経済物理学の発見        高安秀樹著

 経済物理学(エコノフィジックス)は経済現象を物理学の視点から解明する新しい研究分野です。経済物理学(エコノフィジックス)の研究を発展させているツールとも言える物理学の概念の代表例に相転移、カオス、フラクタルの概念があります。

 相転移というのは、例えば、温度を下げていった時液体だった水が0℃で個体になる、あるいは逆に温度を上げていくと、100℃で蒸気、すなわち、気体になるといった具合に、パラメーターを連続的に変えていった時にマクロな性質があるところで突然変わるような現象です。相転移の境目で最もゆらぎ大きくなる性質があります。相転移は経済現象にも適用できます。従来の経済学では需要と供給の均衡メカニズムでは、需要曲線と供給曲線があって、2つの曲線の交点が示す均衡状態へ価格は自動的に調整されると説明されています。しかし、為替や株の市場価格は常に不安定であり、不規則な変動は止めることはありません。需要が多い状態と供給が多い状態を2つの基本的な状態とみなし、市場をこれら2つの状態の相転移点であるとみなし、ゆらぎが大きい不安定な状態が自由市場の本来の姿であると考えるのです。そして、大きくバランスを崩してしまった時が、大暴落やハイパーインフレに対応するのです。市場は人間が作っており、ひとりひとりの人間の動きは気まぐれで予測不可能です。しかし、人間の集団が生み出す市場の解析には、物理学が有効です。

 カオスとは、周期性のない不規則な変動をする力学的な運動ですが、そもそもカオスはなぜ起きるのかというと、ほんの少しの違いを増幅して固定する仕組みがあるからです。一番身近なカオスの例は、パチンコ玉の動きです。パチンコ玉は同じような初速度で飛び出して行くわけですが、にもかかわらず、一個一個の玉の動きは釘にぶつかるにつれて、どれも違う動きをします。このようなことが起こるのはカオスのしくみがあるからです。市場は売り手と買い手の値段が折り合わなければ売買は成立しません。そういう具合に、ほんのちょっとの違いで、取引する、しない、という質的な違いが生まれてしまうわけです。

 フラクタルを考え出したマンデルブロは、マクロに見て複雑な形の中に、いくら拡大しても元と同じように複雑に見え続けることに気付きました。その性質を理想化して、無限に拡大しても同じように複雑に見えるものが重要である、と主張したのです。自然界の形、例えば、地形の起伏であるとか、雲の形であるとか、樹木の枝分かれの形などは典型的なフラクタルです。マンデルブロは昔の市場価格のデータ、例えば、綿の価格などの細かなデータを調べて、グラフにし、時間スケールを変えてプロットしてみることによって、このような性質を発見しました。

左の図は、1分刻みで見た円ドル為替レートの変位の分布を同じ平均値と標準偏差を持つ正規分布(点線で示した放物線)と比較する形でプロットしています。過去13年間の為替レートおよび400万個のデータに基づいています。変位には正の方向(ドル高方向 dP>0)と負の方向(ドル安方向 dP<0)があり、重ねてプロットしていますが、ほとんど重なっており、変位が正負対称にになっていることがわかります。縦軸は累積分布とよばれる量で、任意に選んだ1分間の変位が横軸の値よりも大きくなる確率を表します。横軸の変位の大きさは標準偏差(σ)で割ってあります。例えば横軸の6という値は、標準偏差の6倍の値を表します。縦軸も横軸も対数をとってありますので、このプロットで直線的になる場合は、ベキ分布と呼ばれるベキ乗の関数で特徴付けられる分布になります。

正規分布なら、標準偏差の5倍の変位でも実現する確率は100万分の1(10のマイナス6乗)以下です。正規分布には大きな変位の出現する確率が急速に小さくなる特徴があります。しかし、実際の市場の変位はそれよりもはるかに大きな変動が起こっています。プロットから読み取ると標準偏差6倍以上の変位が発生する確率は、1000分の1(10のマイナス3乗)です。時間刻みが1分間ですから毎日1回程度は起こる頻度になります。(1000分=16時間40分)さらに、標準偏差20倍くらいの大変動は、正規分布では決して起こりませんが、実測すると1万分の1(10のマイナス4乗)くらいの確率で起こります。これは1週間に1度くらいの頻度ですから、とても無視できるものではありません。(10000分=6日22時間40分)

大きな変動が正規分布よりはずっと高い頻度で発生しているのですが、そのような大変動は全体に占める数はそれほど多くありません。正規分布は標準偏差の2倍程度までの変位の95%はある程度近似できており、そこから外れた大きな変動は数の上で5%程度なのです。

データ全体のうちの5%しかない大きな変動部分が為替の動きをだいたい捉えています。 

 地震の予測は、非常にむつかしいことで、まだ技術としては確立していません。小さな地震の予知は将来も困難でしょうが、ある程度大きな地震に関しては、近い将来予測ができるようになる可能性はあります。というのは、大きな地震が発生するためには、地殻に大きな歪のエネルギーが蓄積されていることが必要であり、また、大きなエネルギーが解放される時には、一瞬で全部が解放されるのではなく、予兆が見られ、その後でまとまって解放されることが多いからです。
 例えば、阪神・淡路大震災の場合にも、地震の直前に、空が光った、あるいは、動物の行動に異常が見られたなどの報告がありました。また、大地震の前には大気中の電磁波の伝播に影響が出るような報告もあります。さらに、ギリシャでは、既に地下の電位の変化を直接観測することで地震の予報を出すことも実現できています。理論的には、ある種の岩石に力を加えると電位が発生するという圧電効果を考慮すれば、地震の前に様々な電磁気的な異常が発生することは十分ありうることですし、また、電磁場に非常に敏感な動物がいることもわかっていますので、動物の奇妙な行動すら科学的にはありうることなのです。これらの様々な観測事実や理論・実験を積み重ね、科学的に分析していけば、地震の予知もかなりできるようになると期待できるのです。

 市場の大変動が起きる場合にも、それなりに大きなエネルギーのようなものが蓄積されていることが必要なはずです。全く偶然に株が暴落することはなく、それまで持続的に上がり過ぎた株価を懸念する空気がだんだんと広まっていって、妙な振動が起こったりした後で、それでも株価上昇がある程度続いて、その後で暴落が起こる、というシナリオは常識的に受け入れられるものです。

 円の暴落に関しては既に危ない材料が十分に揃っています。それは、次のようなシナリオです。今、日本では、仕事からリタイアしたぐらいのシニア世代だけで1000兆円ぐらいの金融資産を蓄えていると言われています。金融資産とは、貯金や株や年金など、すぐに現金化できるような資産です。シニア層は老後のためにお金を取っておいているわけですけれども、そのお金がインフレの起爆剤になる可能性があるのです。
 近年、外貨預金が簡単にできるようになり、年々その総額が増加しています。これは、1998年に外国為替法が改正されたことによって、日本国内で外貨を自由に使ってもいいし、自由に外貨を売り買いしてもいいということになったおかげです。円だけで持っているよりも世界的に見ればいくつかの通貨で分散して資産を持っている方がリスクも少なくなるわけで、外貨預金をすること自体は非常に合理的な運用です。それでも、外貨預金に関心を持っているのは、若い世代が中心で、シニア世代は外貨を持つこと自体にあまり積極的ではないので、1000兆円のうち数兆円しか外貨になっていません。
 しかし、仮に円がインフレを起こし出して、円の価値が下がってくると、外貨預金が見直されます。外貨預金が規制されていた時には、通貨がインフレを起こせばものを買うことが合理的な行動でしたが、外貨預金が自由にできるなら、わざわざものを買わずに外貨預金に切り替えるのがインフレに対する最も合理的な判断になります。元々沢山の金融資産を持っているシニア世代の人は物に関しては満ち足りている人が多いので、わざわざいらないものを買おうとはしないからです。為替の市場というのは非常に大きな市場で、1日に200兆円くらい流れていると言われていますが、それでもそれは流れの往復を全部合わせて200兆円ということで、一方向に動く量としてはそれほど多くありません。日銀の介入データを解析すると、だいたい1兆円介入するとレートが1円動くというのが標準的です。もしも、シニア世代が持っている金融資産の10%、すなわち、100兆円くらいが外貨に換わったとするとそれだけで為替レートが100円ぐらい動いてもおかしくないのです。円売りが進み円の価値が下落すると、ますますこの傾向が加速され、結局早いもの勝ちで円を売る心配があります。それこそハイパーインフレの集団心理です。そうなると、年金でしか暮らせない人たちは、本当に生活できなくなるでしょう。大金を持っているのはシニア世代の中でも数%程度で、大部分の人は、年金だけが頼りのつつましい生活をしているわけですから、これは大きな社会問題になります。

 金融工学には市場の大変動を見逃しているという重大な欠点があるわけですが、それを補うような研究もエコノフィジックスの重要な研究分野です。金融工学は、リスク分散の考え方や市場価格の確率的な取り扱いにおいて大きな役割を果たし、特に、オプションなどの金融派生商品という巨大なビジネスを生み出しました。金融派生商品の発展形として、天候に関わるリスクにどのように対処すればよいか、という問題もエコノフィジックスの重要な応用研究です。天候は、産業全体の70%にも影響を及ぼしているという大きな経済要因です。天候の変動は単純なモデルでは記述できない複雑な物理現象ですし、さらに、その変動の特性を利用した金融商品を作るためには経済学の考えが必要です。物理学と経済学の中間に位置するエコノフィジックスの最も力を発揮できる研究分野だと言えるでしょう。
 


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