弥生時代の開始年代

 国立歴史民俗博物館で「弥生はいつからか」というテーマで企画展示が行われているので2007年8月11日に四年ぶりに佐原まで出かけました。四年前にマスコミに大きく取り上げられ、その後の成果の報告を期待してでかけました。九州から東北までの縄文晩期〜弥生の遺跡で発掘された土器に付着した炭化物や、水田に打ち込まれた杭(くい)や矢板で年代測定が行われました。国立歴史民俗博物館では、弥生時代の開始時期の定義を、水田稲作の始まった時期とし、九州北部で水田稲作が始まった前10世紀後半としています。従来の弥生観では、水田稲作と金属器がセットで生産性が非常に向上し、わずか100年間で畿内や東海の一部にまで伝播したことになっていましたが、報告された弥生時代では、早・前期の600年間が石器時代であり、ゆっくりと時間をかけて水田稲作が広がっていきました。

最も古い弥生土器
2004年測定
菜畑遺跡の山の寺式(前10世紀後半)
炭素年代 2730±4014C BP
2007年測定
福岡県橋本一丁田遺跡の夜臼ゆうすT式(前10世紀後半)
炭素年代 2765±4014C BP

弥生時代は「鉄と稲」の時代と考えられてきましたが、新しい年代観では、前5世紀ごろに始まる中国の鉄の歴史と合わなくなってきました。中国の戦国時代の燕国で鋳造された鉄斧を再加工した鉄器が前4世紀に日本列島に現れました。弥生時代早・前期の約600年間は石器時代で、中期から鉄器が一部で使われるようになり、鉄器時代といわれるのは後期からになります。

青銅器は、福岡県福津屋市今川遺跡から、遼寧式銅剣(*1)を原料にして再溶解して作ったと考えられる銅鏃(やじり)と銅ノミがあり、前8世紀ごろ朝鮮半島からごく少数もち込まれました。前4世紀、弥生時代中期になると、朝鮮半島から銅剣・銅戈(か)・銅矛(ほこ)・銅鏡(多鈕紐(ちゅう)鏡)がもたらされ、地域の有力者の墓に副葬されています。青銅の武器は、大型化して、祭器へと変わっていきます。稲の祭りのときに音を発していた銅鐸が、やがて鳴らすことをやめて、高さが1mを超える巨大な象徴へと変わっていった。

水田稲作は、九州北部で前10世紀後半に始まり、前9世紀末に高知県へ、前7世紀初〜中には大分県や愛媛県など瀬戸内海西部でも始まりました。前7世紀末〜前6世紀初に神戸に、前6世紀に大坂で始まりました。奈良盆地には、前5世紀に到達し、約400年かかって西日本全体に広がりました。

弥生時代は、約1200年間と倍に引き延ばされましたが、早・前期の約600年間は石器時代だったのです。渡来(外来)文化と縄文(在地)文化の複合である弥生文化は、ゆっくりと時間をかけてリレー式に各地の伝播し、段階的かつ多彩な内容をもってゆるやかに拡大していきました。

(*1)中国東北地方の青銅器文化(遼寧青銅器文化)は、おもに銅剣の種類によって青銅器の時期が細分される。遼寧式銅剣は、中国東北部中国遼寧省を中心に分布し、遼寧青銅器文化を代表する遺物である。遼寧式銅剣T式は遼河西岸から出土しており、上限年代は西周時代末期から春秋時代初期すなわち紀元前9世紀初頭〜8世紀と推定されている。


 朝鮮半島南部の渡来人によって弥生文化成立の契機が与えられた。弥生文化成立期における北部九州の土器様式の変化、土器の製造技術の変化、さらには支石墓や環濠集落の出現といった社会生活全般の変化、石包丁などの大陸系磨製石器とともに水田など灌漑農耕の技術の伝播を渡来人によってもたらされた。

炭素14年代による上限
九州北部 韓国
無文土器早期 I沙里ミサリ 前13世紀〜前12世紀
縄文晩期 黒川式古段階 前1300〜前1000 無文土器前期 可楽洞カラクトン 前12世紀〜前11世紀
欣岩里ファンニ 前11世紀〜前10世紀
黒川式新段階 前1000〜前950
弥生早期 山の寺式・夜臼ゆうすT式 前950年 無文土器中期 休岩里ヒュアムニ 前10世紀〜前9世紀
夜臼Ua式 前840年
弥生前期 板付T式 前780年 松菊里ソングンニ 前8世紀〜前7世紀



 千葉県佐倉市にある国立歴史民俗博物館は、2003年5月19日、水田稲作が日本に伝わり弥生時代が幕を開けたのは、定説より約500年早い紀元前1000年ころ、と特定する研究を発表しました。
 国立歴史民俗博物館の企画展示「歴史をさぐるサイエンス」の中で「弥生時代の開始年代」について解説されていることを知り、11月8日(土)に片道2時間かけて佐倉まで行き、研究者の説明を聞いてきました。

 九州北部の弥生早・前期の土器である、夜臼(ゆうす)U式と板付(いたづけ)T式の煮炊き用土器に付着していた煮焦げやふきこぼれなどの炭化物をAMS法によって計測し、実年代に換算したところ、11点の資料のうち10点が紀元前900〜750年に集中する結果を得ました。したがって、北部九州の1角で水田稲作が始まった夜臼T式の年代は、紀元前1000年ごろにまでにさかのぼる可能性がでてきました。

 これまで弥生時代の実年代は、北部九州の甕棺墓に副葬されている製作年代のわかる前漢の鏡の年代を基準にして、弥生前期後半を紀元前1世紀としていました。それ以前の弥生早期・前期・中期の開始時期は、弥生土器1型式の年代幅を30〜50年として土器型式数をかけた相対年代によって決められていました。土器1型式の年代幅を30〜50年としたのは、1世代の年数が根拠で、直接的な証拠はなく、考古学的推測に基づいています。歴史にもグローバル化の波が押し寄せ世界標準になっているAMS法が適用されて、今回の弥生時代の開始年代の見直しが行われました。

 これまで水田稲作は、朝鮮半島から伝わったとされていましたが、弥生時代の開始年代が500年早まると中国の江南(長江流域)から直接、朝鮮半島南部と日本に伝わった可能性がでてきます。

 弥生時代が紀元前1000年から紀元後300年までだとすると1300年の長さになり、この時代に何があったかは、今後東アジア全体の中で解明されていくでしょう。  


AMS法
 生物が大気から取り込んだ放射性炭素14の濃度は、死後、次第に低下する。その減り具合を測定し経過時間を割り出す。
 加速器質量分析法(AMS法:Accelerator Mass Spectrometry)は、加速器で炭素原子をイオン化して加速し、微量の炭素14原子を一つ一つ数えることによって濃度を測定する。現在は、1ミリグラム以下の炭素資料を0.3〜0.5%の精度(年代換算で+ー30〜40年)で測定できるようになった。
 測定で得られた炭素14濃度から得られる「炭素14年代」を、さらに暦年のスケールに換算することを、「暦年較正」とよぶ。これは、大気中の炭素14濃度の変化の影響を補正するためである。そのための国際的な巨木の年輪測定による「暦年較正データベース(INTCAL98)」が作られている。したがって、炭素14による高精度年代測定法は、その基礎を年輪年代に依存している。
加速器質量分析計

炭素14年代の較正にもとづく弥生時代の実年代
は年代を計測した弥生開始時期の土器形式  は年代を計測した土器形式

従来の考え方 新しい年代感
水田農耕による稲作の始まり 弥生時代の幕開けは紀元前500年頃とされてきた。そして、水田農耕による稲作は、中国の戦国時代(紀元前5〜4世紀頃)の混乱期に大陸や朝鮮半島からの渡来人がもたらしたものと考えられてきた。
弥生時代の開始が約500年遡る可能性が出てきて、大陸からの影響は殷(商)が滅亡し、西周が成立する頃(紀元前11世紀)を考えねばならなくなり殷(商)、西周の政変で日本に亡命した人々が、中国の江南から日本に直接稲作をもたらした可能性がある。
弥生文化の伝播 紀元前5〜4世紀ごろに九州北部に水田稲作をもたらした南部朝鮮からの渡来人と、在来の縄文人とが融合してつくられた弥生文化は、100年強ほどで西日本一帯に一気に拡大し、短期間に急激な人口増加や階層分化をもたらした。 水田稲作の拡大力は従来考えられてきたほど強力ではなく、その開始から数百年ほどかけてすこぶる緩慢に、日本列島各地に普及・定着していった。北部九州から畿内へ水田稲作が到達・定着するのに、400〜500年の期間がかかった可能性が高くなった。人口の増加もいままでより時間が長くなり、ゆるやかな増加になる。
青銅器 朝鮮半島で発達した青銅武器は、弥生前期末の北九州にもたらされた。
舶載された細形青銅武器は日本で作られると、中細形、中広形、広形へと変遷したが、それは武器から祭器への変貌を示している。
甕棺出土の細形銅矛や細形銅戈(どうか)は殷・周時代の中国最古の青銅器に似ている。中国の影響が日本に直接及んだ可能性も出てくる。
形式が似ているだけでなく、銅原料も似ており原産地は、中国の雲南省とみられている。
鉄器 中国では春秋時代晩期に鋳造品が現れ、戦国時代になると普及する。鍛造が始まったのは戦国時代中期で、普及するのは戦国時代晩期である。鉄器は朝鮮半島からもたらされ、それは戦国時代の燕の鉄器文化の影響であるから、弥生早期は前5世紀を上限とする。 福岡県の曲り田遺跡の鉄器など弥生早・前期の鉄器は朝鮮半島からもたらされたと考えられているが、その時期の朝鮮半島ではまだ鉄器が発見されていない現状がある。鉄器の問題は、新しい年代論を否定するために活用するよりも、新しい年代論を考慮しながら、中国・朝鮮半島・日本の鉄器の普及がどこまでさかのぼるのか研究を進めたほうが実りある成果が期待できる。鉄器も炭素年代の測定が可能であるから、測定を実現するようにもっていくほうが建設的である。
曲り田遺跡の鉄器
幅:3.2cm
『魏略』の倭人は太伯の末(子孫)であるという伝承

『魏略』は、280年魚拳により書かれた魏の歴史書で、『魏略』より2〜3年遅れて陳寿がまとめた『魏志倭人伝』の原本になっている。
太伯(紀元前12世紀ごろ)は、周の文王の伯父で、春秋時代の列国、呉の建国者であり、長江流域を領土としていました。呉は紀元前473年、越に敗れ、難民が日本にやって来た。

『魏志倭人伝』に描きだされた倭人の風俗 『魏志倭人伝』に描きだされた倭人の風俗は圧倒的に南方的であって、中国南部から東南アジアにかけての文化、ことに江南の古文化と密接な親縁関係をもっている。 刺青の風習や貫頭衣などは、中国南部から東南アジアの風俗である。
抜歯の風習 弥生前期に上顎左右の側切歯を抜く大陸系の型式が登場する。この型式は朝鮮半島になく、中国では東海岸で春秋時代前期まで存在し、弥生前期が紀元前8〜前5世紀であれば、中国からの伝播をスムーズに説明できる。
中国江南直接渡来説 弥生文化の伝統のなかには、朝鮮半島とはつながらないが、中国南部とは、つながるとみられるものがすくなくない。高床式の建物、鵜飼、歌垣などである。
神武紀元
紀元前660年
神武紀元が紀元前660年に設定されていることをもって、ただちに古事記や日本書紀の記述の荒唐無稽さを言い立てることが、それほど当たり前のことではなくなってしまう。列島社会に紀元前7世紀に何らかの国家形成に向けての動きがあってもおかしなことではなくなってくる。


国立歴史民俗博物館のホームページ

参考文献
(1)歴史を探るサイエンス              国立歴史民俗博物館  2003年10月20日発行
(2)歴博No.120 弥生時代よ どこへゆく    国立歴史民俗博物館  2003年 9月20日発行
(3)弥生時代千年の問い−古代史の大転換−      ゆまに書房      2003年 9月24日発行
(4)東アジアの古代文化117号 2003年秋号   大和書房       2003年11月10日発行
(5)季刊 邪馬台国81号              梓書院        2003年 9月 1日発行

(6)弥生はいつからか                国立歴史民俗博物館  2007年 7月 3日発行
(7)歴博フォーラム 弥生時代はどう変わるか     学生社        2007年 3月25日発行



 2003年12月21日(日)の「歴博研究報告会」で5月から12月までの間に九州北部の縄文後・晩期、岡山・近畿の弥生前期から後期、および韓国南部の無紋土器時代の資料の測定を行い、研究成果の発表があった。

北部九州 四国 中国 近畿
弥生早期の始まり 前10世紀
縄文晩期の黒川式(新)の年代が、前1120〜前910年(90%の確立)の間にあった。
(佐賀県東畑瀬3点、
 石木中高遺跡2点)
夜臼T式の年代は現在測定中である。
弥生前期の始まり 前9世紀末〜前8世紀前半
(夜臼Ub式、板付T式)
前9世紀末〜前8世紀前半以降で、北部九州より若干遅れる可能性もある。
前810年〜前600ごろの年代に相当。
(高知県居徳遺跡3点、
 ほかに5点)
前8世紀〜前5世紀の間にあるが、まだ十分に絞り込む段階にいたっていない。
(奈良県唐古・鍵遺跡3点、
 大阪府瓜生堂遺跡1点)
弥生中期の始まり 前4世紀前半
城の越式は前4世紀のうちに収まる。
(福岡市雀居遺跡1点、
 日田市大肥条理遺跡1点)

中期前葉の須久T式の年代は前4〜前3世紀の間にあるが、前3世紀の可能性が大きい。
(福岡市姪の浜遺跡1点)
前4世紀である確立がもっとも高い。
弥生中期初めは前390〜前220年の間におさまる。

(岡山市南方遺跡4点)
前4世紀前半〜中頃
弥生前期末・中期初めは前390〜前250年の間におさまる。
(奈良県唐古・鍵遺跡10点


 韓国南部と北部九州の土器型式の併行関係は炭素年代においても追認され、朝鮮半島の無紋土器の各時期も通説よりもはるかに古いことが再確認された。

韓国南部 年代 北部九州
無紋土器早期(突帯文) 前13〜前11世紀
無紋土器前期(孔列文) 前13〜前11世紀 黒川式
無紋土器中期前半(先松菊里式) 前10〜前9世紀 夜臼式T・U式
無紋土器中期後半(松菊里式) 前9〜前8世紀 板付T式