国体論菊と星条旗     白井聡著

 明治維新を始発点として成立した「国体」は、さまざまな側面で発展を遂げたが、昭和の時代に行き詰まりを迎え、第二次世界大戦での敗北によって崩壊した。「戦前の国体」は、万世一系の天皇を頂点に戴いた「君臣相むつみ合う家族国家」を全国民に強制する体制だった。

 そして戦後、「国体」表向き否定されたが、日米関係のなかに再構築された。アメリカを事実上の頂点とする体制が「戦後の国体」なのである。
アメリカの構想した戦後日本の民主化とは、天皇制という器から軍国主義を抜き去り、それに代えて「平和民主主義」という中身を注入することであった。
「戦前の国体」自滅の道を突き走ったのと同じように、「戦後の国体」も自滅の道を歩んでいる。「失われた20年」あるいは「失われた30年」という逼塞(ひっそく)状態は、戦後民主主義の内的矛盾を内側から解決する力を欠き、破滅へと向かっている。

 「永続敗戦レジーム」によって規定された「戦後」は、基礎を失って、もはや存続の手立てがないにもかかわらず、このレジームを惰性的に維持しようとする社会的圧力が、清算しようとする社会的圧力を上回っているために、宙に浮いたまま事実上維持されてしまっている。この状態の行き着く先は、何らかの意味での「破産」である。


 ポツダム宣言受諾の際、日本側が付けようとした唯一の降伏条件は「国体護持」だった。ここにおいて、「国体」とは天皇が統治の大権を握る国家体制」のことである。

 マッカ―サーは、アメリカ国内ならびにほかの連合諸国から上がった天皇の訴追を求める声や「危険極まりない日本の君主制を廃絶せよ」という要求から、天皇を守った。

 天皇の戦争責任追及よりも、東西対立が激化するなかで共産主義に打ち勝たなければならなかった。

 昭和天皇の玉音放送では「国体護持」は、「朕はここに国体を護持し得て」と宣言している。

 ポツダム宣言受諾から占領、サンフランシスコ講和条約、日米安保条約を通じて国家主権の放棄と引き換えに、国体護持が得られたもである。

 沖縄が日本から一旦除かれ、米軍が完全に自由に使用することのできる「基地の島」と化すことが、戦後日本が平和主義を新たなナショナル・アイデンティティにしながら、同時にアメリカの軍事的利害にかなう存在であることが可能となるための条件であった。つまり、天皇制の存続と平和憲法と沖縄の犠牲化は三位一体を成しており、日米安保体制にほかならない。

 「戦後の国体」、すなわち世界に類を見ない特殊な対米従属体制が国民統合をむしろ破壊する段階に至ったいま、その矛盾が凝縮された沖縄において、日本全体が遭遇している国民統合の危機が最も先鋭なかたちで現れている。