承久の乱          本郷和人著

 頼朝のつくった鎌倉幕府は、東国の四カ国(駿河、伊豆、相模、武蔵)の武士を中心にした政権であり、その最重要課題は、彼らの土地問題を解決することでした。
 頼朝は御家人たちを荘園の地頭に任命し、徴税、警察、裁判の責任者として所領を支配する権限を認めました。そして、その地頭の監督者として国ごとに守護を任命します。従来の国衙や荘園の仕組みも温存されました。頼朝は、朝廷の持っていた権限を侵すことなく、朝廷の秩序と一定の距離を保ちながら、自分たちの土地を安堵しようとした。
 そのため頼朝政権の権力が実質的に及ぶ範囲はあくまで東国中心でした。地頭を任命できたのは、もともとの東国武士の土地に加え平家の旧領や謀反人の土地に限定されていた。

 承久の乱が起きた根本的な原因は、後鳥羽上皇に代表される朝廷の国家像と、北条義時に代表される在地領主の国家像の違いです。
 後鳥羽上皇の国家観は、すべての頂点には皇家(天皇・上皇)がある。貴族、寺社、そして武士たちはそれぞれの得意な領域で、天皇・上皇を支える存在である。だから、鎌倉幕府の立場は一定の配慮はするが、御家人たちに上皇が直接、命令を下しても構わない。そもそも征夷大将軍という位も朝廷が与えたものであって、それを剥奪する権利も朝廷にある。

 それに対して北条義時が考えていたことは、「在地領主による、在地領主のための政権」でした。朝廷を否定するわけではないが、東国には東国のやり方がある。将軍という位も、あくまで在地領主の結集や制御に役に立つから使用しているだけで、名目はどうでもいい。自分たちが実力で作り上げた東国の秩序に、朝廷から介入するのは差し控えてほしい。御家人はあくまで東国政権に属するのであって、朝廷が直接手を出すことは望ましくない。

 サバイバルの勝者、北条義時が武士の首頂となって、朝廷に対して毅然と対峙し、東国の権利を主張すべきだ。幕府の中枢をなす有力御家人の間で、こうしたコンセンサスが出来上がったとき、もはや実朝は排除の対象になった。そのとき、実朝暗殺の黒幕は、北条義時以外に考えられない。(永井路子は黒幕は三浦義村だと言っている。)実朝暗殺によって、義時の王権は確立した。将軍よりも執権である義時がすべての決定権を握る。

 承久の乱のあと、武力を放棄した朝廷は、政治判断や訴訟の判決などを、自らの力で行うことができなくなった。最終的な解決は、すべて武力の最大の保有者である鎌倉幕府に依存せざる得ない。幕府と朝廷のバランスは、圧倒的に幕府に傾いた。戦後処理として行われた、後鳥羽上皇を含む三上皇の配流(後鳥羽上皇は隠岐、順徳上皇は佐渡、土御門上皇は土佐、後に阿波)や、幕府による天皇の決定(後堀河天皇)はその結果です。

 天皇の人事権とともに、後鳥羽上皇の経済的基盤となった荘園にも、幕府は手をつけます。かつて平家を倒した際には五百カ所の荘園が幕府のものとなりました。これを御家人たちに分け与えることで、鎌倉幕府は基盤を固めていきます。承久の乱で幕府が得た後鳥羽系の荘園は三千に及びました。平家領の六倍の荘園を手に入れたことで鎌倉幕府は盤石になった。
 これはそれまで東国中心だった幕府の支配領域を、一気に日本全国に広げるものでした。旧皇室領の荘園に新たに地頭を配置することで、多くの東国の武士たちが、南北朝、戦国の混乱期を生き抜き、六百五十年近くこの国を支配する「武士の世」が始まります。