江古田原・沼袋合戦前の関東の情勢

年代 

出来事

1335年7月
(建武2年)
中先代の乱
鎌倉幕府の有力官僚だった諏訪一族は、北条高時の子時行を擁立して信濃で挙兵し、鎌倉をめざした。北条高時の鎌倉支配は二十日余りで足利尊氏の率いる西国の軍勢に鎮圧された。                                                北条を先代、足利を当代とすると、北条時行の時代は先代の中興となるため中先代の乱と通称された。                         
1335年10月
(建武2年)
足利尊氏は、専制政治をめざす後醍醐天皇と対立を深め、幕府再興をめざして挙兵する。
足利尊氏の西上にさいして、尊氏の息子の千寿王(後の義詮よしあきら)が鎌倉に残り、斯波しば家長が補佐した。
1336年5月
(建武3年、延元元年)
足利尊氏が湊川(兵庫県)で楠木正成・新田義貞を破る。
1336年11月
(建武3年、延元元年)
後醍醐天皇の建武新政権は、後醍醐天皇が神器を光明天皇に渡して、ひとまず終わりを告げた。足利尊氏は『建武式目』を制定し、室町幕府を開く。
1336年12月
(建武3年、延元元年)
後醍醐天皇は吉野に逃れ、南朝を開いたために、南北朝の動乱時代が始まった。
1337年12月
(建武4年、延元2年)
後醍醐天皇の要請を受け、陸奥の北畠顕家あきいえ(北畠親房ちかふさの長男)が西上して鎌倉に入り、斯波しば家長は合戦に敗れて自殺した。北畠顕家あきいえの軍勢は、鎌倉を荒らしたが、十日間ほど鎌倉にいただけで翌年正月には西上し、七月には義詮が鎌倉に戻っている。
1349年7月
(貞和5年、正平4年)
足利尊氏の弟、足利直義ただよしが失脚すると、足利義詮よしあきらは上洛して政務をとりはじめるが、七月には義詮の弟の足利基氏が鎌倉に下ってきた。ここに鎌倉府が設置され、鎌倉公方(鎌倉御所)として、東国十ヵ国を統括する体制が成立していった。鎌倉公方のもとに、関東管領かんれいがおかれ、評定衆、引付衆、問注所、侍所、禅律奉行などがあった。関東管領には、上杉憲顕のりあき高師冬こうのもろふゆの二人が任命され、両管領と呼ばれた。
1350〜52年
(観応元年〜3年)
観応かんのう擾乱じょうらん
足利尊氏の執事高師直と尊氏の弟の足利直義との確執が、足利尊氏と足利直義との対立までに発展し、足利政権をま二つに分けた激しい内紛だったが、足利尊氏の勝利をもって一応終結した。この合戦を尊氏が本陣を構えた場所の名を取って薩埵山さったやま合戦と称する。
足利尊氏と足利直義の勢力が東国を舞台として激突した約四か月の間河越直重を筆頭とする武蔵の秩父平氏一族は、平一揆たいらいっきとして終始尊氏方に属して勝利に導いた。
関東管領高師冬こうのもろふゆは、直義派である上杉憲顕のりあきと対立し、破れて甲斐にて自害した。
上杉憲顕のりあきは、足利直義に味方したため上野・越後守護職を足利尊氏によって解任された。
1352年
(文和元年閏2月)
武蔵野合戦
上杉憲顕のりあきと南朝方の宗良むなよし親王を奉ずる新田義貞遺児新田義宗・義興ら反尊氏勢力がいっせいに蜂起し、武蔵を進撃し鎌倉に迫り、新田義興は鎌倉を一時占拠した。人見原・金井原の合戦で尊氏軍は敗れて、一時石浜に退陣した。石浜で軍勢を再結集して勢いを盛り返しふたたび小手指原・笛吹峠の合戦で新田・上杉軍を撃破した。
1353年7月
(文和2年)
薩埵山さったやま体制
関東管領に畠山国清、相模国の守護職に河越直重が任じられた。
1368年2月
(応安元年)
武蔵平一揆の乱
公方足利基氏によって畠山国清が追放され、1363年3月に足利直義党の上杉憲顕のりあきが関東管領に復帰した。平姓秩父系武士団は上杉氏に大きく圧迫され、1368年2月に河越直重を大将とする武蔵平一揆が河越氏居館に蜂起したが、幕府の支持を背景にとした上杉氏によって討伐される。
武蔵平一揆の盟主の河越・高坂両氏は滅亡し、以後武蔵国は関東管領上杉氏の守護国となる。
関東管領が上杉氏の世襲の職となり、鎌倉公方足利氏と上杉氏による鎌倉府の支配秩序が確立した。
1416年
(応永23年)
上杉禅秀ぜんしゅうの乱
前関東管領の犬懸いぬがけ上杉氏憲うじのり(禅秀)が蜂起し、一時鎌倉を制圧したが、結局は敗れ自害し犬懸いぬがけ上杉氏は滅んだ。鎌倉公方足利持氏は鎌倉に帰還したが、公方と管領の二極化が進むにいたる。
上杉禅秀の乱は、公方足利持氏の命令で管領職を山内上杉憲定のりさだの子憲基のりもとに譲らざる得なくなった犬懸いぬがけ上杉氏憲うじのりが、四代将軍足利義持の弟義嗣よしつぐらと結託して、鎌倉公方足利持氏を襲ったものであった。
1438〜39年
(永享10年)
永享えいきょうの乱
室町将軍を望んだ公方足利持氏が六代将軍足利義教よしのりと対立し、将軍方についた管領上杉憲実のりざねらの幕府軍に敗れた。
1440〜41年
(永享12年〜嘉吉元年)
結城ゆうき合戦
下総の結城氏朝うじともは、永享の乱で敗れた公方足利持氏の遺児春王丸・安王丸を擁立して、幕府に対して反乱を起こし結城城に籠もった。
1441年4月の幕府・上杉方の総攻撃によって結城ゆうき城は落ち、春王丸・安王丸は逮捕され、結城氏朝うじともは自殺した。逮捕された春王丸・安王丸は後に美濃垂井金蓮寺こんれんじで斬殺された。
1447年3月
(文安4年)
信濃の大井に潜伏していた8歳の公方足利持氏の遺児万寿王丸(後の足利成氏しげうじ)が1447年3月に鎌倉公方となり、同年8月に成氏しげうじと名乗り鎌倉に帰還した。
関東管領上杉憲実のりざねは伊豆に隠遁し、嫡子憲忠のりただが関東管領に就任した。
1454〜82年
(享徳3年〜文明14年)
享徳きょうとくの乱
1454年(享徳3年)12月27日、鎌倉公方足利成氏しげうじの命を受けた結城・武田氏らは、関東管領上杉憲忠のりただを鎌倉西御門邸で殺害し、山内上杉邸一帯に夜討ちをかけた。これを発端として関東各地で上杉派と公方派に分かれて戦闘が頻発し、1482年(文明14年)11月の「都鄙和睦とひわぼく」(室町幕府との和睦)によって終結する。この30年に及ぶ内乱は、東国社会を根底から揺り動かし、戦国時代への扉を開いた内乱であった。室町幕府は足利成氏の行動を非難し、上杉方を支持した。
享徳の乱は鎌倉府の主鎌倉公方と本来は公方を補佐すべき関東管領上杉氏との戦いであり、鎌倉公方・関東管領を中心とする鎌倉府の体制は、この乱によって大混乱に陥っていった。
一時期、足利成氏しげうじは山内上杉家を継いだ房顕ふさあきを破って優勢であったが、幕府の命を受けた駿河の今川範忠のりただによって1455年4月には鎌倉を追われて下総古河こがに移った。代わりに上杉房顕ふさあきが鎌倉に入った。以後、足利成氏しげうじは古河を拠点とし、野田・梁田やなだ・佐々木氏らを中核として、利根川の東北部を支配した。
他方、上杉氏は、山内・扇谷・越後上杉氏を中心に、文正(1466〜67)頃から武蔵五十子いかつこに陣を張り、利根川西南部を支配した。この上杉氏支配圏では、武蔵五十子いかつこにいる関東管領(山内上杉氏)とその重臣長尾氏が上野と北武蔵を支配し、武蔵河越にいる扇谷上杉氏とその重臣太田氏が相模と南武蔵を支配していた。
享徳の乱の過程で、上杉氏内部でも内部抗争が顕在化していった。1473年(文明5年)には、山内上杉家では家宰職をめぐって長尾景春かげはる忠景ただかげ(景春の父景信かげのぶの弟)が対立し、大田道灌の仲裁も失敗し、1476年景春が蜂起するという事件が起こった。