4月
4月1日(金)  無機質な顔

久しぶりに六本木のジャズクラブで演奏した。この、なんと約15年ぶりくらいの出来事に、自分でも驚いた。

で、リハーサルが終わってから六本木ヒルズの方へ足を運び、軽く食事をしようとぶらぶらしてみる。が、唖然とした。みんなアルバイトの店員なのだろうけれど、まるで無表情。無愛想。目が死んでいる。たまたまそうだっただけかもしれないが、ここは人間のいる所じゃない、とさえ思ってしまった。ああ、怖かった〜。そっかあ、このビルの上の方に、ホリエモンさんがいるのねえ。


4月2日(土)  朗読と音楽

これまで足かけ約10年くらい、代々木・ナルでほぼ隔月で続けてきた『語りと音楽』が、今日でひとまずピリオドを打った。語りの人たちは少し休憩に入るそうだ。

そもそも最初は、アナウンサーやナレーションを仕事としている女性たちがたまたま店を訪れ、彼女たちの語りに私が適当に音楽を即興で付けたのが始まりだった。まだ今のように朗読が一種の流行りになっていなかった頃のことだ。

一晩に数人が話を読んだりしたこともあったが、ここ数年は3人の女性が中心になってやっていた。一昨年末でそのリーダーだった人がこのナルでの企画から降りて、彼女は独自の道を歩くことを選択し、残った2人が続けてきていた。
音楽は前半は私一人で作ってきたが、後半はもう一人演奏者を招いて、二人で音楽を奏でた。
これまで別のライヴハウスなどで演奏したこともあったし、彼女たちが一年に一回企画していた催しは毎回力の入ったものだった。

私は演劇の音楽や、こうした朗読の音楽もかなりてがけているが、基本的には単に演劇や朗読のBGMや雰囲気作りや情景の説明といった考えで、役者や語り手に対するということは、ほとんどして来なかったと思う。仮に私の演奏や作った音楽が、歌の伴奏という風に、あるいはBGM的に聞こえたとしても、それは私なりに方法論を意識した上でのことのつもりだ。
中には、そうした対峙の仕方を好まない人もいるだろうし、その分リハーサルなどではいわば闘いになる時もあったと思っている。

演劇も朗読も、他人になにがしかを伝えるという点において、まずは、それを人前でやろうという本人ののっぴきならない「動機」(なにせ他人が紡いだ言葉や文章を読むのだ)と、「本」(台本、読む原稿など)が大事だろうと思う。そこが勝負、だ。
そして、それに対して何か音楽を考える方としては、そのことに共感できるかどうかが、大きなポイントになる。

特に朗読に関しては、これを読みたいと思う個人の動機がきわめて個人的過ぎたりひとりよがりなものだったりすると、この話が他人が聞いて果たして面白いと感じるか、何か感動を与えるか、明日への元気を取り戻すことができるか、といったことと乖離することになる。
また、いわゆる黙読して面白いものと、他人に語って聞かせて面白いものとの間にも、用心深く考えなければならない距離がある。

さらに、それぞれの話に対して、明確な方法論や技術を持つことで、初めて”表現”は成立するのではないかと思う。

一昨年末だったか、私は一度このナルの企画から降りると言ったことがあったのだけれど、その際にも、いくつものアイディアや方法論を提案した。話の内容のみに固執するだけではなく、声の使い方(声の調子、スピードなどなど)や言葉を音楽的に考えてみる試みなど。

この企画の再開があるとすれば、これまでやってきた語り手の意識が、朗読というものを自分の人生に必要不可欠なものと思えるまでに大きく育ち、他人に聞かせ伝えるという行為に対して、その方法論も含め、きちんとした表現ができる自信を持てるようになった時だろうと思う。


4月3日(日)  整体に行く

生まれて初めてちゃんとした整体に行った。'90年代初めに、階段から落ちてお尻を猛烈に打ちつけたことがあって、一時期まったく歩けなくなったことがある。その際にはAさんがここがいいと言えば行き、Bさんにあっちの方がいい、Cさんからはこれを試してみてはいかが?と言われればでかけ、ありとあらゆる所に治療に行った私だが、こうしてまともな整体を受けたのは初めてのことだ。

「お客さ〜ん、左足の方が3cmも短いですよ〜」・・・あらら。
その他、いろいろ歪んでいるらしい。右腕の腱鞘炎の元になっている箇所もわかり、おかげでずいぶん楽になった。

知らないうちに眠ってしまったようで、往復の時間も含めると半日を費やすことになってしまったが、ずいぶんリラックスできた。なんだかしゃきっと前を向いて歩く気分になる。


4月7日(木)〜8日(金)  しだれ桜

父が亡くなってから、毎年母に小さな旅行をプレゼントすることにしている。今年は山梨県から静岡県に走っているJR身延線の旅。母が身延山・久遠寺の樹齢四百年というしだれ桜を観たいと言っていたからだ。

前日に下部温泉に泊まり、温泉三昧。つごう3回入った温泉が効き過ぎたのか、坐骨神経痛と腱鞘炎の指が痛む。うんむ、即席ではだめなようじゃ。夕飯には、まだ食べたことがないという母に馬刺しをご馳走。

翌日は身延駅からバスに乗り、久遠寺をめざす。バスは超満員。さすがになかなかの人出で、観光ツアーバスもひっきりなしにやってくる。

見上げる石段。287段あるそうだが、非常に勾配がきつく、一段の高さもかなり高い。意を決して登る。ちょうど70歳を過ぎた母は自分に少し不安を抱いていたようだったが、登り切って自信を持ったようだ。

そして、見事なしだれ桜。満開。もう、もう、もう、超〜満開。ジャスト・イン・タイム。

そこからロープウェイに乗って、身延山の頂上へ。抜群の天気だったが、そこからは富士山などはかすんで見えず。奥の院にも訪れ、私は絵馬に願い事を書いて奉納。なんでもこの奥の院は思親閣と呼ばれ、日蓮聖人が入山して以来、両親や故郷を思って、山の下にある草庵から登ったという所らしい。

時は折りしも”花まつり”にあたっていて、本堂では釈尊御降誕会なるものが公開されていた。私は仏教のことはほとんど知らないので、よくはわからなかったけれど、なかなか荘厳なものだった。音楽は雅楽の合奏だった。着飾った稚児たちもいた。

きわめて自己満足なれど、少しは親孝行ができたか?って、毎日毎日お弁当を作ってくれた母にはとても報い切れないけれど。


4月10日(日)  桜吹雪

心地よく晴れた、風が強い一日。満開の桜たちはここぞとばかりに宙に舞っている。吹雪というよりは嵐に近い。

たくさんの花びらを浴びながら、午後から友人たちと八海山で乾杯。その後、サントリービールの武蔵野工場へ行き、工場見学。天然水にこだわっているというビールの試飲などもして、既にほろ酔い。夕方、既にレースが終わった東京競馬場に立ち寄ってから、竹林の見える喫茶店でコーヒー。夜、リハーサルのある私は帰宅したが、他の人たちは居酒屋へ流れ、最後に駅前で再び合流してコーヒー。
これぞ大人の春の遠足。


4月11日(月)  何のための医者ぞ?

右手腱鞘炎と右手中指の状態がいよいよ少々おかしく、西洋医学の整形外科に行ってみた。地元では評判の良いところと聞いている。雨が降っているから、多少空いているだろうと思ったが甘かった。約1時間半待ったけれど、結局問診だけで終わり、保険証だけが手元に戻ってきた。

「ここは、もう足が全然動かないとか、立ち上がれないとか、手の自由が利かないとか、そういった人たちが来るところで、あなたのように動く人が来るようなところじゃない」といったようなことも言われた。

内心、非常に腹が立ったがこらえた。全然動かなくなるような事態に陥ったらものすごく困るから、今、ここに来てるんじゃないのっ。

整体は私に合っているようだと話したら、整体は特別な資格が要るわけではないし、オウムのようなカルト集団もいっぱいあるから気をつけなさいと冷笑され。ネットで調べたところ、小澤征爾やアシュケナージがかかっているような手の専門医が慶応医大にはいるようだから、紹介状を書いてくれと言ったら断られ。

腱鞘炎は使い過ぎで休む以外に根本的な対処法はないのは重々わかっているが、実際そうもいかず。中指は実は去年の春頃から少しずつ悪化している。。原因は腱鞘炎からも引き起こされていると想像するが、自分の指の具体的な状態、その対処法が不明で、すこぶる不安なのだ。

なんとかせにゃあ。


4月14日(木)  これは何だ?

これは何だ?いったい、何なのだ?
何かがひっかかってしまった。
この一瞬のできごとが、私を突き動かす。

振り返れば、常に私を突き動かしてきたのは、そうしたものだったように思う。なんだかわけのわからないものに出会って、自分がわけがわからなくなるのだ。そしてその何かはじわじわと身体に沁みて来て、心は落ち着きどころを求め始める。

箱根にある成川美術館の一室をぐるぐると歩き回った。今では少し遠い記憶になってしまった2002年12月のことだ。その部屋を一周すると、何かが私を捕えて、気になって仕方がない。それでまたもう一周する。また一周・・・。

そこに飾られていた絵は、同じ作家でありながら、それぞれ、かなり作風が異なっていた。あ、どこかへ行こうとしている、という感じ。非常に美しい。とてもはかない。厳しい孤独。なのに、温かいユーモア。何なのだろう、これは?

それでネットで調べまくった。銀座にある画廊がその作家の作品を扱っていることがわかり、年末にはカレンダーを買いに行った。それから毎年購入している。おまけに、去年の暮れには、その作品を版画にしたものを、思い切って買ってしまった。画文集なども出されているから、当然それらも購入する。ポストカードなども手に入れてしまう。

大正7年生まれの女性。80歳を過ぎてから、ヒマラヤ山麓を訪れ取材旅行をされている。私なぞとてもとても足元にも及ばない、時代を生きてきた大先輩だ。

その方に、こんなに早くお目にかかれるとは、夢にも思っていなかった。出かける前から、胸はばくばく。妙に緊張している自分を見る。お話しを聞いている途中で、目から涙があふれそうになった。

非常にかわいらしい方で、とっても無邪気な感じの方だった。好奇心に溢れ、自分に正直に生きていらっしゃる印象を受ける。少々足腰が弱くなってきているとおっしゃられていたが、いやいや、どうして、とてもよくお話しされる。

堀文子さんとお会いして、同じ女性として、いろいろなことを感じ、学んだ一晩だった。


4月22日(金)  その時、生まれる音

ここのところ、いわゆるジャズ・クラブで、ジャズのスタンダード・ナンバーを演奏しアドリブをする、といった仕事がとても少なくなっている。が、別に拒否したり放棄したりしているわけではない。
縁あって、例えば金丸正城(vo)さんなどからは時々声をかけていただき、いっしょに演奏する機会を得ている。それは私にはとても学ぶことが多い、楽しい、貴重な時間になっている。

ともあれ、では、今、あなたは何をやっているのか?と問われると、とりいそぎ即興演奏をやっています、と答えている自分がいたりする。

事実、16日には平野公崇(sax)さんを迎えて黒田京子トリオのメンバーと、19日にはそのトリオで、そして昨日は急遽ソロで、そんなことをやっている。
その方法は様々だが、まったく何も決めていない即興演奏の時もあるし、テーマやごく簡単なメロディー、モティーフが提示される場合もある。

そういう意味では、トリオでの演奏は約束事や決め事がきわめて少ない状態で成立している、かつ仮に同じ曲をやっても比較的先回とは異なった結果になっている、私にとってはきわめて稀なユニットということが言える。その日のそれぞれの体調や精神状態に左右されることも多いという危険性も常に内包してはいるが、こんな風に継続しているのもなかなか稀有なことではないかと思っている。

かたや、このトリオでは昨年のブラームスなどに引き続き、今年もクラシック音楽の曲をやろうということで動き始めている。
既にこのwebの「エッセイ」にもアップしているが、昨年、ブラームスのピアノ三重奏曲をやったことは、私にはとても大きな意味を残した。
そしてそれとは別にJ.S.バッハの曲をやろうかどうしようか、という動きもあり、その最初のリハーサルもしてみた。

そして、今、誤解を恐れずに言えば、私の中では、譜面に書かれたクラシック音楽を演奏することも、何一つ決めていない即興演奏をすることも、同様の意味を持ち始めていることに気づく。

かつて、昨日はジャズ・ヴォーカリストの歌の伴奏をやり、今日はフリー・ジャズをやり、明日からは演劇の音楽、といった活動の仕方をしている自分に少々混乱した時期もあったけれど、そうしたことが自分の中で矛盾がなくなったと思ったら、今度私の前に現れたのがクラシック音楽だった。それが約1年くらいかけて溶解してきた感触だろうか。

誰と、何をやるか。
そして、すべては、今、そこに、生まれようとしている、音。
そこにきちんと自分の身を置くこと。


4月23日(土)  じろじろ

午後、劇団・トランクシアターの公演『風の又三郎』を観に行く。私は音楽監督になっているらしいが、今回の公演に関しては監督は務めていない。劇中に使われていた宮沢賢治が作曲したもの以外は、すべて作曲や編曲をやっているが、今回は多少アレンジが異なっているものもあったようだ。

約1時間にうまくまとめられていて、トランク1個を持ってどこへでもでかけて芝居をする、というこの劇団の身の丈には合っている演目になっていると感じた。

夜は大泉学園・inFのライヴへ。高田和子(三絃)さんのCD発売記念ライヴということで、高橋悠治(p,computer)さんが初めてここで演奏されるのだ。

1980年代、悠治さんが「可不可」のシリーズをやり始めた頃、あるいはジョン・ゾーンと関係を持ち始めた頃、ずいぶん追っかけをしていた。八戸にも行ったし、広島にも飛んだ。シンセサイザーなども多用していたが、草月ホールでのコンサートで、アンコールにピアノで弾かれた「トロイメライ」が、今でもとっても深く耳に残っている。涙がこぼれるそうになったほどで、あんなに素晴らしい演奏をするのに、何故ピアノを弾かないのだろう?と思ったこともよく憶えている。

ともあれ、今晩は、悠治さんは各曲の間でエリック・サティ作曲の「グノシエンヌ」を一人で演奏された。その音色はなんともやわらかく、不思議な感じがした。演奏している時、無駄な力がまったく入っていない。余計な感情移入が微塵だにない。鍵盤を押す時、ピアニッシモとフォルティッシモも同じように深いのに、音の立ち上がり方がまったく異なっている。とにかく、もう、じろじろと間近で見てしまった。


4月25日(月)  ゲゲゲ

快晴。月曜日だというのに、多くの団体客で賑わっていた様子の愛知万博のイベントで演奏する。

この万博関係の仕事で既にこの地を訪れた巻上公一(vo)さんは「どう考えてもこのイベントは大きな環境破壊だ」と、web上のdiaryに書いているけれど、まったく同感。私が演奏した会場はおそらく元々は竹林だった所だと想像され、その建物を取り囲んでいる塀は伐採された竹でできていた。これ以上書くと、畢竟、自己撞着になるから書かないけれど。

少し時間があった時に、ぷらぷらと周辺を散歩してみた。そこにあったのは、漫画家・水木しげるのグッズを販売している、ゲゲゲの森。まんまとこれにはまって、一反もめんが飛んでいるTシャツ、何故かりんごを抱えている目玉おやじが付いている三連の根付、それに『水木しげる のんのん人生』(水木しげる 著/大和書房)を買い求めてしまった。目玉おやじの目だけが描かれている傘も欲しかったが、荷物になるのであきらめた。

その本の扉には「ゆっくり くらしなさい」と書かれていて、目玉おやじが茶碗の風呂につかっている絵が描かれている。

『妖しい楽園』(水木しげる 著/PHP)と読み合わせると、水木しげるがたどった人生を概観することができる。1922年(大正11年)生まれの作家は、太平洋戦争でラバウルに出征し、爆撃で左腕を失っている。

先般、”二人展”を開催された堀文子さんや野見山暁治さんも大正時代後半のお生まれだが、この時期に生まれた人たちは20歳代前半に終戦を迎えておられる。彼らに共通しているのは、若くして死んでいった友人や同胞たちへの思い、だ。そして、何故自分は生き残ってこんな風に生きていて、それゆえ、自分は何をすべきかという、強烈な問いの中で生きてきたということだろうと思う。

戦後60年という節目、という言葉をよく耳にするが、現在80歳代のこうした人たちの内なる声に耳を傾けると、何かを創り出すということはいったいどういうことなのかを新たに問われているような気がして、私は襟を正されるような気持ちになる。


4月30日(土)  唄ごとき

唄ごとき、音楽ごとき、この言葉が含む意味は想像以上に深い。

「唄ごとき」
と、ほとんど酩酊状態の様子の高田渡さん(歌手)が、上目づかいで筑紫哲也氏(ニュースキャスター)に向かって話していた。のを、テレビで見た。その風貌は50歳代半ばとは感じられないくらい老けて見えた。

「1分で終わるから」
そう言って歌ったのは確か「アイスクリーム」という唄だったように思う。適当にピアノを弾いてればいいからとは言われたものの、曲を知らないこともあったが、それ以上にピアノなんか必要ないとすぐに感じた、すごい唄だった。
吉祥寺・サムタイムで、酒井俊(vo)さんと演奏している時に、ふらっと遊びに来た時のできごとだった。

「自転車に乗って〜」
の歌声は、やっぱり深夜放送のラジオで聞いた思い出に残っている。
それでこの間買ったフォーク・ソングのボックス・セットを開いてみると、そこに収められている高田渡さんの曲は「三億円強奪事件の唄」だけだった。「自衛隊に入ろう」は放送禁止歌になったことでも有名だが、社会状況に対して、そして”唄”に対して、こういうスタンスで生きた人もそうはいないだろうと思うし、今後もそうは現れないだろうと思う。

「タカダワタル的」
という映画が公開されているが、もう、その存在自体が特異だったと思う。
それに、”歌”と書くより”唄”と書いた方が何故かよく似合うと、今、こうして書いていて思った。

この頃、この世を去った人のことを想うと、哀しいという気持ちと同時に、生まれてきた人間にはそれぞれの役割というか”分”というものがあることを、つくづく感じるようになった。そして、自分には無駄なことをしている時間はない、と思うようにもなった。それにはもっと自分を見極めなければならないし、他人を理解しなければならないだろう。

今日は亡き父の誕生日だった日。毎年家族で庭でバーベキューなどをやっていた頃の父の役目は、火加減を調節し、肉などをひたすら焼くことだった。小さい頃から、すき焼きでも天ぷらでも鍋でも、奉行は父がやっていた。誕生パーティーや遠足には、父がオムライスやお寿司を作ってくれていた。無論、母も作るのだけれど、そういうことが好きな父だった。昔から大勢の兄弟の先頭に立って、そうしたことをやってきていたらしい。ということで、今日はみんなで手巻き寿司。




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