神武東征
2月11日は建国記念の日で国民の祝日になっています。 戦前は、紀元節といわれていました。
日本書紀には、神武天皇が元旦に
1940年(昭和15年)に皇紀2600年を迎え、紀元二千六百年式典が盛大に行われました。早稲田大学教授津田
神武東征の見方
応神王朝の大和平定の史実をもとにしてつくられたもの(水野祐)
考古学的にみて、弥生時代には北部九州から稲作の技術とか銅鏡や銅剣など、さまざま技術や文物が伝播する。このような伝播は一度におこなわれたのではなく、いくつもの波があった。人間の移住・移動があったことはいうまでもない。ニギハヤヒ(邇芸速日:物部氏の祖)とイワレイコ(神武天皇)の物語にも、このように時を隔てての広義の同族の移動がうかがえる。また、継体天皇の越からの河内・山背・大和入りの出来事あるいは婚姻関係が、さかのぼってイワレヒコの物語の構成に影響を与えている。(森浩一)
古代の日本国家の中心となる権力が大和地方に成立した時期は、第十代、崇神天皇のころとするのが穏当であろう。崇神の前に神武天皇をはじめとする九人の天皇がいたという記紀の記述は信じない。初期国家の中心になった地域は、奈良盆地の東南部、三輪山の山麓周辺の地であろう。この地域に初期の古墳が多いことからそう考えられるのであって、年代は三世紀末から四世紀初頭と推定される。このころ天皇に相当する地位についたのが崇神天皇であろう。神武天皇は、古代天皇制の起源を説明し、形を飾るために作られた神話の人物である。壬申の乱における天武天皇の行動が、神武東征物語の構成に大きな影響を与えた。(直木孝次郎)
大和平定の物語を、神武天皇ひとりの事績ではなく、葛城王朝全時期九代におよぶ事績の記録である。(鳥越憲三郎)
九州の邪馬台国、奴国、投馬国、狗奴国などの弥生時代の小国家群の東遷説
大和盆地に根拠地をもつ朝廷と本来隼人族の伝承であった日向の御子の伝承とを結びつけるために作られた説話。
考古学からみて、皇室および大和朝廷が北九州から大和に移ったみられる事実
北九州の支配層の墳墓には、鏡・玉・剣を副葬したが、この組合せの副葬品を死者に添えることは前期古墳の基本的条件だった。鏡・玉・剣は、天皇家の三種の神器に発展していく。
弥生時代の畿内の祭器であった銅鐸は、弥生時代後期(2、3世紀)に最も盛大になり、突然その姿を消す。銅鐸は、つねに人目につかない谷間の斜面や山腹などに、埋められた状態で出土する。
外部勢力の征服により、早急に銅鐸祭祀を廃止しなければならないような事情が生じたためだと考えられる。
弥生の山城であった高地性集落は、弥生時代の中期と後期(紀元前1世紀〜後3世紀)に集中してあらわれ、古墳時代や奈良時代には、ごく一部の例外を除くと存在しない。高地性集落は九州に近い西のものが弥生中期に多く、近畿を含む東のものが弥生後期に多い傾向がある。近畿では戦乱が弥生時代のほぼ終わりまで激しく続いたとみられる。
古事記による神武東征
1.カムヤマトイワレビコノミコト(神倭伊波礼毘古命)と、その兄イツセノミコト(五瀬命)は高千穂の宮にあって、天下の政を平安に治めるよい土地を求めて東を目指し
2.豊国(大分県と福岡県の一部)の宇沙(大分県宇佐市)に到着された。ここでは、土着のウサツヒコ、ウサツヒメが
3.そこから筑紫(福岡県)の岡田の宮に移り一年おられた。
4.そこから安岐(広島県)の
5.そこから吉備(岡山県)の高島の宮に移り八年おられた。
6.亀の甲に乗って、釣りをしながら、両袖を振ってやって来る人に、
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8.イツセノミコトは、紀国の
9.カムヤマトイハレビコノミコトは、そこから南に廻って行かれ、
10.このとき、熊野のタカクラジ(高倉下:尾張氏の祖先)という者が、一ふりの太刀を持って、
11.天神は、道案内人として
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15.ニギハヤヒノミコト(邇芸速日命:物部氏の祖先)がイワレビコノミコトのもとに参上して、天つ神の子であるしるしの宝物をたてまつって、お仕え申しあげた。ニギハヤヒノミコトが
16.このようにしてカムヤマトイハレビコノミコトは、荒ぶる神たちを平定しやわらげ、服従しない人たちを撃退して、