棒 塚 (新居町山の田 洞光院境内) MENU


棒塚

戦国時代の天正12年(1592)4月8日,豊臣方と徳川方が衝突した小牧長久手の戦のおりには,尾張旭の白山林でも合戦がありました。白山林は,矢田川の南側にあり,東西に伸びる丘陵で,現在の市民プールから庄南町にかけての地域にあたります。尾張旭がメジャーな歴史に登場する,ほとんど唯一のケースかもしれません。

長久手の戦の際には,豊臣方の池田勝入の軍勢が,稲葉などの村々を焼き払いながら矢田川を渡河したという伝承もあります。この棒塚(ぼうづか)にまつわる言い伝えも,大軍の出現に驚き,合戦によって被害をこうむった民衆の怒りと悲しみを伝えています。

小牧長久手の戦の際,岡崎へと侵攻しようとする豊臣方の池田軍の最後尾にあった三好秀次の軍は,新居村から食料を徴発しようとした。村には南北朝時代以来の武芸である棒術が伝わっていたが,村人は武力による抵抗を選ばなかった。そこで,松木家(古代家)の末裔にあたる水野吉平は,村人代わって三好軍の本陣に食料供出拒否の意向を伝えに出向いた。しかしこの抗議の行動が秀次の怒りに触れ,吉平は惨殺されてしまった…。

棒塚は,この時に亡くなった水野吉平の弔いのために,密かに造られたとされています。松木家はこの事件によって後継者を失ない,棒の手は農民とともに生きるようになりました。建立された時期はあきらかではありませんが,市内の記念碑としては,例外的に起源が古いものといえそうです。ただし,現在のものは再建碑のようですが…。

かつては城前町八瀬の木前地内の瀬戸街道南側(下の地図の)にあり,瀬戸街道に面して立っていたのですが,今は新居町山の田にある洞光院(下の地図の)の境内に移されています。

※昭和55年発行の小学生用社会科資料「きょうどあさひ」(第6版)に掲載されていた棒塚の写真が,平成元年発行の(第9版)では削除されています。筆者は昭和50年代の終わり頃に,元の場所で写真を撮った記憶がありますから,昭和の末期に洞光院へ移されたと考えていいでしょう。