源平合戦の虚像を剥ぐ 治承・寿永内乱史研究        川合康著

 鎌倉幕府の成立は、治承四年(1180)の内乱勃発から文治五年(1189)の奥州合戦にいたる、十年近くにわたって続いた「治承・寿永の内乱」の反乱軍の成長としてとらえることができる。
 治承・寿永の内乱では地域社会を巻きこんだ未曾有の規模の全国的内乱のなかで展開し、動員兵力が飛躍的に増加した。保元・平治の乱では精鋭武士団同士の戦闘で双方あわせて一千余騎にしかみたなかったが、治承・寿永の内乱では数千騎規模から、時には万を超える軍勢が動員されている。

 いわゆる源平合戦としてよく知られているのは、治承四年(1180)四月に平氏打倒を諸国によびかけた以仁王もちひとおう・源頼政の挙兵にはじまって、同年八月、伊豆における頼朝の挙兵、同年十月、頼朝軍が平氏軍を撃退した富士川合戦、寿永二年(1183)五月、木曽義仲が北陸道で平氏軍を大敗させた砺波山となみやま合戦(倶利伽羅峠くりからとうげの戦い)、寿永三年(1184)一月、鎌倉軍が木曽義仲を敗走させた宇治川合戦、同年二月、鎌倉軍が平氏軍を山陽道から追い落とした一の谷の合戦、元暦二年(1185)二月、屋島合戦、同年三月、鎌倉軍が平氏一門を滅亡させた壇ノ浦合戦という展開だろう。しかし、これら著名な合戦は、治承・寿永の内乱期における戦争全体から見れば、その中の一部にすぎなかった。内乱は同時多発的形態をとって、またたく間に全国に拡大していった。

 治承・寿永の内乱は、平氏軍制の展開によって地域社会に醸造された領主間競合に基づいて、全国各地でみずからの地域支配を実現しようとする大小さまざまな蜂起をよび起していったのであり、源平争乱として認識されるよりは、はるかに広範囲に、しかも地域社会レベルでの利害と深くかかわりながら展開したのである。治承・寿永の内乱はたんなる源平棟梁の争覇ではなかったがゆえに大軍勢が動員された。「器量に堪えうるともがら」とよばれた村落領主クラスの武装能力をもつ者までが、ひろく動員対象となった。直接戦闘にたずさわらない人夫的兵士も多数軍隊の中に編成され、戦場に動員されていた。敵が構築した堀を埋め、逆茂木さかもぎを取り除くような工兵隊が味方にあって、攻撃の主力をなす騎馬隊ほんらいの機動性・攻撃性を発揮することができたのである。動員に応じるかどうかは国々の武士や「器量に堪える輩」の政治的判断に委ねられていた。その他大勢にあたる駆武者かりむしゃ
(主従関係に基づいて戦場に動員された武士でなく、駆りあつめられた武士)の動向こそが、内乱の趨勢を根底から規定する。いったん不利な状況に陥るや、軍勢は雪崩を打つかのように急速に敵方に寝返っていくのである。

 治承・寿永内乱期は戦乱の時代であるとともに、治承四年(1180)の異常気象に端を発した数年間におよぶ大凶作・大飢饉の時代でもあった。この内乱期に、平氏や頼朝の支配領域では、たびたび農業経営の再建を目的とする勧農がはかられている。勧農政策の背景にある諸国農村の疲弊、農業経営の破綻状況は、民衆の戦場への動員によって加速されたものであった。

 文冶五年(1189)の奥州合戦は、源頼義の前九年合戦の再現として演出され、全国から動員した武士に前九年合戦を追体験させ、源頼義の武功を認識させることによって、鎌倉殿の権威、頼朝の「貴種」性を確立させるものであった。内乱期に動員した武士たちをあらためて動員しつつ、彼らの意識の中に鎌倉殿の存在の正当性を植えつける、奥州合戦はそうした頼朝の政治としての戦争だった。