかけと、レンズの向こうにある世界や人間に対するどうしようもない絶望と深いまなざしにあふれている。・・・って、こんな風に書くこと自体が非常に薄っぺらい言葉にしかならない自分に苛立つ。

冒頭。「はじめに」のところでアレクシェービッチ氏の著者から引用されている文章は、私の胸に突き刺さる。

「人間の本質に何が起き、国家が人間に対していかに恥知らずな振る舞いをするか (中略) 国家というものは自分の問題や政府を守ることだけに専念し、人間は歴史のなかに消えていくのです。」

“恥知らず”

この“恥知らず”は、国家だけではなく、原子力産業であり、専門家であり、一部のメディア、のことを指している。

一番最後。「チェルノブイリ、福島原発事故から 私たちは何も学ばないのだろうか」に書かれている文章は、広河氏の自身への問いかけと苦悩に満ち、それでもなおなんとか希望を持ちたいと願うところで終わる。私の心はえぐられる。

「チェルノブイリ事故の取材をしたとき、放射能がこれほど手に負えないものだとは思っていなかった。人間の英知がすべての悲劇を克服すると信じていた。

しかし、それは今では愚かな考えだったことを思い知らされている。原子力を利権で守ろうとした専門家たちと政治家たちに、私たちの子どもたちの生殺与奪の権利を譲り渡してしまった罪の大きさに、唖然とする。」

本の帯に書かれている谷川俊太郎さんの言葉は、さすがに的確で明解。
「広河さんの写真と言葉が伝える、ひとりひとりの個人に即した事実の力は、私たちを感動させ絶句させることで行動へと導く」

3月11日の『報道ステーション』は、福島の子どもたちの甲状腺異常を真正面から特集していた。

3月13日の深夜に放映されているドキュメンタリー番組も、放射能の健康被害等について取り上げていた。最後のほうに出て来た学者たちのほとんどは、福島第一原発事故による放射能と人間の健康被害の因果関係を認めない立場の人たちだった。

では、私の行動とはなんだろう?

去年の3.11は、地元で東北復興支援のヴォランティア活動を行っているグループのイベントに参加して、かみむら泰一(as)さんを誘い、野外でコンサートを行った。今年は時間はあったのだけれど、なぜか気持ちが向かなかった。「ヴォランティア」というのはなかなか難しい。かかわりのスタンスをしっかり定めないと、自分自身も、人間関係も、そして目的もわからなくなる。

ちなみに、今月末、私は盛岡でソロ・ピアノのライヴをすることになっている。私のような者を呼んでくださるのだから、ほんとうに有難い。

震災の年の3.11から約三か月後、今回と同じライヴハウスで、坂田明(as)トリオで演奏した。そのときは、演奏していると、お米を炊いている香りが漂ってきたことを、とてもよく憶えている。大きな炊飯器で作られた白いご飯は、多くの人の手によっておむすびにされ、明け方には沿岸地方へ届けられると聞いた。みんな必死だった。空気は緊迫していた。でも、そのときの仙台は、既にバブルの様相だった。

(上記、2011年6月の東北ツアーの様子はこちらで読むことができます)

2012年3月には、石巻で、ピアノ・ソロで演奏した。このときも「ヴォランティア」ということに少し疑問を抱いた。ともあれ、容易に宿がとれない。1年経ったのに、商店街の道路は崩れたままで、まだこんな状態なのか・・・と思った。川に近い民宿に泊まった私は、なんだかとても怖くて、夜はおまじないを唱えながら眠った。

2013年、ソロ・ピアノのCDを発売したので、東北地方を一人でまわった。盛岡で演奏したライヴ・ハウスには、津波で水浸しになり、修復されて戻って来た、小型のベーゼンドルファーがあり、私はそれを弾いた。このときは宮古にも行った。

2014年及び昨年は喜多直毅(vn)さんとのツアーで、さらに、劇団・黒テントの創設メンバーの方たちと行った公演『阿部定の犬』で、盛岡を訪れた。ほかにも、震災後、振り返れば、盛岡にはけっこう行っていることに、今、気づいた。

ということで、私は、ピアノを弾く、のだ。

そして、今年もまた鎌田實さんや小室等さんが理事をつとめているJCF(日本チェルノブイリ連帯基金)へ寄付金を送った。福島の子どもたちのために使って欲しいと書き添えて。










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