吉宗と享保の改革        大石学著

 江戸幕府(1603年〜1868年)のまん中の享保元年(1716年)に徳川吉宗(1684年〜1751年)は、征夷大将軍に任命され、八代将軍となった。吉宗は紀州藩主の出身で徳川宗家(本家)以外の御三家からはじめて将軍になった。この時期は、戦国時代(15世紀後半)以降約100年間つづいた経済成長が終り、低成長を迎えた。江戸時代前期以来の社会秩序や地域秩序は動揺し、疫病(疱瘡ほうそう、麻疹はしか)の流行や災害の続発が、社会不安を増大させていた。幕府財政もまた、五代将軍綱吉の時代以後、悪化の一途をたどり、幕臣の俸禄(給料)は遅配となり、旗本の削減が話題にのぼるまでになった。そして、財政の悪化は、国家機能・公共機能の低下の原因となっていた。

 吉宗の選んだ道は、みずからの主導権を確立しつつ、幕府財政を再建することによって、幕府権力を強化し、国家機能・公共機能を拡大しようとする道であった。すなわち、吉宗は、国民生活を維持・安定するために、「大きな政府」・「強い政府」による国家再編の道を選んだのである。

 「大きな政府」による国家機能・公共機能の拡大は、諸藩や種々の社会集団・地域集団を保護する側面をもっていたが、他方においては、それら諸組織が従来もっていたさまざまな権利を規制し、新たな負担を要求するものであった。

高度成長から低成長時代を迎えて

耕地面積

95万町歩(1459年) 300万町歩(1720年) 305万町歩(1874年)

推定人口

1227万人(1600年) 3106万人(1721年) 3190万人(1846年)

将軍権力の復活

諸事権現様定め通り

 時代とともに、儀礼的な要素が多くなり、無駄が多くなってきたのを取り除き、家康時代の組織・機構・運営方法へと復帰することを宣言した。

鷹狩の復活

 家康が国家統治者として、自らの権威を高める手段として利用した鷹狩を復活した。

譜代派の尊重

 前代まで政治を主導してきた側用人制を廃止し、側近たちに長い間おさえられてきた譜代派を尊重した。

紀州派の形成

 紀州藩から引き連れてきた家臣団による紀州派を形成した。

お庭番の創置

 将軍や御用取次ぎの指示を受けて、諸藩の動静、幕府諸役人の行状、世間の風聞などの情報を収集し、将軍に報告するお庭番を創置した。

目安箱の設置

 町人や農民などの一般庶民の将軍への直訴を許した。投書により身寄りのないものや貧しいもののために小石川薬園のなかに養生所を開設した。

幕府財政の再建

倹約の徹底

倹約を徹底することにより支出を制限しようとし、倹約令が繰り返し出されている。

奢侈品しゃしひんの禁止

 御服物、諸道具、書籍のほか、諸商売物、菓子類までも、新製品をつくることが禁止され、どうしてもつくらなくてはならない場合には、役所の許可をうけることにした。

上米あげまいの制

 諸大名にたいして毎年高一万石につき100石の割合の米を幕府に差し出すことを命じたのである。諸大名から差し出された米の総額は、年間18万7000石にのぼった。これは、幕府の年貢収入の13%、旗本・御家人への給米の50%強にあたるものであった。この制度は、税制改革・新田開発といった財政改革の基本政策が一定の成果をあげ、幕府財政が安定するようになった享保16年(1731年)に廃止された。

勘定所の機構改革

 勘定所は、勘定奉行の下にあって幕府財政の運営を担当する一方、全国幕領を支配する諸代官を指揮・監督して、全国幕領の年貢の徴収や訴訟などを担当する役所であった。享保6年(1721年)に、公事・訴訟関係をうけもつ公事方と、年貢・普請などをうけもつ勝手方とに分割し、職務分担を明確化した。農財政に専念する部門を、享保の改革を推進する中心機関として独立させた。勘定所の機構改革にともなって、人員も享保8年の130名から、享保18年の186名へと大幅に増員した。

文書システムの整備

 勘定所の機構改革とともに、全国幕領支配の基礎帳簿のシステムが確立した。全国の代官が、支配村々の村高、家数、人口、検地、用水などについて、毎年勘定所に提出し、勘定所ではこれを整備し、正本を将軍に上納するいっぽう、全国支配の資料として利用している。

足高の制

 各役職ごとに基準高を定め、その役職に任命された者の家禄(代々家に伝わる俸禄)が基準高に達しない場合、在職機関中にかぎって不足分を支給するという制度である。この制度により、家禄の低い者でも、在職中、任務を滞りなく遂行できるようになったのである。足高の制は、勘定所機構を中心とする官僚制の確立に大きな役割を果たした。また、代官も中世的な土豪代官から近世的な実務型の農政官僚へと切り替わった。

新田開発

 幕府は自力で新田開発する力をもたず、町人の財力に期待して新田開発を行った。開発にあたった町人には要した資金の一割五分の限度内で、新田から小作料を徴収することも認められた。享保20年(1735年)に検地が実施され、1647町余、1万6858石余の新田が成立している。

税正改革

 享保7年(1722年)以後、各地の幕領で、従来の検見取法けみどりほう(毎年の出来ばえを実施調査し、これをもとに年貢量を決定する方法)から、定免法じょうめんほう年貢量の一定期間の固定化)への切り替えをおこない、役人の不正を防止するとともに、収入の安定化をはかった。しかも、この定免法は、定免の年季切れ時に年貢率を引上げて増収をねらうという、増税の意図を含んだ税法であった。年貢率は、享保12年(1727年)に幕領全般にわたって税率40%から50%へと引き上げられた。