10月
9月14日(金)から10月4日(木)  北の大地は暑かった・その2

先月半ばより始まった、坂田明(as,cl)miiでの北海道ツアーの続きです。


1日(月)

釧路をあとにして、帯広へ移動。

途中、十勝平野に入った辺りだっただろうか、バカボン号にアキシデント発生。対向車のトラックが跳ねたらしき小石が、車のフロントガラスの右端上に当たって、ガラスにひびが入ってしまった。ショックを隠し切れないバカボン君。途中、有名な“ハルニレの木”に立ち寄るが、無論浮かぬ顔。とにかく修理屋に行きたいと言う。ので、2軒程訪ねるも、虚し。直せない、とのこと。ほんの少しの傷のために、フロントガラスを全取り替えしなければならないらしい。うんむう。

でも、まんず気を取り直して、夕方、お蕎麦を食べに行く。とてもおいしかった。で、店主の方たちをコンサートに誘う。帯広のジャズ事情もご存知の方たちだったが、私たちはこのように“営業活動”もしてしまうのだった。(ちなみに、この方たちは翌日のコンサートに来て下さった。)

ホテルの部屋は広く、ベランダもあって、温泉の大浴場もあり、気分がとても楽になる。夜は主催者の方と夕飯を共にして、“北の屋台”へ少しだけ立ち寄り、ゆっくりお風呂に入って就寝。


2日(火)

朝食後、洗濯して、晴れている空の下に干す。暑い。半袖Tシャツ1枚でウォーキングに出る。と、向こうからランニングをしているおじさんに出会う。今年からランニングと筋トレを始めたという坂田さんだった。

約400mのベンチがあるという広ーい公園を抜けて、木々が生い茂る緑ヶ丘公園を散策。道立帯広美術館では「北の風土と四季の彩どり」展が開かれていた。北海道を代表する画家たちの作品が展示されていて、主として風景画が多かったが、やはり片岡球子さんの絵は何かが圧倒的だった。羊蹄山の秋を描いた1枚の作品だったのだが。

コレクション・ギャラリーでは「十勝の新時代」と題されたシリーズの第10回目が催されていた。ミクストメディア、またインタラクティヴ・アートと称されたコンピュータを使った試みなどがあった。が、私には少し?。コンピュータを使うことで、そこに世界同時的でインタラクティヴな世界観が生まれる、というのは、私には幻想にしか思えない。

で、時間がなくて、おびひろ動物園には入らず。そして、今夜はツアー最後の演奏だ。が、ピアノはヤマハのA1で、ちょっと残念。この立派な心地よいホテルにはまったく似合わない。なんでもスタインウェイのフルコンは社長さんがご自分の別荘に持って行ってしまったとか。やはりピアノはあまり稼動しないのだろうとは思うが、A1というようなピアノを売り出しだ楽器メーカーを恨むぞ、私。

かくて、最後の夜もやんやの打ち上げ。終わった〜。で、ラストは坂田さんの部屋で乾杯と報酬の分配。おつかれさま〜。


3日(水)

午前中、2人と荷物を載せたバカボン号に手を振って別れを告げる。ホテルに1人残されて、妙にさみしくなる。バスに乗って、とかち帯広空港に向かい、帰京。

東京のあまりの人の多さにめまいがする。人混みが嫌で、羽田からバスに乗って家に帰る。駅に着いたら、ふわ〜っと金木犀の香り。秋が近付いて来ていることを感じる。

夕方、ちょうど家に着いた頃に、バカボン号は苫小牧を出発する感じ。坂田さんからは夕陽を写したメールがケータイに届く。「さらば、北海道!」とメッセージが添えられて。


4日(木)

朝、「オーシンツクツク」と鳴く蝉の声で目覚める。ウッソー、という気分。今、10月?おまけに蚊もたくさん飛んでいる。人間が戻って来たからか、うようよ寄ってくる。

ともあれ、まずは洗濯。手紙やe-mailの処理をしていたら、あっという間に一日が終わってしまう。昼2時頃に大洗に着いたはずのバカボン号は、とっぷりと日の暮れた夕刻、私宅に寄ってくれる。預けた荷物を受け取って、ツアーのすべてが終了。



今回も実に多くのみなさんと関わり、お世話になりました。
ありがとうございました。すべてのみなさんに心から御礼申し上げます。

それにしても、北海道、暑かったです。今回のツアーでは地球が確実に温暖化していることを実感しました。

私が住んでいる所は、現在、全国で唯一ダストボックスが残っている市なのですが、それが廃止される云々でゴミ問題についての論議が高まっています。不在の間に、どうなったのかしらと気になっています。

かくの如く、「エコ」と言うのは簡単ですが、自分ができることを少しずつ実行していかないと、この星はほんとうにだめになると実感した旅にもなりました。


10月6日(土)から9日(火)  今度は九州・博多へ

北海道から戻ったと思ったら、中二日空けて九州・博多へ。もし中一日だったら、身体はかなりしんどかったと思います。こういうスケジュールでなければ、北海道からの帰りはフェリーでもよかったのですが。って、私より一回り年上の坂田明(as,cl)さんは中一日ですけれども。


6日(土)

午前中の便で博多へ。第22回全国保険医団体連合会の医療研修会で、「がんばらない」の鎌田實さんの講演と坂田さんの講演と演奏、という企画での演奏。ホテル始まって以来の集客数で、1000人近い人たちが来たと聞いた。話を聞いて、泣いて、笑って、音楽を聴いて、という心豊かな時間が流れる。

夜は地元の方のはからいで、それはそれは美味なお魚料理をいただく。旬にはまだ早いが、ふぐの刺身に唐揚。ふかふかした天然鰻。土瓶蒸しなどなど。今年は3度目の土瓶蒸しだ〜。ご馳走さまでした〜。


7日(日)

博多も暑い。クーラーを入れていないと部屋にいられない。

夜、坂田明(as,cl)miiで、博多・ニューコンボで演奏。以前あった場所から移転してちょうど2年になるそうだ。内装などは自分たちでやったとのこと。


8日(月)

ランチに町へ出たら、隣に座っていたおばあさんが話し掛けてくる。生粋の博多弁をしゃべる方で、ずっと看護婦さんをされていたという。天神の一等地を持っていたが、最近それを売ったというような話まで聞かせてくれた上、初対面で15分くらいしかまだ話していない私にケータイの番号を教えてくれようとする。

ので、おばあさん、私だからよかったかもしれないけれど、気をつけたほうがいい、と言う。お話はすこぶる楽しかったけれど、これからこういうご老人が増えるかもしれないと思ったりする。って、そう遠くの未来ではない自分も気をつけないと。

夜は再びニューコンボで演奏。終演後のBGMに新しく出たmiiのCD『夢』がかかっていると、もう完全に自家中毒を起こしそうになる。

振り返れば、この約三週間強、同じ音楽しかせず、同じ音楽しか聴いていない。私は耳を患っているので、ヘッドホンやイヤホンで音楽を聴くことができない。また、先のツアーではブラームスやバッハの譜面も持参したのだけれど、やっぱりまったく練習することができなかった。旅先でピアニストが練習するのは、まずほとんど無理だとしみじみ思う。


9日(火)

午後の便で帰京。これで今月後半は少しゆっくりできる。



10月11日(木)  からだメンテ

午後、久しぶりに太極拳の教室に行く。今回は新しいストレッチを習う。これまでの、足と胴体をつなげている股関節のストレッチ“撕腿”に加えて、肩のストレッチ“圧肩”を教えてもらう。これ、けっこう痛い。が、肩凝りや頚凝りにかなり効果があるそうで、実際、肩がとても軽くなったように感じる。それに、指の先まで血行が良くなるので、指先のコントロール力をつけることにもなるらしい。うーっし。

この2つのストレッチは根節、つまり四肢の根っこにあたる関節のストレッチで、「鍛えにくいけれど、しっかり意識して柔らかくしていけば、かなり役に立つ」とのこと。無論、太極拳に役に立つということだが、これ、身体の老化防止にもとても良いと思う。

その後、整体へ。長いツアーなどで、腕があまりにもパンパンになっていて、驚かれる。それに頚がひどい、んだそうだ。

ともあれ、身体を一日メンテした。夕飯は稚内から贈られてきた膨大な量のずわい蟹の足を、母と食べまくる。


10月18日(木)  ピボット

『くりくら音楽会 ピアノ大作戦 平成十九年秋の陣』の第二回目。前半は井上郷子(pf)さんと木ノ脇道元(fl)さんのデュオ、後半はおおたか静流(vo)さんと私のデュオを聴いていただく。

井上さんと木ノ脇さんの演奏はいわゆるクラシック音楽の現代音楽。すべて譜面があり、作曲者の意図や方法論などが書かれたパンフレットがあらかじめ配られた。

デュオのみならず、井上さんがソロで演奏されたピアノ曲では、ピアノの色々な美しい響きを聴くことができ、木ノ脇さんのソロではその様々な奏法、音色を堪能する。全体で70分近い演奏になったのはちょいっと長かったかしら?現代音楽が苦手な方には少しつらい時間になったかもしれない。

沖縄から戻ったばかりだというおおたかさんは、最初から魂が入った感じで、その天の声で会場は満たされる。ほんとうにすばらしい。いっしょに演奏していて、胸がふるえる人というのはそうはいない。

こちらは譜面といってもせいぜいメロディーとコードが書かれたもの、あるいは歌詞だけ、とか。私はひたすら彼女の声と心に耳を傾け、身体の揺れや呼吸を感じながら、時には寄り添って伴奏のように、時にはまったく関係ない空間の位相で、ピアノを奏でることを試みる。今回はすべて曲をやったが、その関わり方は“即興”だ。前奏も途中の演奏も、何ひとつあらかじめ決めていない。

ちなみに、私たちが演奏している時に、観覧車の向こうに花火があがっていたらしい。(このホール、窓からの夜景がすばらしい所。)それを目撃した人たちは、すてきな贈り物をもらったような心持になったらしい。ってなオプションもあったりして〜。

実は、今年の春の陣の私の演奏はある方面からは非常に批判された。そんなこともあって、即興演奏に全生涯を賭ける、みたいなことが、このブッキングをする頃はなんだかほとほと嫌な気分になっていた。ふっと、ああ、歌が聴きたい、そう思った時、私の心に一番最初に浮かんだのが、七色の声で歌をうたうおおたかさんだった。

この『くりくら』のブッキングについては、別項に書いている通りだ。が、もう一組のペアが現代音楽を代表するような方たちであることがわかっていたら、私はその方面の人で、私に寄って即興演奏も可だといういう人とペアを組んでもよかったかもしれない。実際、こんな私とそうしたことをやって下さった演奏家、お二人は会場に来て下さっていたし。あくまでも誤解を恐れずに書いているが。

もしそういう組み合わせになっていたら、当日、現代音楽における即興演奏という範囲内で、コンサートの最後に合同演奏ができたかもかもかもしれない。それは「現代音楽」という言葉で一応は括れるピボットしている領域、了解があるからだ。これは例えば「ジャズ」の場合も同様。

けれど、今回は合同演奏はできなかった。それぞれのリハーサルを終えて、「これはできない」と思った。それはおおたかさんからも感じられた。井上さんはテリー・ライリーの有名な曲の譜面を持って来て下さっていたし、木ノ脇さんもどうしましょうかと前向きに考えていてくださったのだけれど。いや、これはどうもちょっと違う、と思った。

このメンバーなら、その意思は別として、テキトーに即興で演奏することは可能だったろうとは思う。でも、だから、何だというのだ?そこに何が生まれるだろう?そう考えた時、今回の出演者はそれぞれ立っている場所があまりにも違う、ということに気付いた。

あるいは、提案して頂いたライリーの曲をやることは、譜面上はたいして難しいものでもなかったとは思う。ただ、そこには作曲者がいて、その意図があるだろう。わずかな時間に適当に合わせて、音符だけ追ってサウンドを創ることは、あまり意味がないように感じられた。元の了解、すなわちピボットできる場がない、という感覚だろうか。それに何のために?

即興演奏は誰でもできる、と私は常日頃思っているし、そう言って憚らない。だが、一期一会でもなんでもいいが、安直に考え過ぎることには甚だ疑問だ。問題はいかに豊かな音楽を創って、足を運んでくださった人たちに聴いていただくか、ということだろう。大切なのは「音楽」だ。

ということで、あれこれの理屈はともあれ、井上さんと木ノ脇さんと知り合えたことは、私にとっては大きな喜びだ。別の機会に何かいっしょにできる予感を、私はとっても勝手に抱いている。もっと時間があれば、もっとお二人とはいろんな話しをしたかった。

ともあれ、このように全然違う音楽が一晩に行われる、ということになったわけだが、今回のチラシの裏面の文章にも書いたように、敢えて言えば、世界にはいろんな音楽がある、ということを味わっていただけたならば、それでいいのではないかと思っている。難解な現代音楽はもう二度と聴かないと思った人もいたかもしれない。あのすてきな歌に何故あんなピアノ演奏をするのかと、腹を立てた人もいるかもしれない。でも、それでいいと思っている。


追記
んで、来月の『くりくら音楽会』も、図らずも、ゲルマン対ラテンの闘いにて候。まんず今後、どこにもあり得ない取り組みかと存じ候。どうぞおでかけください。


10月19日(金)  なりゆきを生きる

標題は某国営放送の某番組タイトルを拝借。なんとなく、いい。

久しぶりになかなかひどい状態のアップライト・ピアノを弾く。椅子も壊れて傾いていたので、これでは腰を悪くすると思い、途中で丸椅子に交換する。ちなみに、このピアノ、取り替えた方がいいと思われる消耗部品はあるものの、その素質(例えば全体の骨格となる木の材質など)は決して悪くないと感じた。ただ、まったく愛情をかけられておらず、メンテをされていないから、あのようなかわいそうな状態になっている。

んで、こうなったら、その状態を受け入れて、なりゆきを生かす、生きる、しかない。というような意気込みなどは皆無の私だったが、自然にあのような演奏になった。その響きを楽しむ。なりゆき、思いつき、で右に曲がったり、空へ飛んだり。

そういう意味で、吉見征樹(tabla)さんの柔軟性は文句なくすばらしい。それに彼はいつもちょっと先を読んでいる。インド音楽は時間的な横軸が綿々と続くが、それをふっと断ち切るかのような、あの独特なユーモアのある演劇的なふるまい(音楽)は、彼ならではのものだろう。

終演後、吉見さんから、つまり眼と耳の先輩から、中性脂肪の落とし方も教えてもらう。まずは3ヶ月で5キロ減量をめざしてみよう。・・・って無理かなあ、私。


10月21日(日)  尊い

親戚の伯母が亡くなった。徐々にアルツハイマーが進行し、約13年間寝たきりの状態で、最期はもう誰が誰とは認識できないような状態だったそうだ。

3人の子供(つまり私にはいとこにあたる)がいて、その一番上の子供が12歳、下の子供が5歳の時に、父親が亡くなってしまった家族だった。当時、タクシー運転手をしていた伯父は、タクシー強盗に遭い、殺されたそうだ。新聞にも大きく載ったらしい。

残された伯母は女手一つで、小学校の用務員さんの仕事をしながら、子供たちを立派に育てあげた。豪快な笑顔がとってもよく似合っていた女性で、庶民の生活感があり、私にはとてもたくましく見えた。

幼い頃、花札という大人の遊びがあることを知ったのも、伯母の家で、だった。楽しそうに花札をしている母を見て、なんだか知っている母とは別人のように感じられたのを憶えている。また、その小さな家にはお風呂がなく、初めて銭湯というものの存在を知り、当時は髪の毛を洗うには別に料金を支払わなければならなかったことなど、あれこれ驚いたのも、その伯母の家に泊まった時のことだった。そこにはそれまでの自分が知っている生活や文化とは違う雰囲気があった。

土曜日、お通夜に参列し、何故かはっきり憶えていた、幼い頃にお会いした隣の肉屋のおばさんと再会する。もう肉屋さんとしか思えない肉屋のおばさんという感じの方だ。先方も私の名前を憶えていて下さった。

そして、お経が読まれ、順番に線香をあげている時、突然「とても尊い」という思いがこみ上げてきた。朝から晩まで身体を動かして、いっぱい働いて。最期は寝たきりになってしまったけれど、伯母は実に尊い人生を生きたと思う。涙をこらえた。ほんとうに、心底、そう思った。

ポアンカレの法則でもなんでもいいが、ともあれ宇宙のことを、あるいはそこはもっとピアニッシモで、と言ったりしている音楽のことだの、コギトだかなんだかの哲学にしても・・・、そうしたことより、一日一日を生きる、生活するということの尊さのようなものを、ものすごく感じた。

告別式ではいとこたちはそれぞれに「ありがとう」を言っていることがよくわかった。同日、初七日の法要も終え、精進落としのお料理を頂いている間は、あの人は誰?この人は誰?状態が続いた。

私の母方の兄姉たちは全部で7人いたらしい。そのうち2人は幼い頃に亡くなってしまっているが、末っ子の母とその一番上の姉とはひとまわり以上歳が離れている。これで、母は姉2人、兄1人を亡くしたことになる。

その姉たちはいずれもあまり幸福な結婚生活には恵まれなかった。母の父も母が6歳頃に亡くなっているらしいから、母の母もまた女手一つで子供たちを育てあげたことになる。つまり、女性とはいえ、とにかく自立して自分で稼いで生活していかなくてはならない生涯を送ったという風に言えるかもしれない。

そういう意味では、兄姉の中では、母はもっとも幸福な結婚生活を送ったと思う。父が亡くなってから、約1年間はまったく元気がなかった母だが、その後の好奇心溢れた、自立的な行動には、正直、ちょっと驚いた。私が演奏する地方でのコンサートに来て、生まれて初めて一人でビジネスホテルに泊まったのも60歳も半ば頃、父が死んでからのことだ。それはこうした母方の血なのかもしれない。

そして、革命だの闘魂だの、体制側だろうが反体制側だろうが、社会というものと深い関わりを持ち続けてきた黒田の血を、自分は色濃くずっと抱えている思ってきたが、どうやら母方の血もかなり受け継いでいるのではないか、と思うに至った。


10月22日(月)  初めての頃

来週、初めてライヴ・デビューをする生徒がレッスンに来る。デビューするにはちょっとまだ早過ぎると思っているのだが、とにかく、することになったそうだ。んならば、特訓。シゴクしかない。彼女は音大は出ているものの、ジャズなどのポピュラー音楽をやってきたわけではなく、他人といっしょに演奏したことがほとんどない。(いったい日本の音大は何を教えているのだ?)だから、今回のことはきっと良い経験になると思う。うんと恥をかくといい。

かく言う私もたくさんの恥をかいてきた。ジャズという音楽にはどうやら暗黙の了解の領域があることがわかったのは、ある程度経験を経てからのことだった。「グリーン・ドルフィン・ストリート」はこういうリズムで演奏するのが当たり前、「枯葉」のキーは通常はGm、「オール・ザ・シングス・ユーアー」のイントロはこう・・・みたいなパターンや常識のようなものがたくさんあることを知らなかった。

「ミスティ」は通常このように終わる、という単純なことさえ知らずにいた。で、ほんとにやり始めた頃、年上の女性手に「エンディングはちゃんと書いてください」なんて言ったこともあった。無論、その後、私に声がかかることは一度もなかったことは言うまでもない。

いろんな店で演奏した。誰一人聴いていないような所でもたくさんやった。この指で稼ぎ始めた頃はちょうどバブリン真っ盛りの時代だったから、ほとんどの夜店では誰も聴いてなかった。領収書とタクシー券が宙に舞い、その分、人の声も高かった。

ミニスカートを穿いて演奏させられた銀座の会員制クラブや、真っ赤なロングドレスを来てピアノを弾いた赤坂のナイトクラブのような所や。あ、シェーキーズでも演奏したっけ。と書いただけで、鍵盤がベトベトになる気がするが。で、その時の印象が残っていて、どうも未だに「明るい表通りで」になんだか違和感があり、「ラバカン」がイマイチ好きになれないでいる。


10月25日(木)  「企み」の仕事術

今年8月に亡くなった阿久悠の写真詩集『歌は時代を語りつづけた』(NHK出版)、さらに本人が書いているエッセイ『「企み」の仕事術』(KKロングセラーズ)を読む。

1967年から1996年までの作詞作品は5000曲に及ぶとのこと。他にも映画化された『瀬戸内少年野球団』をはじめとして、小説も多く書いていた人だ。これまで小説は読んだことがなく、今回初めてその文章を読んだが、それは時にユーモアもあり、読みやすかった。

そもそも阿久悠というペンネームもシャレで、“悪友”からとのこと。そのゴリラのようなごつい顔も含めて、なんとなくどこかちょっとだけジャズっぽい。それは時代を観る視点や、ちょっとだけ先を読むような感覚が、ストレートではない感じがするからだと思う。一つの事象や人間(歌手)を真正面に一つのところから観るようなことをしない感じだろうか。ちょっと斜めに観ていたり、というような。

また、彼は長年“スター誕生”というテレビ番組の審査員をやっていた。そこからは、森昌子、桜田淳子、山口百恵、岩崎宏美、小泉今日子、中森明菜といったスターたちが誕生している。その作詞ももちろん手掛けていて、単に歌の詞を作るというだけではなく、すべてが「企み」(一人の歌手をどう育てていくかというプロジェクト)だったこともよくわかった。別の言い方をすれば、一人の人間をどう商品として売り出すかという事業の一端を担っていた、という風にも言えると思う。

さらに、阿久悠といえば、尾崎紀世彦「また逢う日まで」、都はるみ「北の宿から」、沢田研二「勝手にしやがれ」、ピンクレディー「ペッパー警部」、山本リンダ「どうにもとまらない」、ペドロ&カプリシャス「ジョニイへの伝言」、石川さゆり「津軽海峡・冬景色」、森昌子「せんせい」、北原ミレイ「ざんげの値打ちもない」、「ピンポンパン体操」、「ヤマトより愛をこめて」などなど・・・。読みながら、えっ、これもなの、ということの連続で、その作品たるや、ものすごい数になることに驚く。

私が小学生から大学生くらいまでは、既にフォークソングなども聴いていたけれど、例えば上記に挙げた曲などは、すべてテレビの歌謡番組で見ていた。おまけに、その時テレビを見ていた家族の風景まで憶えていたりする。

山本リンダがおへそを出してあのような仕草で踊りながら歌っているのを、「なんだ、あれはっ!」と激怒していた父の言葉とか。「宇宙船艦ヤマト」に夢中だった幼い弟が、手を振りながら大きな声で歌っていた光景とか。学生時代、サークルの合宿の演芸会で披露された先輩の「UFO」にみんなで笑い転げたこととか。

エッセイ中、第三章の冒頭の文章。
「僕が作詞家として仕事をしていた60年代の後半から80年代の中盤くらいまでは、歌謡曲の中に時代の空気がしっかりと織り込まれていた。どの歌もその背景には時代の気配を強烈に発散していた。その時々の社会の出来事や個人の思い出が連動していて、曲を聴いたとき、この歌が出たときに自分はどこで何をしていたか瞬時に蘇らせる力があった。」

そして、一行空いて、
「それが今の曲はどうだろう。」

「・・・本来は窓から外に自分以外の生活があって、さらに、社会のうなりがあって、季節があって、何か世界につながるものがあるはずなのに、その気配さえ感じられない。」

昭和12年生まれの彼は、生まれた時から日本は戦争へ向かっていたことになる。8歳の時に終戦を迎え、その9月、いきなり「教科書は墨で黒く塗られ、これまでのことはなかったことにされた世代だ。」
「・・・声高なスローガンにも、政治闘争にも、絶対的な不信感を持っていた。・・・このとき、僕は文化や風俗や音楽が人の心をつかむことにかけては、政治よりもはるかに大きな力を持つことを目の当たりにした。」

そして自ら
「僕にとって、上京(昭和30年/出身は淡路島)、卒業(昭和34年/現 天皇皇后が結婚した年)の節目に、ロックンロールとテレビがあったことは象徴的だ。」
と書いている。

とにかく、この阿久悠の時代への眼差しは鋭く、彼はその時代の波のどこに自分がいるかということをものすごく自覚しながら、したたかに仕事を残した人のように感じた。

ただし、不思議なことに、自分の記憶の中には、阿久悠が書いた歌詞というのは、意味のある言葉としてはほとんど意識されていないことに気付いた。多分、そのメロディーと共に今でもその一部は歌うことができると思うが、なんとなく雰囲気だけが残っている感じなのだ。無論、歌詞の内容を理解するには幼な過ぎたとも言えるだろう。

私が歌詞というもの、というより、歌の詩というものをはっきり意識したのは、むしろフォークソングだった。それは、人生とは何か?といったようなことにひっかかった青春の多感な時期、すなわち小学校高学年から中学生の頃にあたる。

そして、私の大学時代に出現したサザンの「勝手にシンドバット」は、明らかに何か新しいものを感じさせる歌詞でありサウンドだった。同じような意味合いで、この阿久悠もまた前の時代の作詞家の在り様ではなく、GS時代を経て、新しい作詞家の出現の時代を生きた最初の人だったと言えるだろう。それもまた本人が自覚されていたことではあるが。


10月26日(金)  甕の深さ

江戸東京博物館で開かれている『文豪・夏目漱石 〜そのこころとまなざし〜』展へ足を運ぶ。(夏目漱石/1867年〜1916年 今年、生誕140年にあたる。漱石が生まれた翌年に、元号は明治に変わった。)東北大学創立100周年記念、朝日新聞社入社100年、江戸東京博物館開館15周年記念、という冠が付いている。

東北大学と漱石にどういう関係があるのかといえば、“漱石山房”と呼ばれた、漱石最期の住居(東京・早稲田)にあった原稿や日記、書簡、絵画、蔵書などを、太平洋戦争による焼失から守るために、弟子の小宮豊隆が東北帝国大学(現 東北大学)に移動し、そこに貴重な資料を保管したことによる。当時、小宮はその図書館長を務めていて、これらの膨大な資料は「漱石文庫」と呼ばれて、現在もしっかり保存されている。

また、漱石は東京帝国大学の教職を辞して、40歳の時に朝日新聞社に入社している。それが1907年にあたるので、“入社100年”というのは漱石が朝日新聞社に入社した年を示す。ちなみに、新聞小説の連載を始めた最初の作品は『虞美人草』。

展示は時系列に並べられている。800点あまり展示されているというから、自筆書簡の仮名などを読んだりして丁寧に見て廻ると、私などは約2時間もかかってしまった。卒論で漱石をとりあげ、ともあれ全集のすべてを読んだとはいえ、さらに卒業後も某出版社でこうした明治大正時代の作家たちに関する本作りに関わったとはいえ、こうしてこれだけの自筆原稿などを直接見るのは多分初めてのことだ。

その自筆原稿や書簡、日記などの文字は、かつて学んだ万葉仮名のようなものを思い出して、その形をなんとなくたどっていけば、私でもなんとか読めるものではあった。けれど、すべてを判読するのはもはや難しい。たった百年ちょっとくらいの間に、日本語、特にその文語体の記述はこんなにも変化してしまったということを、突きつけられるように感じた時間でもあった。ちなみに、文章の句読点、「、」はなかったが「。」は、どうも明治39年〜40年頃に出現していた。

漱石が帝国大学に入学する以前の第一高等中学時代の答案用紙とか、授業を受けていた時の本への実に細かい書き込みなどもあった。この当時から、原書による授業があったようで、それへの漱石の書き込みもまたすべて英文であることを、私は初めて知った。今の高校生にはほとんど考えられないような勉学の姿だろう。その勉強の跡を見ただけでも、最初から頭の構造が違うのだあああ、と叫びそうになった。見て歩きながら、その後も私はずっと「すごーい」と言い続けていたような気がする。

今回はイギリス留学時代のことも詳しく展示されていて、『渡航日記』に残されているメモの中、その携行品のことが書かれている箇所に、「フンドシ」「梅ボシ」などが書かれているのを、なんだか笑顔で見てしまう。妻・京子じゃない、鏡子(キヨコと読むらしい?)に宛てた書簡などを見ると、圧倒的な異文化の中に、たった一人で放り出された漱石の心情が、実際に書かれた文字から感じ取られる気がした。

ちなみに、漱石はイギリスに渡る途中で、1900年のパリ万博を実際に見ている。何度も足を運んだらしい。この時代、海外渡航などというのは超エリート中の超エリートしかできなかったわけだが、途中で立ち寄った国々を含め、このロンドン滞在は、その後、漱石を神経衰弱に陥らせる。で、今回はその当時買い求めたという膨大な原書、美術書なども多く展示されていた。

その他、趣味として描いていた絵画やスケッチ、漢詩、正岡子規に添削してもらっている俳句、実際に着ていた着物の袷や襦袢(南蛮模様の女性のもの/ちょっと意外)などなど、たくさんのものが展示されていた。二種類(ブロンズ製と木製)のデスマスクも初めて見た。

非常に充実した内容だった。平たい現代語で書けば、いやあ、もう、めっちゃくちゃ、超〜〜〜頭が良かった人だったのだということを、まざまざと目の当たりにした。死後、その遺体はすぐに解剖されたのだが、その脳味噌は通常の人間の1.5倍〜2倍はあったと言われている。

『猫』が雑誌「ホトトギス」に断続連載されるようになったのは、漱石が38歳(1905年)の時のことだが、漱石は死ぬまでの約十年間に、その代表作となる小説を書いている。仮に一人の人間の生涯を甕にたとえれば、そのたたえられた水の一番上に現れているのがこうした小説作品だとすると、その下には膨大な量の蓄積があることを、今回ほど思い知ったことはない。

人によってその甕の大きさや形、深さなどは異なると思うが、ではいったい私の甕はどれくらいなのかと思うと、なんだか暗澹たる気持ちにもなってしまう。どう考えたって、努力が足りない。と、漱石からは言われる気がする。

入ってすぐの所には、復元された漱石の声(骨格などから声を作り出すらしい)を聴くことができ、それをケータイにダウンロードできるようになっていた。また、出口付近には、様々な漱石グッズが売られていて、某増毛メーカーが漱石の“ひげ”を販売していた。日本のお札になったりもした漱石だが、博士号を辞退したり、明治天皇が危篤状態の時に歌舞音曲が自粛された世の中に「否」を唱えていた漱石は、空の上でこの展示会をどう眺めているだろう。


10月29日(月)  きれいにしましょ

午前中、おそらく十年ぶりくらいに歯医者に行く。少しずつ歯石を除去したり、虫歯を治していくことにした。で、いずれは歯ブラシが届かない位置にあるという親不知を抜かないとならないらしい。

20代後半、ピアノ弾きの仕事を始めた頃だったと思うが、親不知を抜いた晩に演奏していたら、脱脂綿を加えていた口の中が血だらけになって、だら〜っと口元から血が流れたことがあったのを思い出す。山下洋輔(p)さんの著書だっただろうか、歯をくいしばって演奏している云々という記述があったと思う。要するに、演奏している時は歯には相当負荷がかかっているようだ。

加齢なお年頃になると、首から上がだんだんダメになっていく、という話を聞いたことがあるけれど、眼と耳はもうダメだから、せめて歯は早めに対処しておこう。80歳の時に自分の歯が20本あるかなあああ。って、それまで生きているだろうか、私?

でもって、午後はメタボ相談へ、市の保健所に行く。けっこう丁寧に説明やアドヴァイスをしてくれる。その後、整体。

夜は自分の身体ではなく、今度はピアノの調律。9月の半ば頃からツアーに出ていてほとんど家におらず、実は私宅のピアノはあまり弾かれていない。でも、不在だった分、まとめて生徒のレッスンをみていると、ちょっとした音の狂いが気になって仕方ない。

ということで、処女アルバムを録音した時からお願いしている調律師さんに、ピアノのメンテ、調律をしていただく。そして、ああ、ピアノはなんと軽やかな響きになったことでしょう。音質はちょっと硬めで、きっぱりとした表情を見せ、凛々しい感じになった。

調律師さんは夕方5時半頃から作業をして下さり、その後、食事をしながら11時半頃まで、ああだこうだと話は尽きない。ピアノという楽器のこと、音楽のこと、ピアニストと調律師の関係のことなど、話しているうちにあっという間に時間が経ってしまった。


10月30日(火)  木の命を救った人の自伝

『ホルトの木の下で』(堀文子 著/幻戯書房)を読む。現在89歳の画家・堀さん自身が書かれた自伝。これまでも画文集などで心に残る文章を書いてこられた方だが、今回の内容のように、幼い頃のことなどを詳しく書かれたのは初めてではないかと思う。非常に不謹慎な言い方になってしまうが、自分の命の終わりを視野に入れて、半分その覚悟を持って告白しておられるように、私には感じられた。

その立ち居振舞いや言葉遣いからも、非常に育ちの良い、品のある方であることは誰もが感じるとは思う。うふ、大酒飲みだけど。ご両親のことを含めて、ご自分が生まれ育った環境(生家は当時の麹町区、皇居にほど近い、元々徳川時代の旗本屋敷が並ぶ屋敷町)、時代(関東大震災に遭い、二・二六事件に遭遇し、太平洋戦争を経験し)・・・。その中で、一人の女性がどう生きてきたかを知ることができる。人との出会いも含めて、いろいろな意味で恵まれた環境の中で、その才能が育まれてきた様子がよくわかった。

「大正の大震災を皮切りに、戦争の動乱に巻き込まれ、私は一日として安堵することない乱世を生きることになった。無残な日々だったが、乱世は、私を志を曲げぬ強靭で複雑な人間に育ててくれた。奢らず、誇らず、羨まず、欲を捨て、時流をよそに脱俗を夢見て、私は一所不在の旅を続けてきた。自分の無能を恥じ、己との一騎打ちに終始し、知識を退け、経験に頼らず、心を空にして日々の感動を全身で受けたいと心掛けた。肩書きを求めず、ただ一度の一生を美にひれ伏す、何者でもない者として送ることを志してきた。」

これは“あとがき”からの一部を引用した文章だが、仮に私が米寿を迎えるまで生きていたとしても、私にはこんな文章はとても書けないだろう。不思議な感じだが、この文章を堀さん本人が書いたもののようにも思えるし、そうではないようにも思える。のは、何故だろう。

単に私が勝手に幻想を抱いているだけなのかもしれない。難しいところだが、“欲”は厳然としてあったのではなかったか、と思ってしまう。それこそが堀さんを突き動かして来たのではないかと。また、他人から自分の作品が認められる歓びだって、もちろんあったのではないかとも。もしお国が勲章をあげると言ってきたら、夏目漱石のように断るような気はするけれど。

あるいは、「美にひれ伏す」というような感覚を、私は自身の内にまだ見出しておらず、そのためになんとなく肌触りが異なるような印象を受けているのかもしれない。果たして私は音楽にひれ伏して生きてきただろうか?

でも、それもこれもすべて含めて、この一人の画家が描いた絵とその生き方は、私にとってはとても大きな存在として、今、ここに在る。その作品を初めて見た時の衝撃と、初めて堀さんにお会いして胸が震えたことは、生涯忘れることはないだろう。


10月31日(水)  遠い、けれど近い

天性の歌姫、松田美緒(vo)さんの新しいCD『Asas』の発売記念コンサート・ツアーの最終日で演奏する。今回はそのレコーディング・メンバーでもある、ジョアン・リラ(g,vo)というブラジル音楽界の大御所さんを招聘して行われている。

前日、このコンサートのリハーサルに参加して、こりゃ、もしかしたら、私、とても場違いな所に立っているんじゃないかしら、と実はちょっと感じたり。ショーロクラブの方たちや、小野リサ(vo,g)さんのバンドのパーカッショニストなどなど、なにせこれまで一度だっていっしょに演奏したことがない人たちばかりだ。それに当初の予定より人数がだいぶ増えている。

そして、全員がジョアンのことを“巨匠”と呼んでいて、進行のすべてをジョアンが仕切っていた。私が到着する前に、ブラジルの北の方のリズムのことをああだこうだとやっていたらしく、みんなひどくテンパっているようだった。それに、どうもほとんどの人がポルトガル語がわかる様子だ。私はちんぷんかんぷん。なので、ヤケクソでドイツ語で「私はわからない」などと言ってみる。

本番当日の会場の雰囲気も、およそジャズのそれとはまったく異なる。ラテ〜ンな気分。人種が全〜然違うという感じだ。

ジョアン・リラという人が、ジャズ界で言えばどういう人にあたるのかすら、私にはよくわかっていないのだけれど、共演者の様子を見ていると、とにかくなんだかすごい人らしい。みんなが緊張している感じがひしひしと伝わってくる。

といった風に、よく知らないが故の、傍目八目みたいなところが、この日の私にはあったかもしれない。いろんなことがよく見える。そして、聞こえる。

例えば、ジョアンの前にあるモニターの音は気が狂いそうなくらいバカでかい音量だった。これではその隣にいる美緒ちゃんはさぞかし歌いにくいに違いない、とかとか。それで、見るに見かねて、リハーサルは終わったにも関わらず、その後全体の音量を下げたほうがいいと提案してしまう。

ブラジルは遠い。特に私にはリズムが遠い。

以前、巻上公一(vo)さんのCDのために、NYでナナ・ヴァスコンセロス(per)と1曲だけレコーディングする機会があった。あの時も私は拍子のアタマとウラが完全に逆になった。マルコス・スザーノ(per)のパンデイロのワークショップに参加した時も、ひゃあ、この“訛り”は私にはとてもできないと感じた。そんなことまで思い出す。

これは初めてジャズと出会った時の感覚に似ている。ジャズを聞き始めた頃、習い始めた頃は、まったくウラで拍子をとれなかった。いわゆるコードのテンションも聴き取ることなどできず、チャーリー・パーカー(as)なんて、いったい何をやっているのか、さっぱりわからなかった。

けれど、歌は近い。美緒ちゃんがうたう歌は近い。

今回の美緒ちゃんのCDには、日本語の歌も含まれていることもあるが、近い。そして、自分にとって大きな発見であり歓びだったのは、彼女がポルトガル語でうたう歌も、とても親しげな顔を見せてくれたことだ。これはうれしかったあああ。“サウダージ”が何なのか、なんとなく初めて感じられた、みたいな感じだろうか。これは外国人が日本の“わび、さび”をなんとなくわかったというような感覚かもしれないが。

リハーサルの時に、前の晩に作った根菜の煮物を差し入れに持っていったら、美緒ちゃんからは「お母さーん」と言われた私だが、そりゃ、私が20歳の頃にでも子供を産んでいれば、美緒ちゃんはちょうど子供の年齢ということになる。そんな若く、とんでもなくすてきな歌をうたう人から、こんな風にいっしょに演奏する機会を得ている私は、まったくもって幸せ者だと思う。

それにしても、美緒ちゃんの歳の頃の自分を思うと、今、彼女がうたっているような歌を、その頃の自分がうたえたとは到底思えない。彼女はいったいどこでそんな悲しみ、あるいは哀しみを心に受け止めて生きてきたのだろう。

終演後、彼女のお母様と少しお話をしたが、美緒ちゃんは大学の卒業論文で「ファド」のことを書いて賞金をもらったそうだ。また、自分の娘が世界のどこにいるか、どこで歌っているかをwebで調べるのよ、と楽しそうにおっしゃっていた。いやあ、美緒ちゃんと私では、それぞれまったく異なる人生を歩いてきている。夏目漱石を卒論に選び、今住んでいる場所から離れたことがない私とは、ずいぶん違う。

若い時に出会った音楽や、育った土地や環境は、その後の人間の考えや在り様に大きな影響を与えるだろう。だけれど、こんな風に違う人間、つまりこんな私とも何かをいっしょに奏でることができるのだから、音楽は不思議ですばらしい。

終演後の打ち上げはブラジル料理のお店で。やっぱりラテンな雰囲気満載だった。もっと過ごしていたかったが、翌日のツアーの出発が早いので、ウーロン茶を一杯飲んで早退。

心温かいスタッフの方たちに支えられた、とてもいいコンサートだったと思う。




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