はじめ日本列島に広く住んでいたのは縄文文化人であった。関東以北に住む者を蝦夷(えみし)または毛人(えみし)とよび、それ以外の地方に住む者を国樔(くず)、土蜘蛛(つちぐも)、海人(あま)などといっていた。これは中央政府に属する人びとのよび方であったが、そういうよび方をした人たちは大陸から高い強力な文化と武力を持ち、国家統一した人びとではないかと考える。蝦夷(えみし)は、七世紀中頃には、三つに区分するまでに差が生じていた。大和朝廷の文化に馴化(じゅんか)していったものは熟蝦夷(にぎえびす)とよび、次は麁蝦夷(あらえびす)、遠いところいる者を都加留(つがる)といった。ここにいう都加留は、異民族として理解されるほどの差を生じてき、のちにはアイヌとよぶようになった。
日本へ稲作が渡来するするのと、越(えつ)が呉を滅ぼして江南の地に国家を形成したとき(紀元前473年)とほぼ時期がおなじようである。越の勢力範囲は華南の海岸一帯から、浙江省、福建省、広東省、広西省からベトナムにわたっていた。竜を崇拝し、入墨をおこない、米と魚を常食とする海洋民族の国である。この民族の一派が倭人ではなかったかと考える。そして舟またはいかだを利用して、朝鮮半島の南部から北九州へかけても植民地を作ったと考える。南の海から日本列島へ渡来して来た人たちのもたらしたものが、弥生文化ではないかと考えられる。弥生文化は東アジアの沿岸伝いに日本列島にもたらされたもので、海洋性の強いものであるとともに、稲作をもたらした。しかもその稲作には鉄文化が付随していた。それがまた構造的な船を造るのに大きな役割を果たした。倭人が朝鮮半島と九州の両方に植民地を作ったことは、大陸と日本列島との往来関係を密接にし、大陸文化が朝鮮半島を経由して比較的スムーズに流入するようになった。
北九州に稲作がはじまって200年もたっていない頃から、大陸の文化が日本列島に入りはじめる。南鮮式の支石墓が北九州にいとなまれ、さらに青銅の利器が日本にもたらされ、また多くの漢鏡がもたらされた。一方、日本列島へ稲作が普及していく速度も速かった。弥生式遺跡が海岸地方か、河川に沿うて分布していることから、水路を伝つて船を利用してひろがっていったものではないかと考える。稲作にかかわりを持つ人たちは船を利用しつつ漸次あたらし世界を見つけていって、そこに住みつき、水田をひらいたものであろう。水田をひらくということはひとつの高い技術を持っているものである。畦を作り水をひく。そこにおのずから土木工事もおこなわれることになる。江南の技術の伝来と考えてよい。
日本へ朝鮮半島を経由して大陸の文化が流入しはじめるのは、漢という国家が成立し、中国の東北地方を征服し、紀元前108年に満州(中国東北部)東部から朝鮮半島にかけて、楽浪(らくろう)・臨屯(りんとん)・玄菟(げんと)・真番(しんばん)の四郡をおいた頃からであった。そしてその文化は日本に青銅器をもたらし、多くの武器をもたらしている。朝鮮半島にも倭人の植民地があることによって、大陸の文化は半島倭人の手によって日本にもたらされたであろうし、時には強力な集団が侵攻という形をとらないで日本に渡航したと見ていい。そういう力が凝縮してやがて日本の武力的統一をおこない、統一国家を形成していったのではなかろうか。神武天皇の東征伝説は、そうした武力による統一の事実が伝承化していったと見てもよい。武力によらなければ強力な組織的な国家を成立させることは不可能で、武力を持った者が徐々に渡来し、やがて結束しやがて律令国家への足場を作っていったものではなかろうか。小さな祭祀王朝の国々を統一して大和朝廷をつくりあげていったのは武力によるものであり、統一国家が生まれるとその統一の維持は祭祀を中心にしてなされるようになった。
『日本書紀』の景行天皇四十年
『宋書』倭国伝
武(第二十一代雄略天皇)が、宋の順帝の昇明二年(478年)に使いを遣わして、上表文をたてまつった。
昔から