定型化した前方後円墳を中心とする古墳は、弥生時代後期に、日本列島各地に出現する。 従来は、こうした古墳が出現するのは、四世紀初頭ごろであろうと考えられていました。 ところが、三角縁神獣鏡の年代研究が急速に進展し、三世紀中葉すぎにまでさかのぼると考える研究者が多くなってきました。 このことは、年輪年代法の成果とも一致しています。 このように古墳の成立が三世紀の中葉すぎまでさかのぼれば、それは卑弥呼の後継者である壱与(いよ)の時代であり、邪馬台国時代です。 すでにこの段階ないしその直後には、画一的な内容を持つ前方後円墳が、大和を中心に瀬戸内海沿岸各地をへて、北部九州まで分布しているわけですから、邪馬台国九州説は成り立たないことになります。 弁辰の鉄や、さらに中国鏡など、先進的な役割を果たしていたのが、伊都国や奴国など玄界灘沿岸地域の勢力であった。 こうした状況のなかで、より東方の瀬戸内海沿岸各地や近畿中央部の勢力が、当時の人びとにとってきわめて大切なものとなっていた鉄資源や、その他先進的文物を安定的に確保しようとすると、どうしてもその輸入ルートを独占している玄界灘沿岸勢力と戦わざるをえなかった。 この玄界灘沿岸勢力と戦うために、大和の勢力を中心に、近畿中央部から瀬戸内海沿岸各地の諸政治勢力が連合したのが、のちのヤマト政権につながる広域の政治連合の形成にほかならないのではないかと考えている。 この戦いがあったことを直接的に示す考古学的な資料は今のところみあたりません。 ただ弥生時代から古墳時代に転換する少しまえを境に、それまで北部九州を中心に分布していた中国鏡が、近畿の大和を中心とする分布に大きく変化することが知られています。 この中国鏡の分布状況の大きな変化こそ、近畿・瀬戸内勢力と玄界灘沿岸勢力の争いと、この戦いでの近畿・瀬戸内勢力の勝利を物語るものにほかならない。 近畿を中心に分布するようになる鏡で、もっともさかのぼる鏡は、後漢時代から三国時代に中国で制作された画文帯神獣鏡です。 このことから、この戦いの時期は三世紀のはじめごろと考えられる。 つまり、邪馬台国連合の成立は三世紀初頭ころということになるのです。
『魏志倭人伝』に南とあるのは、東と読みかえ、狗奴国は、邪馬台国の東方にあって、邪馬台国連合と対等に戦えるような勢力は、濃尾平野をおいては考えられない。 この地域は弥生時代後期には、三遠式銅鐸とよばれる近畿中央部の銅鐸とはやや異なる特徴を持つ銅鐸を生産していた。 東日本の首長層の間にも連携の動きはあり、現に彼らは共通の前方後方型墳丘墓を造営していた。 東海、北陸、関東などの東日本各地から滋賀県東部をふくんだクニグニの間でも、邪馬台国連合と同じような政治的連携が成立していた。 その中核になったのが濃尾平野の狗奴国であり狗奴国連合ともいうべき広域の政治連合が形成されていた。 卑弥呼の晩年に起こった邪馬台国と狗奴国の戦いというのは、西方の邪馬台国連合と狗奴国連合の戦いであったということになります。 この戦いの結果がどうなったかは、『魏志倭人伝』には書かれていません。 ただその後の状況から考えて、邪馬台国連合側の勝利か、その主導にもとづく和平をむかえたことはたしかでしょう。 このことは、西日本で形成された邪馬台国連合に、その東方の狗奴国連合がくわわり、広域の政治連合の版図(はんと 「版」は戸籍、「図」は地図の意)が飛躍的に拡大したことを意味する。
古墳の出現期のなかでも古い段階のものと想定される箸墓古墳の造営年代は、おそらく三世紀中葉すぎと思われる。 『魏志倭人伝』によると、卑弥呼が亡くなったのは、247年かその直後であることが知られます。 箸墓古墳のような巨大な前方後円墳の造営は、倭人たちにとってはじめての経験であったわけだから、その造営には、10年以上の年月を要したであろうことは、容易に想像できる。 とすれば、やまとの地に最初に営まれたヤマト政権の盟主の墓である箸墓古墳が、最初の倭国王である卑弥呼の墓である可能性はきわめて大きい。 『日本書紀』は、この箸墓を第八代の孝元天皇のキョウダイで、三輪山の神オオモノヌシに仕えた巫女の、ヤマトトトヒモモソヒメの墓と伝えています。 『日本書紀』の説話は、『魏志倭人伝』が「男弟有りて助けて国を治む」と伝える卑弥呼像にきわめてちかい。 箸墓古墳や、それが象徴するヤマト政権自体は、卑弥呼の死が契機となって生み出されたものといえるのかもしれません。
四世紀の後半になると、鉄資源などの円滑な確保に大きな問題が生じます。 それは朝鮮半島で北の高句麗が南下し、南の百済、新羅や伽耶諸国がまさに国家存亡の危機を迎えるという、東アジアの国際情勢の大きな変化によるものです。 朝鮮半島の南の諸国のうち新羅は高句麗に近づき、これに降(くだ)る政策をとります。 それに対して百済は、それまでの鉄の交易などで倭国との交渉のあった伽耶諸国の一国卓淳(とくじゅん)国を介して倭国を味方に引き入れ、高句麗と戦う政策をとります。 一方また、鉄資源を全面的に伽耶に依存している倭国も、朝鮮半島の情勢には大きな関心があり、さらに高句麗の南下が止まらなければ、倭国への侵攻も予想された。 こうして倭国は百済や伽耶諸国の誘いによって高句麗との戦いに参加することになります。 倭国の軍隊が海を渡って直接高句麗軍と戦ったことは、現在中国の吉林省集安市にある好太王碑にも明確に書かれています。 この高句麗の南下にともなう朝鮮半島の戦乱は、倭国をもこの東アジア世界の大きな動乱に巻きこんだことになります。 こうした国際情勢の大きな変化に対処するのに、それまでの宗教的・呪術的権威に頼る面の大きかったやまとの王権では、大きな限界があった。 これに対し、ヤマト王権のなかで実際の外交や交易を担当していたと思われる大阪湾岸の河内の勢力が、大和・河内連合の中で大きな発言権をもつようになったであろうことは当然予想されます。 こうした東アジア情勢の大きな変化が、ヤマト王権の内部で盟主権の移動をうながしたのではないか。 おそらく新しい王権をにぎった河内の首長は、それ以前の大和の王家と婚姻関係を結び、入り婿の形をとることによってはじめて、その王権継承の正当性について、大和・河内の首長層、さらに日本列島各地の首長層の承認を受けることができたのではないでしょうか。
倭人たちが馬匹(ばひつ)文化を受容することになったのは、高句麗の南下という、東アジアの国際情勢の変化による危機の到来の結果にほかならない。 この危機感が、倭人たちに乗馬の風習を学ばせ、馬具や馬匹の生産をはじめさせた。 馬匹文化でも、とくに馬具の生産技術は、すすんだ鉄の加工技術、メッキ法をふくむ金銅の加工技術、皮革の加工技術、さらに複雑な木工技術などをともなう、複合的な生産技術にほかなりません。 馬匹文化の受容は、こうしたさまざまな新しい生産技術を日本列島にもたらすことになった。 馬匹文化の受容は、牛馬耕や、運搬手段として牛馬の利用をうながし、農業技術や運輸のあり方まで大きく変えることになった。 さらにそれまで土師器(はじき)という、弥生土器以来の低温の焼き物しか知らなかった倭人たちに、伽耶から陶質土器の技術が伝えられ、構築した窯(かまど)で焼成する須恵器生産がはじまる。 多くの倭人が、戦争のため、朝鮮半島にわたってさまざまな文化や技術を習得するとともに、また倭国からの要請におうじて、あるいは戦乱の朝鮮半島を逃れてやってきた多くの渡来人が、さまざまな文化や技術や思想を倭国に伝えます。 こうして弥生時代以来の倭人たちのそれまでの生活様式を、大きく転換することになった。 これこそ倭国の文明化にほかなりません。
さらに倭国の朝鮮半島での軍事行動への参加は、いやおうなしに、倭国を東アジアの国際舞台に登場させることになりました。 倭の五王の中国南朝への遣使は、朝鮮半島での倭国の軍事的な優越性を中国王朝に認めさせ、東アジア世界で少しでも有利な国際的地位を求めようとしたものにほかなりません。 こうした軍事・外交活動が、漢字の本格的な使用をうながし、土木技術や暦法・天文などから、さらには政治思想にいたるさまざまな学問や思想を受け入れることになった。
推古朝における前方後円墳の終焉、すなわち古い豪族連合体制からの決別が、隋の中国統一と、それが朝鮮半島諸国にあたえた大きな衝撃の影響によるものである。 また乙巳(645年)のクーデターによってもなお、本格的な中央集権的古代国家の形成にはいたらず、白村江での敗戦という大きなショックが、律令制にもとづく古代国家の形成への直接的な契機になった。 倭国の文明化も、古代国家の形成も、つまるところ、東アジアの国際関係の緊迫化が倭国におよんだ結果にほかならない。 外圧がなければ変わらない状況は、今も昔もかわりがない。 こうして、五世紀以降、東アジアの国際社会への本格的に仲間入りを果たした倭国は、その後急速に文明化をすすめ、はやくも七世紀はじめには飛鳥文化を生み出し、さらに七世紀後半から八世紀には、中央集権的な律令国家を創出し、白鳳・天平の古典文化を開花させる。 こうした短い期間に文明化をすすめ、高度な文化と古代国家を完成できた。 中国という高度な文明社会の周縁に位置しながらも、朝鮮半島という緩衝地帯が存在し、またその間に海を介していて、主体的で選択的な文化の受容が可能であった。 また、五世紀以来たえず新しい渡来人を受け入れ、東アジアの先進的文化を咀嚼(そしゃく)する能力をたえず保持していたことが、最新の文化を主体的に受け入れ、短期間のうちに古代国家を完成させ、古典文化を生み出すことを可能にした最大の理由でしょう。
中大兄皇子の大和三山の歌
香具山は 畝火ををしと 耳梨と 相あらそひき 神代より かくにあるらし 古昔(いにしへ)も 然(しか)にあれこそ うつせみも 嬬(つま)を あらそうらしき (万葉集第一巻 第13)