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第22章  歴史に残らぬ出来事   (最終回)

第19、20、21章に続き 「私達の北朝鮮物語」 を紹介します。  


北朝鮮の首都ピョンヤンで迎えた終戦       私達 の 北 朝 鮮 物 語 


行く手に高い山が見えてきました。 あの山の向こう側は、アメリカ軍の支配する

 南朝鮮だと聞かされました。 国境線が近くなり、日本人避難民は、みんな

一団となって坂の多い山道を最後の力をふりしぼり、あえぎながら登りました。

頂上に着いた9月初旬。   38度線を突破した!。

豪雨の中、ずぶ濡れになりながら、米軍の管理する開城のテント村に保護されました。

テントの中は筵や茣蓙でしたが、なんとも言えない温かみを感じ、

ああこれで助かった!!!と涙があふれ出て、みんな言葉もなく泣いていました。

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引揚船 白龍丸   船倉内の状況を再現した展示 (平和祈念展示資料館)

 

私達は開城のテント村で1週間過ごした後、列車で一路釜山に向い、

釜山港からリバティ型輸送船で博多に入港しました。

1週間ばかり検疫のため博多湾に停泊しました。 船内の食事はさつまいも、

内地の味、故郷の味を味わえました。 そして船員達から

日本は食糧難で、諸物価は高騰し、すざまじいインフレだと聞かされました。

船員が歌ってくれた ”りんごの唄” 私達は唱歌と軍歌しか歌ったことがなかったので

この明るい唄がジ〜ンと胸を打ったことを今でも思い出します。

哀れな引揚者で溢れた博多に上陸し、DDTを頭からしっかり振りかけられました。

一人当たり千円の新円の交換を受け、若干の衣類が支給されました。

私達が父の親戚を訪ね、母の実家に身を寄せたのは10月に入った頃でした。

敗戦後の苦しい時代に、私達一家6人を受け入れてくれた母の実家の人々には

今でも感謝しています。 K中学に編入し、再び学生生活を送ることになりましたが、

当時63歳になっていた父、そして母は、4人の子供を抱え、インフレの渦巻く日本で、

家も財産も職も生活基盤もなくなり、全くの裸一貫で人生のやり直しをすることになりました。

過去の外地での豊かな生活への郷愁を絶ち、ひたすら慣れない農作業や、

その他の仕事に体当たりでこなしていった父母の超人的な精神力と行動力には

頭が下がります。その時から半世紀余を経た今、当時のことを振り返っています。

満州やシベリアに関する物語は数多く出版されていますが、

国交のない北朝鮮に関する物語は出版物も少なく、知られていない様です。

もし当時、日本政府がポッダム宣言を早期に受諾していたら、広島・長崎に

原爆が投下されることもなかったでしょう。

またソ聯の参戦も進駐もなかったでしょうから、私達の北朝鮮物語もなく、

日本軍将兵のシベリア抑留もなく、中国残留孤児の悲劇も生まれなかったと思います。

南北朝鮮の分断、対立もありませんでした。そして北朝鮮の日本人拉致事件、

テボドン等長距離ミサイルの恐怖、地下核施設疑惑、工作船侵入等の

不快で不気味な事件が相次ぐこともなかったでしょう。

このように誤った歴史が再び繰り返されないように、私達は過去に経験した

史実を、正しく次の世代に伝える努力を惜しんではならないと思います。

そしてこれらの歴史を刻んできたのは人間であり、

これからの未来に向って歴史を創って行くのも人間です。 

 

北朝鮮の平壤で迎えた敗戦、そして1年余の抑留生活、そして38度線を越え、

南朝鮮への脱出と日本への帰国。 今は遠い遠い思い出となりました。しかし

この出来事は、少年時代の貴重な体験として、私の心の中に生き続けています。

敗戦で外地から引揚げた日本人総数は6,295,496人。

( 民間人3,188,085人、軍人軍属3,107,411人 )

数多くの人々が外地で死んで行きました。  (平和祈念展示館資料)

兄の記録に私の気持ちを込めて4章に亘った私達の北朝鮮物語、

戦後の悲惨な、歴史に残らない出来事です。

  

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