江戸幕府の改革

 江戸幕府(1603年〜1868年)の前半約100年間つづいた高度経済成長は元禄時代(1688年〜1704年)にピークに達し、元禄文化となって花開いた。江戸時代の後半は、バブル崩壊後の現在の日本と同様景気の波があったが0%成長が約150年続いた。江戸幕府では、財政赤字削減と経済成長のためにあらゆる改革がとられてきた。幕府の三大改革として、享保の改革、寛政の改革、天保の改革が一般的に挙げられている。これらは、農業を主体にした改革であり、特に徳川吉宗の享保の改革の評価が高かった。都市で成長している商業に的を絞ったのは、田沼意次(たぬまおきつぐ)の改革である。戦前、田沼意次はわいろ好みの政治家のレッテルがはられ、弓削道鏡、足利尊氏と並んで、日本史の三大悪人とまでいわれてきたが、最近江戸時代の政治家の中では最も優れた人物の一人ではないかと見直されている。


耕地面積

95万町歩(1459年) 300万町歩(1720年) 305万町歩(1874年)

推定人口

1227万人(1600年) 3106万人(1721年) 3190万人(1846年)


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徳川吉宗

田沼意次

名 称 人 物 業績 説明
正徳の治

(1709〜1716)

新井白石 貨幣の改鋳(1714年) 慶長金銀と同じ品位に戻す正徳金銀を発行した。貨幣発行量を縮小するデフレ政策をとった。
長崎貿易の制限(1715年) 金銀の流失を防ぐため、中国やオランダの貿易船の数を制限した。
享保の改革

(1716〜1745)

 

徳川吉宗
(将軍)
倹約令 元禄の繁栄の中でにつけた過剰な浪費生活をやめるよう、きびしい倹約令をくりかえした。
年貢の増徴 それまでの四公六民(収穫高の4割を年貢、6割を農民の保有米とする租率)を五公五民とした。
検見(けみ)法から
定免(じょうめん)法
豊凶作に関係なく、過去数年間の収穫高を基準にして税率を定め、年貢を徴収する方法。これによって、収入の安定をはかった。
目安箱の設置(1721年) 目安箱への投書によって、小石川養生所の設置や町火消の制度が実施された。
上げ米の制(1722年) 諸大名に1万石につき100石を幕府に上納させ、そのかわりに参勤交代の江戸滞在期間を半減にする制度。
足高(たしだか)の制(1723年) 役職の標準石高を定め、それ以下の者が就任する場合は在職期間のみ不足分を支給する制度。
公事方御定書(1742年) 商業の発展にともなって増大する訴訟のために裁判や刑罰の基準などを定めた成文法。
田沼の改革

(1759〜1786)

田沼意次
(側用人・老中)
株仲間の公認 株仲間制度を発展させ、商業を活性化し、利益を運上金、冥加金として幕府に納めさせる。農民だけでなく、商人にも課税する税制の構造改革を行った。
通貨制度の改革
(1765年、1772年)
明和五匁銀の銀貨を発行した。五匁銀貨12枚で、金1両と定めた。銀60匁=金1両の固定相場ができ、金と銀は連動する統一された通貨になった。銀貨を目方を量って取り引きする秤量通貨制度から、額面通りの表位通貨制度へ変更した。さらに、関東の金経済と、関西の銀経済の一元化を図った銀貨である南鐐二朱判を発行した。
長崎貿易の奨励(1763年) 銅や俵物(イリコ、フカヒレ、なまこ、干貝柱、昆布などの干物を俵につめたもの)を輸出し、金貨、銀貨を輸入した。貿易相手国を拡大し、開国思想があった。
印旛沼・手賀沼の干拓 吉宗時代に着手し、失敗した印旛沼・手賀沼の干拓に再度チャレンジした。
蝦夷地開拓の計画 蝦夷地の一割を新田畑として開発し六百万石の石高をあげようとした。ロシアとの密貿易を正式に交易しようとしたが、浅間山の噴火で天明の飢饉がおき、百姓一揆・打ちこわしが多発し田沼は失脚し計画は中止になった。
わいろ政治,商人の力を利用 わいろは公認されていた。自分の望みをかなえてくれる相手、約束を守ってくれた人には金品や贈り物で謝礼する。これが当時の礼儀という考え方なので、わいろは悪事だなどと罪の意識はなかった。
寛政の改革

(1787〜1793)

松平定信
(老中)(八代将軍徳川吉宗の孫である白河藩主松平定信が筆頭老中の時代に施行された政治改革)
倹約令(1789年) 役所諸経費の節減や庶民の華美に流れていた風俗を取り締まった。
朱子学以外の学問の禁止(異学の禁)
(1790年)
儒教の朱子学を幕府公認の正学として、その他の異学を学ぶことを禁じ思想統制を行い、幕府組織の強化を図った。
棄捐令(1789年) 借金に苦しむ旗本や御家人に対して武士としての誇りを保ち、本来の立場に相応しい暮らし方をさせるため、 6年以上たった借金は破棄できるというものだったが、この政策後、商人がこれに懲りて武士に金を貸さなくなったため、武士達はかえって困窮を強いられる結果となった。
囲い米の制(1789年) 天明の大飢饉を教訓とし、平素から各村や町ごとに穀物を蓄え、飢饉や災害などの非常時に備える体制を整備した。
旧里帰農令(1790年) 田沼時代、江戸の町に流入した人々に定職のない者には帰村を奨励し、帰農者には旅費が支給され 農業のための資金を与えるなど、無職者を無くし治安の維持を図ると共に、過疎となっていた農村に活力を与えるための政策を実施した。
  『白河の清きに魚のすみかねてもとの濁りの田沼こひしき』 成長経済の後の緊縮財政、厳しい倹約政策に庶民は狂歌に託して憂さを晴らした。
天保の改革

(1841〜1843)

水野忠邦(老中) 株仲間の解散(1841年) 物価を下げるために株仲間を解散し、その特権を奪ったが、かえって流通の統制が乱れて効果は上がらなかった。
上知(あげち)令(1843年) 江戸・大坂近辺の大名・旗本領を直轄地にしようとした。大名や旗本などの猛反対により失敗に終わった。
人返しの法(1843年) 天保の飢饉で荒廃した農村復興のために、都市に流れ込んだ人々を強制的に帰村させる。