1月
1月1日(木)  初春

本年もどうぞよろしくお願いいたします。

この『洗面器』、昨年9月末にパリに行った後から、日々があれよあれよという間に流れ、まったく書くことができず、ここにアップできていません。ごめんなさい。PCがデスクトップなので、仕事で地方などに出てしまうと、私の生活はまったくパソコンから離れてしまうため、なにやら毎週のように旅に出ていると、こんな有り様になってしまうようです。

おまけに去年のクリスマス頃からずっとお腹を壊して、久々に三日間も寝込むような事態に陥り。なんとか元旦にはお餅を食べられるくらいまでにはなりましたが、相変わらずトイレは友だち状態のお正月を過ごしました。そんなこんなで、年賀状を書くのは年明けになり、これまででもっとも多い200枚を超えるご挨拶となりました。すべて手書きというアナログさ。まったくやれやれでございまする。

まずは、ぼちぼち書きましょか。ということで、今年もよろしくお付き合いのほどを。



1月5日(月)  團十郎復活

国立劇場へ歌舞伎を観に行く。松の内の間は、劇場の入口で“獅子舞”が行われている。お客様たちがおひねりを獅子にあげている光景を眺めながら、なんとなくお正月な気分。

最初は歌舞伎十八番の一つ『象引』。これは市川團十郎家のお家芸、“荒事”と呼ばれるものの一つで、約三百年ぶりに復活したものだそうだ。話の内容自体はさしたるものではないけれど、江戸歌舞伎の醍醐味を味わう。病気して復活した、昭和21年生まれの團十郎の気迫はすさまじく、思いっきり華やかだった。すばらしい。

次は『十返りの松』。「十返り」は「松」の別称で、「百年に一度、千年に十度の花を咲かせる」という伝説に由来している。三代に渡る成駒屋一門が揃った、筝と三味線による音楽で、舞踊が披露される。日本舞踊の身のこなし方、手の所作の美しさに惚れ惚れする。

最後は『○競艶仲町(○はゴンベンに浦の右側の文字)/いきじ くらべ はでな なかちょう』。四世鶴屋南北の作で、この話は1802年、今から約二百年前の中村座の初春興行で初演されて以来、台本が活字化されたことがなかったそうで、今回の公演は復活上演という試み。坂東三津五郎、中村橋之助、中村福助などが出演。橋之助の演技は歯切れがあって気風もよく、ちょっと見直した。

午前11時には劇場に行き、間にお昼のお弁当を食べたりする時間は少々あれど、午後4時頃までの公演だから、ほんとに一日遊ぶ感じだ。年末に軽い高血圧症と診断されて、ちょっと気分が晴れない感じの母も、團十郎にはおおいに励まされた様子で、満面の笑み。また、ひどい言い方になるが、ああいう無闇に派手なものは気分がスカッとする。

それで、ちょっと元気になった母と、半蔵門から靖国神社まで歩く。かくて、生まれて初めて靖国を参拝した。仕事始めのサラリーマンがたくさんお参りに来ていた。夕飯は神保町まで出て、中華料理を食して帰宅。味はまずまずなのだが、どうも従業員の対応が気に入らない。

「お友だちに便利よ〜と言われたから買ってみたの」と、ちょっとうれしそうにシルバーパスを出す母に微笑む。これからもこのシルバーパスをたくさん活用できますように。



1月8日(木)  久々に

午後、太極拳のさわやか教室へ。今日から新しく練功十八法の後段を教えてもらう。正月に休みまくった身体にはかなりきつい。ヒーヒーヒーヒー。

夜、何年ぶりかの友人に会う。彼女は日本を代表するシェリー酒の専門家。年に5〜6回はスペインに行っているので、なかなか会うことができない。まっすぐに楽しく仕事をしている様子で、互いにいい仕事をしましょ、と話す。



1月9日(金)  初仕事

夜、目黒JayJ'sCafeで、金丸正城(vo)さん、佐藤有介(b)さんと、今年初めての仕事。



1月10日(土)  時代は変わる

久しぶりに“トラ”と呼ばれる仕事をする。なんでもピアニストの方がダブルブッキングをされたとかで、なんと多分十何年ぶりに、果たして私がここで演奏してもいいのでしょうか?的な、銀座・スイングで仕事。ヴォーカルの人もドラムスの人も知らなかったが、佐藤芳明(accordion)さんや西嶋徹(b)さんがいるということもあって、引き受けてみることにした。ちなみに、ここは“出会い系ジャズクラブ”と言われているらしい。お店の人がブッキングしていて、こうした初めましてはよくあることらしい。

初めましてのヴォーカリスト・北浪良佳さんは音大でクラシック音楽の声楽を学んだ後、伊藤君子(vo)さんに師事したことがあるそうだ。声量もあり、ミニスカートのいでたちで太腿を露出した、ちょいとイケイケムードの彼女のステージはなかなか楽しい。

で、私が驚いたのは、こういうお店で、彼女が選曲したものは、いわゆるジャスのスタンダードも少しはあったものの、スティービー・ワンダーなどのポピュラー曲なども。ここまでは普通。だが、それ以外に、日本語の曲をかなり歌ったことだ。

「Moon River」を日本語で歌ったので、これはあなたが自分で付けた歌詞?と尋ねたら、教科書に載っていた歌詞だという。誰が書いたものかを答えられないのはヴォーカリストとしてはまずいんじゃないかとも思ったけれど、最近大人になった私は言わない。って、書いてるじゃないの(^^;)。他に、武満徹の作品もいくつか。(おそらく武満の作品はクラシック音楽のコンサートで演奏されるよりも、歌の作品がこうしたライヴハウスなどで演奏されることのほうがはるかに多いだろう。ということを、天国の武満は予想していただろか?)さらに、童謡をアレンジしたものもあった。

私は'80年代後半頃に澄淳子(vo)さん、'90年代後半頃に酒井俊(vo)さんという、いわゆるジャズというフィールドに足を置いていたヴォーカリストと出会っている。この方たちはそれぞれのやり方で、自分が歌う言葉について真摯に向き合い、迷い、悩み、さらに、日本のジャズクラブという状況の中で、日本語で歌うということで闘ってきたようなところがあると思っている。そして、その時代を共に生きたという実感が私にはある。

そういう経験を持つ私にとって、何の疑問も苦労もなく、こうした銀座の老舗のジャズクラブで日本語の歌をうたう彼女の存在が、なんとも不思議な感覚で受け止められたのだった。

これは、アメリカに渡ってジャズを勉強した、私より二回り上の渡辺貞夫(sax)さんが下の世代に感じたこと。さらに、生のジョン・コルトレーンの演奏をコンサートで聴いて衝撃を受けたり、LPの溝がすり減るまでコピーしたような、ちょうど貞夫さんの一回り下になる坂田明(sax)さんが下の世代に感じたこと。あるいは、坂本龍一が、矢野顕子はジャズもフォークもロックもボサノヴァも同じように聴いている、と驚嘆したという感覚。今晩私が体験した感覚は、おそらくそうしたものに近い。

世代論を言っても何の意味もないことはわかっていても、いつのまにやらどこのお店に行ってもこの国のBGMがジャズになっている現代に唖然としても仕方ないとはわかっていても、この感覚を抱いた自分はつい流れた時間のことを思ってしまう。

逆に言えば、このお店の方針(会員制をとっているらしい)はよくわからないけれど、それを許しているお店があり、それを普通に楽しんでいる聴衆がいるというのも“現実”だということだ。ということを知っただけでも、おおいに社会勉強になったように思う。いつもと異なる場や状況で演奏することは、音楽の内容というよりも、自分がやっていることを社会的な目で見ることができるという点において、いつだって何かを教えてくれる。

それにしても、インスト30分プラス歌が入って50分、合計たっぷり80分が1ステージの長さで、これを2回。全体にPAの音量があり過ぎるのではないかと感じている耳が、その限界を感じ始めたのは最後の20分前くらい。よっぽど耳栓をしようかと思ったが、とにかくそこでふっと集中力が切れてしまった。ごめんなさーい。



追記

ここのヤマハのピアノには、ピアノの部品のネジ(キャプスタン)にR-bitという薄い部品が取り付けられていて、そのことを、終演後、お店の方から聞いた。
なんとなくあまり軽薄な音色や響きには感じられなかったのは、この部品のおかげなのかとちょっと納得した。
このR-bitは、キャプスタンの頭にこれを装着すると、ヤマハでもカワイでもスタインウェイのようなタッチになるというものだ。
調律師さんというのはほんとにいろんなことを考えるものだ。
ただ、今晩の時点では調律がイマイチ状態で、さらにアフタータッチにバラつきがあると感じたので、そんなことをお店の人に告げて帰途についた。

興味のある方は、以下のサイトへ
http://soundscape-net.com/?mode=f3



1月11日(日)  マキさんと

去年もいろんな人と出会ったが、その中でもカルメン・マキ(vo)さんとの出会いは、今の私には大切なものになっているように思う。これまでも、いわば非常に“濃い”ヴォーカリストと付き合ってきている気がするのだけれど(某人はあなたが呼び寄せているんじゃないの?とも^^;)、何かに躓いたり、ひっかかったり、闘っている人のほうが、私には似合っているらしい。

今日はちょっとPAトラブルなどもあって、波に乗るまでに時間がかかったかも。去年の夏に初めてここ(恵比寿・アートカフェフレンズ)で演奏した時の印象が抜群に良かっただけに、ちょっと残念な気分。でも、だんだん内容も締まってきて、いいライヴになったと思う。正月明けからずっと仕事をしているという太田惠資(vl)さんも絶好調。なんでも心を入れ替えて、前日まではまったく遅刻をしなかったそうだけれど(笑)。



1月12日(月)  城山三郎のまなざし

夜、TBSの番組『そうか、もう君はいないのか』というドラマを観る。これは経済小説という分野を切り拓いた作家、故城山三郎さんの著作からとった題名で、奥様を亡くされるまでのことが描かれているドラマだ。

脚本(山元清多)は城山さんの娘が語るという進め方で作られていた。基本的には、その娘である井上紀子さんが書いた二冊の本、『城山三郎が娘に語った戦争』(朝日新聞出版)、『父でもなく、城山三郎でもなく』(毎日新聞社)から、多くの言葉が使われていたように思う。

紀子さんは大学時代の後輩にあたり、その旦那様となった人も同じサークルの人なので、なんだかそんなに遠いできごとには感じられないところもあり。そして、こんな風に自分でも本を出し、それがテレビ番組になるに至るまでには、おそらく彼女なりの葛藤があっただろうと想像する。

正直、キャスティングがちょっと?と感じたけれど、話の芯はちゃんとあって、大切なことは観ている者に伝わったように思う。「人の幸福は仕事と伴侶に恵まれる、たったそれだけのことでいいのかもしれない」という言葉に、それじゃあ、私は失格者だわ、と思う(苦笑)。昭和三十年代前半に結婚した世代、核家族化が始まり、父は外に、母は家に、ということが成り立っていた時代の幸福感だろうとも思うけれど。そしてその子供が私、なのだ。

紀子さんの本を読んだ時も非常に感銘を受けたことが二つ。

自ら志願して兵隊になったことで、ずっと自分を責めていたところがあったらしい城山三郎が、最後まで「表現と言論の自由」を力強く語っていたということ。(「個人情報保護法案」は以前の治安維持法に勝るとも劣らない“悪法”だと強く訴え、当時の首相に書簡を送ったり、75歳という年齢ながらもデモや集会に出席していたことはつとに有名な話。)

そして、妻である容子さんの葬儀の際、葬儀屋さんが飾った祭壇の花々に置かれている名前の札を、城山三郎自ら入れ替えたという話だ。中央に飾られた遺影の写真の両脇には、そりゃもう、当時の総理大臣から官房長官から、政財界のトップの人たちの名前がぎっしり。それをどけて、奥様が生前親しくしていた友人の方々の札を、真ん中に持ってきた、というものだ。

ドラマの中でも再現されていたが、その直前まで、妻の葬儀には出席しないとダダをこねたという城山三郎ではあるが、人の死にあたって何が大切かを考えさせられるシーンでもあったと思う。

こういう目線あるいは視点、社会や人間へのまなざしを持ちながら、小説を書き続けた一人の作家に、私は胸がふるえる。




1月15日(木)  クチコミ

来週末に鎌倉で演奏する機会があるのをきっかけに、母の誕生日祝いも兼ねて、前日から一泊することにした。それで、あれこれネットで検索してみたのだけれど、いわゆるグルメ関係のサイトのクチコミ情報というのは、あれやこれや言いたい放題。料理は塩がきついだの、従業員の態度が悪いだの云々。それに写真も撮られ放題。なんというか、こういう風に晒される時代なんだ〜、ということを、あらためて思い知らされた気分。



1月17日(土)  ショパンを弾く指

午後、生徒のレッスン。その彼がタッチを変えてみたという。したらばショパンが好きになり、弾けるようになってきたとのこと。聴いてみれば、確かにずいぶん違う。文字通りタッチの差、指への意識の持ちようで、こんなにも音楽の質や世界観が変わることを、新鮮な気分で受け止める。



1月18日(日)  長かった

久しぶりに国立能楽堂に足を運ぶ。金春会定期能(能楽には五流派あるが、そのうちの金春流が定期的に行っている会)。

大学時代のサークルの後輩で、プロの能楽師になった人が「翁」を舞う、というめでたい日。実はこの後輩、春の新入生歓迎の際に、私が声をかけてサークルに引っ張り込んだそうにて候〜。ということで、晴れの舞台を見届けなければ、と応援に行く。

(大学時代のサークルとは、能楽研究会のことで、宝生流と金春流から成り、私が学んだのは宝生流。ちなみに、大学には別に観世流のみから成る観世会があった。)

午後12時半から3時45分までの約3時間15分。休憩なし。
これは、長い。
途中で眠らずにはいられない。
今のご時世の演劇としてはあまりお目にかかることがない長さだろう。椅子に座り続けていると、身体の血の流れが滞ってくるのがわかる。お年寄りはおトイレに行くのを我慢するのが大変だろう。

これは「翁」に続けて「高砂」が上演される、いわゆる“翁付き”と言われるものだそうだ。「翁」が70分、「高砂」が90分、さらに狂言の「末広かり」が30分、これらが続けて上演されたので、かくも長き時間に及んだのだった。

地謡は「翁」が終わっても退場せず、後座から地謡座に移動して脇能「高砂」をつとめる。また、囃子方(笛、小鼓、大鼓)は、「翁」では演奏しない太鼓も含めて、ずーーーっと舞台上にいるという超長丁場。無論、上演中は私たちのように水を飲んだりいわんやお酒を飲んだりすることはまったくしない。

もし私にこのような仕事のオファーがあったら、よほどのギャラが出ない限り、絶対引き受けないだろう(^^;)。というか、ギャラが出たとしても無理かも。だいたい集中力が保てないだろう。いっしょにトリオで演奏しているM氏などは、酒を持って来ーいと暴れ出すに決まっているし、O氏は自分の出番がない時にふら〜っと舞台からいなくなって、演奏しなければいけない時にはそこにいる、に違いない(笑)。

その後、休憩が20分間。最後に「景清」(90分)が上演され、終わったのは午後5時半だ。いやはや、演じる役者や囃子方といったプロのみなさんの仕事ぶりには頭が下がるが、古典芸能は観る方にも体力と気力が必要だ。

舞台に立つ、その姿。その「存在感」というようなものは実に不思議なもので、ただ感じるのだ、としか言いようがないものがある。古典芸能は概ね“型”に支えられている部分も大きいとしても、とにかくそれがあるかないか、世阿弥の言うところの“花”になるのだろうが、これは能楽に限ったことではなく、他の演劇や音楽、ダンスといった舞台芸術全般について言えることだと思う。

そういう意味で、大学時代に観た、故櫻間金太郎先生の「存在感」は圧倒的だったと思う。晩年は足腰が弱られて、立っている時にふらついたりされていたけれど、その地の底から湧きあがってくるようなすばらしい“声”には、明らかに何かが宿っていたように思う。

それにしても、ほんとに能楽というのは動かない(ように見える)演劇だとあらためて感じる。それだけに、静止している身体を保つ状態、あるいは手をずっと横に広げたまま、それはもうとてもゆっくりと歩く所作のぐらつきや揺れが、とても目につく。逆に言えば、身体を通して、その人の内面の在り様や呼吸のようなものが、何故か全部伝わってくる感じ。

人は見かけで判断しちゃだめよ、も正しいかもしれないが、人は見かけだ、も真実かもしれない。

今月は久しぶりに歌舞伎と能楽を観たが、今、なんとなく歌舞伎の方がパワーがあるような感触を受けた。少なくともスタアがいて、若手が育っている。それに新しい試みが本気で行われているように思う。それに比べて、能楽にはそうしたことがあまり感じられない。って、普段からよく観に行っているわけでもない私が言うようなことではないとは思うが。

能楽で言えば、例えば一噌幸弘さん(笛)や大倉正之助さん(大鼓)は、いわばこうした伝統から超ハミデルような活動もしている人たちだが、彼らと共演したこともある私にとっては、その彼らの思いや努力は、ごく自然な欲求であり、身近に感じることができる。

今日「翁」のシテを演じた後輩も、もう何年も前に、私に“新作能”の相談をしてきたことがある。どのような内容のものがよく、どのような展開ができるかはまったく未知数だけれど、何かできたら面白い。漠然としてはいるが、私の考える“ オルトペラ/ ORT OPERA ”はもしかしたらここにあるのかもしれない。

また、おそらく「翁」を観たのは初めてのことだったと思うのだが、その音楽は通常の能楽のそれとは異なっていて、なかなか面白い。単純なリズムの繰り返しの部分も多々あるが、特に狂言者(千歳、三番三)によって舞われる箇所は、舞いというより踊りという方が似合っているような音楽。これは能楽以前の猿楽(散楽?)などの音楽様式らしい。つまり、“型”ができる以前の、もっと混沌とした時代の。この辺りの音楽もうまく取り込みながら、何かできないかしらん?と既に思いはめぐり始めている。



1月19日(月)  今年の『くりくら』は

夜、門仲天井ホールの支配人、デザイナーでいつも力を貸して下さっている方と、今年のコンサートの打ち合わせ兼新年会をする。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

今月中には正式に詳細をご報告できると思いますが、これまで足かけ三年、五回に渡って行ってきた『くりくら音楽会』は、今春は一回お休みします。そして、秋からはまた新たなかたちで、みなさんとお目にかかりたいと考えています。

では春は何もやらないのか?というと、そういうわけではなく、以前、同じくORTMusicで企画・製作したコンサート・シリーズ『耳を開く』の第二回目のコンサートを、4月と5月にそれぞれ1回ずつ、この門仲天井ホールで行うことにしました。テーマは“即興演奏をめぐる新しい弦の響き”といったことになると思います。“弦”というのは無論弦楽器のことを、及びピアノという楽器に張られている弦(約230本)のことも含んでいます。

これまでも散々書いてきたように、この数年、私の周辺で起こった大きなできごとは、弦楽器奏者との本格的な出会いでした。これは本人が想像だにしていなかったことでもあります(苦笑)。そして、それは都会における、弦楽器をめぐるポピュラー音楽の状況が大きく変わってきたという、時代の流れの象徴的なできごとでもあったのかもしれません。

去年の秋、私にとって、黒田京子トリオ(翠川敬基(vc)さん、太田惠資(vn)さん)の二枚目のCD、喜多直毅(vn)さんとのデュオのCDが世の中に出たことは、いわばこの数年の結実という意味合いもあるように感じています。

しかしながら、黒田京子トリオ及び喜多直毅さんとのデュオの音楽を、この結実で決して留まらせることなく、大きなことを言えば、もう一歩先に突き進ませて、世の中に問いたいと思ったこと。さらに、黒田原点に戻る、ということで、ピアノ・ソロに取り組もうと考えたこと。これらが、この春のコンサートを行う上での動機になっています。ということで、4月はトリオで、5月はソロ&デュオということでやろうと考えています。

詳細は後日拙webのORTMusicのページにアップします。より幅広く、より多くの方に足を運んでもらえる、いい内容のコンサートにしたいと思っています。どうぞよろしくお願いいたします。




1月20日(火)  脱メタボ

午後、「特定保健指導」に行ってみる。“脱メタボ!”のアドヴァイスをしてくれた人は若い女性。今、ヴァイオリンを習っているというので、すかさずライヴのご案内。どこかに来てくれるとうれしい。

実は、暮れにお腹を壊してほぼ3日間絶食状態になった際に、おそらく腸には何も残っていなかったのだろう、その後、妙に体調が良いように感じられ、なんだかお肌の艶もいい感じ。

というわけで、正月明けから、以前買っておいた約3万円のウォーキング・シューズを活用して、腹式呼吸で30分から1時間ウォーキングをしている。さらに、食事も少し減らして、よく噛むようにしている。目標、半年で5kgの減量。って、さてさて、どこまでがんばれるかしら。



1月21日(水)  フォーク少年

夜、大泉学園・inFのライヴに、急遽トラ(エキストラの略/もともと演奏することになっていた人の代理として臨時出演すること)で参加。小室等(vo,g)さんの日で、他には不破大輔(b)さん、川下直弘(ts)さんと。不破さん、川下さんと共演するのは、おそらく20年ぶりくらいだ。無論、ゴリガリのフリージャズしか演奏したことがない。

ところが、聞けば、お二人ともフォーク少年とのこと。

1971年のフォークジャンボリーのライヴ盤LPのジャケットに、このinFの店主が写っていることはつとに有名な話だが、どうやらその群衆の中に川下さんもいるらしい。

不破さんは私とほぼ同世代。東大安田講堂が落ちて、学生運動が変わっていく時代に聴いた「出発(たびだち)の歌」(作詞 及川恒平、作曲 小室等)。非常に新鮮に耳に響き、さらにこれから訪れる未来が力強く輝いているかのようにさえ感じられたこの曲に対する思い入れは、不破さんも私も互いに深い。かく言う私もフォーク少女だったわけで、この歌のEPを持っているわよ、と私が言えば、不破さんも俺も持っているのだ、と自慢する(笑)。いつか小室さんにサインをしてもらおう。

リハーサルはすこぶる適当に迅速に済んで、本番までけっこう時間が空いたので、ゆっくり過ごす。その間に、小室さんはご自宅に戻られ、密かに新たに譜面を持って来られる。

かくて、本番中に高田渡さんの歌の譜面をいきなり渡されれば、全員が口ずさめるという状況(笑)。ちなみに、この譜面というのは、歌詞とその上にコードが書かれたもののみ。フォークを歌う人たちの譜面には、たいてい5本の川とおたまじゃくしはない。

そして、いつものことながら、決して軸がぶれることがない小室さんの在り様とその歌に、今日もまた胸がふるえる。この時代の人たち、つまり、アメリカやイギリスからどっと“洋楽”が入って来て強い影響を受け、最初はその真似をした人たちではあったけれど、いわば“日本の”フォークやロックの始まりを創った人たちは、その音楽を始めた動機(いつでも立ち戻ることができる原点)が非常に強いと感じる。

そして、それに当時の時代状況が重なる。ライヴの途中で「We shall over come」と少し歌ったのは小室さんだが、日本時間の深夜、アメリカ初の黒人大統領の就任演説があったばかりの今宵、最後の方の演奏で、かき鳴らしたギターの弦を切ったのも小室さんだ。「年甲斐もなく」と、ちょっとはにかみながら笑っておられたけれど。

そんなこんなで、終演後、小室さんとinFのマスターと3人でひとしきり話し込む。話の中心はどうしたって、そのアメリカ。そして、私は一滴も飲んでいないのに、「今度、私はキャロル・キング、否、五輪真弓(無論「恋人よ」より前の歌だ)をやる」と言ったような気がする(苦笑)。などということもありながら、久々に帰宅は深夜3時半をまわった。

天国のサッチモやエリントンやビリー・ホリデイやマイルスやミンガスやマックス・ローチやレスター・ボウイや・・・・・・などなどは、この下界の様子をどう眺めているだろうと思いながら、眠りにつく。



1月22日(木)  立つ、歩く

午後、太極拳の教室。ただ、立っている、ただ、歩く。ということの、なんと難しいことか。練功十八法の前段の最後は「雄関漫歩」というのだが、これをちゃんとした“意識”を持って行うこと、実に難し。例えば、足の甲を曲げる、なんて考えたこともなかった。

夕方、整体に行く。ここで横になっていると、不思議なことに耳鳴りがほとんどなくなる。が、腎臓が悪いと言われる。



1月23日(金)  いざ、鎌倉

明日、鎌倉で演奏することもあって、この日曜日に74歳の誕生日を迎えた母に、鎌倉の一泊をプレゼントする。もともと、なんだかわからないが、円覚寺が私を呼んでいる気がして、翌日は午後のコンサートで朝も早いから、いっそ前乗りして一泊してしまおうかとも漠然と思っていたところだった。とはいえ、結局、2日続けて朝は早いことになってしまったのだけれど(苦笑)。

ということで、朝8時半には起きて、鎌倉へ。JRのフリー切符も既に購入済みだ。今は湘南新宿ラインができたから、新宿から鎌倉まで一気に行ける。そこから江ノ電に乗る。江ノ電に乗ったのは多分30年ぶりくらい?

長谷駅で降りて、ドイツパンのおいしいお店でランチ。すこぶる美味。それから海岸沿いにあるホテルへ荷物を預けて、再び長谷駅へ。そこで、母といっしょに人力車に乗る。30分で8000円というお値段。鍼100本と同じだ。ちとお高いと思ったが、こういう場合はすべて「もうきっと二度とないから」という言葉で乗り切る。

まずは、大仏見学。人力車のお兄さんはけっこう丁寧に観光案内もしてくれる。人力車は軽車両の扱いになるそうで、要するに歩行者と同じだから、信号で止まっている時がなんとなく恥ずかしい。

その後、鎌倉文学館に行く坂の下で人力車を下車。その建物は三島由紀夫が『春の雪』の舞台にしたことでも有名。旧前田侯爵家の別邸だったそうだ。ちょうど“鎌倉と俳人たち”という展示も行われていて、正岡子規、高浜虚子などなどの短冊も見る。漱石や芥川のものも少し。

それから、北鎌倉の円覚寺へ。山門は重々しい威圧感のようなものに満ちていて、やはり大きい。「片付くものなんてありゃしない」(『門』/夏目漱石)を思う。ずっと奥の方までゆっくり散歩する。方丈の庭にある大きなビャクシンの老木はすごかった。あんな木は見たことがない。円覚寺をあとにして、あんみつなどを食べて、小町通りを抜けて鎌倉駅までひたすら歩く。

江ノ電に乗って、稲村ケ崎まで。その線路を横切った高台にあるレストランを予約しておいた。創作和食とのことで、それなりに美味だったが、私には全体に塩分がきつかった。高血圧気味の母にはあまり良くなかったかもと思えども、時は既に遅し。いっぱい歩いた一日、母は見事にすべてを平らげていた。食事を終えた後は、再び歩いてホテルまで戻る。はい、よく歩きました。



1月24日(土)  平和を祈る

いい天気。でも風は強く、海は昨日より荒れている。

鎌倉生涯学習センターのホールで、坂田明(as,cl)miiで演奏。これは鎌倉市が行っている鎌倉平和推進事業のイベントで、平和都市宣言50周年を記念したもの。新聞に大きくとりあげられたりしたこともあってか、なんだかやんやの大騒ぎ状態になっているらしい。

ピアノは昨年暮れに新しく入ったばかりというスタインウェイのセミコン。・・・思わず絶句。これはなかなかたいへんだと指が感じながらも、演奏中に音の響きはだんだん変化していくような感触を受ける。

午後2時半の開演だとお客様は嬉しいらしいが、準備するPAスタッフは時間に追われ、演奏する私たちは集中力やテンションを早い時間に持っていくのがかなりたいへん。それでも、坂田さんのトークはなかなか軽妙で、前半は1時間20分を超える内容になった。後半はもう少しコンパクトに。

夜、高校の同窓生たちの新年会にちょっとだけ顔を出す。ほんの10分も顔を見たかどうかだったが、みんな元気そうな様子。外はみぞれまじりの雪。



1月25日(日)  手ぶらで行かれても

昨日、井上紀子さんからいただいた本、『どうせ、あちらへは手ぶらで行く』(城山三郎 著/新潮社)を一気に読む。これは城山三郎の9冊の手帳を編集部が整理したもので、『そうか、もう君はいないのか』の日録として出版されたものだ。

紫綬褒章を受け取ることを断った城山三郎は、その著書の中で「読者とおまえと子供たち、それこそおれの勲章だ。それ以上のもの、おれには要らんのだ。」と、著作の中で書いているそうだが、なんというか、どうしても途中で涙がこぼれてしまう。

と同時に、作家である自分の父親に真摯に向き合おうとしている井上さんの気持ちも痛いほど伝わってくる。あの世に行く時は手ぶらだけれど、この世に残された者たちはそうはいかないのだ。

思わず、祖父が亡くなった後、その文書や日記などを清書して、懸命に一冊の本にまとめた父の姿が重なる。そうせずにはいられなかったのだろうと思う。そして、そこには、無論、本人も決して書くことができないことや、誰にも言うことができないことなどが、ものすごくあるのだ。

ちなみに、この日記の1月12日に書いた「人の幸福は仕事と伴侶に恵まれる、たったそれだけのことでいいのかもしれない」と、ドラマの中では城山三郎が言ったように描かれていた話。実のところ、こういうことを決して言う人ではなかったらしい。脚本を書いた山元氏らしい言い回しかも?




1月26日(月)  ホームにて

大泉学園・inFにて、黒田京子トリオのライヴ。ここ、inFは、トリオにとっていわばホーム。アウェイではなく、ホームで演奏することの、良いところ、ちょっとどうかなと感じるところ、いろいろある。あくまでも音楽の内容についてだけれど。



1月27日(火)  切り倒された金木犀

いつも通る畑。時々、野菜を買っていた。そして、そこにはとっても大きな金木犀があって、秋にはとてもいい薫りを放っていた。

なのに、あんなに大きな木が切り倒されていて、それはもう無残な姿。唖然としてしまった。ブルトーザーが一台。そこはいつのまにか平地にされていた。ここにもマンションが建つのだろうか。

せめて、あの金木犀だけ残すことはできなかったのだろうか。って、祖父の家を壊した時も、それは大きな杉と銀杏の木を切り倒さざるを得なかったことを思い出す。他にも、椎の木、柳、木蓮、柘榴、柿、枇杷などなど、それはもうたくさんの木や草花の命が失われた。ちなみに、銀杏の木の一部は、台所にあるまな板に変身しているけれど。



1月28日(水)〜2月1日(日)  塩竈

28日(水)

午前中の新幹線で、宮城県塩竈へ。仙台から仙石線に乗り換えて約30分で、本塩竈駅に着く。坂田明(as,cl)miiで、二日間は午前、午後と小学校などを廻って演奏し、最後の日はホールでコンサートをすることになっている。

午後、まずは塩竈市長さんや今回廻る小学校の校長先生方などと会見。その後、会場となるホールなどを下見したりして、夜はホテルで温かい中華料理をいただく。

今回は一人の調律師さんに合計5台のピアノの面倒を見ていただくことになっている。何故か学校のピアノというのは概ね状態はたいへんなことになっているので、そのご苦労はほとんど想像できる。たいていは1年に1回調律されていればいい方で、体育館というのがもっとも悲惨なことが多い。音楽室に置いてあるものでも、弦は錆び、ハンマーにカビは生え、綿埃やクモの巣だらけ、ということも多々ある。

それで、調律師さんにこの夕飯の席にちょっと寄っていただく。やはり昨日から作業に入っておられるとのことで、彼は5日間もこの仕事にはりついていることになる。ほんに、ピアニストは調律師さんがいなくては生きてはいけましぇん、つくづく。

小学校での演奏は各40分くらいとしても、コンサートは1時間×2本勝負。かくて、私は3日間で異なる5台の楽器を弾かなければならない。それはもうどう考えても身体への負担は大きい。下世話な言い方をすれば、毎日違う男性を相手にしなければならないのと同じような感じなわけで、せめて相手が良いコンディションでいてもらわないと、ボロボロになってしまうの、私、みたいな(笑)。


29日(木)

ホテルの部屋が煙草臭くて、あまりよく眠れなかった感じ。蒲団やカーテンといった生地に沁み込んでいるいるのだろう。煙草をやめてから約2年半になるだろうか。ここまでダメになるとは思ってもいなかった。

朝ご飯をしっかりいただき、午前9時半にはホテルのビー集合。10時半過ぎから小学5年生110名弱を前に演奏。起きていましぇん状態だけれど、妙にハイテンションになったかも?地元のテレビ局や新聞の取材などが入る。

各地方自治体では、こうした小学生などの学校を対象に、彼らがホールなどに足を運ぶのではなく、演奏者の方が学校に出向く、いわば“出前授業”みたいなことをやっている。生の演奏を目の前で聴いて体験する機会を、市町村が子供たちにプレゼントする、と言ってもいいかもしれない。塩竈市ではこの企画を「アウトリーチ」と称している。

昨秋、やはり同じような企画で喜多直毅(vl)さんと行った所は「音楽のたね」と言っていた。このネーミングは絶妙だと思う。そっか、自分たちは種をまく仕事をしているのだ、という錯覚に陥る(笑)。いや、ま、実際、そうかもしれないのだ。

だから、子供たちが相手だからといって、決して手を抜いたりはできない。それくらい、子供たちはあなどれない。場合によっては、その感性は大人よりすごい。ちなみに、この時、喜多さんは午前中に弦を2本、午後1本、切って演奏していた。その後担当者が送って下さった子供たちのアンケートには、「もう弦を切らないでね」みたいなかわいい文字もあったっけ(笑)。

さらに、その喜多君との時も、今回の坂田さんの時も、その演奏は絶対に子供たちに対して媚びない。自分たちのこと、自分たちの音楽、そしてこの音を聴いてもらうことしか、やらなかった。子供たちがよく知っている曲や一般によく知られた有名な曲を、なんてこともない。

例えば、「赤とんぼ」はこの坂田さんのmiiがずっと演奏してきた曲なだけで、それがたまたまこの塩竈市の夕方5時の音楽であることに気づいた私が、やりませんか?と提案したにすぎない。子供たちはあんな「赤とんぼ」を後にも先にも決して聴くことはないだろう。

ともあれ、まず一つ仕事を終えて、午後の演奏までにけっこう時間があったので、天気も良いし、一人で塩竈神社へお参りに行く。街道から真っ直ぐに伸びている表参道。その202段の階段を登る。最初は真正面からでしょ、という気分。この神社は奈良時代からあると伝えられているらしいが、私が生まれ育ったところにある神社とは似ているようで全然似ていないような、ちょっと独特な雰囲気がする。

志波彦神社もお参りして、そこから見える海の風景を堪能。そして七曲坂を下って、元の街道に出て、駅の方へ。ウォーキング、ウォーキング。腹式呼吸でウォーキング。そして、一人でおふらんすなランチ。昼間からとてもしっかりした対応をするレストランだった。不況知らずという雰囲気。

午後は身体障害者施設で演奏。ピアノはこの20年間に最初の定期調律(3回)以外に、3回ほど調律されているアップライト・ピアノ。どなたかが寄贈されたものなのだろう。途中から音はちょっと狂ってはきたものの、大切に弾かせていただく。

夜はマリンゲートの方へ行き、美味な洋食をいただく。このmiiでは二度ほど塩竈に来ているが、その時演奏した会場でもある。その近くには24時間営業している大型スーパーがある。ここもまた駅周辺の商店街はシャッター通りになっている。塩竈は狭い地域に寿司屋が日本一多く密集している所だそうだが、駅周辺はそれでもどこかさみしい。その後、ホテルで3人で部屋飲み。


30日(金)

今日も早起き。午前中に小学6年生120名弱を前に体育館で演奏。いわずもがな、体育館は、寒い。それに広いので、ピアノを習っていたり、ピアノに興味がある子供たちは、私の近くに寄ってかまわないから、と言う。普通のクラシック音楽のピアノの先生が見ていたら卒倒するような演奏法だったかも?んでも、ピアノは肘や腕で弾いても音は出るのじゃ(笑)。

お昼ご飯もそこそこに、午後も小学校へ。やはり6年生全員だが、ここは50名弱しか生徒がいない。塩竈市に最初にできた小学校で、要するに駅周辺、町中に住んでいる学区にあたるらしい。東京で言えば千代田区のような感じだろうか。それで子供の数も少ないとのこと。

そして、この小学校だけ、廊下ですれ違った、見知らぬ多くの子供たちから「こんにちは」と声をかけられた。演奏中はちょっとおしゃべりもあったけれど、なかなかの反応もあり、やっている方もなんとなく面白くなってくる。

このように四か所、塩竈市の小学校などを廻って演奏したが、それぞれやはり校風のようなものがあって楽しい。特に校長先生の感じはなんだかそのままその小学校の雰囲気になっている気がした。不思議なものだ。

こうして夕方には解放されたのだが、演奏した私たちはなんとなく“時差ボケ”状態な感じ(苦笑)。少し眠って、それでも夜はしゃきっとして、市長さんや教育長さんやホールの館長さんたちと会食。ここのお料理がすこぶる美味。さらに、しぼりたての白いお酒、原酒などが出てきて、これまた、お酒があまり飲めない私でも実においしいと感じるものだった。日本酒、うまい。

また、この市長さんは、その時の他の方たちのお話によると、朝一番早く市庁舎に来て、花壇の草むしりをしているらしい。その人曰く、「どこの用務員さんかと思った」。また、毎週月曜日はボランティアで市民病院の案内係のようなこともやっていると聞いた。なかなか気さくな、庶民目線を持った方のような。ま、でなければ、このバンドが呼ばれるようなことはなかったかも?ちなみに、坂田さんはこのように小学校で演奏するのは初めてのことだったそうだ。


31日(土)

をを、外は雪。コンサート当日に、このような大雪になるとは。喜多さんが書いた曲ではないが、ほんとに横から当たってくるような吹雪の状態。

にも関わらず、どーしてももう一度お参りをしなければならないことがあって、タクシーで再度塩竈神社へ。お守りも買って、博物館にも寄る。誰もいやしない(苦笑)。帰り、またあの202段に挑戦しようかと思ったけれど、どう考えたってすべってころげ落ちそうな気がして、10段くらい下ったところで引き返す。同じ道は歩きたくないので、一昨日とは違う広い道を下って帰る。

かくて、今日のランチも再びちょっと奮発。そりゃあ、お寿司でしょ。「すし哲」へ一人で入り、カウンターに座ったのがウンのツキ。上を注文して食べた後、壁に貼られた紙を眺めていた私に、すかさずお兄さん、「シメ鯖とか鯵とか、いかがですか?」といざなわれるままに「はい、お願い」。ああ、そういう流れなんだろうなあという思いとともに、お寿司一個につき500円玉がちゃりん。そんなことを繰り返して、いつになく豪華なランチに。当分、毎日カレーだ(笑)。

午後3時に会場入りで、リハーサルなど。ピアノはヤマハのフルコン。割合に新しいものだったようだけれど、やはりあまり弾かれていないものらしい。調律師さんなどに手伝っていただき、三人のサウンドがもっとも良いと感じられるポジションにセッティングする。モニターは全員撤去。夕方にはメイクをする方が来て下さって、京子さんは、もう好きにしてちょうだい状態に(笑)。

されど、どうやら仙石線が止まってしまっているらしい。タクシーも出払っているらしく、つかまらない。多くの人がキャンセルしたり、途中で立ち往生している状況らしい。塩竈でこんなに雪が降ることは、一年に一度あるかないか、近年はほとんどない、ということらしい。まあ、なんというか、よりによって。

それでもコンサートは行われ、200名近い人が聴いてくださったらしい。しかも、真ん中最前列に座っていた人たちはほとんど北海道函館から来た人たちだから驚く。この大雪は彼らがいっしょに連れてきたという噂もあるとかないとか(笑)。

そして、このコンサートで、坂田明miiというバンドはレギュラー活動を停止します、とボスは舞台の上で挨拶。2000年1月頃から活動が始まったので、丸9年間続いたことになる。振り返ってみれば、バンドとしてはかなり長い方だろう。

バカボン鈴木(b)さんが運転するバカボン号(ランドローバー・ディフェンダー/英国陸軍御用達軍用車)には、カーナビもなければ、ETCも装備されていない。音楽を聴く手段はカセットテープとラジオしかない。途中から、坂田さんが時々i-podなどをコンセントにつなげていたけれど。座席はベンチシート。リクライニングなんぞ決してしない。東京都が排気ガス規制する以前はディーゼル車で、高速では他の車にどんどん追い抜かれた。今は云百万円かけてエンジンを載せ替えているが、あくまでもバカボンさんはこの鋼鉄の車で走り続けるつもりらしい。とにかく、その運転はすべてバカボンさん。

そして、すべての行程を企画し、主催者と連絡をとるなどの事務作業を全部こなし、助手席で地図を広げて、そこを右だ、左だと道案内をし、要するに雑務一切を行うツアーコンダクター、否、坂田旅行社の社長、さらに、演奏ではもちろんバンマス、夜は宴会部長をやりとげたのは坂田さん。

私は途中から会計係を仰せつけられ、夜な夜なお金勘定をしてから寝て(毎日やらないと絶対に合わなくなるのだ〜)、だんだんふくらんでいくお財布を、肌身離さず持ち歩く緊張の日々を送った。「今日もにこにこ現金払い」だから、ツアー最終日には三人が丸くなって分け前にありつく風景が描き出されるのだった(笑)。

こんな風に役割分担をしながら、この三人で、ほんとに全国をツアーした。ドイツやフランスにも行った。ともあれ、長期に渡る国内ツアーはすべて車での移動だから、フェリーにもずいぶん乗った。

オフの日には川で泳ぎ、誰も行かないような山の中に入りこんで滝を仰ぎ、温泉があればてぬぐいをぶるさげてゆっくりお湯につかり(夜遅くだったけれど、混浴の露天風呂にだって入ったことがあるぞお)。田んぼや湖があればミジンコ採集もして、その日のホテルの部屋はまるで理科の実験室のようになった。当然、バかボン号には顕微鏡だって積んであるのだ。これでいいのだ!(笑)。(ああ、唯一の心残りは、この三人でバカボン一家、もしくは故赤塚さんの漫画に出てくるキャラクターで、コスプレをしなかったことだ^^;/ちなみに、デコッパチは坂田さんがモデルとの噂も?)

21世紀初頭のバンドとしては、稀に見るアナログな旅で、それはたくさんの思い出を残す楽しいものだったと思う。このような旅をすることはおそらく生涯もう二度と訪れないだろう。

坂田さんが出た広島大学、バカボン君が学んだ高野山高校、私の出身の桐朋女子中高等学校、それぞれの母校でも、この三人で演奏する機会を得ることができた。というようなことも、そうはないだろう。

それにしても、水産学部に所属していて卒論はミジンコのような微生物関係、さらに大型免許を持っている人。そもそもは仏師(仏像を彫る職人)になりたかったらしいけれど、とにかくお坊さんになろうと思って修行した人。それに中高時代はハンドボールと生徒会にあけくれ、大学時代には能楽にはまってしまった、頭の悪い文学少女。誰も音大など出ておらず、考えてみれば、相当ヘンな経歴を持った人たちの集まりだった気がする(笑)。

CDも三枚作った。「赤とんぼ」「夢」「おむすび」が作品として残った。

などという感慨もちょっと深く、夜はお寿司屋さんで大勢のスタッフの方たちと打ち上げ。仙台からやっとの思いで着いたら、コンサートが終わったところだったという悲しい若いカップルは、主催者のはからいで坂田さんの隣の席に。思いがけずこのような展開になったことに感激していた様子。

ホテルに戻った深夜0時頃からは、函館から来た人たちと談笑して楽しいひとときを過ごす。坂田さんは「みんなが来てくれて、ほんとうにうれしい」としきり。かくて3時をまわり、朝方眠りにつく。


2月1日(日)

バカボンさんはレコーディングの仕事が入ったとかで、朝早く発ってしまったとのこと。私は予定通り。チェックアウトに部屋を出て、函館から来た人たちと少しだけおしゃべり。荷物がなければ、みんなといっしょに松島へ遊びに行くのもありだったなあと。というより、温泉に入りたかったかも。ボスは完全沈没。なんでも午後1時半頃まで寝ていたらしい。

今回もたくさんの方のお世話になった。特に塩竈滞在中のすべてのアシスト、心配りをしてくださった方。それに調律師さん。ホールの館長さんや担当者の方。突然宴席に招いてくださった市長さん。笑顔がすてきだった校長先生。そして、函館から来てくださった方々。この大雪の中、足を運んでくださったすべての人たち、などなど。

心から感謝いたします。







2008年12月の洗面器を読む



『洗面器』のインデックスに戻る

トップページに戻る