検察の正義       郷原信郎著

 日本の刑事司法は、「正義の実現」「実態的真実の追究」を目的にしているところに特徴がある。「事案の真相」つまり、実体的真実を明らかにすることを目標とされるが、過去に起きたことを、100%そのまま解明することは不可能だ。実態的な真実の追究は目標であって、現実に実現可能なものではない。ところが日本の刑事司法では、それを追求すること自体「正義」という、他のものに代えられない絶対的な価値の実現のように考えられてきた。実態的真実追求のために必要であれば、捜査機関がコストをかけることも、被疑者・被告人が長期間身柄拘束されたりする中で、ある程度の心理的強制を受けて自白させられることも、それ意外な重要な価値が犠牲にされることも、致し方ないこととされてきた。そして、密室での取調べの結果得られた詳細な自白を基に、職業裁判官緻密な事実認定が行われる。

 日本の検察の正義は「すべての事件は法と証拠に基づいて適正に処理される」という言葉だ。それは、二つの制度によって支えられている。一つは、「起訴独占主義」、つまり、刑事事件の起訴を行うこと、つまり、犯人として刑事裁判にかけることは、検察官の権限とされていて、検察官以外が行うことができないということである。そして、もう一つは、検察官は、犯罪事実が認められていても、情状を考慮して起訴しないという「起訴猶予処分」を行うことができる「起訴便宜主義」である。検察の判断の当否について公式に説明を求められることは原則としてない。不起訴の処分を行った場合には、不起訴の理由が、証拠不十分だという「嫌疑不十分」なのか、犯罪事実は認められるが情状を考慮して起訴しないという「起訴猶予」なのかという「裁定主文」は示されるが、それ以外には、不起訴の判断理由の説明は行われない。不起訴記録も開示されない。

 2009年3月3日、東京地検特捜部は、民主党の小沢一郎代表の公設秘書で資金管理団体「陸山会」の会計責任者の大久保隆規氏を、2003年から2006年までの政治資金収支報告書に、西松建設からの政治資金の寄附を「新政治問題研究会」などの政治団体からの寄附である旨の虚偽の記入を行った政治資金規正法違反の容疑で3月24日起訴され、陸山会の事務所などを捜索した。大久保氏の逮捕事実は、寄附者の名義を収支報告書に正しく記載しなかったという政治資金規正法違反の事実だけで、違反にかかる金額も、4年間で合計2100万円、起訴の段階で3500万円と比較的小額だった。このような事実で、野党第一党の党首が辞任にいたるという政治的に極めて重大な影響を生じさせる操作・起訴を行ったことに関して、野党側だけを狙い撃ちにした政治的意図に基づく捜査ではないかが問題にされた。政治資金規正法が定める政治資金の公開のルールが必ずしも十分に定着しておらず、法律違反は軽微なものまで含めると相当広範囲に存在しているという実情の下では、罰則の適用対象を、何らかの形で差別化できるものに限定しないと、政治家の大部分が、捜査当局の裁量によって政治資金規正法違反で摘発されることになる。そこで、従来は、政治資金規正法に形式的に違反するというだけでなく、違法性が明白で重大・悪質な事案が摘発の対象とされてきた。そして、2000年以降の検察の独自捜査で、政治資金規正法違反を主たる事実として摘発した事例は、政治資金収支報告書に寄附の事実を記載しなかったヤミ献金の事件で、しかも、金額が1億円以上の場合に限られていた。検察側の主張では、西松関連団体名義での寄附の事実自体を収支報告書にまったく記載しない「ヤミ献金」と同様だとしているが、この見方は明らかに誤っている。収支報告書に寄附の事実が記載されていれば、寄附名義に問題がある場合でも、政治資金の収入の総額には偽りはないわけで、その寄附も含めて政治資金としの支出の内訳の開示対象となる。それに対して「ヤミ献金」は、収入の総額には含まれず、支出に対する制約が全くない。寄附を受けた段階で表に出せないような使途が予定されているのが通常である。そういう意味で、「ヤミ献金」と「表の献金」とは性格が全く異なるのである。

 大久保氏に対しては、3月3日の朝、任意の事情聴取の要請があり、その当日の午後、任意の事情聴取が行われ、数時間後には逮捕された。そして、5月26日に保釈されるまで、84日間にわたって身柄を拘束された。被疑者として逮捕され身柄を拘束されることが刑事処罰を受けること以上に被疑者やその家族などに与える影響が大きい。大久保氏の場合も、任意聴取の当日に逮捕されたことが、この事件の処罰という目的を超えて、大久保氏本人や小沢氏に大きなダメージを与えただけなく、社会的にも政治的にも大きな影響を与えることになった。この事件は違反の成否についての検討が不十分なまま、捜査の展開、政治的影響などについての見通しを誤って強制捜査に着手した、単純な特捜捜査の失敗事例だと考えられる。

 2009年5月21日から裁判員制度の施行と同時に、改正検察審議会法が施行された。「すべての刑事処分が法と証拠に基づいて適切に処理されている」という検察のドグマを根底から否定することになりかねない。裁判員制度の導入に伴って、刑事手続きが従来のような、取調べなどの捜査中心から公判での立証中心になると、検察の業務も捜査から公判に重点が移る。それは、従来のような、捜査・処分の段階での何段階もの決済によるチェックというシステムの意義を希薄にする。公判活動が、市民から選ばれた裁判員が加わった裁判の場での主張立証でほとんど完結することになると、上司による決済のコントロールが働く余地は小さくなり、個々の検察官自身の判断と責任によって行われるウェイトが高まることになる。