邂逅かいこうの山             手塚宗求むねやす

 本著作『新版 邂逅の山』は、1980年7月に刊行された『邂逅の山』16篇と、1981年10月に刊行された『遠い人 遙かな山』10篇で構成されています。邂逅(かいこう)とは思いがけなく出あうこと、偶然の出あい、 めぐりあいを意味し山小屋生活を通しての人との出会いが綴られています。

 著者の手塚宗求(むねやす)さんは1931年に松本近郊の農家で生まれた。1956年(昭和31年)の夏、24歳の時に霧ヶ峰・車山の肩、標高1800mのところに「コロボックル・ヒュッテ」を創設した。山小屋経営の合間に執筆活動を続け、山の文芸誌『アルプ』に37篇の文書を書いて、編集者の尾崎喜八さん、串田孫一さん、山口燿久さんと交友する。

1957年1月 初めての冬を迎えた山小屋

 小屋の南側の小さな窓からは、晴天の日ならば、千丈、北岳、甲斐の駒ヶ岳など、いわゆる南アルプスの青黒い山々が横に並んで見える。おおむね三角形のこれらのけわしい表情の山容の右側に、おっとりと丸く、ひろがるように見えているいるのが入笠(にゅうがさ)山である。
小屋の外にたてば、御岳、乗鞍、笠ヶ岳、穂高連峰から槍ヶ岳、遠く剣から後立山まで、地平をぎざぎざにきざんだ北アルプスが一望のもとである。
小屋の北側の窓には、巨大な鉄床(かなとこ)のような美ヶ原の第三期層(6500万年前〜165万年前に堆積・形成された地層)の水平の稜線が映っている。


尾崎喜八さんとの出会い

 現在、富士見高原で執筆、著述の仕事を続けている岡部牧夫君は、当時、成蹊大学の学生で、私の小屋の冬を五度も暮らした仲で、私は彼の好意で成蹊学園所有の谷川岳の虹芝寮という名の山小屋を特別に使用させてもらった。
 以前から谷川岳に行きたいといっていた私の希望を、彼がかなえてくれたのである。
 私は一人で、スキーをかついで行ってマチガ沢の残雪を滑った。
 虹芝寮は、いかにも成蹊らしい、素朴だが格調と伝統を感じさせる雰囲気をもった山小屋であった。
 この谷川岳の帰りに、私は岡部君と連絡をとって山口耀久(やまぐちあきひさ)さんの家にお邪魔した。
 山口さんは、独標登高会の先鋭クライマーであるが、むしろ思索的な文学者らしい一面をもった人で、すでに、訳書『ドリュの西壁』があり、後年の『北八ッ彷徨』は名著として知られている。
 私は、山口さんの家で夕食をいただき、その後、やって来た岡部君と私は、山口さんに連れられて尾崎喜八さんのお宅にうかがった。これは、私の予定外で、しかも思いかけなかった幸いであった。
 私は尾崎喜八さんの文学に心酔していた。しかし尾崎さんに直接お会いできるとは考えてもみなかった。
 これは、在京の岡部君にしてもめったにない機会であったにちがいない。
 尾崎さんとは文学の上でも親交のある山口さんの、私たちに対する心遣いだったと思う。
 バッハのレコードが、東京都内とは思えない静寂をさらにしずめるようにして流れた。
 尾崎さんの私たちへのお心づくしであった。
 「ヴァイオリンソナタ第五番第一楽章」(ベートーベン)、そしてドボルザークの「チェロ協奏曲」と日記にメモがある。
 ヘッセや、ロマン・ロラン、デュアメルなどの名が記入されているのは、この夜の話題のものである。
 一時間以上にわたる尾崎さんの書斎での私は、尾崎さんの口許に耳を傾け、ただ沈黙しているだけで心は満たされた。
 尾崎さんは私たちを、上野毛の駅まで送って下さった。

 上野毛のお宅に、尾崎さんを訪ねただけの私であるが、私はその時少しも初対面といった感情は抱かなかった。
 すでに少なくとも一方的に私は、書物を通して尾崎さんを充分に知っていたからであろう。尾崎さんも人づてに、私の山の暮らしをお聞きおよびであったから私にも一方ならぬ親しみを見せられたかと思う。
 結局私は、尾崎さんとはたった一回お会いしただけに終わった。
 山口さんに連れて行っていただいた上野毛での一時間あまりが、最初で最後であった。
 にもかかわらず、私は尾崎さんを、ずい分と古くて親しい人に思えてならなかった。