6月
6月1日(木) 太陽を盗む

午後、友人から頼まれ、小田和正が歌う曲をアレンジする作業にとりかかる。ギターとピアノのために、鬼怒無月(g)さんと私が演奏している「カバティーナ」のように、というのがご要望なので、できるだけシンプルにすることを心がける。

小田和正と言えば、私が大学時代には“オフコース”が流行っていた。小田和正の声の質感は、井上陽水に次ぐものだと思った記憶はあるけれど、その歌詞がやたら女々しく感じられて敬遠していた。

たとえば「君を抱いていいの 好きになってもいいの」という歌詞には、まったく共感できなかった。私に内在する“男”のイメージを、甚だ損なうものだったのだろう。今なら、少しだけわかるかも、だけれど。

夜、日本映画専門チャンネルで、映画『太陽を盗んだ男』(1979年/長谷川和彦 監督)を観る。

中学校の理科の先生が、茨城県東海村の原子力発電所から液体プルトニウムを盗み、自分のアパートで原子爆弾を作り、日本政府を脅迫するストーリー。この教師役を演じているのはジュリーこと、沢田研二。

東海村に忍び込んでプルトニウムを奪い、しかも普通のアパートで原爆を作る、ということ自体がそもそもほとんどあり得ない話で、その映像は滑稽でさえあったが、3.11を経た今の私には、すべてを笑い飛ばせる状態には、無論、ない。

だいたい、冒頭は皇居前で起きたバス・ジャック事件から始まっている。当時のみならず、今だって、その撮影はとうてい許可されず、相当きわどいはずだ。実際、長谷川監督は、警察に連行される人間をあらかじめ用意していたらしい。

原爆を作ったジュリーが、一番最初に政府に要求したことは、当時のプロ野球のナイターのテレビ中継は夜9時で打ち切られるが、それを延長して放映しろ、というものだった。その要求通り、“巨人対大洋”戦は時間を延長してテレビ画面に流し続けられる。あ、巨人戦なのね、と、今の私なら思う。

その後、調べたところによると、その延長放映がされた際に、ジュリーが「俺は“9番”だ」と言っているのは、当時、世界の核保有国は全部で8カ国あり、自分は9番目だ、ということを意味しているそうだ。

かくのごとく、映画の諸所に、暗喩、さらにアフォリズムなどが散りばめられている。

ジュリーの第二の要求は「ローリングストーンズの日本公演を実現しろ」、さらに第三の要求は「五億円用意しろ」。5月1日、メーデーの日に、かつてのライトハウス・ナル(代々木)のテーブルの下に置いておいた原爆と引き換えに、ジュリーは現金を手に入れるが、デパート内に追いつめられて、屋上からお金を投げ捨てる。

舞い落ちる無数の一万円札。・・・最後はばらまかれるお金なのね、と思う。実に象徴的だと思う。過疎化の一途をたどっている村や町に思いを馳せる。3.11以降の今だから、そういう回路が生まれていることを自覚する。

ラストシーンは、原爆の製造過程で被曝したジュリーが、髪の毛をかきあげる。すると、髪の毛が抜ける。にもかまわず、前を向いて道を歩いて行く、というところで終わる。背後で爆音。

当時の時代的背景もあったとは思うが、私がもっとも印象に残った言葉は、ジュリーが原爆を抱えながら言ったセリフ。

「なんでもできる。でも、何をしたいかわからない。」

この言葉は、中学教師の内面を吐露しているというより、原子力そのものの在り様ではないかと、やはり、今の私は思う。

そう考えると、自分の中の意識や思考が、3.11以前と以降では、まったく異なっていることに気づかされた映画だった。

その後、NHKの特番で放映された、先月5月22日に亡くなられた音楽評論家・吉田秀和さんの追悼番組を観る。

もっとも印象に残ったことは、吉田さんの音楽の聴き方、耳の在り方だった。演奏者の技術に関する評や、データあるいは印象批評というより、なにか、こう、自分の問題としてぐっと音楽をつかもうとする態度を持ち続けた方であるらしい、と感じた。

それはまた、対象となる演奏家自身が、そうした音楽の本質のようなものを内側に抱えているかどうかを見抜く(聴き抜く)という洞察につながっていくように思われた。吉田さんはそうした人間の内部に耳を凝らして、音楽を聴き、世界をとらえている方のように思われた。合掌。



6月2日(土) 人は変わる

夜、代々木・ナルで、ヴォーカリスト3人の方たちと演奏。門馬瑠依(vo)さんとは久しぶりに共演。彼女の発声法が変わっていることに、すぐに気づく。以前より喉が素直に開いて、余計な力が入っておらず、まっすぐに豊かに声が出ているように感じられた。聞けば、安ますみさんというヴォイストレーナーの方について学んだという。人間、変わることができるんだなあと、しみじみ思う。



6月5日(火) 絶望の名人

『絶望の名人 カフカの人生論』(フランツ・カフカ 頭木弘樹 編訳/飛鳥新社)を読了。

皮肉なもので、最初に本に付いている紐(栞)のところを開いた頁のタイトルは
「自分のやりたいことでは、お金にならない」
思わず、電車の中で、苦笑いをしたことを思い出す。

この本は、右頁にカフカの言葉が掲載されていて、左頁にはそのアフォリズムに対する編者の解説が書かれている。そのカフカの言葉は小説はもとより、日記や恋人への手紙、父へのおそろしく長い手紙(父に読まれることはなかったそうだが)などから抜粋されている。

編者の文体には「〜のです。」という終わり方をするものも多く、それが断定的な印象を残すので、こうした文体が好きではない人には耐えられない文章かもしれない。実際、私も少しそう感じたのだけれど、結局どんどん読み進めた。

一番最初に出てくるタイトルは「倒れたままでいること」で、そのカフカの文章(フェリーツェへの手紙より)は、

将来にむかって歩くことは、ぼくにはできません。
将来にむかってつまずくこと、これはできます。
いちばんうまくできるのは、倒れたままでいることです。

その他、生きることへの不安にかられ、孤独で、鬱病で、不眠で、栄養のあるものを全然食べないでいる人ではないかしら、と思えるような文章がたくさん出てくる。どこまでいっても、ネガティヴ。

「絶望の名人」というちょっとキャッチイな本のタイトルは、明らかに“売る”ための方便だとは思うが、真っ暗闇の中に自分の身を置くと、何も見えず、何も聞こえないけれど、それでもなお、何かがそこに在る、という感覚にはなった。暗闇の中で、非常に逆説的に、人間の矛盾や不条理を、決して声高ではなく書いた作家・カフカの黒い後ろ姿が感じられるような一冊だった。



6月6日(水) 山のあなた

山のあなたの空遠く
「幸い」住むと人のいう

これはカール・ブッセ(ドイツ人)の詩を、上田敏(明治7年〜大正5年 享年43歳)が訳したものとして、つとに有名な冒頭の文章。

私の場合、この訳詞を知るよりも前に出会ったのは、確か三遊亭歌奴と言っていたと思うが、その落語家が「山のあなあなあな」と語っていた噺だ。当時はずいぶん流行っていた記憶がある。

でもって、それをもじったような歌を、柳亭市馬師匠が歌っている。ま、演歌調お囃子入りダジャレ付き「山のあな あな ねえあなた」なのだが、この歌が入っているCDを購入し、繰り返し聴いて採譜する私は、いったい何者?わっはっは。

ちなみに、

秋の日の
ヰ゛オロンの
ためいきの
身にしみて
ひたぶるに
うら悲し

これはフランスの詩人、ヴェルレーヌが書いた詩を、上田敏が訳した「落葉」の最初の文章。実に美しい。

今日は父の命日。山のあなたに、思いを馳せる。



6月8日(金) 美術館で

地元の府中市美術館へ足を運ぶ。

市民ギャラリーでは、昨年9月〜10月にかけて、震災後の岩手県大槌町の様子を撮影したという写真が展示されていた。撮影したのは中島仁司さんという方だそうで、「連続写真」という手法を使っている方とのこと。

被災地の被害状況の記憶の希薄化を防ぎ、定期的に記録として残していこうとする試みの第一弾ということで、今後も継続して展示活動を行っていくと聞いた。

正直、写真として考えた場合、この人はいったい何を伝えたいのか、私にはよくわからなかった。

その状況を知りたくて、グーグルの地図で、被災前と被災後の航空写真を見て、涙した日々を思い出したりもしたが、その時の自分の感情のほうが、よほどリアルだと思った。無論、時間の流れはあるとしても。

そもそも展示の仕方がよくない。

連続写真ということで、大槌町内を走る幹線道路から見た風景が、いわばつぎはぎされている状態で展示されているのだが、角度が違うところから同じ建物が撮られていて、そのつなぎ方がなんだかわかりにくい。

さらに大問題だと思ったのは、どこを撮影したのか、ということがさっぱりわからなかったことだ。写真の下にはほとんどすべて「大槌町」と印刷された白い紙が貼られていたけれど、そんなことは最初からわかって、この展示室に足を運んでいるのだ。

場内に貼ってあった地図は、PCからプリントアウトしたものをつなぎ合わせた、非常に簡素、あるいはまにあわせなものだった。せめてその地図を拡大し、この写真のこの場所は、この地図のここ、と示すような番号くらい振ったらどうかと思う。ちなみに、写真の下に貼ってある白い紙には、なにやら意味不明な番号が印刷されていたが、これは見る者にとっては何の必要もないものだったようだ。不親切。さらに具体性に欠ける展示だと思わざるを得ない。

つまり、ここにどんな建物があったのか、何があったのか、人々がどんな暮らしをしていたのか、そうしたことに意識が及んでいないことが伝わってくる。そんな「声」の聞こえてこない写真を撮って、何になるというのだ。それが“記録”なのだろうか?

ジャズ喫茶クイーンがあった所、道路を隔てた向こう側にあった町役場やふれあいセンター、ガソリンスタンド、JRの駅、駅前の梅津旅館、海沿いの東大の海洋研究所などなど。去年6月に釜石から大槌町に入るところで目にした、火災に遭ったビル、小学校など。

具体的な建物の名前を挙げて、係りの人に尋ねてみるも、どうもよく知らないらしい。おまけに「市役所」という表記になっている。大槌町には町役場はあっても、市役所なんかないのだ。津波にさらわれて命を落とした町長さんや私の知り合いたちは、これでは浮かばれない。

大槌町に住んでいて、津波ですべてを失った友人を誘わなくてよかった。おそらく、彼らは彼女に何一つ応えることはできないだろう。

啓蒙的な態度と、その意識のレベルは、比例しない。

その後、美術館の企画展『イメージの叫び パワー・オブ・創作木版画』を鑑賞。漆原木虫、浅野竹二、この二人の作品には、木版画が持っている圧倒的な力をとても感じた。

夕方からは、ロビーでコンサートがあるという。知らなかったのだが、ま、聴いてみようかしらと思い、そのまま椅子に座る。これは『府中の夏 北欧の風音楽祭』という催しのプレ・コンサートだそうで、無料。演奏機会の少ないスウェーデンのクラシック音楽を紹介することが目的だそうだ。

むむう・・・。1曲目、2本のヴァイオリンによる演奏。ピッチが悪過ぎる。隣にいた人は、演奏が終わった直後に席を立った。2曲目、スウェーデンから来日しているヴィオラとチェロ奏者、日本人ヴァイオリニストによる演奏は、ぴたっと合った雰囲気があったので、とりあえずそのまま席に座ってみることにする。

以降、弦楽四重奏、五重奏、さらに女性オペラ歌手も入っての演奏になったが、大きな拍手を送ることはできなかった。ほとんどが桐朋音大を出ているようだ・・・。この音楽祭の最後のプログラムには、スウェーデンの現代曲もあるようだったので、以前から行ってみようかなと思っていたのだけれど、気持ちは失せた。

って、今日はやけに辛口な私。まるで口うるさい小姑のようで、すみません。




6月10日(日) ある同窓会

午前中、父のお墓参りに行く。母や妹弟たちは近くにいるのだが、こうして全員が顔を合わせるのは、せいぜい一年に2〜3回だ。春夏のお彼岸、そしてこの父の命日にちなんだお墓参り。そういえば、今年のお正月は弟一家には会っていない・・・。

午後、NHKで再放送されていた『井上陽水 空想ハイウェイ Act2 沖縄で30年ぶりのフォーク同窓会』を観た。沖縄のすてきなホテルに集まったのは、井上陽水、小室等、友部正人、高田渡、三上寛、加川良。

陽水が中心にいて、各人との話や、全員による座談会の時間も設けられていた。そうした会話の合間に、一人ずつ、ギター片手にうたう歌が差し挟まれる構成になっている。

最初の30分くらいは見逃してしまったので、高田渡、三上寛の歌は聴き損ねたが、いやあ、それぞれの歌、すばらしい。

テレビを付けた時、ちょうど歌っていたのは、加川良だった。あの「教訓1」だ。

命はひとつ 人生は一回
だから命を捨てないようにね
あわてるとついふらふらと
お国のためなのと言われるとね

青くなって尻込みなさい
逃げなさい
隠れなさい

この歌がうたえる自分は、当時、中学1年生。その時代の雰囲気とあいまって、とてもよく憶えている歌の一つ。

小室さんは「雨が空から降れば」を、友部正人さんは「一本道」を、それぞれ歌っていた。

小室さんの思い出は以前書いたことがあるので、ここでは割愛する。

友部さんのLP『にんじん』は生涯忘れられない作品。私が生まれた家には玄関の横に応接間があったのだが、大学生になっ頃だろうか、その応接間が私の部屋になった。蓋をしたアップライトピアノの上にこのLPを飾って、今もまだ現役で使っているステレオ“日立ローディー”(当時、渡辺香津美さんがテレビCMをやっていたっけ)で、この『にんじん』を聴いた。

夕方の西日が差しこむ部屋に、このLPから聞こえてくる音楽はぴったりだった。歌は決して上手くはないと思ったけれど、ちょっとしわがれた声と、なによりもその“詩”にうちのめされた。聞こえてくる言葉と声が、その人の身の丈そのままで、そこに立っているような感覚を抱く。気がつくと、ぼろぼろ泣いていた。

たとえば、「一本道」の中のこんな言葉たちが、あの声にのって、空中に解き放たれる。

しんせい一箱分の一日を
指でひねってゴミ箱の中

ああ、中央線よ空を飛んで
あの娘の胸に突き刺され

この歌を聴いていた陽水の顔は、泣くのをこらえているようでさえあった。歌が終わった後に、陽水は友部に、正直に胸が震えたことを伝え、「誠実だね」と言っていた。

夜の座談会の様子も放映されたが、どうやら三上寛の独壇場的雰囲気だったらしく、加川良が「俺なら三上は呼ばない」と最後まで苦々しい口調で言っていた。ま、想像に難くなく、そういうことなんだろうと思った。このメンバーの中で、良くも悪くも、もっとも俗物的だったのは三上寛だったとは思う。

その話し合いの場で、一人、圧倒的な存在だったのが、やはり高田渡だった。このNHKの番組が放映されたのは2004年のことらしく、高田さんが亡くなったのは2005年4月だから、いわば最晩年の映像ということになるのだろうか。

この人は、人間として、実にあたりまえに生き、あたりまえのことをやってきただけなのだと思う。が、実際は、こうはなかなか生きられない。その印象にもっとも近いのは、渋谷毅(p)さんかもしれない、とふと思う。

それで以前買っておいた雑誌『東京人 300号 フォークの季節』(2011年9月号)を読み通す。最初に小室さん登場。その中で、小室さんも高田さんのことを「筋を曲げない稀有な男」と言っている。

この雑誌では何人かのフォーク歌手や文化人がインタビューを受けたり、文章を寄せたりしている。聴き手はほぼ私と同世代の人たちになっている。

そして、中に、中村とうようさんのインタビューも掲載されている。自から命を絶たれたのは2011年7月のことだから、おそらくこのインタビューも亡くなる寸前のことではなかったかと思う。

私はいわばフォーク少女だったわけだけれど、今はまだ昔を懐かしんでいるわけにはいかない。つまりは、私にとっては、言葉は大切、なのだ。そして、どうする?




6月12日(火) 日本語

午後、“Inventio”のリハーサル。

来週末のライヴのために、あらたに数曲を提案。辻康介(vo)さん、立岩潤三(per)さん、私、それぞれ出自はまったく異なり、現在足を置いているフィールドも違う三人だが、何かが真ん中にある、と感じている。原発問題も含めた、様々な社会問題についても語り合える仲間に出会った感じ。

今回も「シャンプー音頭」に匹敵するような、愉快な歌も2つほど。“日本語”の面白さを満喫できるかも?かと思えば、人生をしみじみと思うような珠玉の歌も。「だるまさん千字文」(作曲:高橋悠治)は波多野(vo)さんが歌っているCDを聴いて、以前からずっとやってみたいと思っていた曲。それとは全然違うアプローチで今回は試みる。



6月13日(水) 歳をとるということ

国立能楽堂で行われた『東京能楽囃子科協議会定式能』を観に行く。

最初は舞囃子が3本。「巻絹」の笛方は一噌幸弘さん。久しぶりに一噌さんの能管を聴いた。吹き出しの勢いは、一噌さんならではの味わい。

「清経」の後は、「唐船」。小鼓は観世流の家元、観世豊純さんが演奏されたが、もうだいぶお歳を召しておられるのだろう、小鼓を持つ手が震えておられ、音が鳴らない。その方を、大鼓、太鼓、笛方が懸命に支えている感じだ。かくて、舞台上のすべての間合いがずれる。笛方は松田弘之さん。その演奏は五線譜に書かれた音符を聴いているような感じがして、私には少しきれい過ぎるように思われた。

そして、一管「草之音取」は、一噌庸二さん。一噌流の14世家元。やはりお歳を召しておられ、最近は“ヒシギ”が上手に出ないという話も聞いたが、この一管の演奏はすばらしかった。一瞬、涙がこぼれそうになったくらいだ。そのひと吹きの中に、さわりのようなノイズや倍音が、ものすごくたくさん生きていると感じた。その後は、一調で、國川純さんが演奏。

休憩後、狂言『祐善』、能『熊野(ゆや)』。

この狂言は、“舞狂言”と呼ばれるものだそうで、若狭の僧が京都五条の油小路の庵で雨宿りをしていりと、狂い死にした傘張り職人の祐善の亡霊が現れ、最後のありさまを謡い舞うというもの。通常の狂言とはかなり趣が異なり、かなり能楽に近い。

この祐善をつとめたのが、野村万作さん。これがすばらしかった。1931年生まれだから、現在81歳だが、腰の低さ、足の運び、足を上げる動作など、とてもとてもそんなお歳には感じられない。たまげた。

この狂言の時の笛も一噌さんが吹いていた。通常の能楽の演奏内容とはかなり趣が異なっていて、これもまたたいへん面白かった。

最後は熊野。シテは宝生流シテ方、前田晴啓さん。私の大学時代の先生だ。今回はとても珍しい“膝行(しっこう) 三段之舞”という小書き付き。宝生流では10年か20年に1回くらいしかやらないそうだ。

“膝行”というのは、膝頭を床について、前に出たり後ろに下がったりする所作を言い、この熊野では、シテの熊野がワキの平宗盛に短冊を渡す場面で、この型が入る。

“中之舞”がものすごくゆっくり始まり、三段階くらいで、次第にテンポが上がっていくところが、非常に面白かった。なお、“三段之舞”とは、本来、五段之舞を三段の終わりでにわかの村雨のせいで打ち切ってしまう特殊な演出のことを指すとのこと。普通は最後まで舞い切って、大小前での謡、型になるのだそうだ。

前田先生の演能は、三月の「源氏供養」の時もそうだったが、全体に非常にどっしりとゆったりとした風情で重々しい。いずれも、演じ手のものすごい集中力と“気”が感じられる舞台だった。

ちなみに、私が大学の能楽研究会に入って初めて習った仕舞が、この「熊野」だった。“クセ”の途中で、「・・・はるかにながむれば〜」とシテが謡うところで、そのことを思い出した。前田先生の謡は、「ながむれば」の最後をとても長く伸ばしておられて、私はそこに熊野の胸の内の思いを聴いたように思った。

歳をとっても、しゃんとしている人、そうでない人。舞台にあがり、人前に出て、己の芸を披露する仕事は過酷だ。って、他人事のように言っている場合ではない。



6月15日(金) 楽しみ

午後、松田美緒(vo)さんとリハーサル。最近の彼女の歌を、沢田穣治さんのCDやYouTubeで聴き、以前よりも歌に貫禄がついて深くなったように感じたので、思い切って声をかけてみた。そうしたら快い返事をもらい、来月のライヴで共演できることになった。

今回彼女が提案した歌の中には、長崎の隠れキリシタンの歌があり、それがすばらしい。私は谷川俊太郎さんの詩に曲を付け始めたところ。このライヴでは、日本語をいつくしむような歌を、みなさんに届けたい、と思っている。楽しみ。


6月16日(土) ドラムスとのデュオ

大泉学園・inFにて、坂田学(ds)さんと、初めてデュオで演奏。今さら言うまでもなく、彼は坂田明(as)さんの息子さんだ。なので、コンサートやレコーディングなど、これまで共演したことはたくさんあるのだが、サシで勝負するのは初めて。

お互いにやってみたい曲を持ち寄って演奏。彼の音はきれいで、分離度が高く、特にシンバルには倍音成分がたくさんある感じだった。ピアニッシモからフォルテまで音量の幅もあり、細かい音色のニュアンスもすばらしい。湖に小石を投げると波紋を描くように、音楽が広がる。いっしょに演奏していてとても楽しかった。

ドラムスとのデュオというと、違和感を抱く人もいるかもしれないが、コントラバス奏者がいるより、はるかに自由に演奏できる。無論、ドラマーやベーシストの質にもよるけれど、今回、思い切って学君に声をかけ、共に演奏できたことを、心からうれしく思う。



6月17日(日) 茶会記

四谷三丁目にある“喫茶茶会記”を初めて訪れる。午後、ここで、パール・アレキサンダー(b)さんが主催企画しているライヴ・シリーズ “にじり口”で、中村明一(尺八)さんと三人で演奏する。

地下鉄丸ノ内線・四谷三丁目駅で地上にあがってから、まず道を間違える。とほほと歩きながら、表通りからちょっと裏に入り、路地の奥に目をやると、古い一軒家。なるほど〜。

このパールさんの企画は、基本、即興演奏のみ、と思っていたのだけれど、中村さんの提案により、それぞれの曲もやることになったので、少しリハーサルをする。

ピアノはアップライトで、調律は長いお付き合いになる辻さんの手によるものだ。生音での演奏なので、三人の音量のバランスを一番に考える。ピアノの位置を壁から少し離してみたら、音がくっきりしたのだけれど、それでは音が大き過ぎて、二人とも顔を曇らせて演奏しづらいと言う。ので、結局、ピアノの位置を元へ戻す。

ちなみに、私の背中に中村さんとパールさんがいて、私からは二人がまったく見えないというセッティング。ピアノのボディは艶消しになっているので、前面の板を鏡にして二人を見ることもできない。思えば、最近、背中で音を聴く機会が増えている。

このライヴ・シリーズの中では、今回はお客様が一番大勢来てくださったらしいが、そんな満席状態で、間に休憩をはさんで2セット演奏。前半は組み合わせによる即興演奏、最後に全員で演奏。後半はその曲を作った人のソロから始まるというやり方で、それぞれの曲、計3曲を演奏。

尺八の倍音はすさまじい。中村さんは『「密息」で身体が変わる』(新潮選書)などの本も書いておられる方だが、それには、明治以降の日本人は呼吸は浅く速くなった、日本人本来の呼吸は吸う時も吐く時もお腹を膨らませていた、といったことが書かれている。ちなみに、その呼吸法により、瞬間的に大量の息が吸えるという。その際、身体は一切動かない・・・とかとか。

そんな方の息によって生まれ出る響きを生かすことを心に留めて、コントラバスとの距離も見極めながら、ピアノで色彩を施し、世界を創っていく。

後半、中村さんはソロで古典曲「鶴の巣ごもり」を解説付きで演奏された。鶴の親子の鳴き声などが、いかに細かい技法で表現されているかを、目の前で知る。

でも、後半の私自身の演奏はやや集中力に欠けてしまったように思っている。反省。

終演後、函館から来てくれた友人たちといっしょに、みんなで会食。四谷にある、かの東電会長の自宅の前(警備員常置)を通って、茶会記のマスターが紹介してくださったお店、その名も“四谷バル”を訪れる。

やはり民家を再生しているような小さなお店で、8人が向かい合わせに座ることができないことに、正直ちょっととまどう。若い女性が一人でやっているらしく、別の席にも団体客がいたから、彼女は対応に追われている。ともあれ、ここで、みんなでわいわい話をしながら楽しくアフターアワーズを過ごして帰宅する。



6月18日(月) 葵上

昨日に引き続き、まだ能楽を観たことがないという友人たちと、国立能楽堂で行われる『能楽鑑賞教室』に足を運ぶ。

最初に「能楽の楽しみ」ということで、演者による素人向けの解説がある。その際、一般人が実際に舞台に上がる体験をできることになっているのだが、運良く、私の友人も白い足袋をはいて舞台に登場。なんとなく照れくさそうにしている様子に、なんだか顔がほころぶ。謡をうならされていたけれど、あとで聞いたところによると、自分の声がものすごくよく響いて気持ちがいいらしい。それに客席がとても近く感じられるとのこと。

演目は狂言『柿山伏』(大蔵流)、能は『葵上』(観世流)。

能の笛方は女性だったので、少々驚く。聞けば、この鑑賞教室は積極的に若手や研究生を起用しているとのこと。なので、いわば玄人の眼や耳にはかなり物足りなく、耐えられない部分もあるのだろうなと思う。(ちなみに、これを主催している国立能楽堂内でも、鑑賞教室の企画や方向に関しては、様々な意見が交わされているらしい。)

今回は脇正面という席のチケットだったのだが、多分、生涯2度目くらいの体験だろうか。思いのほか、舞台さらに橋掛りにいる演者の様子が生々しく感じられることに少し驚く。が、はっきり言って、囃子方の音の伝わり方は良くない。

通常、私はほとんど中正面に座る。それは無論一番安い席ということもあるが、全体が立体的に見渡せるのと、囃子方の奏でる音の奥行きや響きが豊かに聞こえるためであることがよくわかった。

能楽の場合、鑑賞する席で、体験できる“質”が全然違うのではないかと思った。じっくりと演者を観るなら、正面か脇正面。全体の空気を感じたいならば、その音の響きも含めて中正面。今のところ、これが私の見解だ。

終演後、代々木ヴィレッジまで歩き、そこでイタリアンなランチ。あらかじめ予約しておいた、ちょっと贅沢なお食事タイム。

人の皮膚のすぐ下には薄い“膜”がある。コラーゲンは細胞ではない、でもとても大事。そんな話を聴きながら、夕刻、友人たちと別れ、コラーゲンのサプリメントを買って帰る。



6月19日(火) サムタイム

午後、松田美緒(vo)さんとのリハーサルを終えて、夜は吉祥寺・サムタイムで鬼怒無月(g)さんとデュオでライヴ。

6月の中旬だというのに、外は激しい台風。これはお客様は来ないだろうなあと思っていたら、案の定、閑古鳥が鳴く。それでも10数名の方たちのために、心をこめて演奏する。

ただ、聞いたところによると、2008年のリーマン・ショック以降、この吉祥寺の老舗のジャズのライヴ・ハウスも、集客が落ち込んでいるらしい。ひと昔前はいつも満員だったけれど・・・。吉祥寺は都内で住みたい街No.1だそうだけれど、そもそも、夜、人が歩いていない、という。だから、土日の昼のほうがお客様がたくさん来たりするらしい。

私が出版社に勤めながら夜はピアノ弾き生活を始めた頃は、世の中はちょうどバブルの真っ最中だった。なので、このたかだか50年余りの人生の後半で、天国と地獄を見ているような思いにとらわれる。正直、あの頃のほうがよっぽど稼いでいたかもしれない。

ともあれ、少しずつ、ゆっくりとしたペースで続けている鬼怒さんとのデュオだが、こうしたお店でも充分に、そしてもっと外に撃って出られると、お互いに確信した夜。

と、音楽はよかったと思うのだけれど、お店を一歩出てみれば、ものすごい雨と風。駅のプラットホームに立てば、電車は動いていない。30分くらいは待っただろうか、かなり遅れてやってきた電車になんとか乗って、なんとか駅にたどり着く。が、タクシーは長蛇の列。運良く、やはり遅れていた深夜バスが来たので、途中から歩いてもいいや、と思って乗りこむ。いやはや難儀な帰り道。



6月20日(水) 少しずつ

午後、“Inventio”のリハーサル。

正直、この方向でいいのだろうかという思いを若干胸に抱きつつも、少しずつ、少しずつ、何かが見えてきている感じ。

リハーサルが終わって、立岩潤三(per)さんが帰った後、残った辻康介(vo)さんと、かなり長い時間あれこれ話をする。彼は様々なワークショップに積極的に参加していて、その話を聴くのも楽しかった。



6月21日(木) 休止

夜のライヴの前に、喜多直毅(vn)さんと8月末からの北海道ツアーの打ち合わせをする。明日には東京を離れるという喜多さんの顔は、なんとなくすっきりしていた。

夜、渋谷・公園通りクラシックスにて、黒田京子トリオのライヴ。

今日はオリジナル曲を中心にプログラムを組む。喜多さんはたくさんのノイズを奏でる一方、歌うべきところはこよなく歌う。翠川敬基(vc)さんの奏でるピアニッシモは絶品だ。やはりこの幅が広く深い響きは、ジャズをやっていただけでは決して得られないものだとあらためて思う。二人に心から感謝する。


ともあれ、以前より告知していたように、このライヴをもって、黒田京子トリオはしばらく休止状態に入ります。喜多さんが長期静養に入るためです。どうかご理解いただきますよう。

また、私は喜多さんの健康を心から願い、祈る者の一人ですが、彼が復帰し、再びこのトリオのメンバーとして演奏してくださり、翠川さんも合意してくださったら、私はこのトリオを再開したいと思っています。その際はどうかまた応援してくださいますよう、お願い申し上げます。



6月23日(土) 楽し、哀し?

夜、渋谷・dressで、“Inventio”のライヴ。

辻康介(vo)さん曰く、
前半は「シュール・ザ・バラエティー」
後半は「La vita 人生あぱぱ」
をを、なかなか言い得て妙なネーミングのステージ。

その選曲は、同じく辻さん曰く、
「谷川俊太郎から三橋美智也、三波春夫から武満徹、そしてへ林光とめくるめくInventioの数々」
これだけ読むと、なんじゃこれは?状態だけれど、いや、まぎれもない事実。

ともあれ、この三人で演奏するのは、今日でまだ2回目だ。もう少しあれこれ曲を探して、あがいてみたい。そんな状態でも、だんだん芯が見えてきたような感じもしているし。結局、骨のある曲が、言葉が、残る。そうしたものを見逃さずに、三人の真ん中にしっかり据えて活動していきたいと思う。

なお、個人的には、この活動は、これまで『くりくら音楽会』などでテーマとしてとり上げてきた、言葉と音楽、あるいは語りと音楽、といった問題意識の延長線上にある。

この日、急遽足を運んでくれた大学時代の友人は、お店に来る前からだいぶ酔っ払っていたものの、前半笑って、後半泣いていた。このユニットでは振り幅が広く、懐が深い音楽を、これからも創っていきたい。



6月25日(月) ゲイトヘヴン(直訳)

午後、美容院に行って、髪の毛に新たなメッシュを入れる。貧乏なくせに、お値段、いと高し。

夜、「門仲天井ホールの今後を考える会」のミーティングに出席する。


既に告知されているように、東京・門前仲町にある“門仲天井ホール”は、持ち主である組合により、たいへん残念ながら(遺憾ながら)、今年9月末をもって閉鎖されることになりました。

それを受けて、この会の活動も終結します。

ただし、この会の有志によって、門天ホールという場所を失っても、この門天ホールが20年余りの間に築き、育ててきた文化の“志”を決して失ってはならないというコンセンサスのもと、新たな場所で、新たな活動を続けていけないか、ということが検討されています。

その活動資金などを集める目的で、とりいそぎ、9月7日(金)、森下文化センターにて、“もんてん引っ越しライヴ”を行うことが予定されています。

上記コンサートのことも含め、今後のことについては、追って、会の新しいwebなどでもきちんと報告される予定ですが、門天ホールを愛してくださっていたみなさま、よろしければ引き続き応援をよろしくお願いいたします。



6月26日(火) 作品

午後、黒田京子トリオの演奏を録音してCD作品として残さないかと言ってくださっている会社の方と打ち合わせ。以前より、トリオでCDを作ることを考えていた私だけれど、実際、喜多直毅(vn)さんが静養に入っていることもあり、現時点でどう考えるか、諸条件を含め、現在、思案検討中。

夕刻、整体に行く。左足を集中的に施術してもらう。AWG療法で幾分楽になったように感じる。



6月27日(水) 西洋の医者

ともあれ、左足、特に膝が痛いので、西洋の整形外科に行く。両足のレントゲン撮影で少し被曝したが、今のところ特に異常はないとの所見。水がたまっているとか、軟骨がすり減っているといったことはないらしい。

けれど、どう見ても、腫れている。ということで、想像通り、あとはお決まりの「しばらく様子を見ましょう」。で、根本治療にはまったくならない鎮痛剤と、その副作用に伴う胃薬と、湿布薬が処方された。

レントゲンを撮ってもらうことがほぼ目的だったので、やむを得なかったとはいえ、やはり、この医者、相変わらず全然親身になってくれない。私は3割負担だが、全体の治療費を考えると、あれでこれか?と卒倒しそうになる。医者は儲かるわけだ。



6月28日(木) 自然に

午後、太極拳の教室があったが、左足が痛くて、欠席。顔だけ出した際、衰えた筋肉を少しずつ鍛える方法を教わる。

夜、大泉学園・inFで“太黒山”のライヴ。

太田恵資(vn)さんと共演するのは久しぶり。最初のヴァイオリンの音を聴いて、とても明るく感じられたので、少し驚く。なんだかのびのびしている印象。山口とも(per)さんはまた新しい楽器を作ってきていて、それが、まあ、すばらしいことといったら。

このユニットは全部即興演奏で行うのだが、途中、ある調性や、ある一定のコード進行が現れたりすることもしばしばある。今日はダイアトニックに降りて行くコード進行になったところで、ミニ・リパートンの「ラヴィング・ユー」に自然になった。太田さんと私は、同じタイミングで、この曲に突入。そんなところもなんだか楽しいユニット。



6月30日(土) 服部良一

午後、渋谷Li-Poにて行われた、『第二回 聴き語り昭和歌謡史 服部良一を聴きなおす』にでかけた。

お店はそんなに広いわけではないが、超満員。煙草の煙がきつく感じられる。

これは、相倉久人さんと松村洋さんが、CDをかけながら話をするというシリーズ企画だ。今回は、その時々の服部良一の生涯やエピソードなどが差し挟まれながら、前半は主として戦前、後半は戦後の曲が流された。

正直に言えば、私には、“Inventio”のための曲集め的下心もあった。で、心の網にひっかかったのは2曲ほど。ちなみに、以前、地元のジャズ講座を担当し、日本のジャズの歴史を勉強した際に、もちろん、服部良一は避けて通れなかったわけで、音源としては特に新しいものはなかったかなという印象。

相倉さんと松村さんが中心になっておられるのだから、その時代や歴史的な視点から全体が語られるのは当然の成り行きとは思う。

それもまた面白かったけれど、もう少し音楽に即した表現の問題に鋭く切り込むような場面もあってよかったように思う。たとえば、厳密に言えば、作曲することと編曲することは、多分、態度が違うだろうと思われ。特に、言葉の問題など。って、もっとも、そんなことは自分でやりなさい、かな。

それにしても、服部良一はどうやって「ジャズ」の勉強をしたのだろう?特に戦前。お二人はおそらく楽譜からだろう、と言っていたけれど。1920年代のヨーロッパの作曲家がそうであったように?SP盤がそんなに潤沢に輸入されていたとも思えないし。メッテルに習ったことは有名だけれど。いずれにせよ、やはりおそるべし、服部良一。

ちなみに、このLi-Poというお店。かのdressがある路地の並びにある。今日は女性が一人で切り盛りしていたが、彼女とはずいぶん前に会ったことがあることが判明。びっくりした。でも、また気軽に寄れそうなお店が増えて、うれしい。






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