日本古代史と応神天皇 直木孝次郎著
本書は主として四世紀末から五世紀始めにかけて在位した神武からかぞえて十五代目の応神を中心に、日本古代の天皇の地位や権力について述べている。『記・紀』の語るところを顧みると、倭国の歴史は神武の即位から第二の神代にはいるが、崇神朝には四道将軍を諸方面に派遣して境域をひろげ、税制を整え、成務朝には国郡には国造を立て、県邑(あがたむら)には県主などを置いて地方制度を固めたという。こうして国家の体制を確立して、第二の神代、あるいは神代の過渡期が終わり、応神天皇から新しい人の世がはじまる。応神は、神代がまったく終わって新しい時代のはじまる初代の天皇である。応神は形の上では仲哀の子であるが、実際は神の子であるという考えが早くから存在した。応神は、系譜の上では父にあたる仲哀は、海の彼方の国を討てという神の託宣に従わなかったため、神の怒りにふれて死に、その妻の神功皇后が神の託宣通り新羅を討って、これを従え、筑紫に帰って生んだのが応神である。応神は神功に下った神の子と信じられていた。人の子ではなく神の子であるということは、国の始めの王(始祖王)の重要な条件である。応神は新しい政権である河内政権の始祖たる資格をもつものである。兵部少輔(ひゃうぶのせうふ)の任にある大伴家持(718年頃 -785年)が、諸国から防人たちの集う難波の繁栄を大昔からのものとして讃えた歌。 大伴家持は、天平勝宝六年(754)四月には兵部少輔となり、翌年の天平勝宝七年(755)二月には大伴家持は防人交替の事務のため難波に派遣された。東国から徴集された防人たちは、難波で検閲を受けたのち難波津から船で筑紫へ送られるのだが、東国の民謡や歌に関心を持っていた家持は、各国の防人役人に命じて防人たちに歌を進上させた。 このようにして、100余首に及ぶ防人の歌が万葉集の末尾に異彩を放つこととなった。 万葉集 巻第二十 |
私(ひそ)かなる拙懐(せつくわい)を陳(の)ぶる一首 并(あは)せて短歌 4360 すめろきの 遠き御代(みよ)にも おしてる 難波の国に 天の下 知らしめしきと 今の緒に 絶えず言ひつつ かけまくも あやに畏(かしこ)し 神ながら 我(わ)ご大君(おおきみ)の うち靡(なび)く 春の初めは 八千種(やちくさ)に 花咲きにほひ 山見れば 見のともしく 川見れば 見のさやけく ものごとに 栄ゆる時と 見したまひ 明らめたまひ 敷きませる 難波の宮は きこしおす 四方(よも)の国より 奉る 御調(みつき)の舟は 堀江より 水脈(みを)引(び)きしつつ 朝なぎに 楫(かぢ)引き上り 夕潮に 棹(さを)さし下り あぢ群(むら)の 騒ぎ競いて 浜に出でて 海原見れば 白波の 八重をるが上に 海人(あま)小舟 はららに浮きて 大御食(みけ)に 仕えまつると をちこちに 漁(いざ)り釣りけり そきだくも おぎろなきかも こきばくも ゆたけきかも ここ見れば うべし神代ゆ 始めけらしも 4361 桜花 今盛りなり 難波の海 おしてる宮に きこしめすなへ 4362 海原の ゆたけき見つつ 葦が散る 難波に年は 経ぬべく思ほゆ 右は、二月の十三日、兵部小輔大伴宿禰家持。 |
(口語訳) 4360 代々の天皇が、その遠い昔の御代にも、照り輝くこの難波の国で天下をお治めになったと、今の世まで絶えることなくずっと言い伝えられているが、口の端にかけるのも何とも恐れ多いこととはいえ、神さながらにわが大君が、春の初めはとりどりに花が咲き誇り、山を見ると見るからに心ひかれ、川を見るとみるからにすがすがしくて、物それぞれに栄誇る時だと、しかと御覧になって、晴れ晴れとした御心でお造りになった難波の宮、この宮に向かって、お治めになっている四方の国々から献上する貢ぎ物を積んだ舟が、堀江から水脈を後に引きつつ懸命に、朝なぎには櫂を操って遡って来、夕潮時には棹を操って下って来て、味鴨の群れのように騒ぎ立てながら先を争って浜に出て海原を眺めると、白波が幾重にも重なって寄せる海の上に、海人の小舟があっちにもこっちにも浮かんで、御膳に差し上げるためにと、遠く近く網を下ろし釣糸を垂れている。ああ、そんなにも途方もなく広々した所であることか、ああ、こんなにも見るからにゆったりした所であることか。こんな有様を見ると、神代の昔から宮殿がここに造られたのは、もことにもっともなことに思われる。 4361 桜の花は今がまっ盛りだ。難波の海の、その照り輝く宮で天下をお治めになるのと時を同じくして。 4362 大海原のゆったりとした景色を眺めながら、葦の花散るこの難波で、いついつまでも年月を過ごしていたい、そんな気持ちになってしまう。 |