2004年12月
11月22日(月)〜12月12日(日)  よくぞ走った、バカボン号/その2

1日(水)、一人でバイキング・ランチ。隣のおばさんが信じられないくらい取って来てガンガン食べている。あきれる。それに女性同士だと、何故真っ先にデザートをいっぱい確保するのか。バイキングというのはどうも人間のあさましさが出るようで、心理状態が悪くなる。そんなことを思っているうちに、すっかり食欲を失い、コーヒーを3杯飲む。

夜は前日と同じく博多のニューコンボで演奏。その演奏前に3人で鉄鍋餃子を食べてしまったために、特に坂田さんの真ん前にいた女性は気を失いかけたらしい。教訓を得る。

2日(木)、博多から、湯布院岳、湯煙があがる別府温泉を通って、大分へ移動。海沿いの倉庫街にあるライヴハウス、ブリック・ブロックは、10年以上前に演奏して以来のことになる。夕飯は私の友人のお母様がやっているヘミングウェイで中華を、打ち上げでは主催者のはからいで地元の漁師さんがふるまってくれた、せき鯖としろしたがれいの刺身、でっかい鯛の煮付けなどをご馳走になる。しごく贅沢。

3日(金)、大分から宮崎へ移動。距離にすれば250km弱だが、高速が通っていないので、高速で行くよりもその倍以上の時間がかかる。三連チャンの演奏の後だったこともあってか、この道中が一番疲れた気がする。途中、トトロのバス停があるらしいことを地図で発見。当然寄り道して記念写真を撮る。

夜は主催者の息子さんが働いているというイタリアン・レストランで会食。うーん、美味、満腹。その後、明日演奏することになっている店に寄ると、ちょうどこの地に来ていた、松風鉱一(sax)さんのバンドのメンバーたちと遭う。どろどろになりそうな気配を感じ、私は一足先にホテルに戻って就寝。

4日(土)、雨。夜、宮崎のライヴハウス、ライフ・タイムで演奏。打ち上げで、冷や汁というものを初めていただく。これは暑い夏、炎天下で作業をしているお百姓さんが飲むという、夏バテしていても栄養が取れる、冷たい味噌汁のようなもの。胡瓜が入っているのが特徴的。よく取れているダシに、豆腐、胡麻、野菜が入っていて、実にうまい。他にマスターお手製のちらし寿司やあんこう鍋をいただき、元気をつける。

東京を発ってから、というより実質、足利・ココファームでの演奏から、約2週間が経った。それぞれの心の内に、「長い」あるいは「限界」の二文字が浮かんでは消えている感じ。

5日(日)、宮崎から長崎へ移動。高速で熊本へ出て、フェリーで島原に渡る。フェリーの出発時、すっかり世慣れして餌(かっぱえびせん)を求めて船に近づいてくるかもめの飛ぶ姿に見とれる。

海に揺られること、約1時間。海沿いに走ると、街灯に飾られたサッカーボールが目に入る。国見(高校サッカーで超有名なチーム)はこんな所にあることを知る。(そういえば、秋田県・能代を通った時は、街灯にはバスケットボール、だった。)それから、諫早に住む主催者のご自宅で、夕飯にすき焼きをご馳走になる。

6日(月)、初めて訪れた長崎。演奏前に一人で大浦天主堂(国宝)辺りを散歩し、友人たちにお土産を送る。頭はちゃんぽん(実際、言語が方言でぐちゃぐちゃになっている)、心はびいどろ、身体はカステラ、といった状態だったが、まことにいい天気で、気分転換になる。

長崎という所は、どうも他の九州とはかなり雰囲気が違うと感じる。大昔から異国人が頻繁にやって来た所からかもしれない。実際、地元の人の話では、例えばポルトガル人とのクォーターがそこここにいるらしく、自立心や他者を受け入れる気風のようなものが、いわゆる日本人らしくない印象を受ける。

夜は水辺の公園レストランで演奏。その後、打ち上げ、二次会、三次会と相成り、某人はすっかりハメをはずし、天真爛漫状態。ボクチャン、壊れちゃったもんね〜。深夜3時半過ぎにホテルに戻る。

7日(火)は完璧オフの日。お坊さんの修行をしたことがあるバカボン君の提案で、崇福寺を見学してから長崎をあとにする。

その後、かつてジャズフェスティバルをやっていたことがある嬉野温泉へ移動して休息。大きな老舗旅館の温泉に入り、マッサージを受け、ご馳走をいただき、すっかりくつろぐ。ツアー中、私はこの日がもっとも熟睡できた。今回のツアーでは、密閉性の強いホテルが暑過ぎることや、普段あまり夢を見ない私が毎晩のようにいろんな人が出てくる夢を見たこともあってか、眠りが細切れだったり、外の音で目覚めたりで、どうもうまく睡眠を取れていない感じだったから、余計に爆睡した印象が残る。

8日(水)、嬉野温泉から、大分県・日田へ移動。演奏前、近辺を散歩して、その通りではとても現代的な店でコーヒーを飲んで、静かな時を一人で過ごす。(日田という所は旧いものと新しいものが妙に混在している所らしい。)甘いものが欲しくなったので注文しようとしたら、ケーキは既に終わってしまったという。かわりに出してくれたマーマレード・ジャムの味が忘れられない。

夜はサッポロビール工場内にある試飲室で演奏。うまいビールが飲めるぞ、と思っていたが、結局私たちは誰も一口も飲めず。

9日(木)、九州を離れ、山口県・湯田温泉へ移動して、夜は駅前にあるライブハウス、Cafe de DADAで演奏。その駅にはものすごく大きな白いきつねの像があった。

10日(金)、湯田温泉から京都へ移動。この移動距離は東京から京都へ行くよりも長い。夜は他の2人と別行動をとり、友人を呼び出して、高瀬川沿いにある葱料理を中心に出す店で会食。

なにせ移動も食事も、ほとんど3人いっしょの毎日だ。移動日にあたる日はホテルを出てから朝食兼昼食をとることになるわけだけれど、私は起きたて早々に丼ぶりものやうどんやラーメンなどを食べるのはちょっときつく、やむを得ない場合を除いて、けっこう一人で喫茶店などでサンドイッチやコーヒーにさせてもらう。ま、そんなわけで、今晩はちょっと違う空気を入れて、葱でリフレッシュ。

11日(土)、京都から愛知県・知立へ移動。夕方、明日の演奏会場を覗きに行ったら、カラオケ大会の決勝戦が行われていた。クラシック音楽のコンサートも積極的に行っている第三セクターがやっているホールだが、基本的には多目的ホールということのようだ。

夜は3人での最後の夜ということで、焼肉屋へ。ホテルの部屋で、仕事料分配事業に着手。

12日(日)、知立市・リリオホールで演奏。夕刻、この日に開通した伊勢湾道路を経由して、そのまま東名を飛ばし、13日深夜0時過ぎに帰宅。ダウン。

各地でたいへんお世話になった主催者やスタッフの方々、足を運んでくださった大勢のお客様たちに、この場を借りて、心から御礼申し上げます。そして最後に、道中を共にし、ほんとうにお世話になった坂田明(as,cl)さん、バカボン鈴木(b)さんに、あらためて感謝申し上げます。


12月14日(火)  長い旅を終えて/その1

旅に出る前の心得。

洗濯すべきものは洗濯して、部屋に乾燥機をかけて干す。
ゴミは捨てる。そのままにしておくとゴキブリの餌になり、黴が増殖し、臭いがたまらなくなる。冷蔵庫の中の点検もすべし。冷蔵庫に入れておいても黴は生える。
無駄な電源は切る。例えばウォシュレットなども忘れずに。
植木に水やりをしっかりやって、愛のある眼差しでみつめて、言葉をかけておく。
二重、三重の戸締りの確認。近所に一声かけておく。
貴重品は絶対見つからない所に隠すか身内に預ける。とはいえ、そのことを自分で忘れることが多々あるから、メモをとっておく。と、そのメモした所を忘れることもあるから、始末が悪い。

旅の道中の心得。

第一は、なにはともあれ健康維持管理。
ホテルはとても乾燥しているから、特に気をつける。
窓が自由に開かないホテルに着いたら、真っ先にフロントに電話をして「決して飛び降りないから」と言って開けてもらう。
なんとしても一日おきには洗濯して、それを部屋に干して寝るとよい。ちなみに、とてもじゃないが、演奏の後なんぼ汗をかいたからといって、深夜部屋に戻ってから洗濯する気になどなれない。が、できるだけこまめにすることが肝要。
スプレー式の化粧水を携帯していると、女性にはちょいと役に立つ。

指が命のピアニストは毎晩保湿クリームをたっぷり塗って、さらに遠赤外線手袋をはめて寝る。
今回はこれに腰痛ベルト、両腕のチタン・サポーター、チタン首輪が、寝る前のルーティーン作業と相成る。

とにかく、バランスよく食べること、充分に睡眠をとること、が肝心。
私はあまりお酒は飲めないので、暴飲することはないけれど、暴食に及ぶことに注意が必要。
胃薬、ビタミン剤は必携。あと、いざという時のドーピングになる栄養剤のようなものも。例えば、演奏前のアミノ酸補給剤は効く。
何故か便秘がちになるので、今回のツアーでは毎朝起き抜けにコップ2杯の水を飲むようにしたら、すこぶる快調。

第二に、適度な気分転換を心がける。
私の場合は、オフの時間はできるだけ一人で散歩。車移動の場合、狭い車内に長時間いるのだから、下手をするとエコノミー症候群になりかねない。また行動を共にしている人たちとの風通しをよくしておくためにも、一人っきりの時間は必須。
そしてよけいな音楽は聞かない。耳が疲れることは極力避ける。

第三に、人生は修業だ、旅は自分を鍛えるのだ、と常に言い聞かせる。
だいたいにおいて、予定などというものは決して計画通りには運ばないのであって、寛大なる心を持って楽しむようにするか、つとめて忘れるようにしないと、およそやっていけない。
つまり、ストレスをためないように、自分でコントロールする精神力を身に付けなければあきまへん。

さらに、移動しては演奏することを繰り返しているわけだから、否が応でも、その場所、その時、その状況に対応する柔軟な自分を作っておかないと生きていけない。
特に自分の楽器を運べないピアニストには、この対応力が要求されると思う。
かつ、その場や空間(演奏する場所の音の響きや演奏目的など)と、その状況に関わるすべての人たちに対して、より良きコミュニケーションをはかれるよう、努力を怠らない心持ちが大切。これには謙虚さがまず必要。時には忍耐強さも欠かせない。

旅から戻った時の心得。

ひたすらぼけーっとする。ただただ寝る。

が、そうもしていられない状況にあることがほとんどで、疲れたと泣き言を言っている身体をなだめながら、洗濯をし、掃除をし、空っぽの冷蔵庫を満たすために買い物に出て、日常を取り戻す。
たまった手紙とe-mailの返事に追われ、特にお世話になった人には礼状をしたためる。
次の仕事の準備をして、それまでとはまったく別の音楽のことを考えて、頭を切り替える。連絡するべき人には連絡を入れる事務作業。
留守中の身内のできごとを聞いてあげる。
体調が悪ければ、マッサージなどを受けに整体か接骨院などに行く。
かくて、これだけで二日間は過ぎ去る。

と、歳を増すごとに、疲労が抜けるのが遅くなっている自分に気づき、少々情けなく思う今日この頃であった。


12月14日(火)  長い旅を終えて/その2

ピアニストにとって、そこで出会う楽器と調律師は命にも等しい。

今回のツアーでも、様々な状況に置かれている、いろいろなピアノに出会った。超小型のアップライトから、スタインウェイのフルコンまで、種々様々。
そして、いろいろな調律師の方、また調律師がされた仕事、に巡り合った。

そこで、私の願い。

ピアノという決して安価ではない楽器。そのピアノを売った楽器メーカー、その持ち主、普段の管理者、そして調律師、この方たちがもう少し協力し合って、どうしたらそこにあるピアノの状態を良いコンディションで維持していくことができるか、を検討していけるような日常のメンテナンス体制を取れないものだろうか。

この不況の世の中にあって、それでなくてもピアノは毎日大量に売れるものではないから、一般ユーザーに対して楽器メーカーが利潤だけ追求しようとする姿勢もわからないでもない。

でも、どうもほとんど売りっぱなしの無責任状態な気がする。この場所に保管するなら、こういうことに注意して、普段はこうしたメンテをすると良い、といったことを、実際にきちんとアドヴァイスなどしているのだろうか。あるいは、まるで自分が生んだ子供のように、そのピアノが生涯を閉じるまで面倒を見るような、愛情深い付き合い方をすることはできないのだろうか。

過疎化した町や村で、そうそう頻繁にコンサートが行われ、ピアノが稼動するわけではないこともよくわかる。ピアノがある、それだけでも有り難いことだと思う。なければ、レンタル、それも有り難いことだ。

が、ピアノは記念品や飾り道具ではなく、弾かれてなんぼの消耗品だ。ふるさと創生、バブリン景気で、こんな山奥にこんな云百万円、云千万円するピアノが、ということに遭遇することもあるが、そこに住む人たちはそれを誇りや自慢にしてはいるものの、ピアノに積まれているのは埃と怠慢、ってなこともある。実際に弾かれることがなくても、なんとかもう少し愛情をかけることはできないものだろうか。

けっこう演奏される機会が多いライヴハウスでは、いろんな人が弾くわけだから、ピアノの痛みが激しいこともよくわかる。それにピアノの維持費にお金をかけられるような、余裕のある財政状態であるわけでもないことも、容易に想像できる。時代の音楽ではなくなったジャズを聞く聴衆も減っているだろうと思うし、それでなくても、ジャズ・クラブへの著作権協会のしめつけはきつくなっているのだし。事情はよくわかる。

でも、それゆえ、調律だけではなく、日々のメンテが重要になってくると思う。そのために、店のオーナーはもっとピアノという楽器のことを学んで知るべきだと思ったり、しっかりした調律師にメンテを任せて、調律師といっしょになって、ピアノの状態が安定するように努力するべきではないかと感じることも多い。大切な財産ではないか。

そして、調律師。繰り返し書いてきているから多くは語らない。音楽を真ん中に置いて、ピアニストと調律師がいかにコミュニケーションできるかが、そのあとに奏でられる音楽を決める、と私は考えている。ちなみに、これは音響さんとの関係も同じ。

今回のツアーでは、正直、これが調律師の仕事か?と思う状態に遭遇したこともあった。一例を挙げれば、それはそこに張られているべき弦とは異なる弦が張られていたピアノだった。(それは本番に調律してくださった方の作業ではなかったけれど。ちなみに、ピアノの低弦は注文しないと入手できないから、当日になってどこかの低弦が切れていることがわかっても、すぐに張り替えられない。)弦は錆びまくっていて、響板の上にはゴキブリの糞とおぼしきものが散乱しているような状態で、私はこのピアノの代わりに泣いてあげようかと思うほどだった。誰からも愛されず、誰にもわかってもらえず、放ったらかしにされているピアノはほんとうにかわいそうだ。

逆に、調律師さんが「よくもまあ、みなさん、こんなピアノを弾いているものだ」とこっそり言いながらも、最大限の努力を揮ってくださったこともあった。あの地を訪れたら、私は再たこの調律師さんといっしょに仕事をしたい。

これでなかなか、ピアニストと調律師の関係も微妙なものがあって、今日のこの整調、整音、調律はどうだっ、とピアニストに対して挑んだり試したりする調律師もいる。「今日のピアノはピアニストの技術が問われる」と調律師さんから言われた日は、私は撃沈。ピアニッシモや繊細な表現が、今の私の技術では創れなかった。

反対に、30代くらいのまだ経験の浅い調律師が冷や汗をかくような、無理難題な注文をつけるピアニストがいるのも事実だ。ピアニストが調律師に意地悪することもあるとも聞いている。

ともあれ、あまり良いコンディションではない楽器を弾くと、身体に非常に負担がかかる。それゆえ、専門的な知識を持つ楽器メーカーや調律師は、そのピアノの管理者と共に、ピアノの維持管理にもう少し力を尽くしてもらえないだろうかと思う。

さらに言えば、これは何も今回のツアーに限ったことではなく、また地方だけの話ではない。東京とて同じ状況の所も多々ある。私はきちんとメンテナンスが施されている立派な音楽ホールでクラシック音楽を奏でているわけではないし、超有名なピアニストで優遇されるような立場にもない。ほんとうに様々な状態のピアノに出会い、誤解を恐れずに言えば、私はそれを楽しんでいる。音楽は楽器や技術にあるのではなく、心、にある。遠い天にあることもあるが、私たちの日常のすぐ、そこ、に生きている。だから、あなたの演奏が聞きたいと言われれば、私はどんな状況でも、弾く。

今回のツアーでは、小屋(ホールやジャズ・クラブなど)の広さやその響きもその都度かなり異なっていたが、全11ヶ所のうち9ヶ所はマイクを使わずに生音で演奏した。その時、その場所で、常に全体のバランスを考えながら、その都度出会ったピアノに、このつたない指と心に応えてくれ〜と呼びかけながら、自分の指が奏でる音が、そして音楽が、どうか人の心に伝わりますように、と願いをこめて演奏してきたつもりだが、さて、どうだっただろうか。


12月19日(日)  フリー

やっと休みだと思える日に、つらつら思いを巡らせる。

フリー・ジャズ、フリー・インプロヴィゼイション。この頭に付く「フリー」とは何だ?

形式化された陳腐なパターン。固執された美意識。自家中毒を起こしている演奏。聴衆を置き去りにすることを、自身表現という言葉にすりかえる肯定。

フリー、に感じる不自由さ。そして、じわじわと沁みて来るような音楽状況の閉塞感。

グールドの繊細さ、カザルスの歌とダイナミズム、の方が、よっぽど”大らかで自由”を感じるのは何故だろう。


12月23日(木)  人形

藤野町に新しくできたスペース(ギャラリー&ライヴ)で演奏した後、打ち上げでおおいに盛り上がる。出色は人形浄瑠璃の人形遣いをされる方との即興セッション。

文楽はこれまでも何回か観に行ったことがあるけれど、こんなに間近に人形と人形遣いの方を感じたことは初めてだ。人形はお七だったそうだが、いや、これが実にすばらしい。見惚れてしまった。めったにないことなので、相当じろじろ見てしまった。

人形を遣う方の息遣い、呼吸、足の運び、動き、そして人形に顔の表情や動作を与える時の彼の顔の表情や仕草を見ていると、その「気」が人形に込められているのが手に取るように感じられる。彼は普段は黒子をかぶっているので、その顔の表情まで観衆にさらされることはないが、その黒子の下にこんなことが起こっているんだなということがよくわかった。

人形の表現、ここから学ぶことがたくさんある。


12月24日(金)  芥子の花

赤く咲くのは芥子の花。・・・どう咲きゃいいのさ、このあたし。と、歌ったのはウタダヒカルのお母さん。

それ、やばいんじゃないの。栽培していたら、お縄ちょうだい。

って、絵の話。やっと少し時間が取れて、銀座の画廊に予約しておいた、堀文子さんのカレンダーを受け取りに行った。らば、版画(シルクスクリーン)が展示されていて、清水の舞台から降りる覚悟で、ええいっ、自分へのご褒美じゃ、と心の中でつぶやき、一枚の絵を求めることにした。それが、2003年作の「芥子」。

自由。

なによりも、自由な風が心に吹いた。そしてあとはユーモアも。

こんな風に生きたい。


12月26日(日)  フォーム改造計画、その後

私の演奏姿を見ていた人から、高音部を演奏する際に、右肘が上がっていると指摘された。それは指の動きとは反する、甚だ無理な動きであることを知った。運動の力学(重力の関係)として考えても、それは容易に想像することができる。
それで練習する時に、右手小指や右手薬指にもっと神経を注ぐようにしてみたら、決して右肘は上がらないことがわかった。

現在、腱鞘炎及び外上顆炎(肘の外側の痛み)、右手中指の痛みが激しい。中学・高校時代にやっていたハンドボールで脱臼した時の左親指の付け根も痛い。長いツアーでの疲れや、激しい演奏にがんばり過ぎたからかと思っていたけれど、おそらく11月初め頃から改造し始めた演奏フォームも、この状態の原因になっていると思われる。

んでもって、あれこれ検索してみたら、こんな記事も。
http://www.yomiuri.co.jp/iryou/life/li380601.htm
ふんむ〜。

まだまだ、だ。あかんなあ。


12月31日(金)  朝陽に照らされて、青い爪が光る

この一年、何ができただろうと、心の中で思う。

子供ミュージカルの音楽作り、無声映画上映に伴う演奏、美術館での演奏など、5年目の活動となった坂田明(as,cl)さんのユニット・miiでのCD発売とそれに伴うツアーなど、印象に残ることはたくさんある。

が、振り返れば、約30年ぶりに楽譜を前にして練習をして、ピアノという楽器に向き合ったこと、演奏家としての自分に直面したことが、多分もっとも自分に残ったことだろうと思う。(そういう意味で、9月に谷川賢作(p)さんがプロデュースした5人のピアニストによるコンサートは、持ち時間一人20分という短い時間ながら、面白い企画だったとあらためて思う。)

なんだ、そんなちっぽけなことか?
と、人に言われても、私には大きなできごとだったと思う。
人はみんなそんな風にして生きている。

そのブラームス作曲、ピアノ三重奏曲第一番を演奏したメンバーで、26日(日)に某スタジオにて録音。また、私にとって今年最後のライヴになったのが29日(木)、同じメンバーでの演奏だった。

ライヴハウスの店主によるプロデュースで始まったこのユニットは、一年間かけて、ここまでやってきた。その店主、そしてその店に足を運んでくださった聞き手と、私たちが創ってきた時間は、少なくとも私のこれまでの音楽活動の中では得たことがない、非常に貴重なものだったと思う。一般的に考えても、かなり類い稀なることのように思う。このような”音楽作り”ができるなんて、なんて幸せなことだろう。

かくして上記二日は両日とも朝帰り。気が付いたら朝の6時だった。よくもまあ、そんなに話すことがあるもんだと思うけれど、これがあるのだから仕方ない。そしてその演奏内容は明らかに充実したものになったように感じている。ライヴはなまものだから、そりゃ、いろいろ波もあるけれど、今年最後の演奏はちょっと違う地平に立ったような気がした。そして、これまでは両足が店に着いていたけれど、片足が上がろうとしている感触。

朝陽が眩しい中、私が乗ったタクシーの運転手さん、金髪でサングラスをかけていて、なんだかあやしい雰囲気。一見して、以前はあの世界にいらっしゃったような。いや、今は真面目にこんなに朝早くから働いている人なのだ。でも無愛想だな。襲われたらどうしよう。なんてことまでは考えなかったが、料金を支払う時、一瞬驚いた。

彼の小指には5cmはあろうかという、長〜い魔女のような青い爪がにょき〜。すてきですねええ、と言い損なったが、えらく印象に残った。実際彼の小指がどうなっているかは知らないけれど、あの青く長い美しい爪は、彼の何かを伝えようとしている気がした。

いきなりですが、ああ、音楽を伝えたい。

2004年も終わろうとしています。今年一年応援してくださった方々には心から感謝いたします。来年もどうぞよろしくお願いいたします。
良いお正月をお迎えくださいませ。




2005年1月の『洗面器』を読む

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