稲作渡来民 「日本人」成立の謎に迫る 池橋宏著
稲作渡来民たちは、もともと中国の春秋から戦国時代に呉とか越と呼ばれていた地域の住民であり、不完全な航行手段によって、小さい集団として朝鮮半島まで移動して一部は定着し、さらにその一部は日本列島の北九州あるいは山陰まで渡ったと考えられる。早期の水田遺跡は、北九州から青森県まで出土している。そこからは、突帯文土器あるいは遠賀川式土器とよばれる弥生前期の土器が出土している。九州から東北地方まで初期の水田稲作の遺跡は、海からの進入に都合のよい入り江や湾にあって、そこから河川をさかのぼって到達できるところにある。このような広い地域に、初期の水田遺跡とともに、突帯文土器あるいは板付T式あるいはU式(遠賀川式土器)が出土している。水田稲作を生業にもち、同じ様式の同じ土器を携えて渡来あるいは移住したと考えられる。水田稲作を行うには、苗代、代掻きなど、特有の耕作方法とその道具が必要である。それ以上に、用水量などの見積もりをした用水路の建設など土木工事が大切である。また、収穫物をどのように貯蔵し、調理するか、その道具と知識が必要である。古代越人が、拠点を築いた中国の沿海の地形はいずれも入り江があって、そこに注ぐ大小の川あるところである。山東半島の沿岸にも、朝鮮半島の稲作遺跡も、河川と密接な関係にある。舟を駆使して移動性に富む稲作渡来民が、水田稲作の圧倒的な有利性を背景にとして、はじめから水田の適地を求めて渡来、移住したものと考える。「低地と低い丘陵」とが入植地の目印であった。初期稲作渡来民にとっては、大規模な工事をしなくても、稲作の用水を入手する必要がある。それには、深い森から年中ほぼ間断なく流れてくる水をせき止めて水田に引き入れることのできる浅くてやや広い谷間が好適である。さらに、水路は交通にも使える。また、水田耕作民にとって魚介類は不可欠の栄養源であるから、潟、湖など、外海に出なくても豊富な魚介類が採れるところがよい。日本の水田稲作遺跡では、朝鮮半島の農耕具や道具をともなう一方で、朝鮮半島の気候や地理においては、十分展開することのできなかった水田稲作の生活体系があった。高床式の建築、竹製の漁具や鵜飼、およびクスノキの舟などがそうした要素である。日本の稲作では、こうした要素は長江下流域の水田稲作と同様に、重要な構成要素にいる。
夜臼(ゆうす)式土器 (刻目突帯文土器) |
板付T式土器 (遠賀川式土器) |
日本の農耕の始まりの議論では、しばしば、縄文人が水田稲作という新しい生活の術を受容したと書かれている。それは外来の文化を受容し、消化して発展させたのは、日本列島の在来の人間であり、「日本人が主体であった」と考えたい気持ちが背景にあるからだろう。人類学的形質から見ると、人間の形質が入れ替わるほどの変化がある期間に起こったのである。縄文人と弥生人の接触の問題は、実は非常に一般的な「農耕民と非農耕民の接触」の問題の一部であり、それは世界の一部では現在の問題でもある。世界の歴史から見ると、農耕民と非農耕民の接触では、大体後者が駆逐されるという運命になっている。
日本列島では縄文時代を通じて、ある程度均質な縄文人が分布していた。その後で水田稲作をする人々が渡来して、北九州から列島の中央部に新しい特徴をもつ人々が急激に増加した。稲作渡来の時期に「突帯文土器の時代」とよばれる過渡期があって、縄文時代の生活用具と稲作にともなう道具とが混在していた。人口の中で渡来民の特徴が圧倒的に多くなったとはいえ、彼らは一度に多数来たとは考えられないから、縄文人のことばを受け入れざる得ず、二、三世代かけて「縄文語」を身につけた。渡来者の第一世代はコロニーを作って母国語を使用していたが、周囲の縄文人とは通訳を介して接触していた。第二世代は、家庭では母国語を用い、外部では縄文語を話した。第三世代になると、家庭でも外部でも縄文語を話した。おそらく、断続的に渡来民が来て土着の縄文人を圧倒して、強力な北九州の渡来集団が結成された。縄文語は無アクセントであったが、今日の関西弁から分かるように、京阪式のアクセントには際立った特徴がある。弥生当初の渡来民が、漢語の声調を備えた言語を話していたからではないと考える。
山東半島の沿岸は、古代稲作民の領域の北端に連なっていたと考えられる。殷の時代(BC1550〜BC1027)に先立つ龍山(ロンシャン)文化期(BC2300〜BC1500)にも稲作遺跡は半島の南部には確実に存在していた。日照市両城鎮で龍山文化期のコメが出土している。呉越の勢力は春秋時代(BC770〜BC403)から、山東半島に進出しようとし、時には海から斉に侵攻しようとした。瑯琊(ろうや)山とその港、および付近は彼らの拠点であった。瑯琊(ろうや)から北に沿岸に沿って続く、労山、乳山、赤山などの入り江を拠点として、古代の人々は、朝鮮半島への移動の航路を開拓していったと想像することができる。