4月
4月1日(木) やっと

一日、嘘もつかず、やっと確定申告の準備を始める。



4月5日(木) 空飛ぶ車

テレビで、“空を飛べる車”のことが放映されていた。びっくり。映画で観たようなことが現実になりつつある“今”を、不思議な心持ちで思う。

さらに、遠隔操作できる高機能ビデオカメラも、もう目の前の現実になりつつあることも知る。・・・だめだ、時代についていけそうにない、かも。



4月6日(金) エアジン

横浜・エアジンで、黒田京子トリオのライヴ。初めて、全部、即興演奏でやってみた。

ところで、最近、過去に作ったトリオのCDの注文があった。誰か、何かを、どこかに書いてくださったのかしら?なぞ。ちなみに、最初のCD『 Do you like B ? 』、手元に残っている枚数は8枚。



4月7日(土) 注文の多いおばさん

今年のゴールデン・ウィークは、神保町シアターが企画している『無声映画』の音楽をを引き受けることにした。その企画の中心にいるのは、無声映画の伴奏を専門に活動している柳下美恵(pf)さんで、夕方、彼女と会って、ピアノの調律やリハーサルのことなど、打ち合わせをする。

この企画は、今年のお正月に初めてやってみたところ、たいへん評判がよく、今回はその第二弾だそうだ。先回はアップライト・ピアノをレンタルして行ったそうだが、その調律はどんどん狂っていったという話だったので、期間中になんとか調律を入れて欲しいとお願いする。我ながら、注文の多いおばさんだ。

夜は代々木・ナルで若い女性歌手たちの伴奏をする。今、若い人たちは、共演者の同意を得ずに、勝手に写真を撮る。さらに、録音もする。ともすると、いつのまにか知らないうちに、blogやYouTubeにアップしていたりする。ので、撮影や録音する時は、ひとことお願いね、と口うるさいおばさんと化した私。



4月8日(日) 桜満開

今年の桜の開花は少し遅く、現在、満開。花びらが風に舞う。

そんな季節になって、大槌町から国分寺のほうへ避難して来ている友人を誘って、イタリアンでランチをする。彼女は津波ですべてを失った方だ。

私は先に行った石巻で感じたことを話し、彼女はやはりお彼岸に岩手に戻った時の話しを聞かせてくれた。津波に遭った地域は、とりあえずガレキはどこかに積まれている状態だけれど、結局、復興は全然進んでいない、という現実の話になる。

また、現在、山形・アルケッチャーノの奥田シェフの催し(?)に、海外国内問わず同行しているらしい、やはり大槌出身の尺八奏者・大久保正人さんとも、彼女は会って話をしたそうで、いつか私に紹介したいとおっしゃる。今年は尺八づいているのかしら、私?



4月9日(月) 完全即興

夜、大泉学園・inFで、喜多直毅(vn)さんリーダーの即興演奏セッションで演奏。パール・アレキサンダー(b)さんとは初めて演奏する。

時に、即興演奏は、自身の模倣、批判精神のない自己の垂れ流し、音楽的にはクリシェ、マンネリになっていく落とし穴があると思っている。私はいつもそうしたことに気をつけている・・・つもり。でも、「ああ、また同じことをやっている」と演奏しながら思うこともある。そのたびに、修業が足りないと反省する。



4月10日(火) ロシアの唄

夜、西荻窪・アケタの店で、通称タンコさんのロシアの唄のライヴで演奏。



4月11日(水) 白楽

夜、白楽にあるビッチェズ・ブリューというお店で、坂田明(as)トリオで演奏。

白楽という駅に初めて降りた。学生の町らしいが、まだ古いお店がたくさん残っている感じだった。

雨がけっこう降っている中、一組の親子が来てくださっていた。男子中学生はブラバンでサックスをやっているとのこと。坂田さんの音を、目の前、至近距離(50cm)で聴いた体験は、彼の生涯の中できっと強烈なものになるに違いない。そんな風に思うと、自分が負っている社会的責任のようなものを少し考える。音は、放たれた瞬間、私のものではなく、あなたのもの、ではあるけれど。



4月14日(土) 祝宴

大学の一つ下の後輩に金春流の能楽師になった男性がいる。去年、彼は重要無形文化財に認定され、それを祝う宴が上野・精養軒で行われた。

私は以前から、お祝いに演奏をして欲しいと頼まれていたので、祝宴にふさわしい雰囲気のジャズの曲を演奏した。ちなみに、精養軒、ピアノを貸してくれないらしく、彼はわざわざ外からレンタルしてくれたそうだ。なんだか申し訳ない。

「こんなことは初めて言うのですが」と前置きしたうえで、彼は私のことを励みにしてきたと、そのスピーチの中で話した。正直、びっくりした。彼はいわゆる家元ではない。その分苦労がたくさんあったことは言うまでもないが、なんでも、別に音大を出たわけでもなんでもない私が、音楽をなりわいにしていることが、「そういう生き方もできるんだ」と彼に思わせたらしい。

以前にもここに書いたことがあるが、大学の新入生歓迎の際に、「能楽研究会(サークル)に来てみませんか?」と彼を勧誘したのは私で、彼が能楽師の道を志すきっかけになった、いわば生みの親みたいな役割を、どうやら私は果たしてしまったようだ。

なんだか彼にあやまったほうがいいのか、うれしく思ったほうがいいのか・・・自分がジャズや即興演奏を仕事にしているのと同じように、やや複雑な心境ではあるのだけれど、ま、ともかく、めでたい、のだ!

そして、考えた。音楽劇というか、新作能というか、小さなオペラというか、まだ体力があるうちに、彼と何か新しい舞台を創ってみたい、と。このこと、まじめに考えてみようと決心する。



4月15日(日) 林光さん

夜、辻康介(vo)さんにも声をかけて、オペラシアターこんにゃく座の『オペラとソングの日々 こんにゃく座のうたたち』を、渋谷・ラストワルツへ聴きに行く。

前半は萩京子さんのソング、後半に林光さんのソングが集められたライヴで、すべての曲はこんにゃく座の役者さんたちによって歌われた。

林さんは今年1月5日に亡くなられたが、長い間、こんにゃく座の音楽監督を務めてこられた。『森は生きている』は、小学生の時、演劇のような授業でやったような記憶があるから、ずいぶん小さい時から林さんの音楽には親しんでいたことになる。

萩さんもまた長年こんにゃく座にかかわっておられ、1997年からは音楽監督、2004年には代表に就任されている。

実は、萩さんとは四半世紀前頃に会っている。当時、オルトというユニットをやっていた私は、ブレヒト・ソングをやっていた関係で、歌手を探していた。そのうちの一人に、当時こんにゃく座で活動し、後に時々自動に入った女性をスカウトして、新宿・ピットインで歌ってもらったりしていた。ちなみに、もう一人は、その後長い付き合いになった、当時のブレヒトの会(故千田是也主宰)で主役を張っていた女性だ。(正確に言うと、いっしょにやった女性歌手はもう1人いるが。)終演後、萩さんとはそんなちょっと懐かしい話もしたりした。

歌については、林光さんが作曲されたソングの中に、深く印象に残るものがいくつかあったように思う。その中に「サザンクロスの彼方できこえた父が息子に与える歌」(詩:廣渡常敏)という歌があり、なんだかえらく気に入ってしまったので、その場で譜面を購入。辻さんにはすぐにコピーしてもらって、次回のライヴでやってみようという話になる。そんなことがあっただけでも収穫。



4月16日(月) トリオ

大泉学園・inFで、黒田京子トリオのライヴ。今日はすべて曲を演奏。やはりなんとかこの3人での録音を残しておきたい。



4月17日(火) ポロック展

東京国立近代美術館で開かれている『ジャクソン・ポロック展』に行く。

最初の自画像、そして若い時の作品たちは、その時もう既に何かを見てしまった人間の絵だったように思う。最初の部屋でだいぶ時間を費やした。

正直、私にとって、ポロックの作品は何か感動するというようなものではなく、このようにしか生きられなかった人間の悲鳴や愉悦を感じさせるものだった。実際、彼は若い頃から飲酒を始め、アルコール依存症になり、精神科にも通い・・・といった人生を送った人だが。

さらに、その手法は、いわば即興的であり、場内で流されていたポロック自身が絵を描いている映像は、やはり興味深いものだった。

誰にでも描けるような方法であり作品に見えても、誰ひとりとして描くことはできない世界があった。語弊があるが、「でたらめ」というのは、そう簡単にできるものではない。もちろんポロックがでたらめだなどということを言っているのではない。あのように描くことはできない、ということを言っているだけだ。

一番最後には、ポロックのアトリエを模した部屋と、彼の家に飾ってあったという十字架のように見える流木が飾られていた。

なぜか、最初から最後まで、時々共演している喜多直毅(vn)さんを想起させるものがあり、帰宅してから彼にポロック展に行ってみることを薦めるメールを送る。まったくよけいなお世話だけれど。



4月23日(月) 準備中

今週末から神保町シアターで始まる無声映画特集で担当する映画を観始める。その準備をしていて、届いたDVDの中に、拙宅のデッキでは観ることができないものが半分あることが判明。焦った。あわてて劇場の担当者に電話したらば、明日、デッキを拙宅まで持って来てくれると言う。申し訳ない。有難い。なんだかドタバタしていていけない。



4月28日(土) 無声映画・その1

今日から6日までのゴールデン・ウィーク中、神保町シアターで『巨匠たちのサイレント映画時代・2』という特別興行が組まれている。期間中、一日に4本の映画が上映され、いずれもピアノ演奏による音楽が付いている。さらに、弁士も入っている回もあり、賑やかなイベントになっている。

企画の中心にいる、無声映画の音楽専門のベテラン、柳下美恵さんを含め、ピアニストは全部で5人。どの映画を担当するかは、柳下さんが決めている。私は計4本の映画、うち同じ映画を2回担当するということで、合計6回、ここで演奏する。

というわけで、同じ映画を、別の演奏者で観る、ということができるのも、この企画の楽しみ方の一つだろう。

ちなみに、ピアニストのプロフィールを読むかぎり、私以外の方たちは全員立派な音楽大学を出ておられる様子。パリで無声映画の音楽を専門に勉強した人もいるようだ。しかも即興演奏でやるらしい。など、他の奏者にも興味がわいてくる。

また、お正月の時は、アップライト・ピアノをレンタルしたそうだが、今回は劇場が購入して、常設することにしたそうだ。

無声映画は市民会館や公民館といった公共施設やホールで上映されることが多く、その際に音楽や弁士が付いている場合もある。

が、“映画館”で、しかもピアノを常設しているところは、多分、都内に、いや日本にはまだない。(もしあったとしても、非常に数が少ないと思われる。)

ヨーロッパなどにはそうした映画館がたくさんあるそうだが、これは映画館としては快挙と言ってもいいだろう。敢えてゲスな言い方をするが、今後、この神保町シアターの“売り”になることは間違いない。無声映画自体の文化的及び社会的意義や意味ということはもとより、たいへん意欲的な良い企画だと思う。これからも応援したいと心底思うし、この劇場が多くの人たちが足を運ぶことによって、さらに育っていくことを願ってやまない。

・・・・・

今日は初日で、私は一番最初の『麗人』(島津保次郎監督/1930年・昭和5年)、ひと枠おいて、もう1本、『限りなき舗道』(成瀬巳喜男監督/1934年・昭和9年)の音楽を担当。

今回、『麗人』と『不壊の白珠』には主題歌があるということで、ボスの柳下さんからは、それを必ず使うようにとお達しがあった。

それで、『麗人』は、冒頭、歌うことにした。よくわからないが、お風呂に入ってつらつら考えいるうちに、これは真っ暗闇の中で歌をうたおう、という考えが降りてきたのだった。そして、映画の終わりも、やはり真っ暗闇の中でメロディーを口ずさみながら演奏しようと思った。

ところが、この劇場、映画と照明がコンピュータで(?)プログラミングされているらしく、映画の最初と最後に、私が望んだような真っ暗闇は作ることができない、と言われる。・・・・・えーん。仕方ないので、真っ暗闇はあきらめざるを得なくなった。何が最新式なのかはよくわからないけれど、同じようなことは、ホール公演でもよくある。会場の照明くらい、人力でできないものかしら・・・。えーん。

また、私が最初に歌う、と言ったら、実は、当初、関係者から反対された。「それは、ちょっと・・・」と。が、やってしまった私。どうしても聞こえてきてしまったのだから、仕方ない。私はやりたいようにやってしまった。何かその映画の世界観、空気を作りたかったのだと思う。

ということで、実際、歌ってしまったわけだが、マイク・スタンドのアームが垂直だったため、ピアノを弾きながら歌ったりすることができなかった。ので、手にマイクを握って歌ったものだから、冒頭の出だし、思ったように演奏にスムーズに入れなかった。ああ、格好悪いことをしてしもうた。

ともあれ、そう考えてみると、やはり、私はいつでも“空間”を意識しているらしい。映画を観るということ自体、既に異空間と、現実に流れている時間とは異なる世界に、自分の身をゆだねることにほかならないが、こうした意識は1980年代後半にオルトをやっていた頃から変わっていないと思う。

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『麗人』については、各シーンに添ってかなり意識的にベタに、割合に普通な感じで音楽を付けてみた。会話(字幕による)の多い部分や緊迫した場面では、わざと演奏しない箇所、要するに“無音”状態になるところも作った。流れによっては、カットアウトしたりもした。なにせ約2時間の映画なので、だいたい全部演奏していたら疲れてしまう。

映画には、超金持ちの建設会社の社長と超貧乏な農家が出てくる。建設会社は農地を開拓してゴルフ場にすることを目論む。農家のおじいさんは娘を売ることを考え、首を吊って死んでしまう。最後は、建設会社の社長は政治家(嫁さんの父親)に賄賂を送ったとして警察に捕まりかけてピストル自殺してしまうのだが、そんな「格差社会」の問題も描き込まれている。

この映画が作られたのは1930年。その前年には世界大恐慌が起きている。

日本経済は第一次世界大戦の好況から一転、不況となり、1923年に起きた関東大震災の処理のための震災手形が膨大な不良債権と化していた。1927年には昭和金融恐慌、1929年には世界大恐慌の影響を受けて昭和農業恐慌が起きる。また、株が暴落し、都市部では多くの会社が倒産して、就職できない者や失業者があふれた。(小津安二郎監督作品『大学は出たけれど』(1929年)は、今回の上映プログラムに入っている。)

ちなみに、1933年には「昭和三陸地震」が岩手県釜石沖で起きて、津波が発生。1935年くらいまで冷害や凶作が続き、農村では娘を売ったり、欠食児童が増えたり、生活ができなくなって大陸へ渡った人も多かったという。

そういえば、映画の中には、廃娼を訴える、いわばウーマンリブ(旧い言い方)の女性も出てきたっけ。結局、彼女は主人公の女性の兄貴のお嫁さんになって、農家へ嫁いだのだけれど。

なんだかまるで現代を見ているようだ。社会派の映画や漫画が好きな私には、今回担当した映画の中では、この『麗人』が一番好きな映画だったかもしれない。

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そのストーリーをひと言で言えば、望まない男の子を身籠った主人公の女性の生涯、ということになるが、彼女はいわば愛人として生きていて、映画の中には、華やかな上流階級の人たちが集うダンス・パーティー(音楽は明らかにジャズ・バンドによる)や、ゴルフ、競馬など、おそらく当時はもっともヒップだった金持ちの道楽も描かれている。

その男の子を演じているのは、当時5歳くらいだった高峰秀子だという。これがめちゃくちゃかわいい。

それにしても、1回きりのセックスで身籠ってしまい、そのことによって翻弄される人生を送る女性の、いわばちょっと投げやりな生き方には、多少の同情はできても、あまり共感はできない。

というか、現代において、たとえばテレビ・ドラマ『鈴木先生』。その最終回、“できちゃった恋人”のことで、いわば吊るしあげを食っている鈴木先生を真ん中に、教室で中学生が話しあっていた内容は、相当生々しかった。性問題についてはやはりだいぶ時代が違う、というのが正直なところだろうか。

「知ってしまえば それまでよ 知らないうちが 花なのよ」

これは3番まである主題歌の、一番最後に出てくるリフレインの部分の歌詞だ。なんだかすごい歌詞だが、作詞はサトウハチロー。作曲は堀内敬三。この歌は以前から澄淳子(vo)さんが歌っていて、私も演奏したことが何度もあったので、よく憶えていた。

2番の歌詞の中には「女は弱くて 強きもの」というところがあって、私はほんとうは映画の最後に歌いたかった。この歌詞が、この映画のすべてのように思えたからだ。でも、果たせず。残念。

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長丁場の演奏を終えて、休憩。お茶を飲んでいたら、「青葉賞(競馬)」の結果をしらせるメールが届く。友人が共同馬主をしている馬が一等賞を取ったという。ををを、ダービーの出場権を獲得したぞ!めでたい!他人事ながら、妙に胸がわくわくするではないの。

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夕方5時からは『限りなき舗道』で演奏。

これもまた当時(昭和9年)の銀座の街並やカフェなどが出て来て楽しい。それに成瀬監督らしく、絵描きを志している男性を、ユーモアたっぷりに描いていて、これもまた楽しい。

銀座のカフェで働いている主人公の女性(当時の呼び名では職業婦人)は交通事故に遭ったために、恋人との間に行き違いが生じる。かくて、彼女はお金持ちの家(先祖は子爵?)に嫁いだけれど、家名や格式を重んじる母親や小姑に「この女給上がりが」といじめられる。旦那様に対して、あなたはいい人だけれど弱いわと言って、彼女はその封建的な家を出てしまう。(いやあ、『麗人』に続いて、まったくもって強い女性の話だ。)その後、やけっぱちになった旦那様は女性とドライヴ中に事故を起こして、結局死んでしまう。その後、彼女は再びカフェで働く。最後に、バスに乗っている元恋人の姿を見かける、というところで、ジ・エンド。

この映画にも、私はまったく音を奏でない時間を作った。とはいえ、やりながらちょっと不自然になるかなと感じたところは、弾いていたかもしれない。(もはや憶えていない・・・。)

また、音楽的には、『麗人』よりも、抽象的な音使いをしたつもりだ。特に、主人公の女性の心情や、封建制にかかわるシーンでは、そうした演奏をかなり意識して行った。

・・・・・

終演後、友人からは「無音にするのは、伝統的な無声映画の音楽の付け方ではない」と指摘された。恥ずかしさをこらえて言えば、私は無声映画の音楽は最初から最後まで演奏するものとは思っていなかった。

ちなみに、関係者からは「あそこで音を無くしてしまうのは、いかがなものか?」と批判もされた。お客様の中にも、少なからず違和感を抱いた方、私の音楽に不満を持たれた方もいたと思う。

私が初めて無声映画にかかわったのは、柳下さんと同じく、1994年のことで、年末に有楽町・マリオンで行われた大きなイベントで、だった。その時のリーダーは大友良英さんで、その翌年にも大友さんのプロジェクトに加わって演奏した。その際に、弁士・澤登翠(さわと みどり)さんにも出会っている。

(まったくの余談。
その有楽町・マリオンからの夜遅い帰り道。シンセサイザーを運ぶのに、初心者マークを付けて車を運転していた私は、片道4〜5車線ある一方通行の道を逆走したのよ事件。
その時、。運良く?あるいは運悪く?、目の前からパトカー。「え?なぜ、目の前から車が来るの?」
そのパトカーは私に何か合図を出し、拡声器で呼びかけているではないの。
・・・おまわりさんに注意されるまで、まったく気づいていなかった、都心の道をを運転するのはほとんど初めてだった私。真っ青。茫然自失。
夜中近くで、車が少なくてまだよかった。おまわりさんに誘導され、これまた慣れないバックで運転する私。
結局、初心者マークと助手席に広げていた地図で、やさしいおまわりさんは許してくれたのだった・・・。免許の減点も罰金もなし。でへへ。
なので、最初に無声映画で演奏した時のことは、この完璧なる逆走と共に、鮮明に記憶に残っているのだった。)

さらに、ルミエール生誕100年ということで、アテネフランセで行われた、日本の風景が映されている最古のフィルム(確か1900年前後)と言われているものにも音楽を奏でたことがある。

その後、“杜こなて”さんというご夫婦の作曲家の企画でも、キートンや小津作品などを、ジャズのトリオの編成で手がけた。なぜか小津作品には、セロニアス・モンクの曲がぴったり合っていたことを思い出す。多分、モンクが作った曲には文学的な抒情性があまりなく、即物的な側面があるからだろうと思う。そのタイトルの付け方は、とても文学的、というより哲学的だとは思っているけれど。

2004年には、ドイツ文化センターに依頼されて、『怪奇な物語』(リヒャルト・オスワルド監督/1919年)を、平野公崇(sax)さんにもお願いして演奏した。全体の流れや映画の構成はメモ書き程度にしたような記憶はあるが、基本はほとんど即興演奏だったと思う。その場面によって、平野さんが選択した楽器とその音色は、言うまでもなく極上の味わいだった。

2006年には喜劇映画研究会の依頼で、太田惠資(vn)さんと、ほぼ即興演奏で何度か音楽を付けた。自分の耳を患った直後て、多くの仕事をキャンセルした中で、この仕事はやったので、よく憶えている。

また、今年1月には門天ホール存続のためのコンサートで、18年ぶりに『月世界旅行』(ジョルジュ・メリエス監督/1902年)を、片岡一郎(弁士)さんとやった。

ざっと、こんな風に無声映画の音楽の仕事をしてきたのだが、大友さんとも、杜こなてさんとも、平野さんとやった時も、映画が始まって終わるまで、ずーっと演奏したという経験は、思い出す限り、私にはない。ので、そもそも、無声映画に対しても、現代の映画やテレビ・ドラマと同じような感覚で、音楽を考えていたのだと思う。

また、私の場合、映画の始まりと終わりが、私が考えた音楽の始まりと終わりと一致しないことが多い。つまり、映画が始まる前に音が鳴っていたり、終わってもまだ演奏していたり、ということをやっている。

というようなことがあって、以降、この企画の期間中、無声映画に音楽を付ける、ということの意味のようなものを、私は考えるようになる。

・・・・・

なお、私の方法は、まず1度通して映画を観て、内容を把握する。監督の思いや、時代背景を少し探る。その後、もう1度、今度はストーリーやセリフ(字幕)をメモをとりながら観る。次に、そのメモを元に、PCで台本を作る。3回目に早回ししながら、頭の中で音楽を奏でて、その台本にメモを書く。必要であれば、ごく簡単にピアノでイメージを弾いてみるが、実際にピアノを弾くことはまずほとんどない。なので、譜面台にはおたまじゃくしは泳いでいない。ざっとこんな感じだろうか。

こうした方法は、ピアニスト全員、それぞれまったく異なるだろう。聞けば、譜面台に何も置かず、即興演奏をしている人もいるらしい。一方、おそらくきちんと秒数をはかって、すべてを五線譜に書いている人もいるようだ。面白いなあ。

・・・・・

終演後、まことに僭越ながら、劇場の支配人に、始まりの時の場内アナウンスをやめて、その都度、誰かが客席に向かって話すようにしてはどうかしら?と提案する。

実はそのアナウンスから照明が消えて映画が始まる、というのも既にプログラミングされていたらしく(?)、私のような始まり方をしたい者には、非常に不都合だったのだ。なので、ちょっと我儘を言ってしまった。

それに、「いっしょに創ろうよ」的気分になったこともある。事実、この劇場の若いスタッフのみなさんは、いっしょに仕事をしていて、とても気持ちがいい。この劇場ならではの手作り感も出て、結果、よかったのでないかしらと思っているのだけれど、さてどうだったでしょう?

こんな意見を言ってしまう私には、この企画が単なる映画上映ではないという意識が強くあったのだと思う。こちらは懸命に演奏しているので、コンサートという思いもあったのだろう。上映が終わった後に、そのまま席を立つ人がいたり、拍手がもらえないという状況に、実はだいぶとまどった。なんだかちょっとむなしかった。無論、私の演奏が大いに気に入らず、憤懣やるかたない思いを抱いた人もいただろう。(私はそれほど傲慢ではないわ。)ともあれ、場の作り方がちょっとおかしくないかしら?と思ったのだ。

ので、初日はまるでうまく対処できなかったが、今後の対策として、上映前に、「映画が終わった後に少しだけ話をします」と前フリをしておいて、終了後に話をすることにした。

この辺りのことは、前回は人それぞれにまかせていたらしい。柳下さんは毎回必ず話しをされていたそうだけれど、全然しゃべらない奏者もいたという。無論、たとえばクラシック音楽のコンサートでおしゃべりをする人はほとんどいないし、余計な話などしないほうがいいと考える人もいるだろう。それは人それぞれでいいと思っている。

・・・・・

さすがに、一日、2本はくたびれた。スクリーンに近いところにピアノが置いてあるので、首を少し持ち上げなくてはならず、譜面灯が点いているとはいえ、薄明かりでは台本が読みにくいので、目をこらしてしまう。という状態で、終わってから少し頭が痛くなってくる。って、霊・・・か?

帰りはラドリオに寄って、ウインナコーヒーを飲んで帰る。



4月29日(日) 鬼怒さんと

夜、渋谷・ドレスで、鬼怒無月(g)さんとデュオで演奏。ミシェル・ルグラン、ジョージ・ガーシュインの曲などを持って行く。これまでのライヴの中では、良くも悪くも、もっともジャズ風味な結果になったかもしれない。ちなみに、次回は久しぶりに、なんと、吉祥寺・サムタイムでのライヴです。



4月30日(月・祝) 無声映画・その2

今日も神保町へ。正午から『限りなき舗道』で演奏。

一昨日はやらなかったが、冒頭で「私の青空」(1928年 二村定一)を歌う。マイクを使うと自由にならないので、生声で歌いながら、ピアノは歌とは関係ない別のことを演奏しているという音楽の状態。

実は、これ、本番直前に思いついて決めた。映画の内容(封建的な日本の家)とアンビバレンツな音楽の感じ(アメリカの明るいファミリー)が、作品に奥行きを作るように、私には感じられたのだった。

この「私の青空」は、一番最後にも、ピアノ演奏にコラージュするように弾いてみた。

(参考までに:たとえば、「私の青空」

また、前回ちょっと不自然だったかもしれないと思われたところを、若干修正。かつ、同じことをやりたくないという、余計な即興魂がわきあがって、特にユーモアのあるシーンでは、コード進行など、細かいところを大幅に変えて、少し遊ぶことにする。

・・・・・

自分の回が終わった後、次に演奏する天池穂高(pf)さんのリハーサルを見学させていただく。彼が担当したのは小津安二郎の映画『大学は出たけれど』と『落第はしたけれど』で、小津らしい、温かさとユーモアにあふれた作品だ。

この映画に、天池さんは丁寧かつ端正に音楽を考え抜いて付けておられた。譜面台には音符が書き込まれた五線譜が置かれている。立派な姿勢だ。私のような人間はひたすら感心してしまう。

いろいろな人がいていい。多様であることが、文化を豊かに育てる、と私は思う。

それにしても、客観的に映画を観ると、観ている人間にもっとも強く作用する音楽の要素は、テンポ感とハーモニーだとしみじみと実感。それだけで、人の心は揺れ動き、心拍数が変化する。気をつけよう。

かくて、今月後半は、無声映画と格闘の日々と相成り候。

帰りは新宿に出て、買い物をして帰宅する。




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