弱い日本の強い円 佐々木融著
為替相場は決して国力を表すものではない。また、国と国の経済成長率の違いを表しているものでもない。人口の増減によって動くものでもない。バブルが崩壊した1990年以降の日本経済は長期停滞し、明らかに国力は弱まったと言える。しかし、過去21年間の為替相場を見ると、主要通貨の中で最も強かったのは円である。そして主要国の中でおそらく最も国力が強かったはずの米ドルは円に対して44%も下落しており、最も弱い通貨の1つとなっている。為替相場は国力とは関係ない。為替相場は通貨と通貨の単なる交換レートである。通貨の強弱は、長期的には物価の上昇率の差によって決まる部分が大きい。物価が上昇している国の通貨は弱く、物価が下落している国の通貨は強いのである。米ドルが1990年以降の過去21年間で最も弱い通貨の1つだったのは、米国の国力が弱かったからではなく、米国の物価上昇率が他国に比べて高かったからである。円は主要国通貨の中では最も強い通貨である。日本の物価上昇率が他国と比べて低い状態が長期間続いたからである。10年、20年先の円相場の予想は、日本の物価上昇率がこれまで同様、他国の物価上昇率を下回り続けるなら円高方向、逆に物価上昇率がこれまでと異なり、他国の物価上昇率を上回るようになるなら円安方向である。
なぜ、日本の物価上昇率が他国に比べて相対的に低いのか。日本は輸出企業が外で稼いできたお金が日本国内でうまく使われていないからではないか。日本の輸出企業が外で稼いできたお金が、輸出企業に働く従業員に支払われ、そのお金が消費に回ったり、銀行の預金に回る。消費に回るお金も最終的には銀行預金になるので、銀行が企業に貸出しすることによって経済は動いていく。しかし、今の日本では先行きに対する不安からか、消費に回るお金は少なく、企業からの借入れ需要も多くない。したがって、銀行預金が積み上がり、結果的に銀行は国債への投資を増やさざるを得ない。日本で低インフレが続いているのは、日本の個々人が活発に消費できるほど将来に自信が持てず、企業も資金を借りて積極的に新事業に打って出ようという気にならないからである。そのような状況をつくっているのは国の構造的・制度的・税制的な問題である。量的緩和政策やゼロ金利政策といった金融政策で解決できる問題ではない。量的緩和政策は中央銀行が資金を大量に金融システムに投入すれば当該通貨は安くなるというロジックは正しい。しかし、金利がもともとゼロの場合、いくら中央銀行が資金を供給しても、それが為替相場に影響を与えるメカニズムがない。
日本はいずれ経常赤字国になり、その結果日本国債を自国の貯蓄で支えることができなくなって国債価格は暴落、円が売られるといったシナリオを耳にする。たしかに、長期的に見てその可能性はないとは言えない。ただし近い将来、おそらく今後10年程度は、日本が経常赤字国になり国債価格が暴落する可能性は極めて限定的であると言える。2010年の経常黒字は17.1兆円で、内訳は貿易黒字が8.0兆円、所得収支の黒字が11.6兆円である。今後製造業の海外移転が進めば貿易黒字は減少、ないし赤字になる可能性は小さくないかもしれない。しかし、所得収支の黒字は日本人が保有する対外債権から発生する配当金や利子収入なので、そう簡単にはなくならないであろう。日本の所得収支の黒字は過去6年間10兆円以上を維持している。つまり、日本が経常赤字国になる時は、貿易赤字が10兆円以上になる時である。今後日本の製造業が生産を海外に移転させた結果、貿易黒字は減少し、赤字に転ずる可能性もあるかもしれないが、これは日本企業が対外投資を増加させることを意味しており、結果的に配当の増加を通じて所得収支の黒字は増加する可能性が高い。こう考えると、日本が経常赤字国になるのは相当先の話のようだ。
金価格に対して各国の中央銀行が発行するペーパーマネーの価値が暴落している。それは、各国の中央銀行が採っている金融政策があまりに緩和過ぎて、人々のペーパーマネーに対する信認が低下しているからであろう。紙幣の価値が暴落すれば、最悪の事態になる。ゼロ金利政策や量的緩和政策は中央銀行の周囲(政治家、マスコミ、世論)が中毒になってしまってので、やめるにやめられなくなっている。様々な形の中毒症状と同じように、どこかで強制的に終了させることになるのであろう。その強制的な終了は、インフレという形でやってくるのではないだろうか。今後10〜20年後くらいの長期的な視野で為替相場を考えると、日本は結果的にインフレ率が上昇し、これまでとは異なり異常な円安が進むリスクがある。悪性のインフレは通貨の信認が失われた時に起きるのである。金価格の急騰は我々に将来そうしたことが起きるリスクに対する警告を発しているのではないだろうか。