戦国武将
小和田哲男著戦国時代の時代感覚
戦国時代は1480年代末〜1490年代初頭からの百年をいい、戦乱に明け暮れする時代ととらえてしまうのは誤りで、新しい秩序が形成されつつあった時代であった。その新しい秩序の一つが家筋から器量への転換である。戦国時代ほど個人の能力とか力量が重視された時代はほかになかった。それまでの、家格重視、すなわち家柄とか家筋といった伝統的な力がものをいった時代は終りをつげ、伝統的なものをもたない器量のある人物によって歴史の歯車がまわされる、人材登用の新しい秩序ができた。
器量を重視するということは、逆に器量のない者は、たとえ主君であっても排除されるという論理であり、「下克上」という現象につながった。封建制社会では、家臣は主君に軍役などの奉公を負うという義務をもち、主君もまた家臣に御恩、すなわち所領をあてがったり、安堵あんどするなどの義務を負っていた。戦国時代においては、主君から恩義が得られなければ、その主君のもとから離脱することは自由であった。主君が主君たるに足る器量をもたなかった場合、家臣がその主君のもとを去るのも、主君に対して弓を引き、立場をとってかえるのも、決して非難の対象とはならなかった。「武士は二君にまみえず」などという儒教倫理は近世のものであり、戦国時代には存在していなかった。
戦国大名と重臣たち
国人領主というには、鎌倉期の地頭・御家人の系譜をひく在地領主で守護大名の被官になったりしている場合が多い。戦国期の大名領国は、それまでばらばらで、お互いに戦いあっていたような国人領主たちが、何かの契機で一つにまとまったとたん、今度はそこに一つ大名領国という意識で固まる強大な組織ができあがるのである。盟主的な立場に立たされる戦国大名は、国人領主(重臣)にかつぎだされるという傾向がみられる。戦国大名は国人領主(重臣)の連合の上に、いわば均衡的かつ潤滑油的な役割を果たしていた。戦国大名と国人領主(重臣)の関係は、近世におけるような絶対的な上下の関係ではなく、比較的対等に近かった。戦国大名の領国支配が、国人領主(重臣)たちの合議政治に基づいていて行われていた。「評定衆」なり「奉行人」による評定によって国政が動かされていた。
謀反の論理
戦国大名というのは、国人領主(重臣)の中から、その国人領主(重臣)の階級的結集によって生まれた権力である。国人領主(重臣)の期待にこたえられない者が戦国大名の当主になっていた場合、「去るのは自分でなく、去るべきは戦国大名である」といった考えを家臣がもったとき、下克上が行われる。戦国時代には、主人に器量がない場合、従者は主従関係を解消または反逆をなす権利があるとする観念が存在していた。謀反、すなわち下克上は、近世になると悪であると固定化されていく。
戦国武将と死戦国武将たちは、死ぬのがあたりまえという意識になっていた。どう死ぬか、いかに「カッコよく」死ぬかが問題であり、「おのれを潔くする」という意識につながっており、一種の美学だった。生きていた時代よりも、死後、世間があるいは子孫が自分のことをどう評価するかの方が重大関心事であった。捕らえられて生き恥をさらすより、名誉ある死を選ぶというのが、戦国武将の普遍的な考え方であり、行動の論理であった。
戦国武将が勇ましい死に方、名をとどめるような死に方を望んだ理由は、一つには、死後、子が相続していくということが大きな要因としてあった。立派な死に様であれば、勇士の子として子が優遇された。みごとな討死ぶりは、子に対する遺産でもあった。