神々と天皇の間大和朝廷成立の前夜 鳥越憲三郎著
『日本書紀』では、神武天皇を「始馭天下之天皇」と記している。第十代の崇神天皇についても、「御肇国天皇」と記している。学会では、崇神天皇を大和朝廷の正当な建国者とみとめ、それ以前の九代の天皇については、架空のものとして否定することに意見の一致をみている。記紀に矛盾を承知であえて記したのは、それだけの理由があったに違いない。かえってその中から建国にかかわる歴史の秘密をさぐってゆきたい。
神武天皇は大和を平定したのち、橿原宮で即位されたが、いまの橿原市域ではなく、御所市に属し、古くは柏原郷と呼ばれた所である。大和平野の西南端に位置し、西部には金剛山・葛城山が峰を連ねている。神武天皇は、柏原の西に接する掖上の高さ131mの本間の丘に登って国見をされた。
『日本書紀』神武紀31年4月条
三十有一年夏四月の乙酉の朔。皇輿巡り幸す。因りて腋上の兼間丘に登りまして、国の状を廻らし望みてのたまわく、「妍哉(なんとすばらしいことだ)、国を獲つること。内木綿の真乍き(狭い)国といえども、なお蜻蛉(とんぼ)の臀占(交尾)せる如くあるかな」とのたまふ。これによりて、はじめて秋津州の号あり。 |
腋上の兼間丘 : 今は御所市掖上字本間の丘。本間の丘から御所市の町にかけての広い水田地帯が、日本の国号の起こりとなった秋津州と呼ばれたところである
内木綿 : 「狭(さ)」「こもる」にかかる枕詞
蜻蛉の臀占せる如くあるかな : 蜻蛉のつがって飛んで行くように、山々がつづいて囲んでいる国だな
夏四月は稲種を直播した直後、水田を丘から見下ろして、国見の歌をうたった農耕の予祝儀礼であった。
トンボによって、秋の豊かな実りと、それを脱穀して高倉におさめるまでの祈願が、この国見の歌にはふくまれている
大和朝廷の発祥地である三輪山麓でも同じように地名から国号となった。三輪山の神をまつるために岩をめぐらした聖域の「磯城」から、そのところの地名になり、さらに国号として師木島・敷島の名ができたのと似ている。
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神武天皇の大和平定の説話は、葛城王朝が九代にわたって大和を征服した各天皇の事績を、初代の神武天皇のところで一括してのべ伝えているものである。
神武天皇からのちの数代までは、まだ葛城の地域における部族国家であった。第六代までの各天皇の都は、葛城山麓から畝傍山のあたりにかけて定められた。それが都を大和平野の中原に進出させたのは、第七代の孝霊天皇からである。この天皇からのちは、后(正室)や妃(側室)に葛城山麓の地域外の女を娶ったのである。葛城山麓にあった一部族国家が、このとき大和の他の部族を統治下に入れ、それらを制圧する目的で大和の中原に都をうつしたのである。古事記をみると、孝霊天皇の皇子の二人によって、吉備国が討たれ服属したと記している。第八代の孝元天皇は、后と妃の三人とも、大和北部ならびに河内国を統べていた物部氏の女を娶っている。この御代には、大和の地域から外の河内国も、統治下に入ったものとみられる。第九代の開化天皇になると、大和平野の北のはしに都をおいている。大和平野の北端に都を設けたのは、さらに山城国の南部を流れる木津川を利用するためであろう。山城国への政治的進出を企画して、大和平野の北端に都が設けられた。開花天皇は物部氏の女を后とし、丹波の女を妃としている。開花天皇の御代には山城・丹波両国に対しても、政治的制圧が果たされた。
第七代の孝霊天皇から第九代の開化天皇にいたる急速な政治的な発展は注意しなければならない。それまで大和地域に分布する各部族が一応の均衡を保って、それぞれの地域に部族国家をつくっていたのが、この時期になって勢力の均衡を破った。そして争乱のすえ、最後に大和平野の覇者を生み出した。しかも大和一国にかぎらず、少なくとも河内・山城・丹波の外域へまで、政治的進出を果たした王朝が出現した。この王朝が葛城王朝である。
葛城王朝に代わって、三輪山麓を中心に新しく大和朝廷が誕生する。その建国者である崇神天皇は、「御肇国天皇」と呼ばれた。この新王朝が平和裡に前王朝の実権を授受したものでないことだけは明らかである。というのは、大和朝廷初期の崇神・垂仁の二代にわたって、葛城王朝の血縁者の手で、皇位を奪還しようとする謀反がつづけられたからである。崇神天皇を殺そうとしたのは、前王朝の最後の王となった開化天皇の異母弟武埴安彦である。垂仁天皇のときも、開化天皇の孫の狭穂彦王が、天皇を殺して帝位を奪おうとする事件が起こった。二回にもおよぶ謀反がくりかえされたことからみても、葛城王朝はなんらかの反逆にあって倒れ、それに代わって新しい実権者として崇神天皇が出現したことは、認めないわけにはいかない。